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IFエピローグ ― 歌の呪縛

判例の束を読み込み、関係者を訪ね歩き、古い記事を洗い直す。

 そこまでは正史と同じ軌跡だ。


 だが、あの日――僕は「触れてはならないもの」に触れてしまった。


 それは国会図書館の地下資料室だった。

 他の記者が見向きもしない段ボール箱。戦後整理されないまま押し込まれていた箱を、僕は半ば偶然に開いた。


 そこに、一枚のSPレコードが眠っていたのだ。

 白いラベルに、崩れた手書きの文字。


 《更科ユカリ・声録》


 背筋が凍った。

 僕の心臓は、尋常でなく速く打ち始めていた。


 針を落とすと、最初はノイズしか響かない。

 だが次の瞬間、確かに声が流れ出した。


 ――柔らかく、しかし刺すように鋭い歌声。


 古びた録音なのに、なぜか耳元で囁かれているような鮮明さだった。

 旋律は単純だった。だが、その抑揚の一つひとつが、僕の記憶に食い込んでいく。


 母の声を思い出した。

 小学生の頃の夏休みを思い出した。

 だが次の瞬間、その映像は霞み、形を失った。


 「……あれ、なんだったっけ」


 頭の奥で、記憶が一枚ずつ剥がれていく。

 指先が震える。

 それでも僕は、針を止めることができなかった。



彼女の歌は、毒であり、蜜であった。

聴く者の心を壊し、そして満たす。


 気づけば僕は涙を流していた。

 なぜ泣いているのか、わからなかった。

 ただ、その声に包まれることが幸福に思えた。


 「もっと……」


 無意識に呟いていた。

 ――そのときだった。


 胸に冷たい手が触れた感覚がした。

 振り返ると誰もいない。

 だが、耳の奥で声が囁いた。


 「忘れて。すべて。愛しているなら」


 心臓が焼けるように熱くなった。


 それからの日々は、曖昧だ。

 記事を書くことも、誰かと話すことも、どうでもよくなった。

 ただ夜ごとに図書館の地下に忍び込み、あのレコードに針を落とした。


 記憶は剥がれ落ち続けた。

 両親の顔が思い出せない。

 友人の名前が浮かばない。

 だが恐怖よりも先に、甘美な安堵があった。


 ――ゆかりの歌は、すべてを消し去ってくれる。


 編集部で上司に呼ばれた日、僕はただ笑っていた。

 「おまえ、原稿はどうした」

 そう詰め寄られても、答えが出てこない。

 記者としての自分が、すでに遠い他人のように感じられた。


 代わりに頭の中では、ゆかりの旋律が繰り返されていた。












 愛して、愛して、愛して――












彼は歌に囚われた。

ゆかりがかつてそうしたように。

そして現代にまで、呪いは息を吹き返した。


 最後の記憶は、また地下資料室だ。

 暗闇の中、レコードの前に膝をつき、僕は歌と一体になろうとした。


 「僕を捨てないでくれ……」


 どこからか、女の笑い声が響いた。

 温かく、けれど冷酷に。


 視界が白く溶けていく。

 名前も、家族も、職業も、全部。

 僕という人間の輪郭が崩れていった。


 ――その後、僕の原稿は新聞社に届くことはなかった。


 机の上に残されていたメモには、震える字でこう書かれていた。


 「ゆかりは生きている。歌の中に。」



それが事実だったのか、彼の狂気の果てだったのか。

もはや誰にも確かめようがない。

ただひとつ言えるのは――

魔女の歌は、まだ終わっていない。

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