サクラとの別れ(バルド)
俺の首と横から突きつけられている剣先には間があった。急に屈んでも顎が切れるほど近くはない。耳はやばいかもしれないが、この際仕方がない。とりあえず屈んで腹に拳を叩き込もうと決めた。
二太刀目は躱せないかもしれないが、こいつの方に倒れてやれば、すぐにはサクラを追えないはずだ。既に商業地帯の近くに来ている。刃傷沙汰になれば、そのうち騎士がやって来るだろう。
「サクラ、逃げろ!」
「シュウ、やめて!」
俺の叫び声に重なるように、サクラが制止した。
横を向くと、剣を突き付けて俺を睨んでいたのは、黒髪の若い騎士。こいつがシュウなのか?
「サクラ、こいつが誰か知っているのか? なぜ、こんな奴と一緒にいる?」
「シュウ、失礼なことをしないで。剣を納めて。バルドさんは私を助けてくれた上に、道に迷った私を家まで送ろうとしてくれたのよ」
「迷ったって? なぜ、あの距離で迷うんだ?」
渋々と剣を鞘に納めたシュウと呼ばれた騎士が、呆れたようにサクラに問う。
「ちょっと、道を間違えて反対の方向に行ったみたい」
舌を出して照れ笑いをするサクラ。あざといとは思うけれど、大体の事は許してしまいそうな仕草だ。
「サクラ、そんなことをしても誤魔化されない。とにかく帰るぞ」
シュウという男は凄いな。あの可愛いサクラに誤魔化されないのか。
「ちょっと待ってよ。バルドさん、ごめんなさい。助けていただいたのに、失礼ばかりで」
サクラが頭を下げる。
「こんな男に礼も詫びも必要ない。どうせ、どこかへ連れ込もうとしていたんだろう。二度とサクラに近付くな。今度は容赦しない」
若い騎士は俺を睨み付けると、サクラの腕をとって引っ張るように連れ去った。
何度かサクラが振り返り、俺が見送っているのを確かめると、小さく手を振ってくれた。俺も手を振り返す。
どこかへ連れ込もうなんて思ってもいなかった。あんなに綺麗な女を見たことがなかった。隣を歩くだけで良かった。家まで無事に送り届けたいと思った。
ただ、本当にそれだけだった。
俺たちの場所に紛れ込んできたサクラ。もう会うことはないだろう美しい少女を想い、俺は仲間のたまり場に向かった。
俺たちのたまり場は、イゴール地区内にある機械工場跡だ。機械の需要が増えて、大きな工場へ移転したので、使われないままになっている。
工場跡の中は広く、天井は高い。ここに、机や椅子を持ち込んでいた。
ここにいる仲間たちは、貧しくろくな働き場もない若い男たち。女は、若くして嫁に行くのでここにはいない。
時代は急激に変わっていた。
学校へ行く奴が増えた。そして、学校を卒業した奴がいい職に就く。親から捨てられたような孤児院のやつらも学校に通い、高給な職を得る時代だ。
それなのにこの地区は貧しく、親も学がないので、教育の重要性などわからない。とにかく、学校どころではない家庭も多い。俺は、酒ばかり飲んで子どもに無関心の父親と、父の顔色ばかり見ている母のもとで育った。学校など存在すら知らなかった。そして、職を探す年になって初めて、字が書けない、計算もできない俺たちみたいのは、ろくな仕事にありつけないことがわかるんだ。
姉は十六歳で三十歳の男の後妻として嫁いで行った。俺は、先代の頭に誘われて十四歳からここにいる。
「今日の頭、ちょっと変ですよ」
仲間の一人が俺をそんなことを訊いてくる。
「オーレリー地区のやつらが、イゴールで女を攫おうとしていた」
「頭、それはイゴールの女ですか?」
地区の女にちょっかいを出されたら、俺たちの面目が潰れてしまう。
「いや、迷い込んできた女だ」
「こんな所に迷い込んでくる女がいるんですか? で、その女はどうしたんです?」
「家に帰した」
「もったいない。せっかく迷い込んできたのに。ここに連れてきてみんなで抱けばよかったのに」
そう言ったのはヴァイノ。俺より年上だが、かなり危ない奴なので先代が頭に指名しなかった。だから、先代に指名された俺のことが気に入らないようだ。
「そ、そんな女じゃない。あれは……」
天使だった。俺たちが汚すことなんてできないような女だった。そして、名前で呼び合う騎士がいた。
「頭、その女に惚れたのか?」
俺は、ふざけたことを言うヴァイノの頬をかすめるように拳を放った。直接触れてはいないが、微かに頬が切れ、赤い線が入った。
「何をするんだ!」
「今話しているのは、女の事じゃない。オーレリー地区のやつらの事だ。二度とイゴールで悪さできないようにしてやらねば」
俺は、この地区の頭として、オーレリー地区に舐められるわけにはいかない。この地区は俺たちが守るんだ。