第四章 街に響く声
私の病は少しずつ癒えていった。
まだ足取りは弱かったが、布団から起き上がれるようになった私は、母にせがまれて近所の子どもたちへ歌を聞かせた。
「お姉ちゃんの声、気持ちいい」
「怖い夢を見なくなるんだよ」
そんな無邪気な言葉を聞くと、胸が温かくなった。
失ったものは多かった。
でも、この声さえあれば――私はまだ生きていける。
やがて噂は広がっていった。
「病を癒す声を持つ娘がいる」
「歌を聞けば心が軽くなる」
人々が家に押しかけるようになり、母は戸惑いながらも彼らを迎え入れた。
中には、酒と煙草の匂いをまとった男たちも混じっていた。
「嬢ちゃん、いい声だな。こりゃ金になる」
不気味な笑みを浮かべるその男を、私は恐ろしく感じた。
けれど、母は生活の苦しさから断りきれなかった。
私は、歌うしかなかった。
ある日、場末のカフェーに呼ばれた。
ランプの灯り、甘い香水とアルコールの匂い、ざわつく男たちの笑い声。
舞台に立たされた私を、無数の視線が舐め回すように追った。
「歌え」
命じられ、私は震える唇で声を放った。
――その瞬間、場の空気が変わった。
男たちの笑いが止み、酔いどれた瞳が次々と潤んでいく。
「……不思議だな」
「胸の中の重さが……」
ざわついていた空間が、静まり返っていった。
私は初めて理解した。
――この声には、ただの癒し以上の力がある。
人の心を揺さぶり、縛り、時に塗り替えてしまうほどの。
けれど、その力は恐れを呼んだ。
「魔女だ」「ソルシエールだ」
酒場の隅で囁かれた言葉が耳に残った。
それでも私は歌い続けた。
生活のために。
そして――生きる意味を繋ぐために。
大正の街は、関東大震災を経て変わりつつあった。
瓦礫の中に芽吹いた近代建築。
洋装に身を包む女学生。
その中で、名もなき歌姫の声は裏社会に広がり、人々の耳を奪い始めていた。
だが、その噂は、決して無縁の男の耳にも届いてしまう――。
桐生彰親。
彼は社交界で「婚約者を持つ華族の跡取り」として日々を過ごしていた。
しかし、ある晩、部下の一人が言ったのだ。
「旦那様。ご存じですか? 下町に、不思議な声を持つ女がいるそうです」
彰親は、胸の奥がざわめいた。
「……不思議な声?」
「ええ、聞けば病も苦も忘れるとか」
その瞬間、彼の心に刻まれた記憶が疼いた。
雨の日、傘を差し出した少女。
抱きしめ、泣き、失った少女。
――まさか。
彰親の胸に眠っていた後悔と執着が、再び目を覚まし始めていた。
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