表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/19

第四章 街に響く声


私の病は少しずつ癒えていった。

まだ足取りは弱かったが、布団から起き上がれるようになった私は、母にせがまれて近所の子どもたちへ歌を聞かせた。


「お姉ちゃんの声、気持ちいい」

「怖い夢を見なくなるんだよ」


そんな無邪気な言葉を聞くと、胸が温かくなった。

失ったものは多かった。

でも、この声さえあれば――私はまだ生きていける。


やがて噂は広がっていった。

「病を癒す声を持つ娘がいる」

「歌を聞けば心が軽くなる」


人々が家に押しかけるようになり、母は戸惑いながらも彼らを迎え入れた。

中には、酒と煙草の匂いをまとった男たちも混じっていた。

「嬢ちゃん、いい声だな。こりゃ金になる」

不気味な笑みを浮かべるその男を、私は恐ろしく感じた。


けれど、母は生活の苦しさから断りきれなかった。

私は、歌うしかなかった。


ある日、場末のカフェーに呼ばれた。

ランプの灯り、甘い香水とアルコールの匂い、ざわつく男たちの笑い声。

舞台に立たされた私を、無数の視線が舐め回すように追った。


「歌え」


命じられ、私は震える唇で声を放った。

――その瞬間、場の空気が変わった。


男たちの笑いが止み、酔いどれた瞳が次々と潤んでいく。

「……不思議だな」

「胸の中の重さが……」


ざわついていた空間が、静まり返っていった。

私は初めて理解した。

――この声には、ただの癒し以上の力がある。

人の心を揺さぶり、縛り、時に塗り替えてしまうほどの。


けれど、その力は恐れを呼んだ。

「魔女だ」「ソルシエールだ」

酒場の隅で囁かれた言葉が耳に残った。


それでも私は歌い続けた。

生活のために。

そして――生きる意味を繋ぐために。


大正の街は、関東大震災を経て変わりつつあった。

瓦礫の中に芽吹いた近代建築。

洋装に身を包む女学生。

その中で、名もなき歌姫の声は裏社会に広がり、人々の耳を奪い始めていた。


だが、その噂は、決して無縁の男の耳にも届いてしまう――。


桐生彰親。

彼は社交界で「婚約者を持つ華族の跡取り」として日々を過ごしていた。

しかし、ある晩、部下の一人が言ったのだ。


「旦那様。ご存じですか? 下町に、不思議な声を持つ女がいるそうです」


彰親は、胸の奥がざわめいた。

「……不思議な声?」

「ええ、聞けば病も苦も忘れるとか」


その瞬間、彼の心に刻まれた記憶が疼いた。

雨の日、傘を差し出した少女。

抱きしめ、泣き、失った少女。


――まさか。


彰親の胸に眠っていた後悔と執着が、再び目を覚まし始めていた。



---

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ