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クロエの休日

 愛機『シルフィード』の精密メンテナンスのため、強制的な休暇を取らされた元軍警察のエース、クロエ・ヴァレンティーナ。彼女は、ストイックなトレーニングと、5年前に殉職した先輩デヴィッド・マイルズが遺した謎のデータ解析という、完璧で孤独な一日を過ごすはずだった。

 しかし、データ解析の最終段階で、特殊な軍用規格の「高純度プラチナチップ」が必要になる。正規ルートでは入手不可能なそのパーツを求め、彼女は最も嫌悪する場所、無法ステーション『タルタロス』の混沌の中心、D-7セクター「墓場」へと、一人で足を踏み入れる。

 そこで彼女が出会ったのは、伝説的なジャンク屋ゾルタンと、彼の元で働く、顔を油で汚した天才少女リナだった。リナの、常人離れした技術と、純粋な探求心に驚きと戸惑いを隠せないクロエ。彼女は、チップの調整をリナに依頼するが、その過程で、壊れたコーヒーメーカーの修理に訪れたチャック・マツオカの人の好さや、このステーションに流れる「日常」の空気に触れ、自らの完璧な世界が少しずつ揺らいでいくのを感じる。

 作業の途中、調整に必要な最後のパーツが不足していることが判明。リナは、ステーションの廃棄区画に捨てられている古いドローンから、部品を「拝借」することを提案する。それは、ルールを絶対としてきたクロエにとって、決して越えてはならない一線だった。しかし、リナの純粋な熱意に、彼女は自らその禁を破り、「共犯者」となることを選ぶ。

 計画とは全く違う、無秩序で、非効率で、不完全な休日。しかし、手に入れたチップと共に、リナから贈られた、油で汚れた小さなギア(お守り)を手に自室に戻った時、クロエの心には、完璧な一日では決して得られなかった、温かい何かが確かに残っていた。

 一人の孤独なファルコンが、ほんの少しだけ、地上に降り立つことを覚えた、ある休日の物語。

序章:完璧な一日のはずだった

 クロエ・ヴァレンティーナの一日は、ステーション標準時午前五時〇〇分〇〇秒、寸分の狂いもなく始まる。

 合成音声のアラームではない。彼女の体内時計が、プログラムされた機械のように正確に、彼女を覚醒させるのだ。

 ベッドから起き上がると、そこには一切の乱れがない。折り畳まれたシーツ、壁にかけられた一着のフライトスーツ、そして、塵一つない床。彼女の自室は、彼女の精神そのものを映し出す鏡だった。無駄がなく、冷たく、そして、完璧に整えられている。

 彼女は、まず、一時間かけて高負荷のフィジカルトレーニングを行う。汗を流すことは、思考をクリアにするための儀式だ。筋肉が悲鳴を上げ、心臓が激しく脈打つ。その肉体的な苦痛だけが、彼女を過去の亡霊から、ほんの一瞬だけ引き離してくれる。

 シャワーを浴び、栄養計算されたプロテインバーを、味も感じずに咀嚼する。食事は、生命を維持するための作業に過ぎない。

 全てが、いつものルーティン通り。完璧な、一日が始まるはずだった。

 その日、彼女の唯一の相棒であり、分身である愛機『シルフィード』は、ドック入りしていた。

 タルタロスに数少ない、クリーンルームと精密機器を備えた、軍用機専門のハンガー。その中央に、漆黒のステルスクラフトは、まるで眠れる獣のように静かに鎮座している。

「キャプテン・ヴァレンティーナ」

 メカニックチームの責任者である、白髪の老人が、恭しく彼女に言った。

「エンジンのプラズマ・コンバーターに、微細なクラックが見つかりました。このままでは、最大船速時に暴走する危険性がある。交換と調整に、最低でも36時間はかかります」

「……分かった。任せる」

 クロエは、短く答えた。

「キャプテンは、どうかごゆっくりと。たまには、羽を伸ばしてください」

 老人は、気遣うように言った。

 羽を伸ばす、か。

 クロエは、その言葉の意味を、もう何年も忘れてしまっていた。彼女にとって、非番の日とは、次の任務に備えるための、メンテナンス期間に過ぎない。

 清潔で、静寂な自室に戻った彼女は、休日の計画を立てた。

 午前中は、トレーニングと、船体のステルスコーティングに関する最新論文の読解。

 午後は、栄養計算された食事と、次の依頼候補の分析。

 そして、夜。

 夜こそが、彼女にとって、この休日で最も重要な時間だった。

 五年前に殉職した先輩、デヴィッド・マイルズ。彼が遺した、幾重にも暗号化されたデータファイル。クロエは、この五年間、自分の知識と技術の全てを注ぎ込み、その暗号を一つ、また一つと解き明かしてきた。

 そして、ついに、最後の壁にたどり着いたのだ。

 彼女は、自室のメインコンソールを起動させると、データファイルにアクセスした。画面に、無数の文字列と、複雑なプロテクトコードが表示される。

「……最後のプロテクトだ」

 彼女は、自作の解析プログラムを走らせた。しかし、数分後、コンソールは、無慈悲なエラーメッセージを吐き出した。

『警告:プロセッサ能力不足。最終暗号キーの展開には、軍用規格レベル7以上の、並列量子演算補助が必要です』

「……そんな」

 クロエは、絶句した。

 軍用規格レベル7。それは、現行の軍ですら、一部の最新鋭艦にしか搭載されていない、最高レベルの演算能力だ。彼女の持つ、市販品ベースのハイスペックな端末ですら、全く歯が立たない。

 彼女は、すぐさま代替案を探し始めた。

 何か、外部から演算能力を補助できるユニットはないか。

 データベースを検索し、古い軍の技術資料を漁る。そして、一つの可能性を見つけ出した。

 旧大戦時代に開発された、「高純度プラチナチップ」。それは、小型ながら、驚異的な量子演算能力を持つ、特殊な補助記憶媒体だ。製造コストが高すぎたため、ごく少数しか生産されず、今ではほとんど市場に出回ることはない、幻のパーツ。

 だが、これさえあれば、あるいは。

 彼女は、ギルドの裏情報ネットワークにアクセスした。そこは、合法も非合法も、あらゆる情報が取引される、電子の闇市だ。

 キーワードを入力する。「高純度プラチナチップ」「軍用規格」。

 数秒後、一件だけ、ヒットがあった。

『取扱者:ゾルタン・リペア』

『所在地:ステーション・タルタロス、D-7セクター』

『備考:現物確認要。価格、応相談』

 D-7セクター。

 クロエの眉間に、深い皺が刻まれた。そこは、『墓場』とまで呼ばれる、このステーションで最も混沌とし、最も彼女が嫌悪する場所だった。

 歪んだ重力。オイルと、得体の知れない何かが混じった匂い。そして、秩序のかけらもない、人々。

 プライドが、そこへ行くことを、強く拒絶していた。

 だが、選択肢は、なかった。

 五年間、追い求めてきた真実が、すぐそこにある。

 彼女は、深いため息を一つつくと、クローゼットから、フードのついた、目立たないコートを取り出した。

 完璧な一日のはずだった。

 だが、その計画は、冒頭から、音を立てて崩れ始めていた。

 彼女は、自らの完璧な世界に、自らの手で、混沌を招き入れようとしていた。



第一章:墓場での出会い

 D-7セクターへ向かう、ステーション内シャトル・ボートの中は、むっとするような熱気と、様々な人種の体臭、そして安酒の匂いで満ちていた。

 クロエは、コートのフードを深く被り、壁際に立って、ひたすら無心でいることを自分に強いていた。彼女の周囲だけ、まるで空気が違う。誰もが、その氷のような気配を敏感に感じ取り、無意識に距離を置いていた。

 シャトルが、D-7セクターの乗り場に到着する。ドアが開いた瞬間、彼女の鼻腔を、さらに濃密な混沌の匂いが突き刺した。

 オイルが焼ける匂い。錆びた金属の匂い。そして、生活排水の、微かなアンモニア臭。

 ここは、『墓場』。

 その名の通り、あらゆるものが、そしてあらゆる人間が、最後に流れ着く場所。

 通路の照明は、半分以上が壊れているか、チカチカと明滅を繰り返している。重力は、明らかに1Gより軽い。一歩踏み出すごとに、体が意図せずふわりと浮き、着地の際に、三半規管に不快な違和感が走る。

 壁には、意味不明なグラフィティが描かれ、あちこちから、素性の知れない音楽や、怒鳴り声が聞こえてきた。

 クロエは、データ端末に表示された地図だけを頼りに、その迷宮を進んだ。すれ違う人々は、皆、一様に、その目に、諦めと、ほんの少しの狡猾さを浮かべている。

 彼女は、まるで汚物の中を歩くかのように、誰とも視線を合わせず、誰の体にも触れないよう、細心の注意を払って歩いた。

 数分後、彼女は、目的の店の前にたどり着いた。

 『ゾルタン&リナ・リペア』。

 古びた金属製の看板が、かろうじて店の存在を示している。シャッターは半分だけ開いており、その奥から、何かの機械を削る甲高い音と、男たちの低俗な笑い声が漏れ聞こえてきた。

 クロエは、一瞬だけ、ためらった。

 本当に、こんな場所に、あの幻のパーツがあるというのか。

 彼女は、深呼吸を一つすると、その薄暗い洞穴へと、足を踏み入れた。

 店内は、ガラクタの山だった。

 分解されたシップのエンジン、正体不明のサイバネパーツ、そして、山のように積まれた、電子部品の残骸。それら全てが、彼女の完璧主義の神経を、逆撫でするように、無秩序に転がっている。

 カウンターの奥で、数人の航宙士たちが、一人の老人を囲んで、何かを値切っていた。

「なあ、ゾルタンの爺さん!こいつを、もうちっとまけてくれよ!」

「うるせえな。嫌なら、オリオン社の正規パーツでも買いな。その、お前さんの船の修理代の、三倍はするだろうがな」

 その老人が、ゾルタンだろう。

 クロエは、彼らの取引が終わるのを、店の隅で、壁に寄りかかって静かに待った。

 やがて、航宙士たちが、悪態をつきながらも、満足げな顔でパーツを抱えて出ていくと、店内に、ようやく静寂が戻った。

 ゾルタンは、初めてクロエの存在に気づいたかのように、彼女に視線を向けた。その目は、長年、機械と人間を見続けてきた者だけが持つ、鋭い光を宿していた。

「……お嬢さん。うちみてえなガラクタ置き場に、何か用かね?」

「高純度プラチナチップを探している」

 クロエは、単刀直入に言った。彼女の端末から、ホログラムで、チップの規格データを表示させる。

 ゾルタンは、そのデータを一瞥すると、面白そうに口の端を上げた。

「へえ、お嬢様。そいつはまた、とんでもないお宝を探しに来たもんだ。旧大戦時代の、軍用規格品じゃねえか。そんなお宝、うちみたいなガラクタ置き場に、本当にあると思うのかい?」

 彼は、わざと試すような口調で言った。

「情報ネットワークのリストには、そうあった」

「ああ、あのリストか。ありゃ、ただの釣り針さ。本当に価値のあるもんは、俺の頭の中にしかねえよ」

 ゾルタンは、カウンターに肘をつき、クロエを値踏みするように見つめた。

「で、だ。仮に、仮にだぜ?そんな代物が、この店の奥で眠っていたとして、あんたに、それが払えるのかね?」

 クロエは、冷静さを装いながらも、内心で、苛立ちを募らせていた。この老人は、自分をからかっている。

「金額を提示しろ。払えるかどうかは、それから判断する」

 その時だった。

「おじいちゃん、そのチップ、もしかして、この間、サルベージ船の残骸から出てきた、あれのこと?」

 店の奥から、ひょっこりと、一人の少女が顔を出した。

 顔も、手も、ブカブカの作業着も、油で真っ黒。だが、その瞳だけが、好奇心に満ちて、星のように輝いていた。リナだった。

 彼女は、クロエが提示したホログラムデータに、吸い寄せられるように近づくと、その小さな顔を、食い入るように画面に近づけた。

「……すごい。これ、本物ですか?旧式の量子回路……でも、コアの構造は、今の技術にも通じるものがある。いえ、むしろ、この発想は、今の技術者にはないかも……」

 リナは、完全に自分の世界に入り込んで、専門的な分析を、早口で呟き始めた。

「あ、でも、このままだと、今のシステムには接続できません。インターフェースの規格が古すぎるし、パワー供給のプロトコルも違う。でも、間にコンバーターを噛ませて、ここの信号ラインをバイパスさせて、こっちの補助電源から、ナノ単位で電圧を調整すれば……できる!できます、これ!」

 その、常人離れした見識に、ゾルタンも、そしてクロエも、一瞬、言葉を失った。

 クロエは、目の前の、この油まみれの少女を、改めて見つめた。

 こんな場所に、これほどの才能が、埋もれていたというのか。まるで、ガラクタの山の中から、完璧なダイヤモンドを見つけ出したような、衝撃。

「……おい、リナ。お客さんの前だぞ」

 ゾルタンが、咳払いをして言った。

「まあ、このチビが言うなら、そうなんだろう。お嬢さん、あんた、運がいいぜ。こいつがいなけりゃ、ただの綺麗な石コロとして、溶かされる運命だったからな」

 彼は、ニヤリと笑うと、交渉を再開した。

「で、代金はどうするんだい?このチップの価値と、うちの天才メカニックの、特別な調整費込みで、だ」

 クロエは、一瞬の逡巡の後、自分のデータ端末を操作した。

「これだけ、払う」

 彼女が提示したのは、このチップの闇市場での相場の、倍近い金額だった。

 ゾルタンの目が、わずかに見開かれる。

「……いいだろう。契約成立だ」

 彼は、満足げに頷いた。「リナ、お客様の大事なパーツだ。最高の仕事をしてやれよ」

「はい、マスター!」

 リナは、嬉しそうに返事をすると、クロエに向かって、深々と頭を下げた。

「あの、お預かりします!絶対に、完璧に仕上げますから!」

 クロエは、その純粋な瞳を、正面から見ることができなかった。

 彼女は、ただ、小さく頷くことしかできなかった。



第二章:ささやかな共犯関係【改訂版】

 ゾルタンの店の、比較的片付いた一角にある作業台。

 そこで、リナは、まるで聖なる儀式に臨むかのように、高純度プラチナチップの調整作業を開始した。

 彼女は、まず、クロエの持つ、最新鋭のデータ端末を借り受けた。それは、軍用のセキュリティをも突破しうる、クロエ自身がカスタマイズした特別なマシンだ。

「すごい……」

 リナは、端末の処理速度と、その洗練されたインターフェースに、感嘆の声を漏らした。

「この暗号化レベル……どうやってるんですか?それに、この仮想OSの構築速度、信じられない……!」

 彼女は、作業そっちのけで、純粋な技術的好奇心から、クロエに質問攻めを始めた。

「……それは、多重化された量子暗号キーを、擬似乱数でマスキングしているだけだ」

 クロエは、戸惑いながらも、専門的な知識で、淡々と答えていく。彼女にとって、それは呼吸をするのと同じくらい、当たり前の技術だった。だが、リナは、その一つ一つの言葉に、まるで魔法の呪文を聞くかのように、目を輝かせた。

 その、あまりにも純粋で、真っ直ぐな探求心。

 クロエは、その瞳に、遠い昔の、まだ何も知らなかった頃の自分自身の姿を、一瞬だけ重ね合わせていた。

 その時だった。

「ちわーっす!爺さん、いるかー?」

 店の入り口から、間の抜けた、しかし、どこか聞き覚えのある声がした。

 壊れかけたコーヒーメーカーを、小脇に抱えたチャック・マツオカが、ひょっこりと顔を出したのだ。

「よう、クロエ!奇遇だな!こんな所で何してんだ?」

 チャックは、クロエの姿を見つけると、能天気に手を振った。

 彼の登場で、店の張り詰めていた空気が、一気に緩む。クロエは、眉間に深い皺を刻み、あからさまに不快な表情を浮かべた。

「……あなたには、関係ない」

「つれねえなあ。お、リナちゃん、今日も頑張ってるな。実は、うちの生命線が、また機嫌を損ねちまってさ。見てくれるか?」

 チャックは、カウンターに、愛用のコーヒーメーカーを、どん、と置いた。

「チャックさん!またですか?」

 リナは、くすくすと笑いながら、チャックと親しげに会話を始める。

「こいつがないと、俺のセカンドライフは始まらねえんだよ」

「しょうがないですねえ。ちょっと見せてください」

 その光景を、クロエは、まるで異世界の出来事のように、遠巻きに眺めていた。

 自分がいかに、このステーションの「日常」から、浮いた存在であるか。それを、まざまざと見せつけられているようだった。

 リナは、チャックのコーヒーメーカーを慣れた手つきで分解しながらも、クロエのチップの調整作業を、並行して進めていた。その頭脳は、明らかに並列処理に最適化されている。

 やがて、彼女の手が、ぴたりと止まった。

「……あ」

 リナは、困ったように、ホログラムの設計図と、手元のチップを見比べた。

「どうした、リナ?」

 ゾルタンが、声をかける。

「おじいちゃん……。このチップの、最終調整に、どうしても、もう一つパーツが必要です。0.05マイクロジーメンスの、逆流防止抵抗素子……。でも、これ、店の在庫には、もうありません」

「ああ、そいつは、もう何年も前に生産中止になった、特殊なやつだな。うちにも、もう残ってねえよ」

 ゾルタンは、あっさりと答えた。

 クロエの心臓が、冷たく沈んだ。ここまで来て、また振り出しに戻るというのか。彼女の完璧な計画が、こんなガラクタ置き場で、こんな小さな部品一つのために、頓挫する。その理不尽さに、彼女は唇を噛み締めた。

 その時、リナが、何かを思い出したように、ぽん、と手を打った。

「そうだ!C-3セクターの廃棄区画に、同じ規格の古い軍用ドローンが、捨ててあったはずです。あれなら、きっと、このパーツが付いてる!」

 それは、完全な「窃盗」の提案だった。

 クロエの表情が、さらに険しくなる。ルールを破る。それは、彼女が、自らに課した、最も重い禁忌だった。正しくあること。完璧であること。それこそが、彼女を支える、唯一の柱だったはずだ。デヴィッドが堕ちた、あの過ちの道を、自分が辿るわけにはいかない。絶対に。

「馬鹿野郎、やめとけ」

 ゾルタンが、釘を刺した。「面倒なことになるだけだ。見つかったら、パーツ泥棒として、ギルドから追放されるぞ」

「でも、これがないと、このチップは完成しないんです!」

 リナは、諦めきれない、という顔で、クロエを見つめた。その瞳は、ただ純粋に、目の前の技術的な問題を解決したいという、エンジニアとしての輝きに満ちていた。

 クロエは、葛藤した。

 ここで諦めて、また別の方法を探すか。それは「正しい」選択だ。だが、何日、何ヶ月かかるか分からない。

 それとも、この少女の提案に乗り、たった一つのルールを破って、「真実」への扉を開けるか。

 彼女が、答えを出せずに固まっていると、今まで黙って成り行きを見ていたチャックが、無責任なほど明るい声で言った。

「いいじゃねえか、行ってみりゃあ。バレなきゃ、犯罪じゃねえんだろ?」

「あなたね……!」

 クロエは、思わずチャックを睨みつけた。

「まあまあ、そう怒んなって。要は、警備ドローンに見つからなきゃいいんだろ?だったら、方法はあんだろ?」

 チャックは、ニヤリと笑うと、とんでもないことを言い出した。

「俺の船の、デコイ射出装置を使うんだよ。俺が、C-3セクターの反対側で、デコイをぶっ放して、警備ドローンの注意を全部そっちに引きつけてやる。その隙に、あんたらがお宝をいただいてくるって寸法よ。どうだ?完璧な作戦じゃねえか?」

 それは、あまりにも無計画で、あまりにも航宙士らしい、大雑把な解決策だった。

 クロエは、呆れて言葉も出なかった。だが、その馬鹿げた提案が、彼女の凝り固まった思考に、風穴を開けたのも、また事実だった。

(一人で罪を犯すのではない。これは…作戦行動だ)

 彼女は、自分自身に、そう言い訳をした。

「……爺さん」

 チャックが、今度はゾルタンに話しかける。

「C-3セクターの、最新の警備ドローンの巡回ルートマップ、持ってねえか?この前、爺さんが言ってた、裏のネットワークでさ」

「……知らんな」

 ゾルタンは、そっぽを向いて、修理中のコーヒーメーカーのネジを回し始めた。

「……カウンターの、三番目の引き出しの奥に、古いデータパッドが転がってるかもしれんがな。俺は、知らんぞ。勝手に見たお前らが悪い」

 それは、ゾルタンなりの、不器用なエールだった。

 クロエは、深呼吸を一つした。

 もう、後戻りはできない。

「……行くぞ、リナ」

 彼女は、決意を固めて、少女の手を掴んだ。

「チャック・マツオカ。あなたの提案に乗る。ただし、失敗は許されない。完璧に、やり遂げろ」

「へいへい、キャプテン」

 チャックは、楽しそうに敬礼してみせた。

 こうして、宇宙で最も不釣り合いな、即席のチームが結成された。

 元・軍警察のエース。お人好しの運び屋。そして、天才ジャンク屋少女。

 彼らの、ささやかで、そして重大な「共犯関係」が、今、始まろうとしていた。



第三章:罪とプライド

 作戦は、ステーション標準時の、セクター交代のタイミングで行われることになった。

 警備システムが、一時的に旧式のものに切り替わる、わずか10分間。それが、彼らに与えられた、唯一のチャンスだった。

 『セカンドライフ』号は、C-3セクターの反対側に位置する、資材搬入用の大型ゲート付近に、身を潜めるようにして停泊していた。

 コクピットで、チャックは、まるで悪戯を仕掛ける子供のように、目を輝かせている。

「いいか、アイリーン。俺の合図で、デコイを3発、時間差で射出する。目標は、ゲートの制御室、エネルギー供給ライン、そして、警備ドローンの待機ポートだ。派手に、だが、致命傷は与えるなよ。あくまで、陽動だからな」

『了解しました、キャプテン。ただし、この行為はギルド規約第7条に違反する、ステーション施設への意図的な攻撃とみなされる可能性があります』

「うるせえ。バレなきゃいいんだよ、バレなきゃ」

 チャックは、自分が数時間前にクロエに言った言葉を、そのまま繰り返した。

 一方、クロエとリナは、C-3セクターの廃棄区画に、再び潜入していた。

 薄暗いガラクタの山の中で、二人は、息を殺して、その時を待つ。

 クロエの耳につけた、小さな通信機から、チャックの声が聞こえる。

『……3、2、1……今だ!』

 遠くで、小さな爆発音が、連続して響き渡った。

 直後、セクター全体に、けたたましい警報音が鳴り響き、赤い警告灯が、激しく点滅を始めた。

『侵入者を探知!侵入者を探知!全警備ドローンは、ポイント・ガンマへ急行せよ!』

 二人が潜む区画の、遥か向こう側で、多数のドローンが、一斉に飛び立っていくのが見えた。

 作戦は、成功した。

「行きます!」

 リナが、猫のようにしなやかに駆け出す。

 クロエは、その後に続きながら、冷静に周囲を警戒する。

 彼女の頭の中では、軍警察時代の、数え切れないほどの潜入作戦の記憶が、フラッシュバックしていた。だが、今回は違う。守るべきは、国家の秩序ではない。ただ、この少女の、純粋な探求心と、そして、自らが追い求める、過去の真実だけだ。

 その事実に、クロエは、喉の奥に、乾いた、苦いものを感じていた。

 目的の、蜘蛛のような軍用ドローンの残骸は、すぐに見つかった。

「ありました!これです!」

 リナは、ガラクタの山を、猿のように登っていく。そして、ドローンの腹部にある、メンテナンスハッチを、慣れた手つきでこじ開けた。

「……あった!」

 彼女の小さな手に、目的の、米粒ほどの大きさの抵抗素子が、握られる。

 その時だった。

 ピ、という、電子的なロック音と共に、二人の周囲のガラクタの山が、不意に動き出した。

 いや、動いたのではない。ガラクタの山を固定していた、巨大な電磁クレーンが、作動したのだ。

 そして、退路は、持ち上げられたスクラップの壁によって、完全に塞がれてしまっていた。

「なっ……!?」

 リナが、驚きの声を上げる。

 クロエは、瞬時に状況を理解した。

(陽動が、バレた……!いや、違う。これは、罠だ!)

 彼らの陽動は、警備システムを混乱させたが、同時に、この廃棄区画を管理する、別のシステムを起動させてしまったのだ。不法なパーツ泥棒を捕らえるための、自動的な捕獲システム。

 ガシャアン!という、耳をつんざくような金属音と共に、彼らがいる一角全体が、巨大な檻のように、金属の壁で囲まれていく。

『おい、どうした!そっちで何かあったのか!?』

 通信機から、チャックの焦ったような声が聞こえる。

「……罠にかかった。完全に、閉じ込められた」

 クロエは、冷静に、しかし、絶望的な声で答えた。

 壁には、継ぎ目一つない。出口は、どこにもなかった。

 数分後には、警備ドローンが、ここに集結するだろう。そうなれば、万事休す。

 リナは、恐怖で、その場に座り込んでしまっている。

 クロエは、自らの甘さを、呪った。

 こんな素人じみた作戦に乗ったこと、この得体の知れない少女を信用したこと、そして何より、自分の定めたルールを、自ら破ってしまったこと。

 その罰が、これなのだ。

(……ここまで、か)

 彼女が、全てを諦めかけた、その時だった。

「クロエさん……」

 リナが、震える声で、彼女の服の袖を引いた。

「……まだ、手があります。一つだけ」

 リナの瞳には、恐怖の色はあったが、しかし、諦めの色はなかった。そこには、まだ、エンジニアとしての、強い光が宿っていた。

 彼女は、先ほど手に入れた、小さな抵抗素子と、自分のポケットから取り出した、いくつかのジャンクパーツを、クロエに見せた。

「ここを、出られます。でも、私一人じゃ、できません。クロエさんの、力が必要です」

 彼女が指差したのは、壁の一角にある、小さな、メンテナンス用のコンソールパネルだった。

「あのパネルをこじ開けて、この区画の、電磁ロックシステムの、メイン基盤にアクセスします」

「正気か?そんなことをすれば、システムに記録が残り、私たちは――」

「大丈夫です」

 リナは、力強く言った。

「私たちが、ここにいたという記録も、このロックを、内側から開けたという記録も、全て、消してみせます」

 彼女は、クロエのデータ端末を指差した。

「クロエさんの、そのマシンの処理能力と、私の、このパーツがあれば、できます。この区画のシステム全体を、ほんの数秒だけ、クラッシュさせて、その隙に、ロックを解除するんです。そして、システムが再起動する前に、全てのログを、綺麗に消し去ります」

 それは、あまりにも大胆で、あまりにも危険な、ハッキング計画だった。

 下手をすれば、この区画全体のシステムが、永久に回復不能なダメージを負う可能性すらある。

 それは、もはや「窃盗」ではない。ステーションの基幹システムに対する、「テロ行為」に等しい。

 クロエは、リナの顔を、まっすぐに見つめた。

 この少女は、自分が何をしようとしているのか、本当に分かっているのだろうか。

 だが、リナの瞳は、揺らいでいなかった。

 クロエは、再び、選択を迫られた。

 ここで、おとなしく捕まるか。それは、「正しい」選択だ。罪を償い、やり直すことができるかもしれない。

 それとも、この少女の狂気とも言える計画に乗り、さらに深い罪を犯して、ここから脱出するか。

『おい、二人とも、応答しろ!もう時間がねえぞ!』

 通信機から、チャックの悲鳴に近い声が聞こえる。

 クロエは、固く、固く、目を閉じた。

 そして、ゆっくりと、息を吐いた。

「……何をすればいい。指示しろ」

 彼女の声は、自分でも驚くほど、静かだった。

 その声を聞いたリナの顔が、ぱあっと、花が咲くように明るくなった。

「はい、マスター!」

 彼女は、まるで、ゾルタンにそうするように、屈託なく笑った。



最終章:不完全な休日【改訂版】

 時間は、なかった。

 クロエは、自らのプライドも、罪悪感も、全てを思考の片隅に追いやり、ただ、目の前の少女が発する指示を、完璧に遂行することだけに集中した。

「クロエさん、そのパネルを!工具は、プラズマ・カッターの出力を最弱で!」

「分かっている!」

 彼女は、携帯ツールキットから取り出したカッターで、メンテナンスパネルのロックを、寸分の狂いもなく焼き切った。中から、複雑な配線と、メイン基盤が姿を現す。

「メインのB-2回線に、このバイパスケーブルを接続してください!急いで!」

 リナは、その場で、ジャンクパーツと、先ほど手に入れた抵抗素子を組み合わせて、即席のハッキングツールを作り上げていく。その指の動きは、まるで熟練の外科医のように、正確無比だった。

『キャプテン・クロエ、外の警備ドローンが、この区画に再集結しつつあります!残された時間は、推定90秒!』

 チャックの船から、アイリーンが送ってきた、冷静な警告が響く。

「リナ、まだか!」

「あと、もう少し……!」

 リナは、完成したツールを、クロエのデータ端末に接続した。

「クロエさん、あなたのマシンで、この区画の全システムのログデータに、一斉に、過剰なダミー情報を送り込んでください!システムを、飽和状態にさせるんです!」

「…なるほど。DoS攻撃か」

 クロエは、その意図を瞬時に理解し、端末を操作した。凄まじい勢いで、意味のないデータが、システムの深層部へと流れ込んでいく。

 区画全体の照明が、激しく明滅を始めた。警告音が、不協和音のように鳴り響く。

「今です!」

 リナが、叫んだ。

 彼女は、メイン基盤に、最後のケーブルを接続した。

 瞬間、全ての音が、消えた。

 照明も、警告音も、何もかも。世界が、完全な暗闇と静寂に包まれた。システムの、強制シャットダウン。

 そして、彼らを閉じ込めていた、巨大な金属の壁が、重々しいロック解除音と共に、ゆっくりと開いていく。

「……行きますよ!」

 リナは、クロエの手を掴むと、暗闇の中を、記憶だけを頼りに駆け出した。

 二人は、迷路のようなメンテナンス通路を、息を切らしながら走り続けた。重力が歪む区画を飛び越え、蒸気が噴き出すパイプの下をかいくぐる。数十分後、ようやくD-7セクターの、見慣れた(クロエにとっては見慣れたくない)風景に戻ってきた時、二人は、壁に手をついて、荒い息を整えた。

 背後では、C-3セクターのシステムが、何事もなかったかのように再起動し、警備ドローンが、「原因不明の大規模システムエラー」という記録だけを残して、通常業務に戻っていく。

 全てのログは、リナの手によって、完璧に消去されていた。

 まるで、魔法のように。

 『ゾルタン&リナ・リペア』に戻ると、ゾルタンが、腕を組んで、心配そうな、それでいて、どこか誇らしげな顔で二人を迎えた。

「……無事だったか、チビども」

「おじいちゃん!」

 リナは、ゾルタンに駆け寄ると、手に入れた抵抗素子を、宝物のように見せた。

 店の作業台で、リナは、その小さなパーツを、プラチナチップに組み込んだ。

 小さな、カチリ、という音が響く。

「……できました」

 リナは、名残惜しそうに、しかし、最高の仕事ができたという誇りに満ちた顔で、完璧に調整されたチップを、クロエに手渡した。

「これで、あなたのマシンでも、使えるはずです」

 クロエは、それを受け取ると、約束通りの報酬クレジットを、カウンターに置いた。

 そして、一瞬の逡巡の後、もう一枚、別のクレジットチップを取り出した。

「……これは、コンサルタント料の追加だ」

 彼女は、そう言うと、そのチップを、リナの小さな、油で汚れた手に、そっと握らせた。

 それは、彼女なりの「共犯の口止め料」であり、そして、言葉にできない「感謝」の表現だった。

 その時だった。

「おおー、なんだなんだ?臨時ボーナスか?いいなあ、リナちゃん!」

 いつの間にか、店の入り口に、チャックが立っていた。陽動の役目を終え、ちゃっかり様子を見に来たらしい。

「チャックさん!見てください!」

 リナは、嬉しそうに、クレジットチップを彼に見せた。

「へえ、大したもんだ。なあ、クロエさんよ。俺も、今回の大作戦で、デコイやら燃料やら、結構な経費を使ったんだがなあ?功労者への、成功報酬ってやつは、ないのかねえ?」

 チャックは、ニヤニヤしながら、あからさまに手を差し出してきた。

 クロエは、その厚かましさに、こめかみがピクリと動くのを感じた。彼女は、財布から、最低額のクレジットチップを一枚だけ抜き取ると、それをチャックの胸に、叩きつけるように押し付けた。

「……デコイ代だ。釣りはいらん」

「うぉっ、サンキュー!これで、今夜はビールが飲めるぜ!」

 チャックは、大喜びでチップを受け取ると、「じゃあな!」と、嵐のように去っていった。

 リナは、そのやり取りを、くすくすと笑いながら見ている。

 クロエは、深いため息をついた。このステーションの連中は、どうしてこうも、調子が狂う人間ばかりなのだろうか。

 クロエは、手に入れたチップを手に、自分の清潔で、静寂な部屋へと戻った。

 窓の外では、彼女の愛機『シルフィード』が、完璧なメンテナンスを終えて、静かに出撃の時を待っている。

 彼女の休日は、計画とは全く違う、無秩序で、非効率で、そして、いくつものルールを破るという、不完全なものになった。

 彼女は、自嘲気味に、もう一度、深いため息をついた。

 データ解析を再開しようと、端末の横に、プラチナチップを置いた時。

 彼女は、そこに、リナがこっそり入れておいてくれたであろう、油で汚れた、小さなギア(歯車)が、一つ、ちょこんと置かれていることに気づいた。

 それは、彼女が「パーツ泥棒」の最中に、地面に落としたものを、リナが拾ってくれていたらしかった。

 何の意味もない、ただのガラクタ。

 だが、それは、リナが「お守りです」とでも言うかのような、ささやかな、温かい贈り物に思えた。

 クロエは、その小さな、不完全なギアを、指先でそっと撫でた。

 そして、彼女自身も気づかないほどの、本当に、ほんのわずかな笑みが、その完璧な氷の表情に、浮かんだ。

 完璧ではない一日に、完璧な一日では決して得られなかった「温かい何か」を、彼女は、確かに見つけ出していた。

 彼女の孤独な部屋に、ほんの少しだけ、人間的な光が差したように見えた。

 クロエの、長い、長い休日は、ようやく、終わりを告げようとしていた。

(了)


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