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第三章 声に宿るもの


あの雨の日から、私は家に閉じこもるようになった。

針子としての仕事も、ままならない。

布を縫おうとしても、指が震えて針を通せないのだ。


胸の奥に黒い塊が居座っている。

それは日ごとに重く、苦しくなって、息さえも詰まるようだった。


――あの方は、本当に私を愛してくださったのでしょうか。

思い出すのは、あの手の痛みと涙だけ。

けれど同時に、初めて傘を差し出してくれたあの温もりも、消えてはくれなかった。


矛盾の中で心は裂け、体は弱っていった。

咳が止まらず、夜は高熱にうなされた。

母が氷枕を替えながら泣いていたのを、私は夢うつつに感じていた。


ある晩、私は熱にうなされながら、ぼんやりと声をあげた。

「……歌いたい……」

その一言に、母は驚いたように顔を上げたという。


翌朝、私は衰えた声で、子どもの頃に祖母から習った子守唄を口ずさんだ。

かすれ、途切れ途切れの旋律。

けれど、不思議なことが起きた。


母が「心が落ち着く」と涙を流したのだ。

「ゆかり……あんたの声は、神様がくれたもんだよ」


その日を境に、私は弱々しくも歌を口にするようになった。

歌うと胸の重みが少し軽くなり、咳も和らぐ気がした。


――そう、声こそが私の生きる糧なのだと気づいたのです。


病床の日々の中、近所の子どもたちが私の声を聞きに来るようになった。

「お姉ちゃん、また歌って」

「眠くなる声だ」

布団のそばに集まる幼い顔に囲まれ、私は初めて“誰かに必要とされる”感覚を取り戻した。


そのうち、町内の老婆が訪ねてきた。

「不思議だねえ、あんたの歌を聞いてると、この胸の痛みが和らぐんだよ」

そう言って涙を流す姿に、私は胸が震えた。


それは桐生の屋敷で歌っていたときとは違う。

誰かのために、ただ心を込めて声を差し出す。

そこには身分も飾りもなく、ただ“人と人”のつながりがあった。


けれど……。


夜、布団に横たわると、どうしても彰親様の顔が浮かんでしまう。

あの手の痛み、あの涙、あの抱擁。

憎しみきれない想いが胸を締め付けた。


「忘れなければ……」

私は自分に言い聞かせた。

「忘れなければ、また壊されてしまう……」


それでも声は裏切らなかった。

歌うたび、私の胸からは溢れるように熱が広がり、聞いた人の顔が和らいでいった。

そのたびに私は思った。


――この声に宿っているものは、愛か、それとも祈りか。


答えはまだ分からなかった。

けれど、私の生きる理由が再び芽生え始めているのは、確かだった。



---


大正の街は、不安と憧れが入り交じる時代だった。

文明開化の余韻、震災の影、社会運動のざわめき。

そんな時代の狭間で、一人の娘の声が、人知れず小さな奇跡を起こし始めていた。



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