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星屑のオルゴール

 宇宙そらは、あまりにも広く、そして時間は、あまりにも無慈悲だ。

 輝いていた星は燃え尽き、賑やかだったステーションは錆びつき、交わした約束は、星屑の中に忘れ去られていく。

 脱サラ航宙士チャック・マツオカが引き受けたのは、そんな忘れ去られた約束を拾い集めるような、奇妙な依頼だった。一人の老婆を、廃墟となった思い出のステーションへ送り届ける、ただそれだけの仕事。報酬は、燃料代にもならない。

 これは、過去に生きる女と、未来を見つけられない男が、錆びついたオルゴールの音色の中に、ほんのひとかけらの救いを見出す物語。

 星々のブルースは、時に、忘れ去られたメロディを優しく奏でる。

 チャック・マツオカは、ギルドの公開依頼リストを、うんざりした顔で眺めていた。

 画面を埋め尽くすのは、景気のいい単語ばかりだ。「緊急」「高額報酬」「危険宙域」。だが、そのどれもが、彼の愛機『セカンドライフ』号の、次の修理代に消えていく未来しか見せてくれない。

 ローンの返済日は、まるでブラックホールのように、彼の心をじわじわと吸い込んでいく。

 彼は、指先でスクリーンをスクロールさせ、リストの最下層へと向かった。そこは、誰も見向きもしない、低報酬で、面倒な依頼が溜まる、いわば「掃き溜め」だ。

 その中で、一つだけ、奇妙な依頼が彼の目に留まった。

『依頼種別:個人輸送チャーター

『目的地:旧ステーション『メモリア』』

『報酬:1,500クレジット』

『備考:乗客は老齢の女性一名。使用シップは、サイノシュア社製「トラベラー」級を希望。報酬は少ないですが、どうしても、昔なじみの船で、最後の旅をしたいのです』

 1,500クレジット。燃料代とドック使用料を払えば、手元にはほとんど何も残らない。冗談みたいな金額だ。

 それに、「トラベラー」級指定、だと?あの商業的に失敗し、今やほとんど見かけることもない、ワケありの船を?

 まるで、自分の『セカンドライフ』号を名指ししているような依頼だった。

「キャプテン。この依頼の採算性は、極めて低いと判断されます」

 AIのアイリーンが、冷静に事実を告げる。

「分かってるよ」

 チャックは答えた。だが、彼の指は、依頼の詳細をタップしていた。「どうしても、昔なじみの船で…か」

 その手書きのような、少しだけ震えた文字が、なぜか彼の心を掴んで離さなかった。

 彼は、ほとんど衝動的に、その依頼を受諾した。

 数時間後、D-9ドックに現れたのは、一人の老婆と、その隣に付き添う、心配そうな顔をした若い娘だった。

 老婆は、エリアーヌと名乗った。背筋は伸びているが、その顔に刻まれた深い皺が、彼女が生きてきた長い年月を物語っている。彼女は、係留されている『セカンドライフ』号を見上げると、懐かしそうに目を細めた。

「……ああ、やっぱり。主人の船によく似ていますわ」

 その隣で、孫娘だというミアが、不安げにチャックに言った。

「本当に、この船で大丈夫なんですか?おばあちゃんは、どうしてもこの船がいいって聞かないけど…もっと新しくて安全な、オリオン社のチャーター船を手配しようって言ったのに」

 そして、エリアーヌに聞こえないように、チャックにそっと付け加える。

「おばあちゃん、最近少し物忘れが激しくて…。もし、何かあったら、すぐに私に連絡してください。これが通信コードです」

 チャックは、ミアからデータを受け取ると、静かに頷いた。

 どうやら、ただの感傷旅行ではない、何か厄介な事情を抱えているらしい。割に合わない仕事だ、と、今更ながらに後悔が押し寄せてきた。

 『セカンドライフ』号は、静かに『タルタロス』を離れた。

 航海は、退屈なほどに穏やかだった。エリアーヌは、船室にいることが多かったが、時折、チャックのいるコクピットにやってきては、窓の外の星々を、飽きることなく眺めていた。

「主人は、いつもあの星を見て、航路を決めていましたわ」

 彼女は、ぽつりと語り始めた。

「彼も、あなたと同じ、自由航宙士でした。大きな組織に縛られるのが嫌いでね。いつも、こんな風に、少し古くて、少し手のかかる船を、自分の手で修理しながら、旅をしていました」

 彼女の夫もまた、「トラベラー」級の、物好きなオーナーだったらしい。

「あの船で、色々な場所に連れて行ってもらいました。この宇宙には、まだまだ私たちの知らない美しいものが、たくさんあるのだと、彼が教えてくれました」

 エリアーヌは、目的地である『メモリア』が、かつて二人が出会った、思い出の場所であることを語った。そこは、昔は辺境航路の中継点として、多くの人々で賑わっていたのだという。

 チャックは、彼女の話に、ただ相槌を打つだけだった。だが、彼女の言葉の一つ一つが、まるで自分の未来を予言しているかのように、彼の心に染み込んでいった。

 自分も、いつか、こんな風に一人になるのだろうか。この『セカンドライフ』と共に、ただ、過去の思い出だけを抱いて、宇宙を漂うことになるのだろうか。

 航海の三日目、船の小さなトラブルが発生した。

 栄養ペーストを供給する、フード・ディスペンサーが詰まったのだ。

「クソッ、こんな時に…」

 チャックが、配管をレンチで叩いたり、コンソールをいじったりして、悪戦苦闘していると、後ろから、エリアーヌが静かに声をかけた。

「チャックさん。主人は、こういう時、こうしていましたよ」

 彼女は、チャックが気付きもしなかった、ユニットの側面にある、小さなリセットボタンを指差した。

「この機種は、気圧の変化で、よく安全装置が作動するんです。一度、システムをリセットしてから、もう一度、圧力を調整してあげると、直ることが多いと、主人が」

 チャックが、半信半疑でその通りにすると、ディスペンサーは、嘘のように正常な音を立てて、栄養ペーストを押し出した。

「……あんた、何者なんだ」

「ふふ。ただの、古い船乗りの妻ですわ」

 エリアーヌは、悪戯っぽく笑った。その時、初めて、二人の間に、船長と乗客ではない、何か温かい空気が流れた気がした。

 ステーション『メモリア』は、宇宙の墓場だった。

 かつての栄光は見る影もなく、ドックには錆びついた船が数隻、放置されているだけ。照明のほとんどは消え、人影は、どこにも見当たらない。

「……すっかり、変わってしまいましたね」

 エリアーヌは、寂しそうに呟いた。

 彼女は、チャックを伴い、廃墟と化したステーションの中を、ゆっくりと歩き始めた。その足取りは、まるで失われた時間を確認するかのようだ。

「ここが、私たちが行きつけだったレストラン。ここの合成ステーキは、絶品でしたのよ」

 今は、シャッターが固く下りている。

「そして、この広場。ここで、彼にプロポーズされました。『僕の船の、最初の乗客に、そして、最後の乗客になってほしい』だなんて、陳腐な言葉でね」

 彼女の目的地は、ステーションの最上階にある、小さな展望デッキだった。そこには、一つの古いベンチが、厚い宇宙塵をかぶって、ぽつんと置かれている。

 エリアーヌは、そのベンチに座ると、大切に抱えていた小さな金属製の箱を開けた。中に入っていたのは、手のひらサイズの、古い形式の「星屑のオルゴール」だった。

「主人と、約束したんです」

 彼女は、チャックに語りかけた。

「『50年後の今日、この場所で、もう一度このオルゴールを一緒に聞こう』と。…彼は、もういません。約束の10年前に、事故で…。ですが、約束だけは、私が果たしたかったのです」

 エリアーヌは、オルゴールのゼンマイを、そっと巻いた。

 だが、聞こえてきたのは、澄んだメロディではなく、カチリ、という、無機質な音だけだった。

 もう一度、巻く。だが、結果は同じ。長年の放置で、内部の精密な歯車が、完全に錆びついてしまっていたのだ。

 彼女は、悲しそうに微笑むと、力なくオルゴールを膝の上に置いた。

「……仕方ありませんね。時間というのは、残酷なものですから。これでおしまいです」

 その、諦めに満ちた横顔を、チャックは、ただ見ていることしかできなかった。

 割に合わない仕事だ、と思った。こんな悲しい結末を見届けるために、自分はここまで来たのか。

(冗談じゃない)

 チャックの心の中で、何かが、カチリと音を立てた。

「……エリアーヌさん。少しだけ、時間をください」

 彼は、そう言うと、彼女の膝の上のオルゴールを、そっと手に取った。

「俺に、任せてみませんか」

 『セカンドライフ』号の、雑然とした作業台の上に、その小さなオルゴールは置かれた。

「アイリーン、こいつの内部構造をスキャンして、三次元モデルで表示してくれ。拡大率、最大でだ」

『了解しました、キャプテン。これは…非常に古い、機械式の音響装置ですね。興味深い構造です』

 チャックは、元システムエンジニアのプライドを、全てこの小さな箱に注ぎ込んだ。

 船の修理とは、全く違う。髪の毛よりも細い歯車、錆びついたゼンマイ、固着したピン。

 それは、繊細で、根気のいる、狂気にも似た作業だった。

 アイリーンが、ホログラムで拡大した設計図を投影し、摩耗したパーツの修復シミュレーションを行う。

『キャプテン、この第7歯車、0.03ミリのズレが生じています。修正するには、マイクロ・レーザー溶接機が必要です』

「そんなもん、あるか!代用品を探せ!」

 チャックは、自分の工具箱をひっくり返し、ありったけのジャンクパーツの中から、使えそうなものを探し出す。ピンセットの先が、何度も滑る。額から、汗が滴り落ちた。

 夜が明けても、作業は続いた。それはもはや、依頼のためではなかった。ただ、あの女性の、悲しい笑顔を、もう一度見たくないという、彼自身の、頑固な意地だった。

 息を切らし、油と汗にまみれたチャックが、展望デッキに戻った時、エリアーヌは、ベンチに座ったまま、静かに夜明けの星を眺めていた。

「……お待たせしました」

 チャックは、修理を終えたオルゴールを、彼女に手渡した。

 エリアーヌは、おそるおそる、それを受け取ると、ゆっくりとゼンマイを巻いた。

 カチリ、という音。そして、一瞬の沈黙。

 次の瞬間、澄み切った、しかし、どこか懐かしい、優しいメロディが、静かな展望デッキに響き渡った。

 それは、何十年という時を超えて、今、確かに果たされた、愛の約束の音色だった。

 エリアーヌの瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。

「……聞こえるわ、あなた。聞こえる…」

 彼女は、誰に言うでもなく、そう呟いた。

 その時、デッキに、ミアからの通信ホログラムが、ふわりと浮かび上がった。

『おばあちゃん…?それに、チャックさん?』

 心配で、GPSを追ってきたのだ。彼女は、涙ぐむ祖母と、その傍らで、疲労困憊のチャックの姿を見て、最初は驚いたが、やがて全てを察した。

「……おばあちゃん。おじいちゃんとの約束、果たせたんだね」

 そして、ミアは、ホログラムの向こうで、チャックに向かって、深々と頭を下げた。

「チャックさん……本当に、ありがとうございました。あなたに頼んで、本当によかった」

 『タルタロス』への帰り道。チャックは、報酬の1,500クレジットと、ミアから「どうしても」と押し付けられた、追加の謝礼金(それでも、修理代には足りない額だった)を、ただ眺めていた。

「なあ、アイリーン」

『はい、キャプテン』

「俺は、馬鹿なのかな」

『その問いには、肯定も否定もできません。ですが、今回のあなたの行動は、採算性を度外視すれば、極めて高い満足度と、倫理的達成感をもたらしたと分析します』

「……お前、たまに難しいこと言うよな」

 チャックは、苦笑した。そして、続けた。

「ありがとうな。お前がいなきゃ、直せなかった」

『いいえ、キャプテン。これは、あなたのブルースです』

 チャックの口座残高は、ほとんど増えなかった。ローンの返済日は、相変わらず、すぐそこまで迫っている。

 だが、彼の心の中には、あの星屑のオルゴールが奏でた、温かいメロディが、いつまでも、いつまでも、鳴り響いていた。

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