第2章『偽りの鎖(かせ)と、届かない愛の証明 』『第1話:悪魔の疑惑と、偽りの鎖』
城の日常は、外見上、変わらない冷酷さに包まれていた。だが、その空気は薄い氷のように張り詰め、悪魔たちは城主ベリトと供物となった愛梨の一挙一動を、静かに、そして鋭く観察していた。
ベリトは、愛梨を召喚した当初よりもさらに厳格に振る舞った。謁見の場であろうと、私的な執務室であろうと、愛梨が彼の視界に入るたびに、彼は氷のような命令を下した。
「供物。床の埃が気に障る。直ちに拭き取れ」
「その魔力の流れは緩慢だ。膝を突き、魔力の流出を最適化しろ」
彼の言葉には感情が一切なく、ただ主人の命令として響いた。愛梨はそれに従い、無表情で主人の冷たい要求に応じた。それが、二人で決めた「秘密を守るための鎖」だった。
しかし、その演技が最も通用しなかったのは、軍務侯爵ザガンだった。
ある日の午後。ベリトが外城の視察に出た隙を突き、エリオンは愛梨のいる私室に現れた。愛梨は、ベリトの命令により、冷たい石の床で休むことも許されず、魔力の安定化を図るための瞑想を強いられていた。
エリオンは、まるでゴミを見るかのように冷たい視線を愛梨に向けた。
「供物よ。ベリト様は貴様を優遇しておられるようだ」
愛梨は、目を開かずに答えた。声は震えさせ、悪魔への恐怖を滲ませる。
「……恐れながら、侯爵様。私はただ、ベリト様にとって有用な道具であろうと努めているだけです」
「有用、か」エリオンは愛梨のすぐそばまで歩み寄った。彼は愛梨の細い首に手を伸ばし、指の先でその皮膚を軽く押さえつけた。愛梨は息を飲み、心臓が激しく脈打つ。
「貴様の魔力は、一週間前とは比べ物にならないほど清浄で、回復力も高い。ベリト様は、貴様を効率よく搾り取っていると仰せだが……私はそうは思わない」
エリオンは囁いた。その声は、蛇のように滑らかで、愛梨の恐怖を誘う。
「まるで、良質な栄養を与えられているようだ。もしくは、心から満たされる『愛』のようなものによって、貴様自身の魂が、魔力を再生させているのではないか?」
愛梨の体から、一瞬、強烈な緊張が走った。彼女の魔力は、ベリトの愛によって覚醒し、今や愛を受け取るたびに回復力を高めている。ザガンは、悪魔の理屈ではありえないその現象の根源を、無意識に言い当てていた。
「何を……っ」愛梨は震える声で否定しようとした。
エリオンは手を離し、軽蔑の表情で一歩下がった。
「貴様のような矮小な存在が、ベリト様に『愛』などという汚らわしい感情を抱かせられるはずがない。しかし、貴様は利用価値が高すぎる。その異常な回復力の秘密が、ベリト様の寵愛にあると知れば……他の悪魔たちがどう動くか、想像できるか?」
彼は愛梨の返事を待たず、静かに部屋を出て行った。残された愛梨は、恐怖と、ベリトへの愛を秘密にしなければならない苦痛に苛まれた。
夜、ベリトが私室に戻った。愛梨はすぐに彼を抱きしめたい衝動に駆られたが、ザガンの言葉が頭をよぎり、ただ床に跪いたまま静かに彼の帰りを待った。
ベリトは愛梨の異変をすぐに察した。彼は部屋を調べ、結界を張り、愛梨を抱き上げて膝の上に乗せた。
「何があった。エリオンか」
愛梨は震えながら、ザガンに言われた言葉を伝えた。「彼、私の魔力の回復力が、まるで『愛』によって再生されているようだ、って……」
ベリトの顔から血の気が引いた。
「……奴は、理屈ではない何かを感じ取っている。愛梨、聞いてくれ。今日から、私はお前を、これまで以上に厳しく扱う。それが、お前を守る唯一の方法だ。お前は私に、憎しみすら抱いているように見せなければならない」
ベリトは、愛する者を遠ざける苦痛に顔を歪ませながら、愛梨の髪をかき上げた。
「私の前で、決して心を許すな。私がどれほどお前を求めても、お前は抵抗しろ。それが、この城で生き残るための、私たちの新しい契約だ」
愛梨は涙を飲み込み、覚悟を決めたようにベリトの黄金の瞳を見つめた。
「ええ。ベリト様。私はあなたを憎みます。この城の誰よりも、誰よりも強く……」
それは、愛を叫ぶのと同じくらい、魂を削る誓いだった。




