クロームの涙と偽りの星
宇宙の吹き溜まり、『タルタロス』。
この街では、嘘と真実が、安酒のように、混じり合って売られている。
退屈とローンの返済に喘ぐ、しがない運び屋チャック・マツオカの元に舞い込んだ、一つの依頼。それは、クロームの涙を浮かべた銀髪の美女が持ち込んだ、あまりにも甘く、あまりにも危険な罠だった。
失踪した兄。巨大企業の影。そして、裏切り。
一つの嘘が、また一つの嘘を呼び、男を、底なしの陰謀の渦へと引きずり込んでいく。
これは、お人好しの運び屋が、初めてこの街の「本当の顔」を覗き込み、自らの機転と、相棒との絆だけを頼りに、九死に一生を得る物語。
星々のブルースは、時に、血の匂いがするほどに、ビターな味がする。
雨は降らない。だが、タルタロスの空気は、いつも湿っている。
人々の汗、排気口から漏れる蒸気、そして、決して乾くことのない欲望。それらが混じり合い、このステーションの空気を、重く、粘ついたものにしていた。
チャック・マツオカは、珍しく、仕事がなかった。
愛機『セカンドライフ』号のコクピットで、彼は、もう何度目になるか分からない、ローン返済のシミュレーションを眺めていた。赤字の数字が、まるで嘲笑うかのように、画面の上で点滅している。
「ああ、退屈だ。退屈は、貧乏と同じくらい、魂を蝕むぜ」
彼は、誰に言うでもなく、そう呟いた。
『キャプテン。心拍数の上昇と、コルチゾール値の増加を検知。軽度のストレス状態にあると判断します。気分転換に、古い映画でもご覧になりますか?』
相棒であるAI、アイリーンの、どこまでも平坦な声が、静寂を破った。
「映画を見る金があったら、とっくに仕事を探してるさ」
チャックが、そう毒づいた、その時だった。
彼の個人端末に、音もなく一件の通信依頼が滑り込んできた。
ギルドの公式ルートではない。暗号化された、匿名の個人回線からだった。
『腕利きの、そして何より、口の堅い航宙士を探している』
メッセージは、それだけだった。
胡散臭い。十中八九、厄介ごとの匂いしかしなかった。
だが、「腕利き」という言葉が、彼のくすぶっていたプライドを、ほんの少しだけ、くすぐった。
そして、「退屈」という名の病は、時に、人間を無謀な行動に駆り立てる。
彼は、指定された場所へと、向かうことにした。
待ち合わせ場所は、中層区画C-8セクターの、路地裏にある、寂れたバーだった。
店の名前は、『忘却の波止場』。
ネオンは切れかけ、ドアを開けると、埃と、安い合成アルコールの匂いがした。客は、誰もいない。
カウンターの一番奥に、その女は、一人で座っていた。
息を、呑んだ。
磨き上げられたクロームのような、銀色の髪。それが、薄暗い照明を反射して、まるで後光のように輝いている。
彼女が、ゆっくりとこちらを振り向く。
透き通るような白い肌。彫刻のように整った顔立ち。そして、深い悲しみの色を湛えた、大きな瞳。
彼女は、この薄汚いバーには、あまりにも不釣り合いな、一輪の花のようだった。
「あなたが、チャック・マツオカさん?」
その声は、まるで鈴を転がすように、美しかった。
チャックは、ただ、頷くことしかできなかった。
女は、シルヴァーナと名乗った。
彼女の依頼は、拍子抜けするほど、ありふれたものだった。
「一週間前に、兄が、失踪しました。探してほしいのです」
兄の名は、ルカ。腕利きのデータダイバー(情報ハッカー)で、最後に目撃されたのは、上層区画の、会員制の高級データラウンジだという。
「警察には?」
「届けました。ですが、タルタロスの警察は、ご存知でしょう?真剣には、取り合ってくれません」
彼女は、テーブルの上に、一枚のクレジットチップを、そっと滑らせた。
チャックは、その金額を見て、目を見開いた。それは、彼が、危険な輸送依頼を、三回はこなさないと手に入らない額だった。
「前金です。兄を見つけてくだされば、この倍の額を、お支払いします」
そして、彼女の美しい瞳が、みるみるうちに涙で潤んでいく。
「お願いします。兄は、私の、たった一人の家族なんです……」
出来すぎている。
チャックの頭の中で、警告音が鳴り響いていた。
こんな美女が、なぜ、ギルドの正規ルートではなく、こんな怪しげな方法で、自分のような、しがない運び屋に接触してくるのか。
この涙は、本物か?
危険な匂いが、ぷんぷんとした。
断るべきだ。絶対に、関わってはいけないタイプの仕事だ。
だが、彼の目は、目の前の大金と、彼女の、クロームのように輝く涙から、離れることができなかった。
そして、何より、彼は、退屈していた。
「……分かりました。引き受けましょう」
その言葉を口にした瞬間、チャックは、自分が、底なしの沼に、足を踏み入れてしまったことを、予感していた。
嘘の匂い
上層区画A-3セクター。
会員制データラウンジ『ヘブンズ・ゲート』の空気は、下層のそれとは、全く違う物質でできているかのようだった。
完璧な1G。浄化された空気。そして、静かなクラシック音楽。
チャックは、場違いな自分の姿を自覚しながら、ラウンジのマネージャーに、シルヴァーナから預かったルカの写真を見せた。
「この男を、見なかったか?」
マネージャーは、チャックの、着古したフライトジャケットを、侮蔑の眼差しで見下ろすと、面倒くさそうに答えた。
「……ええ、覚えていますよ。ルカ様は、常連でしたから。ですが、一週間ほど前から、お見えになりませんね」
「何か、変わった様子は?」
「さあ?いつも通り、奥のVIPルームで、何かのデータに没頭しておられましたよ。ただ……」
マネージャーは、勿体ぶるように、少し間を置いた。
「最後の夜は、少し、様子が違いましたかな。何かに、ひどく怯えているような……。そして、しきりに、『太陽に、焼き尽くされる』と、うわ言のように、呟いておられました」
「太陽?」
「ええ。ヘリオス・エネルギー社のことでしょうな。あの方が、最近、探っていたのは」
ヘリオс・エネルギー社。
その名を聞いた瞬間、チャックの背筋に、冷たいものが走った。
より深い情報を求め、チャックは、D-7セクターの、情報屋ラットの元を訪れた。
ラットは、ルカと、ヘリオス社の名を聞いただけで、ネズミのように震え上がった。
「やめとけ、チャックさん!そいつは、ヤバすぎる!」
彼は、周囲を気にしながら、声を潜めた。
「そのルカって男、ヘリオス社と、あのマーカス・ヴォレン議員が、裏で進めてる、とんでもない取引のデータを、ハッキングしちまったらしい!今は、ヘリオス社の始末屋も、マーカス議員の息のかかった連中も、血眼になって、そのデータと、ルカの行方を探してる!」
ラットは、懇願するように言った。
「これ以上、首を突っ込むな。あんた、消されるぜ!」
ラットの警告は、正しかった。
その日の夜、チャックが、自分の船に戻ろうと、薄暗いドックを歩いていると、二人の、屈強な男が、彼の前に立ちはだかった。
「チャック・マツオカだな」
男たちは、名乗らなかった。ただ、その目には、暴力以外の感情が、一切浮かんでいなかった。
チャックは、抵抗する間もなく、腹に、重い一撃を食らった。
「ぐっ……!」
崩れ落ちるチャックの髪を、男の一人が掴み上げる。
「シルヴァーナから、手を引け。これは、最後の警告だ」
男たちは、それだけ言うと、闇の中へと消えていった。
チャックは、床に蹲り、咳き込みながら、確信した。
これは、もはや、ただの人探しではない。自分は、巨大な陰謀の、ど真ん中に、足を踏み入れてしまったのだ、と。
反転する真実
『セカンドライフ』号の、薄暗いコクピットで、チャックは、唇の端から流れる血を、手の甲で拭った。
物理的な調査では、これ以上の進展は望めない。下手に動けば、次は、本当に消されるだろう。
「……アイリーン、頼れるのは、もうお前だけだ」
彼は、相棒である高性能AIに、これまでの調査で得た、断片的なデータを、全て入力した。
「シルヴァーナの兄『ルカ』…このデータダイバーが残した、電子的な痕跡を追ってくれ。どんな些細なものでもいい。奴らが、血眼になって探してる、データの在り処を、見つけ出すんだ」
『了解しました、キャプテン。ネットワークの深層部への、ダイブを開始します』
アイリーンは、タルタロスの、光と闇が渦巻く、広大なネットワークの海に、静かに、しかし、深く、潜行を開始した。
彼女の、元は航行補助用だった高度な演算能力は、今や、どんな腕利きのハッカーにも匹敵する、強力な調査ツールとなっていた。
チャックは、ただ、祈るような気持ちで、コンソールの進捗バーが、ゆっくりと進むのを、見つめていた。
数時間後。それは、永遠のようにも感じられた。
『……発見しました、キャプテン』
アイリーンの声が、沈黙を破った。
『ルカ氏は、自らの死を予期し、データを、三重の暗号化を施した、隠しデータキャッシュに、保管していました。場所は、旧ステーション『メモリア』の、放棄されたサーバーの中です』
「メモリア……!あの、廃墟ステーションか!」
チャックは、すぐさま、シルヴァーナに連絡を取った。
「シルヴァーナさん、あんたの兄さんの、遺品を見つけた」
『……本当ですか!?』
通信機の向こうで、彼女の声が、喜びに震えているのが分かった。
「ああ。だが、場所が少し、厄介だ。メモリアだ」
『……分かりました。報酬の残金と引き換えに、そのデータを、私に渡してください。受け渡し場所は……人目につかない、D-11セクターの、第4廃倉庫で。今夜、0時ちょうどに』
彼女は、そう言うと、一方的に通信を切った。
D-11セクターの、第4廃倉庫。
そこは、錆びついたコンテナが、墓石のように立ち並ぶ、忘れ去られた場所だった。
チャックは、データチップを胸ポケットにしまい、約束の時間に、一人でそこに立っていた。
やがて、闇の向こうから、ハイヒールの音と共に、シルヴァーナが姿を現した。
「……チャックさん。本当に、見つけてくださったのですね」
彼女の瞳は、涙で潤んでいた。
「ああ。これが、あんたの兄さんが、命がけで遺したもんだ」
チャックが、データチップを差し出そうとした、その時だった。
シルヴァーナの背後の闇から、二つの人影が、音もなく、姿を現した。
一人は、マーカス・ヴォレンの、有能な秘書。
そして、もう一人は――。
白衣を纏い、その腕に、不気味なサイバネパーツを装着した、無免許の天才女医、ドクター・アリアだった。
「……どういう、ことだ」
チャックの声が、震えた。
シルヴァーナは、もはや、涙を浮かべてはいなかった。
その瞳は、氷のように冷たく、チャックを、ただの「障害物」として、見据えていた。
「ご苦労様、チャック・マツオカ。あなたは、思った以上に、優秀な『犬』だったわ」
彼女の声には、もはや、鈴を転がすような響きはなかった。
「兄…?ああ、そんなもの、初めから存在しないわ。私の目的は、組織を裏切った、本物のデータダイバーが盗み出した、そのチップを回収すること。ただ、それだけよ」
彼女は、マーカス議員に雇われた、エージェントだったのだ。
運び屋のブルース
チャックは、完全に追い詰められた。
マーカスの秘書が、静かに、懐から銃を取り出す。
そして、ドクター・アリアは、その指先から、メスのように鋭い、クロームの爪を、音もなく伸ばしていた。
データチップを渡せば、口封じに消される。
抵抗すれば、このプロの始末屋に、切り刻まれる。
どちらに転んでも、結末は同じだった。
絶体絶命。
その中で、チャックは、最後の、そして、最大の賭けに出た。
彼は、気づかれぬように、手首の通信機に隠された、小さなボタンを、そっと押した。
それは、アイリーンに、「プランBを実行せよ」と伝える、事前に、この日のために、仕込んでおいた、緊急信号だった。
彼は、ゆっくりと、胸ポケットから、小型の通信機を取り出した。
「残念だったな。この会話は、全て、ギルドのビショップ支部長に、筒抜けだ」
彼は、ハッタリをかました。
「そして、このチップのデータは、俺が死ねば、10分後に、タルタロスの全ネットワークに、拡散されるように、アイリーンがセットしてある」
マーカスの秘書が、鼻で笑う。
「そんな子供騙しが、通用するとでも?」
だが、彼が、自分の端末で、チャックの通信経路をスキャンした瞬間、その顔色が変わった。
チャックの通信は、確かに、ギルドの、最高レベルの暗号化が施された回線へと、接続されているように見えた。
もちろん、それも、アイリーンが、今この瞬間に作り出した、完璧な「偽装」だった。
マーカスの秘書と、シルヴァーナの間に、動揺が走る。
彼らも、この取引が公になることは、絶対に避けたいはずだ。
一瞬の、膠着状態。
チャックは、その隙を、逃さなかった。
「……交渉しよう」
彼は、努めて、冷静な声で言った。
「チップは、渡す。その代わり、約束通り、報酬の残金は、きっちり貰う。そして、俺も、あんたたちも、今夜、ここで会ったことは、全て忘れる。それで、手打ちだ」
それは、もはや五分と五分の取引ではなかった。九分方、死んでいた男の、最後の悪あがきだった。
だが、その悪あがきは、功を奏した。
結局、彼らは、その取引を受け入れた。
チャックは、震える手で、チップを投げ渡すと、代わりに投げ返された、ずっしりと重い、クレジットの入ったケースを、ひったくるように掴んだ。
そして、一目散に、その場から逃げ出した。
ダイナー『スターゲイザー』の、一番安いビールが、その夜は、ひどく、苦かった。
彼は、大儲けしたわけでも、正義を成したわけでもない。
ただ、巨大な嘘と、陰謀の渦の中から、命からがら、生還しただけだ。
手にしたクレジットは、まるで、血の匂いがするようだった。
それが、この混沌の街で生きる、しがない運び屋の、いつもの、そして、忘れられない、ブルースだった。
(了)