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エピローグ ― 消息不明

新聞社に入って三か月。

 ようやく与えられたまともな取材テーマは、「古い判例を題材にした人文記事を書け」というものだった。最初は肩透かしを食らった気分だった。戦後すぐの政治裁判や、学生運動の記録など、華やかで派手なテーマに飛び込みたいと願っていたからだ。けれど渡された資料の束をめくっているうちに、ひとつの名前がどうしても引っかかった。


 更科ゆかり。

 禁固三十年の判決を受け、五十歳で仮釈放。

 だが、その後の記録が――どこにも存在しなかった。


 「魔女」と呼ばれた女。

 歌で人を操ったとされる、信じがたい伝聞。

 あり得るだろうか、そんなことが。


 けれど、調べれば調べるほど、否定することもできなくなっていった。


 都心の古い図書館。

 埃をかぶった新聞縮刷版を開き、僕は目をこらす。大正の終わりから昭和初期にかけて、社会面を賑わせた幾つかの小さな記事が見つかった。


「某華族家の不祥事」

「歌手の女、猟奇的監禁」

「裁判は長期化」


 記事はどれも断片的で、名前さえ明記されていないものも多い。だが、裏取りを重ねると、ひとつの線で繋がっていく。確かに「更科ゆかり」という女が存在し、時代を揺らしたことを示していた。


 取材は想像以上に骨が折れた。

 ゆかりの出自を知る者はとうに他界している。

 当時の関係者も、残っているのは遠い縁戚筋の子孫ばかり。僕が突然電話を入れても、皆が皆、戸惑いと恐れをにじませて口を閉ざした。


 「……その名前は、出さない方がいい」

 「うちの家では、もう話題にしないと決めている」


 その口調に怯えを感じるたび、かえって僕の胸は熱を帯びていった。なぜ、そこまで隠したがるのか。何を恐れているのか。


 ある老婦人に話を聞くことができた。

 昭和の初め、まだ子どもだった頃に、ゆかりの噂を耳にしたという。


 「歌を聴いた者は、心を壊す……。母がそう言っていました。けれど私は一度も聴いたことがないのです。もし聴いたらどうなっていたか……」


 老婦人は言葉を濁し、黙り込んだ。

 その沈黙が、何よりも雄弁に思えた。


 裁判の記録は形式的で、感情のかけらもなかった。

 被害者は存在した。だが死者はいない。

 肉体よりも精神を損なわれ、人生を壊された者たち。

 それでも法は「殺していない」という理由で、死刑を選ばなかった。


 ――禁固三十年。

 そして「条件付き仮釈放」。


 資料はそこで、唐突に途切れる。



魔女は実在したのか。

それとも、人々が時代に映し出した幻影だったのか。

答えは、もう誰にも分からない。


 夕暮れ時、編集部の窓から街を見下ろす。

 ビル群に沈む陽がガラスに反射して、朱色に輝いていた。

 あの時代の東京も、きっとこんな夕焼けを見たに違いない。

 けれど、ゆかりという女の影は、どこにも残されてはいない。


 机に並んだ判例資料に手を置き、僕は小さく呟いた。


 「……五十歳で仮釈放。その後、どこへ」


 答えは返ってこない。

 だが、ページを閉じる手は震えていなかった。

 ここで終えるしかないのだ。


 ゆかりは、確かに存在した。

 けれど彼女の声は、一度も僕の耳には届かなかった。


 それが救いだったのかもしれない。



魔女の歌は、歴史に溶けて消えた。

残されたのは、恐怖と噂と、わずかな記録だけ。

その続きを語る者は、もうどこにもいない。

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