第2章2話:『見抜かれた憎悪と、届かない愛の証明』
新しい契約が始まって三日。城の空気は、昨日までとは比べ物にならないほど冷たく、そして張り詰めていた。
ベリトは、執務室で報告を聞く間、隣に侍る愛梨に対し、一切の視線も、温情も見せなかった。彼の言葉は、まるで鋭利な刃物のように、愛梨の魂を切り裂く。
「供物。その立ち姿はだらしない。城主である私への敬意を欠いている。直ちに矯正しろ」
愛梨は、ベリトと目を合わせることなく、冷たい床に膝を突いた。その動きは、反射的な服従ではなく、あえて時間をかけた、不服従の表現だった。彼女は、与えられた役を完璧に演じようと努めた。瞳に宿るのは、主人への憎しみ。だが、その瞳の奥底には、ベリトを愛するがゆえの、深い悲しみが沈殿していた。
軍務侯爵エリオンは、謁見の間の隅で、そのすべてのやり取りを静かに観察していた。他の悪魔たちが、城主の急な厳格さと供物の反抗的な態度に戦々恐々とする中、エリオンの顔には、確信にも似た冷笑が浮かんでいた。
「ベリト様は、貴様を締め上げ始めたか」
謁見が終わり、愛梨がベリトの部屋から退出する際、エリオンは廊下で彼女の行く手を塞いだ。
「貴様のその目は、憎悪ではない」
エリオンは囁いた。愛梨は思わず身を硬くする。
「貴様が私に向ける、あの汚らわしい恐怖の眼差し。あのとき、貴様は確かに私を憎んでいた。だが、ベリト様へのそれには、魂の抵抗がない。あるのは、従順な諦めだけだ。まるで、『自分を罰する主人をただ受け入れている』かのように見えるぞ」
エリオンの言葉は、彼女の演技の最も脆い部分を正確に射抜いていた。愛梨は何も言い返せず、ただ俯いた。
「ベリト様は、貴様を愛しているのだろう。そして貴様は、その愛を守るために、彼を憎むふりをしている」
エリオンはさらに踏み込んだ。
「その秘密が、貴様の魔力源、魂そのものを異常に満たしている。貴様自身が、その魔力を増強させている証拠が、必ずどこかにあるはずだ」
そう言い残し、エリオンは愛梨を避けるように歩き去った。彼はそのまま執務室へは向かわず、城の最も深部、召喚された供物の魔力経路が集中する地下の魔力貯蔵庫へと、その冷たい足を向けたのだった。
地下魔力貯蔵庫
地下深く。そこは、この城に満ちる膨大な魔力の中心地であり、同時に、供物たちが搾り取られた魔力の流れが集約される場所だった。冷たい石造りの部屋の中央には、何本もの脈打つような魔力の光の筋が天井から流れ込み、巨大なクリスタルへと注がれている。
エリオンは、その複雑な経路の一つ一つを、鋭い目で辿った。
「これは……」
彼は、愛梨から流れ込んでいるはずの魔力の筋の前で立ち止まった。通常、供物の魔力は、搾取の過程で疲弊し、どこか濁りや澱みを帯びるものだ。だが、愛梨の魔力は、他の供物から流れる魔力の筋とは明らかに異なっていた。
それは、まるで澄んだ泉のように清浄で、わずかな温かさすら感じさせる。そして何よりも異常なのは、その流れが異常な速度で自己修復していることだった。ベリトによって魔力を抜き取られたはずの箇所が、わずかな時間で再び満たされ、結晶へと流れ込んでいく。
「自己再生、いや、増強だ」
エリオンは確信した。これは、ただの召喚された人間の魔力ではない。この回復力は、何らかの**『愛』のような、魂を根源から満たすエネルギー**によって活性化している。悪魔の理屈ではありえない、異質なエネルギー。
「ベリト様は、その異物を、自らの城に匿っている……」
エリオンの瞳が、獲物を見つけた狩人のように冷たく光った。この事実は、ベリトの城主としての地位を揺るがす、決定的な証拠になる。
届かない愛の証明
夜。ベリトの私室は、結界によって完全に遮断されていた。
ベリトは愛梨を抱きしめたい衝動を、喉の奥で押し殺した。彼は、自ら作り上げた**「偽りの鎖」**に雁字搦めになり、愛梨から一歩距離を取って立っていた。愛梨は、部屋の隅で静かに跪いていた。彼らの間には、昼間の冷酷な演技の名残が、凍ったように残っていた。
「エリオンが、地下に行った」ベリトが口を開いた。声は低く、苦痛を滲ませていた。「お前の魔力経路を調べた。清浄すぎる回復力に、気づいたはずだ」
愛梨は顔を上げず、震える声で答えた。「……私が、もっと憎しみを上手く演じていれば、彼を騙せたのでしょうか」
「違う」ベリトは強く否定した。「お前は、最善を尽くした。だが、エリオンは悪魔だ。奴は感情ではなく、魂の真実を嗅ぎつけている」
ベリトは、愛梨に近づきたい気持ちを抑え、代わりに冷たい言葉を吐き出した。
「今日から、私室での**『契約』**の回数を増やす。魔力の流出を多くし、お前の回復力を外部から見て正常に見せかける必要がある」
契約。それは、二人だけの愛の儀式を指す隠語だった。しかし、今のベリトの言葉には、愛する者への温もりではなく、切羽詰まった焦燥が滲んでいた。
「わか、りました」愛梨はそう答えながら、内心で泣いていた。
(ベリト様が私を求めてくれる。それは、私が愛されている証拠。けれど、それは今、私たちを守るための義務。もう、心から求め合う愛の行為ではない……)
愛梨は、ベリトの苦悩を知りながら、自分自身もまた、その愛を**『秘密の道具』として使わなければならない苦痛に苛まれた。愛する人を守るために、自分たちの愛を、ただの『機能』**に落とし込む。
ベリトが苦しそうに、愛梨の髪を一房だけ手に取った。彼はその感触に耐えきれないように、すぐに手を引っ込めた。
「愛梨……」
「ベリト様」愛梨は、決意の固さを込めて、顔を上げた。瞳には、もう悲しみはなかった。あるのは、献身的な愛だけだ。
「私の魔力のすべては、あなたのものです。そして、私の魂も、心も、すべてあなたのものです。この城の誰が、私たちの愛を疑おうとも……」
彼女は、ベリトの足元ににじり寄り、彼の冷たい手の甲に、そっと自分の頬を押し付けた。
「私はあなたを憎むという誓いを、決して破りません。それが、あなたを守るための、私の愛の証明だから」
ベリトは、愛梨の頬の温かさに、崩れ落ちそうになった。彼を憎むふりをしながら、最も深く愛し、すべてを捧げようとする愛梨の魂の叫びに、ベリトは何も返すことができなかった。
彼はただ、愛梨の頭を優しく撫でる代わりに、城主としての冷たい命令を絞り出すのが精一杯だった。
「わかった。……始めよう、供物。魔力を最適化しろ」
二人の間に流れるのは、悪魔の疑惑を欺くための偽りの緊張感と、誰にも届かない切実な愛の熱だけだった。




