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側妃の座をお断りしたら、隣国の皇帝から別オファーが舞い込んだ

作者: ペンのひと.

 公爵令嬢セラフィーナは、小さな時から聖女の役目を果たしてきた。

 生まれ持った聖なる力で、王家の城を守る結界を張り続けてきたのだ。


 なのに彼女の婚約者であるダーヴィド王子は今日、突然やって来て言った。


「女らしくない君を、正妃に迎えることはできない。側妃でいいよね?」


 部屋にはそれきり、しばらく沈黙が降りた。

 聖堂の応接室で、二人は質素な木の机を挟んで座っている。


 贅沢な茶菓など出せる場ではなくとも、敬虔な聖女セラフィーナがせめてものもてなしにと淹れた花茶。

 その香りさえ冷めきるような間があって、それからセラフィーナは静かに返事をした。


「――お断りいたします、殿下。わたくしは側妃になるつもりはありません」


「なぜだい?」


 ダーヴィド王子はいかにも意外だという顔で金髪の前髪を揺らし、セラフィーナに問う。

 自分の想定しない返答をされることに、耐性を持たぬお坊ちゃまの面持ちだ。

 とはいっても、王子もセラフィーナと同じくもう成人年齢に達して数年は経つはずなのだが。


「なぜ断ることがある、セラフィーナ? いままでと特に何が変わるというのでもないんだぞ。ずっとここにいていい。社交を好まず華もない君には、この聖堂にこもって聖女の務めだけをやっている方が性に合うだろう? でも正妃は……ね?」


 噛んで含めるように、王子はセラフィーナに言いきかせようとする。

 

「僕の正妃になる女性は、愛嬌と華のある女らしい人でなきゃダメだ。下々の者にまで輝く笑顔を振りまき、愛と希望を抱かせる王子妃なんだからさ。となるとどうしたって、君の妹のアリーサの方が適任だろう?」


 ああ、とセラフィーナは嘆きにも近い吐息を漏らす。

 

 ――このお方とは、けっきょく何一つ通じ合ってはいなかったんだわ。


 腐っても婚約者という間柄だ。

 むろん、周りの大人たちの決めた縁組みで、初めから恋ではなかったとしても。

 この数年間、たとえこうして直接会うことはわずかでも、ひょっとしたら王子はすべてを理解してくれているのかもしれない……そう考えてみることもあった。

 心は通じ合っているのかもしれない、と。


 聖堂へこもり、王家の城を守る結界を張る。

 そのための聖なる祈りを捧げ続けながら、セラフィーナは考えてきたのだ。


 自分ばかりが身を粉にして働かされている気がするのは、思い上がりかもしれない。

 ごくたまにしか様子を見に来ない王子殿下の体から女の匂いがするのは、疑り深い自分の錯覚かもしれない。

 まして、その匂いをセラフィーナの妹アリーサが振りまく香水のそれであるなどと邪推するのは、聖女としてまったく恥ずべきことかもしれない、と。


 けれどこうして答え合わせの瞬間がやってくると、何もかもが無意味だったとよくわかる。

 十代のほとんど全部を捧げて、聖なる祈りに身をやつし、女らしさなどもうほとんど残らない容姿になるまで己を酷使しても。


 無駄だったのだ。

 もうこれ以上、我慢はできない。

 積み上げるのにどれだけ長い時間をかけた思いも祈りも、崩れ去るのは一瞬だ。


「――ねえ、側妃でいいよね?」


 そんな提案とすら呼べないダーヴィド王子の物言いに、だからセラフィーナはいま一度答える。


「何度お尋ねになられても同じですわ、殿下。――お断りいたします。わたくしは、側妃になるつもりはありません」


 愛想も化粧っ気もない、あばた面の聖女セラフィーナ。

 疲れた灰紫の目もと。

 貴族令嬢らしい手入れなど少しも行き届かぬ、味気ない鳩羽色のシニヨン髪。

 そんな婚約者を歪んだ碧眼に映し、それからダーヴィド王子はこう言い放った。

 

「わかったよ、セラフィーナ。君がそれほどの不敬を押し通すつもりなら仕方ない。この婚約は王家側から破棄させてもらう。聖女の任も解こう。これからは好きに生きるがいいさ。ああそうそう、婚約破棄に際しては、君の生家パルヴァ公爵家からも元聖女セラフィーナは勘当すると聞いている。僕とアリーサの結婚を前に、家柄を清めておきたいと、ね。久しぶりに屋敷へ帰って、早々に荷物をまとめるといいよ」


「承知いたしました。ただ、わたくしの後任はどうなさるのでしょう? 何か引継ぎが必要でしょうか?」 


 セラフィーナの事務的な問いかけに、冷めきった茶に舌鼓を打ってから王子がこう返す。


「いや、それには及ばないよ。一説によれば、聖女の力やその祈りの源は愛だっていうじゃないか。それなら、君の妹のアリーサの方がはるかに愛に溢れた性格だし、聖女の務めもきっと何倍も上手くこなすだろう。アリーサ自身もそう言っているよ」


 妹のアリーサが、聖女に……?


 ふいに胸もとまでせり上がってくる嘆息と警鐘の言葉を、セラフィーナはどうにか押しとどめた。

 いまとなってはもう、どんな忠告をする義理も筋合いも自分にはないのだから。


「今日まで本当にお世話になりました、殿下。どうぞお気をつけてお帰りくださいまし」


「そうするよ、君も達者でね」


 最後に立ち上がって笑みを漏らす王子の白い歯に、花茶のしなびた花弁がはりついていた。





 ***





 それから王子の成婚を知らせるお触れが国内外に往き渡るのに、一夜とかからなかった。

 

 ギデア王国ダーヴィド王子と、パルヴァ公爵令嬢セラフィーナの婚約は破棄。

 王子はあらためて、めでたく同パルヴァ家の次女アリーサとの結婚を発表。

 愛に溢れる性格の新王子妃アリーサは、今後その献身性で聖女の務めをも自ら買って出るのだという。



 早くも祝賀ムードの町の喧騒をよそに、セラフィーナは生家パルヴァ公爵邸の私室にもどって荷物をまとめていた。

 勘当され、聖女の任も解かれた身である。

 生まれ持った聖なる力のせいで十歳から聖堂へ移り、ほとんど出家に近い暮らしをしてきたことを思えば、この部屋に親しみを感じる気持ちはとうに薄らいでいて当然。


 それでもこれが最後となると、言いようのないやるせなさに荷支度をする手先はかさつく。

 子ども時代の思い出が、ふいに浮かんでは消える。


 たとえば、父パルヴァ公爵から言われたこと。


「お前が聖なる力を持って生まれたのは、たしかに天の思し召しだろう。お前自身の努力とはなんの関係もないだろうが、できる限り我が家と王家のために尽くしなさい。王命の通り、王家の城をお守りする結界を張って聖女となるのだ。それだけがセラフィーナ、お前の存在価値なのだからな」


 当主としてのそんな父の声明が、この家におけるセラフィーナの扱いを決定づけた。

 物心つく前に産褥死で実母フローラを亡くしているセラフィーナには、他に家族といえば継母ミーサとその実子である異母妹アリーサしかいなかった。

 

 亡き母について、セラフィーナはさしたる記憶を持たない。

 しかしその分、継母ミーサと異母妹アリーサから邪険にあしらわれてきた日々は鮮明だ。

 セラフィーナが聖堂へ入るその寸前まで、継母ミーサはあからさまに実子アリーサをえこひいきして育てた。

 

 継母からあたえられたものといえば、吐き捨てるような侮蔑のほかにセラフィーナは知らない。


「思い上がるんじゃないよ、セラフィーナ。人を見透かしたようなその目つきがいちいち癪に障る、本当に可愛くない子。聖堂へ出家なんて、根暗なあんたにはいい機会じゃないの。正直いなくなってくれてせいせいするわ」


 そんな継母の態度を父は黙認し、いや、擁護さえしていた。

 彼ら両親のもとで育った妹アリーサにしたところで、小さな頃から一つ上の姉であるセラフィーナを虐げることになんの疑問も持ったりはしなかった。

 アリーサが理解に苦しんでいたのは、もっと別の点についてだ。


「私の方が可愛くて女らしいのに、どうしてセラフィーナお姉様の方が聖なる力を持っているのかしら? おかしいわ」

 

 そう、なんであれ、姉の方が自分より勝っているなんてありえない。

 妹の私よりもいいものをあたえられているなんて、あってはならない。

 だって姉のセラフィーナはパルヴァ公爵邸に寄生する惨めな芋虫のような存在で、みんなに愛されるアリーサの足元にも及ばない弱者で、敗者で。



 ――ああ、そうね……。そうなのね、可哀そうなアリーサ。だからいまになって、こんな愚かで取り返しのつかないことを。


 荷物をまとめ終えて、すでに成人したセラフィーナはそう悟る。

 と、ほぼ同時に私室の廊下に面するドアが開いた。


「ご機嫌麗しゅう、セラフィーナお姉様。ねえ、聞いたでしょう? 私この度、ダーヴィド王子殿下と結婚するの」


 健やかに桃色がかった真珠のような、愛くるしい妹アリーサの笑顔がパアッとそこに輝いた。

 肌艶がよく、小顔の映えるピンクブロンド髪で、ドレスに着飾った体の線だって柔らかで。

 ダーヴィド王子の言っていた通りだ。

 女らしく、そして華がある。


 けれどそんな彼女にもけして持ちえないものがあることを、セラフィーナは知っている。

 だから縁は薄くともせめて姉として、結婚が可能な年齢に達した妹にこう告げるのだ。


「ご成婚誠におめでとうございます、新王子妃アリーサ様。では、わたくしはもうこれで」


 荷物を提げて部屋を出ようとするセラフィーナを、しかし可憐な妹の腕が通せんぼして言った。


「出ていくのはいいけど、その前にちゃんと渡してもらわなきゃ」


「渡す……、いったい何をでしょうか?」


「とぼけないで、セラフィーナお姉様。これからはこのアリーサが聖女をやってあげるのよ。引継ぎくらいキッチリやってもらわないと。ねえ、聖なる祈りのやり方とかなんとか、ただ見せかけの風習にしたって資料くらいあるんでしょう? いちおう目は通しておくから、ほら、渡して」


 ――ああ、本当になんてこと。


 立ちはばかる妹のあまりの浅はかさとあさましさに、セラフィーナは一瞬返す言葉を失う。

 むろんセラフィーナとて、本来なら後任への十分な引継ぎはしておきたいところだ。

 これまで果たしてきた聖女の責務。

 その重みを思えば、なおのこと。


 でもそれは、後を継げるだけの聖なる力を後任者が持っていればの話だ。

 そうでなければこう伝えるしかない。


「わかりました、新王子妃アリーサ様。写本ではありますが、この聖なる祈りの書を妃殿下におゆだねいたしましょう。ご多幸をお祈り申し上げます、それでは」


 写本を渡し、低く頭を垂れてからセラフィーナは廊下へ出た。

 その背に浴びせられる別れの言葉は、鈴を転がすように愛くるしい声音で、そしていかにも女らしい憎しみと底意地の悪さに満ちていた。


「さようなら、セラフィーナお姉様。あなたのこと、ずっとずっと、死ぬほど大っ嫌いだったわ」





 ***





 あてもない旅立ちの前に、もう一度ここへだけは来ておきたかった。


 聖堂。

 セラフィーナ自身が十代のほとんど全部を費やした場所だ。

 いつだって、こうしてこの祭壇を仰ぎ、跪いて聖なる祈りを捧げてきた。

 王家の城を守る結界を張り続けるために。


 ――偉大なる愛と光の女神よ、このセラフィーナは聖女の任を解かれました。もうこれでお別れです。


 夜もふけて、シンと静まり返る空間には他に物音とてない。

 そのせいだろうか、最後の祈りを終えたセラフィーナが、思わず自分の心情を神に向けそっとつぶやいたのは。


「――……何かにそむいたのは、これが初めてです。王子はおっしゃいました、『女らしくない君を、正妃に迎えることはできない。側妃でいいよね?』と。その時わたくしの胸に生じたあの感じは、なんと呼べば正しいでしょう。落胆? 屈辱? 羞恥? 憤怒? ……語彙力の乏しいわたくしは、いまだそれを言いあらわす術すら持ちません。ただ――」 


 屋外でにわかに遠雷が轟き、やや遅れてその振動が聖堂の窓という窓に伝わりビリビリと木枠を揺さぶりはじめる。


「――ただ……、限界だと気付いたのです。なんだかハッとして、それから強く思ったのです。もう我慢ならない、ガマンなんてしたくないわ、と。『側妃でいいよね』? よくもそんな口が叩けたものだわ」


 自分のしてきたことは、いったいなんだったのだろう。

 なんの意味があったのだろう。


 たまたま生まれ持った聖なる力。

 その聖なる祈りで、王家の城を守る結界を張り続けて。

 ただそのためだけに生きてきて。


 王子との婚約など、はなから自分を聖堂に縛り付けるための方便でしかなかったのだ。


 愛想も化粧っ気もない、あばた面の聖女セラフィーナ。

 疲れた灰紫の目もと。

 貴族令嬢らしい手入れなど少しも行き届かぬ、味気ない鳩羽色のシニヨン髪。


『女らしくない君を、正妃に迎えることはできない。側妃でいいよね?』


 それが自分への評価であり、報いだと知った。

 正妃の座は、あの愛嬌と華のある女らしい妹アリーサがかすめとっていく。

 そして聖女の務めさえも。

 側妃になることを拒否したセラフィーナに王子は婚約破棄を告げ、聖女の任をも解き、そしてパルヴァ公爵家の父母も自分を勘当した。

 

「――こちらから願い下げよ……。王子にも、あんな家にもこんな暮らしにも、わたくし……、もうこれっぽっちも未練なんてありませんわっ!」 


 祭壇の前に立ち上がり、セラフィーナは気高く天を仰ぐ。

 だがそれはまた、いまにも目尻から零れそうな涙をこらえるためでもあった。

 ほとんど消え入るような弱音が、その証拠に胸から引き絞られてしまう。


「でもどこへ……、これからいったいどこへ向かえばいいと言うの? ああ、偉大なる愛と光の女神よ、このセラフィーナはあまりにも長くここへい過ぎました……。聖堂にこもり聖なる祈りを捧げる以外の生き方なんて、わたくしは何一つ知らないのですわ」


 ひときわ大きく、堂の外で雷が鳴った。

 稲光がして、それから表の大扉を勇ましく誰かが弾いて聖堂へと押し入ってきた。

 硬い靴音に、どこか荒ぶるような情熱を宿して。


 もううつむきそうになっていたセラフィーナが振り返ると、その勇ましい人影がマントをはためかせ彼女の前に跪いた。

 マントの留め金には、ここギデアの隣国ロフィランス帝国の紋章が渋く光る。


 窓外に走る稲妻に照らし出されて、人影が面を上げ彼女の手を取った。

 雨に濡れた黒髪に端正な面差しの、美しい青年がそして告げる。


「聖女セラフィーナ、お前を迎えに来た。俺はロフィランスの新皇帝、名はカイ。お前の婚約が破棄されたと聞いて、矢も楯もたまらず押しかけてしまった無礼を許してほしい。だが、もしお前がこれまでの人生に未練などないなら――」

 

 若き皇帝カイの瞳は、稲光にたたずむ聖女をまっすぐに据えてこう言った。


「セラフィーナ、どうか俺の妻になってくれ」





 ***





 ロフィランス帝国は、歓喜に沸いた。 


 永らく聖女の不在を耐え忍んできたこの国に、有能な若き皇帝カイが年下の聖女を娶ってきたからである。


「カイ皇帝陛下、万歳! 聖女セラフィーナ様、万歳!!」


「ありがとうございます、聖女様! 私たちの国へ来てくれて」


 城のバルコニーから手を振る皇帝とその妃になったセラフィーナのはにかみに、帝都へ押し寄せた国中の民が歓迎の意を表している。

 聖女セラフィーナの入国から今日の公開挙式に至るこのわずかひと月余りの間にも、彼ら民衆が熱狂するのに十分な逸話はすでにいくつも生まれていた。


 新皇妃セラフィーナの聖なる祈りが、多くの奇跡をもたらしてくれたのである。


 ロフィランスの全土を、清く輝かしい結界が覆った。

 古の大悪魔がしつこく名残らせていた瘴気は見る間に晴れて気候は安定し、農作物の育ちが格段によくなった。早くも今年は豊作が見込めそうだ。

 洞窟から生じる魔物の数も激減し、無辜の民がその餌食となる悲しい事件は皆無に等しくなった。

 領域の空気にエーテルが満ちて、たちの悪い流行病から子どもたちを健やかに守ってもくれた。


「見ての通りだ、セラフィーナ。国中がお前に感謝している」


「――そんな、わたくし一人で成せたことではありませんわ、カイ皇帝陛下。それにこちらへ来てからというもの、毎日こんなにも楽をさせて頂いていますのに」


「いままでが不当に過酷すぎたのだ、セラフィーナ。日に三度も四度も聖なる祈りを捧げさせられるなど、ありえない時代錯誤、過重労働もはなはだしい。ギデアは聖女をなんだと思っているんだ? あの国は、ろくな技術力も人権意識も持たない無能どもの巣窟なのか? こんなことなら、婚約の破棄なんか待たずにもっと早くお前を力ずくで奴らから奪い去るべきだった。完全なる俺の判断ミスだ、すまん」


 いとおしげにセラフィーナの片頬に手を添え、ロフィランスの若き皇帝カイは嘆息して見せる。


「お前自身が望む働きならいい。自分らしいと、聖女であるお前自身が感じられる生き方ならいい。だが、もう絶対にお前を渡しはしないぞ、セラフィーナ。尊いお前を都合よくこき使おうとする連中なんかには。――だから頼む、俺の前でだけは、もう無理をするな。遠慮も、我慢も。そんなことをする必要はないんだ」


 むろんロフィランスとて、セラフィーナの生まれ持った聖なる力を欲してはいる。

 その聖なる祈りを、頼りにはしている。


 だがこの国の若君カイ・ロフィランス皇帝は、いつかこうして聖女を迎えるべく、自ら魔導師としても先頭に立って帝国の技術革新に心血を注いできた。

 

 魔石や魔導技術の研究を積み上げ、聖なる祈りのエネルギーを最大限に有効活用するノウハウをあらゆる分野で確立した。


 マイクロ魔導炉や自動生成魔法陣などの新技術を駆使し、聖女本人の負担を最小限に留める術と環境とを整えたのだ。


 お陰で先に挙げたような奇跡の数々を、セラフィーナはその助けを借りて数日どころか数週に一度の聖なる祈りで成し遂げることができたのである。


 やりがいを感じ、集中力を持って、無理なく働ける。

 そして自分の成したことに、あたたかな感謝を告げてくれる人たちがいる。

 

 ――わたくし、夢でも見ているのではないかしら?


 あまりの待遇の好転ぶりに、セラフィーナ自身はなんだかまだ夢うつつ。

 だからそんな皇妃を見つめながら、夫となる皇帝カイが感に打たれる思いでいることなど彼女は知るよしもないだろう。


 ロフィランスの若き皇帝カイは、いま妻への愛を確信していた。


 ――なんと美しい人か。

 

 妃に迎えたセラフィーナの晴れ姿に、カイはひそかにほれぼれと見惚れながらそう思う。

 柔らかな鳩羽色の髪に載るティアラと、清純なホワイトドレスがしっくり馴染む楚々としたたたずまい。

 零れる淡い微笑みの中で、澄んだ薄紫の瞳は常に他者への思いやりを宿してもいる。


 慎ましく、だがけがれのない芯を持ったまさに聖女の輝き。

 やや年上の皇帝である自分と並んでも、その輝きがかすむことなどけしてありえない。


 ギデア国でセラフィーナが受けていたと思しきありえない扱いに憤慨し、御付きの宮廷女官たちが数日のうちに妃の容姿を磨き抜いていた。

 ロフィランスの女官たちは口をそろえて言ったものだ。

 

「セラフィーナ様がこれまで女らしさを失っていたのは、聖女として無茶な働き方をさせられていたからです。陛下、我が帝国の美容技術と福利厚生を兼ね合わせれば、セラフィーナ様の本来あるべき美貌を絶対に輝かせられます。お任せください!」と。


 女官たちは正しかった。

 まるで天から舞い降りたかのような花嫁が、ここにいるのだから。


「お前は実に綺麗だ、セラフィーナ」


 若き皇帝はそう端的に言って、まぶたを閉じるとセラフィーナに薄い唇を寄せる。

 セラフィーナもそっとまつげを伏せた。

 

 夢でも幻でもない、たしかなぬくもりが降ってきた。





 ***





 やさしさに満ちた、穏やかな日々が過ぎ。


 なれないチヤホヤと溺愛に戸惑いはありつつも、セラフィーナは夫となった皇帝カイや御付きの女官たち、その他帝国の民との交流の中でゆっくりと愛を知った。

 そして虐げられ酷使されていた心身を回復し、さらなる高次元の聖女となってロフィランス帝国の安寧に貢献していく……。



 さて一方、同じ頃。

 隣国ギデア王国では、聖女セラフィーナを失った報いからか王家の威信が急速に失墜しつつあった。


 ――くそっ、何がどうなっているんだ……?


 王座を継ぐ身のダーヴィド王子は、このところ冷や汗の止まらない毎日を送っている。


 ギデアの城のある王都を中心に、国内ではにわかに瘴気が蔓延。

 その悪しき空気に乱されるかのように、経済恐慌や作物の不作、王都での心の荒む犯罪などが早くも相次いでいた。


 うっすら考えるだけで頭が重く、なんだかダーヴィドは体調もさえない。

 このままなんの策も講じずに王家と貴族階級だけが贅沢な暮らしを続ければ、下々から国民の不満が一気に噴出するのは時間の問題な気もするのだが……。


「ねえ、ダーヴィド。次の夜会用のドレスだけど、どっちがいいかしら?」


「……あ、ああ、アリーサ。ゴホッ……、君にはどちらもよく似合っているよ。しいて言えば、たまにはシックな路線で行くのもありだとは思うけどね」


「ふうん、そう? やっぱりこっちにするわ! みんな私の振りまく笑顔と愛を待っているんだもの、ドレスだってこのくらい華やかで聖女らしくなきゃ。ね、そうでしょう、似合う?」


 健やかに桃色がかった真珠のような、愛くるしい妃アリーサの笑顔がパアッとそこに輝く。

 肌艶がよく(最近は妙な色の吹き出物もできてきているが)、小顔で(やや急に太りすぎてはいないか)、ドレスに着飾る体の線だって柔らかで。

 彼女自身の言っている通りだ。

 いかにも聖女らしく、そして華がある。

 ただ……。


「念のためだが、アリーサ。聖なる祈りの方は順調かい?」


 ダーヴィド王子が思わずそう尋ねると、可憐な妃は豪奢なドレスを身にあてがったままプウと頬を膨らませた。

 そして片手でやや遠くの机上を指さし答える。

 その贅沢なつくりの小机には、聖なる祈りの書が載っている。


「もう! 何度も同じこと訊かないで、ダーヴィド。ちゃんとあれに書いてある通りやっているわ。効果が現れるまで、きっともう少しかかるってだけなの。……それとも私のこと、信じられない? うぇ、えーん」


「ああ、泣かないで、可愛いアリーサ。ごめんよ、僕がバカだった。――そうだね、君の聖なる祈りの効果が出るまで、もう少し待ってみよう」


 人に何かを指摘されると、妃アリーサは決まってすぐこんな風にへそを曲げる。

 まるで子どもだ。

 抱き寄せて頭をしばらく撫でてやらなければ、機嫌は直らない。


 よしよしとアリーサをなだめながら、王子はふと自分の子ども時代を思い出す。

 たしかに幼い頃は、自分もこうだった。

 教育係の宮廷学術師たちからお小言を言われるたび、実にむしゃくしゃしたものだ。

 いまやろうと思っていたところなのにとか、さっきがんばったばかりなのにとか。

 だから、可愛いアリーサの気持ちはよくわかる。


 問題なのはダーヴィド王子も妃アリーサもとっくに子どもではないという点だが、当人たちはなぜかそのことに気付こうとはしない。

 ただれた恋愛のぬくもりが、二人の脳味噌を生ぬるく溶かしつくそうとしているのか。


 なんにせよ、ギデア立国以来のこの難局に、現王は瘴気の影響からか突如隠居して床に臥せり、無能な愚息ダーヴィド王子に王の座と責任を押し付けた。


 来るべき未来を見据えれば卒倒してもおかしくない状況だが、新王となるダーヴィドにも彼なりの見栄とプライドがあり、すでに出展と参席の決まっていた万国博覧会へ正妃アリーサを伴い赴くのである。





 ***





 万国博覧会。

 その開催国となったホックム皇国の首都会場には、パビリオンを埋め尽くさんばかりの来場者が各地から集まった。

 

 世界中の文化や最新技術に触れられるまたとない機会とあって、展示ブースを一つひとつ訪ね歩く人たちの表情はどれも明るく輝いている。


 にもかかわらず、自国ギデアに割り振られた展示場だけが閑古鳥の鳴くありさまであることを目の当たりにして、ダーヴィド新王と妃アリーサはあ然とした。


「な……、なぜ僕たちの国だけがこんなにも不人気なんだ、アリーサ?」 


「へ、変ね、ダーヴィド。こんなにたくさん贅沢なお品物ばかりを並べているのに……」


 民の暮らしを犠牲にしてまで目いっぱいの豪華品を揃え見栄を張ったというのに、そんなものには来場者の誰一人として足を止めようとはしない。


 釈然としないギデア新王妃夫妻の耳に、やや離れたはす向かいのブースから割れんばかりの歓声が届いたのはその時である。


「な、何事かしら、ダーヴィド?」


「と……、ともかく、行ってみよう」


 二人が小走りで近付くと、そこには――。

 この万博で一番の賑わいを見せる、ロフィランス帝国のブースがあった。


 若き皇帝の指揮のもと、人々の幸福と国の安寧を実現する持続可能な技術と魔法、政治理念・社会意識の変革、そして民に祈りを捧げる美しき聖女にして皇妃セラフィーナ。

 その近影を鮮やかに伝える展示物の数々に、人々は見惚れ「おお」とか「まあ、素敵!」といった感嘆の声を次々に漏らしている。


 と、その空間の中でもひときわ存在感を放つ大きな美しい鏡の脇に、展示案内員が立って観衆に告げた。


「世界中の皆様、どうぞこちらへお集まりください。本日予定されていたロフィランス皇帝陛下ご夫妻直々のご来場は、残念ながら中止となりました。――と、申しますのも、かの皇妃にして美しき聖女セラフィーナ様が、この度めでたくご懐妊されたからです」


 突然の吉報に、人々が沸く。

 上品かつにこやかにその熱狂を制して、展示案内人は続けた。


「皇帝陛下ご夫妻は、それでもせっかくこの場へご来訪の皆様にせめて一言謝辞と祝意を捧げたいとお考えです。ロフィランス製のこの鏡――、距離を越えての謁見を可能にする『魔法の鏡』を、いま通じて」


 すると、魔法の鏡が映じる。

 ロフィランスの優れた皇帝カイと、その妻セラフィーナを。

 まずは皇帝が、端正な面差しのまま鏡の中でこう口を開いた。


「皆様、どうかご容赦を。本来ならば直接そちらへ伺い、お一人おひとりと歓談に興じたかったところです。ただ、大変嬉しいことに最愛の妻があらたな命を授かりました。旅の負担を強いるよりも、いまは彼女とこの子を大切にしたい。むろん、我がロフィランス帝国が今後も世界の皆様と共にあることになんら変わりはございません」


 鏡越しの歓声を浴びながら黒髪の皇帝は垂れた頭を上げ、妻の肩を抱く。

 彼の最愛の妻セラフィーナが、柔らかな鳩羽色の髪を揺らし楚々と微笑んで謝辞と祝意の句を継いだ。


「夫の愛と、皆様のご厚意に心から感謝申し上げます。そして偉大なる愛と光の女神に従い、わたくしからもこの世界に聖なる祈りを」


 胸の前でその白く清らかな両手を組み合わせ、聖女セラフィーナがまつげを伏せる。

 あまりに慎ましやかで美しい祈りの姿に、会場はこの日のうちでも最も多幸感に満ちた瞬間を迎えた。

 だが。


「お、おい、セラフィーナ! 僕だ、ダーヴィドだ」


 いきなり人ごみをかき分けて、ギデアの新王が鏡にすがりついた。

 あまりの横暴と不敬さに人々はどよめき、鏡の中で驚いたように聖女セラフィーナが顔を上げる。

 その澄んだ薄紫の瞳に飛び込まんばかりに、新王ダーヴィドはまくし立てた。


「いまこっちは大変なんだ、アリーサも聖女としてがんばってくれているが、まだ王城を守る結界の効果が現れてくれなくて。なあ、アリーサの聖なる祈りが国の瘴気を払うまでに、あとどのくらい待てばいいんだ? 教えてくれセラフィーナ、君には前任の聖女として答える義務があるはずだ」


 つらつらと己の口をついて出る必死の言葉に、ダーヴィドは自分がいかに追い詰められた状態にあるのかをはたと痛感する。

 無理もない。

 ただれた恋愛にうつつを抜かしていただけの青二才が名ばかりの新王になったところで、何ができようか。

 まして、聖女の祈りがなんであるかなど、真剣に考えたことは一度だってないのだから。


「……――お気の毒に。ギデアの新王ダーヴィド陛下、あなたは本当に、何もおわかりになっていないのですね……」


 鏡の中から、聖女セラフィーナが答える。

 眉根を寄せ、哀れみに満ちたまなざしで。


「……アリーサに、聖なる祈りは果たせません。もとより聖なる力を持たないからです。そもそもそんな力の存在自体を、あなたのその妃殿下は信じていらっしゃらないでしょう」


「なっ、そんなのデタラメよ! 冗談じゃないわ、ダーヴィド、耳を貸さないで」


 淡々と事実を伝えはじめる帝国の聖女に、ギデアの妃アリーサは異を唱えながら自分の夫にすり寄る。

 けれど夫ダーヴィドは血眼で鏡を覗き込むばかりで、もはや脇目を振る余裕もなさそうだ。

 鏡越しに聖女セラフィーナが次は何を語るのか。

 それを聞き漏らしてはならないのだから。


「――隣国の聖女として、お察しします、高きギデアの国王陛下ご夫妻様。御国が大変な事態にあられることには、わたくしセラフィーナもひどく胸を痛めております。追い出された身では申し上げるのもはばかられますけれど、わたくしの張る結界とその余力を失って、ギデアの王城から溢れ出る瘴気はとうとう阻むことができなかったのですね」


「「…………は?」」


 呆けた表情を並べるギデアの新王夫妻に、帝国の聖女セラフィーナが伝えた真実。

 それは――。


「わたくしが王城の周囲に張っていた結界は、城を守るためだけのものではありません。むしろ逆の意味合いこそ大きく、ゆえにわたくしは自らその任を投げ出すことなどできませんでした。私欲にまみれ腐敗したあなたがた王家の住まう城から、たえまなく湧き続ける呪われた瘴気。わたくしは結界の内にそれを封じ込め、浄化し、国を守ってもいたのですから。僭越ながら、事実として――」


 そう、聖女セラフィーナが鏡を通して最後に語るのは、単なる事実である。


「事実として、ギデアの安寧などそれなしにはありえませんでした。王城から広がる瘴気を結界が阻んでいたからこそ、国は栄えたのです。あなたがたが城へため込んだ宝とは、煌びやかな装飾品も娯楽道具も贅を凝らした食事も、そこから得られるいかなる愉悦も快楽も健康も、そのすべては結界の外で育まれた人々の営みから不当に搾取し続けたものに過ぎないのです。そうです、さしだす聖なる力も持たぬまま、聖女の座を占めるあさましい者のように。――そしていまさら泣いてもわめいても、すでに結界は失われてしまいましたわ。どうかそのことだけでも、せめてご理解ください」


「もう充分だろう、ロフィランスの帝として、愛する身重の妻にこれ以上の無理をさせたくない。セラフィーナは休ませる。それで、ギデア新王ダーヴィド殿とその妃殿よ、俺からも一言だけ言っておく。若くして国を背負うことの重責なら、俺も理解はしているつもりだ。だからこれはできれば、同じ道程の少しだけ先を行く先輩からの助言とでも受け取ってほしいんだが」

 

 いつのまにか声すら失っている新王ダーヴィドとその妃アリーサに向け、ロフィランスの優れた皇帝カイが背に妻セラフィーナをかばいながら言い放った。


「場をわきまえろ」


 鏡越しのその凍てつくような進言に、ギデア新王夫妻はただ首を垂れるほかはない。

 世界中から万国博覧会に集まった、衆人環視のもとで。





 ***





「あなたのせいで大恥をかいたじゃない! どういうつもりなのよ、ダーヴィド! これじゃあ私、次の夜会にどんな顔して行けばいいのかわかんないわよ」


「そんな場合じゃないだろうが! ゴホッ、ゴホッ……。考える頭があるなら、少しはあの『聖なる祈りの書』でも読み込んで真面目に祈ってみたらどうなんだ、アリーサ!」


「はあ? そんなに言うならあなたが読んで祈ればいいじゃない。ああ、気分を変えたいわ。新しいドレスを仕立てましょう」


 万国博覧会から帰国した、ギデア新王ダーヴィドと妃アリーサ。

 ただれた恋愛に脳味噌の溶けつくした二人が口汚く罵り合っているまさにその時、国史に残る一大事が勃発した。

 蜂起である。


 私欲にまみれ腐敗した王家の城から国に広がり蔓延し続ける、呪われた瘴気。

 それがもたらす災厄の数々。

 経済恐慌、作物の不作、相次ぐ王都での心の荒む犯罪、その他もろもろ……。

 そしてなんの策も講じず贅沢な暮らしを続けようとする王家と貴族階級に、搾取される側の国民の不満がついに噴出したのだ。


 勇敢なる反乱軍が決起して押し寄せ、あれよという間に王城もろともギデア王家を焼き払う。

 その業火は、奇しくもパルヴァ公爵家の滞在していたタウンハウスや隠居中の先王の離宮にも及んだ。

 いずれにせよ醜い言い争いは、すべて炎の海に沈み去ることになったのである。


 反乱は達成したもののしばらく情勢の安定しない新ギデア国であったが、隣国ロフィランス帝国が支援の手をさしのべたことでようやく落ち着きを見せる。

 有能な皇帝カイの指揮する経済援助と魔導技術提供が、復興を大きく後押しした。


 一時は国内に蔓延した瘴気も、満を持して王城跡地を訪れた隣国の聖女セラフィーナが地下深く永遠に封じ込め浄化した。

 その聖女のあまりの美しさ、その聖なる祈りのあまりの麗しさは、後々まで民の語り草となる。


 まるで天から舞い降りたかのような、楚々としたたたずまい。

 柔らかな鳩羽色の髪と、まつげを伏せる澄んだ薄紫の瞳。

 慎ましく、だがけがれのない芯を持ったまさに聖女の輝き。

 去り際に見せた零れるような淡い微笑みと、片時も失わぬ他者への思いやり。

 その得も言われぬ女らしさ。


 以来、人々の幸福な日々は続いている……。



 ロフィランス帝国の優れた皇帝カイと彼の愛する聖女セラフィーナは、かようにその生涯を通して国内外の人々の幸福のために尽力し続けた。


 もちろん、彼と彼女自身の幸せと、そして二人だけに授けられたあらたな真実の愛とを、心から祝福しながら――。

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