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第一章 雨夜の傘


 大正八年の東京は、まだ震災前の古き繁華の姿をとどめていた。

 銀座通りには煉瓦造りの洋館とガス燈が並び、馬車と電車が同じ道を走り、モダンな服装の令嬢と和服姿の女中が同じ歩道を行き交っていた。洋傘を差す婦人の傍らを、裸足の子供が駆け抜ける。そんな混じり合った景色の中に、私はいつもぽつんと立っていた。


 私は針子の娘だ。母とふたり、下町の長屋で暮らしていた。日が昇れば針仕事に追われ、日が暮れれば母の咳の世話をする。

 未来など考えたこともなかった。女工の中でも、針子は食いつなぐのがやっとだ。裕福な家庭に雇われてお仕立てに上がることもあれば、安物の反物を町の女衆に縫うこともある。私の指はいつも針のあとで赤く腫れていた。


 けれど――私は歌が好きだった。

 針を動かしながら小さな声で唱歌を口ずさむと、不思議と胸が温かくなった。母はそんな私を見て「ゆかりは歌だけは人に誇れる子だよ」と笑ってくれた。その言葉だけが、私の唯一の誇りだった。



---


 あの夜は、夕立ちのあとで空気がむっとしていた。

 薄暗い路地を急いでいた私は、雨に足を取られて転びそうになった。傘は持っていなかった。長屋の娘が気軽に洋傘など買えるはずもない。濡れ鼠になりながら歩いていたそのときだった。


「君、大丈夫か?」


 低く、けれど柔らかな声が頭上から降ってきた。

 見上げると、濡れた私に傘を差し出してくれる青年がいた。

 漆黒の髪をきちんと撫でつけ、洋装の上着に白い手袋。どこか異国めいた気品があった。見慣れぬほど上等な靴が、雨の石畳に光っていた。


 私は言葉を失った。こんな上流の方が、なぜ私なんかに……。


「お怪我は?」

「い、いえ……」


 声が震えた。青年は穏やかに笑みを浮かべ、傘の下に私を招き入れた。

 雨音に包まれた狭い空間。ほんの数歩の距離に立つその人の香りが、かすかに石鹸のように清らかで、私の心臓は乱打した。


――ああ、このときからだったのです。

 私の運命が狂い始めたのは。



---


 彼の名は桐生彰親。旧華族の家の跡取りだった。

 それを知ったのは、ずっと後になってからのこと。だが、このときから私は直感していた。私とは決して釣り合わぬお方なのだと。


 けれども彼は、濡れた私の袖を気遣うようにそっとハンカチを差し出した。

「こんな夜道に、君のような人がひとりで歩いているのは危ないよ」

 その言葉に胸が熱くなった。私は誰かにそんなふうに案じられたことなどなかったのだ。


 母ですら、病のせいで私を気にかける余裕がなかった。私はいつも「働き手」であり、女として扱われたことはなかった。


 だからだろう。

 私はその夜、桐生様に心を奪われた。



---


 数日後。

 桐生様は再び私を呼び止めてくださった。今度は銀座の表通りで。

「先日は、突然で失礼した。君の名を聞いても?」


「……ゆかり、と申します」

「いい名だ。紫の縁。人をつなぐ名だね」


 その言葉を、どれほど大事に胸にしまったことか。

 やがて私は彼の屋敷に招かれた。広い庭を抜けた先に、洋館と和館が並び立っていた。

 そこは別世界だった。カーテンの布地ひとつでさえ、私たちの年収に匹敵するに違いない。


 私は恐る恐るピアノの前に座った。

「歌ってみてほしい」

 促されるまま声を出すと、屋敷の高い天井に響いた。


 彰親様はじっと私を見つめ、やがて言った。

「君の声は、人の心を溶かす」


――その一言に、私は全身が震えたのです。

 あの夜以来、私は彼に恋をしていました。でもこの瞬間、私は確信したのです。

 ああ、この人のために生きていきたい。



---


 けれど、身分の差は残酷だった。

 屋敷を辞すとき、門の外で女中たちの囁きを聞いた。


「あの娘はどこの子?」

「ただの針子らしいわよ」

「桐生様も、物好きなこと」


 針子の娘と華族の跡取り。

 その差は、どれだけ努力しても埋められるものではなかった。


――それでも……私は諦められなかったの。

 身分の違いを知りながら、彼の優しい瞳を見れば、抗えずに惹かれてしまった。


 雨の夜の傘から始まった恋は、すでに私の心を縛りつけていたのだ。



---



 そのときの私はまだ知らなかった。

 この恋が檻となり、やがて私を奈落へと落としていくことを――。



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