表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/19

第二章 崩れる調べ


桐生の屋敷に足を運ぶようになってから、私は夢を生きているような日々を過ごしていた。

漆喰の白壁に包まれた広間。窓辺には、異国の香りを運ぶようなカーテンが垂れている。

その奥に置かれたピアノの前に立ち、私は歌った。


彰親様は、いつも穏やかに微笑んでくださった。

「君の声は……不思議だ。疲れ切った心が、澄み渡っていくようだ」

その言葉を聞くだけで、どんな辛さも消えてしまう。


――ええ、あのときの私は信じていたのです。

身分も何もかも越えて、ただ“ひとりの女”として愛されているのだと。


けれど、夢は夢のまま。

現実は、じわじわと私の足元を崩し始めていた。


廊下ですれ違う使用人たちの目は冷たい。

「あの娘、また来ているのね」「ご主人様も気まぐれなこと……」

囁きは背中に突き刺さった。


ある日、彰親様の母君に呼び止められた。

青磁のような顔立ちで、きりりと結い上げた黒髪。冷たい香水の匂いが鼻を刺した。


「あなた、どこの誰なの?」

「……針子の娘でございます」

「ふうん。よくもまあ、恥ずかしげもなく。――二度とこの門をくぐらないことね」


私は声を失った。

その場では必死に頭を下げたが、心はずたずたに裂けていた。


彰親様に訴えると、彼は苦しげに眉をひそめた。

「母の言葉は気にしなくていい。僕が守る」

そう言ってくれるのが、かえって辛かった。

――だって、守られているのではなく、隠されているようにしか思えなかったから。


それでも私は、彼を信じていたかった。

だから彼に連れられて、社交場に顔を出したときも、心臓が張り裂けそうになりながら笑顔を作った。


カフェーの明かり、香水と煙草が入り混じる匂い。

モダンボーイたちの視線は、私に注がれた。

「可愛いじゃないか」「どこから来た娘だ」

軽口に頬を赤らめる私を、彰親様は手で引き寄せ、睨みつけるようにして言った。

「彼女は僕のものだ」


そのときは胸が熱くなった。けれど帰り道――。


「君が軽率だからだ」

彰親様は低い声でそう言った。

「……私が、ですか?」

「そうだ。君が他の男に気を許すから、ああいうことになる」


その言葉は、鋭い刃のように突き刺さった。

私は必死に否定した。けれど彼は聞こうとしない。


手を掴まれた。痛いほどの力で。

「やめて……!」

必死に振り払った瞬間、私は石畳に倒れ込んだ。手首に焼けるような痛みが走る。


彰親様は慌てて駆け寄り、震える声で「すまない……すまない……」と繰り返した。

抱きしめられた肩に熱い涙が落ちた。

私は震えながらも、その背にすがりついた。


――あれは、愛だったのでしょうか。

それとも、支配の始まりだったのでしょうか。


時は過ぎ、桐生家で正式な婚約話が進められているという噂を耳にした。

相手は、名門の令嬢。誰が聞いても釣り合いのとれた縁組だ。


問いただすと、彰親様は苦しげに目を伏せた。

「君を想わない日はない。けれど……家を裏切ることはできない」


その一言で、私の世界は崩れ落ちた。

「じゃあ、私たちの愛は……全部、嘘だったの?」

「違う! 本気で君を愛していた……だが――」


扉が閉じられる音。

もう、何も聞こえなかった。


雨が降り始めていた。

傘を差し出してくれたあの夜から、すべては始まった。

けれど今、私は雨に打たれながら、ひとり立ち尽くしていた。


――ええ、ここで私は知ったのです。

愛は、ひとつ間違えば呪いになるのだと。



---

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ