エピローグ前編
魔王討伐から二週間が経った。
世界を揺るがした大事件など嘘のように、アーカンダム魔法学園には穏やかな日常が戻っていた。
いや、穏やかというには少々騒がしいかもしれない。
「きゃあああっ! 校長先生、こっち向いてください!」
「可愛い……可愛すぎる……」
「抱きしめていいですか!?」
中庭の大樹――学園の象徴であり、校長そのものであるアーカンダム・ユグドラシル――の根元に、女子生徒たちが群がっていた。
その中心にいるのは、頭に若葉を乗せた小さな少年だ。
「やれやれ、毎度のことながら騒がしいのじゃ」
見た目は十歳にも満たない子供。しかしその口調は、数千年を生きた老木のものだった。
魔王討伐の際、本体を破壊された代償として、校長は新たに発芽した幼体となっていた。春には花を纏う美青年、冬には枯れた老人と、季節で姿を変える校長だが、この姿は極めて珍しい。
「校長先生、お花を編んであげますね!」
「わしは植物なのじゃが……まあ、よかろう」
女子生徒に囲まれながらも、校長は泰然としている。
僕――飯場仲斗は、その光景を校舎の窓から眺めていた。
「平和だな……」
思わず呟く。
二週間前、僕たちは魔王と死闘を繰り広げた。
あの壮絶な戦いが、もう遠い昔のことのように思える。
魔王アーサー・ヴァルゲイル。かつて民を愛した英雄王。家族を奪われ、裏切りに遭い、絶望の果てに魔王と化した男。
最後の瞬間、彼は何を思っていたのだろう。
僕の胸には、彼の残した言葉が今も重く響いている。
それでも――。
窓の外に見える青空は、どこまでも透き通っていて。
中庭で笑い合う仲間たちの声は、確かにそこにあって。
戦いは終わったのだ。
僕たちは、この平和を守り抜いた。
「仲斗よ」
威厳のある声が背後から聞こえた。
振り返ると、リル先生が廊下に立っていた。今日のコスプレは――魔王だった。やってみたかった気持ちは分からないでもないが、かなり無理のある格好だった。
「先生、その格好で授業するんですか……」
「無論だ! 我を倒した英雄たちに、特別授業をしてやろう」
リル先生は腕を組んでのけぞっている。
心を読むスキルを持つ彼女は、魔法こそ使えないが、教師としての腕は確かだ。ただ、コスプレ趣味だけはどうにかならないものか。
「お主に伝えよう。パフ先生が呼んでいる。グラウンドで待っておるぞ」
「パフ先生が? 何の用だろう」
「むう……何か期待しておるようだぞ」
リル先生の目が怪しく光る。
彼女がその表情をする時は、大抵ろくなことがない。パフ先生の心を覗いて、何か面白いことを知ったに違いない。
嫌な予感を覚えつつ、僕はグラウンドへ向かった。
◆◆◆
グラウンドに出ると、巨大な赤い竜が待ち構えていた。
エンシェントドラゴンのパフ・ポンチョポン先生。魔法を反射する鱗と、圧倒的な攻撃力を持つ実技教師だ。
『おお、来たか。飯場仲斗』
念話が頭に響く。威厳に満ちた声だ。
「お呼びと聞きましたが、何か御用ですか?」
『うむ。魔王討伐の功績を称え、貴様に褒美を与えようと思ってな』
「褒美、ですか?」
パフ先生の巨大な前足が、何かを差し出した。
それは――鍋だった。
巨大な、真っ黒な鍋。
「……これは?」
『我が秘蔵の鍋じゃ。エンシェントドラゴンの炎でしか作れぬ逸品。これで鍋料理を作れば、どんな食材も絶品になる』
「はあ……ありがとうございます?」
正直、何に使えばいいのか分からない。というか、この鍋を持って帰れるのか。人間の腕では抱えきれないサイズだ。
『遠慮するな。貴様の働きは見事だった。もっと褒美を要求してもよいのだぞ?』
パフ先生の尻尾がゆらゆらと揺れている。
リル先生の言葉を思い出す。『何か期待しておるようだぞ』と。
……まさか。
「先生、もしかして何か期待してます?」
『な、何のことかな?』
巨大な竜が、明らかに動揺した。
パフ先生の秘密を僕は知っている。威厳ある態度の裏で、実はドMなのだ。攻撃されることに快感を覚えるという、エンシェントドラゴンにあるまじき性癖。
「褒美を要求してもいい、って言いましたよね」
『う、うむ。言ったが……』
「じゃあ、先生、一発殴らせてください」
『なっ……!?』
パフ先生の巨体が震えた。
喜びで。
『し、仕方あるまい! 英雄の願いとあらば、この身を差し出すのも教師の務め! さあ、かかってこい!』
尻尾がブンブン振られている。完全に犬だ。いや、竜だけど。
「冗談ですよ。鍋、ありがたくいただきます」
『えっ……あ、う、うむ。そ、そうか。残念――いや、よかった。うむ、よかったのだぞ』
明らかに残念そうな声だった。
リル先生、絶対どこかで見てるな。後で弄り倒すつもりだろう。
巨大な鍋を転がしながら、僕はグラウンドを後にした。
◆◆◆
グラウンドを出ると、見覚えのある姿が目に入った。
銀髪を風になびかせ、凛とした立ち姿。女子生徒たちに囲まれているのは、ガル・エクストラだった。
堕天使の末裔にして、雷属性の使い手。かつては冷酷な性格で、実力テストでは僕たちと敵対した。
しかし魔王討伐戦では、共に戦った仲間だ。
「ガル、それ何?」
声をかけると、ガルが振り返った。
その手には、見事な弓が握られていた。黄金に輝く弦、雷の紋様が刻まれた弓身。明らかに只者ではない武器だ。
「ああ、飯場か。これは『トール・ストライク』。魔王討伐の功績で、天界から授与された」
「天界から?」
ガルの目が、わずかに揺れた。
「……見返してやった。あの連中を」
堕天使の末裔として、天界から蔑まれてきたガル。その彼が、天界から武器を授与された。それがどれほどの意味を持つか、僕にも分かる。
「よかったな」
「ふん。当然の結果だ」
口調は相変わらず尊大だが、その表情はどこか晴れやかだった。
「ガル様、その弓で魔法を見せてください!」
「雷の魔法、見たいです!」
女子生徒たちがはしゃいでいる。ガルは以前より人気が出たようだ。魔王討伐の英雄、という肩書きは伊達ではない。
「仕方ない。少しだけだぞ」
ガルが弓を構えると、空気が帯電した。
金色の雷が弓に収束し、矢の形を成す。
放たれた雷矢は、遥か上空で炸裂し、美しい光の花を咲かせた。
「きゃああっ! 綺麗!」
「さすがガル様!」
歓声が上がる中、ガルは満足げに鼻を鳴らした。
うん、相変わらずだな。でも、悪い奴じゃない。
僕はそっとその場を離れた。巨大な鍋を転がしながら、寮へと向かう。
パフ先生の鍋は確かに重かったが、不思議と心は軽かった。
この平和な日常が、どれほど尊いものか。
僕たちは戦って、そして勝ち取ったのだ。
◆◆◆
寮の自室に戻ると、甘い香りが漂っていた。
嫌な予感がする。
扉を開けると、案の定だった。
「おかえり、仲斗」
エプロン姿のコイムが、キッチンに立っていた。
僕のルームメイトにして、親友。時空属性のエルフで、発明の天才。そして――男だ。
女装した男だ。
長い銀髪、透き通るような肌、整った顔立ち。どこからどう見ても美少女にしか見えないが、れっきとした男である。
「コイム、そのエプロン……」
「ん? 可愛いでしょ」
フリル付きのエプロンだった。しかも、下に着ているのはキャミソールだけだ。ほぼ裸エプロンに近い。
「お前、本当にそういうの好きだよな……」
「仲斗が喜ぶかなって」
「喜ばねえよ!」
コイムはクスクス笑いながら、皿を差し出した。
「はい、クッキー焼いたの。食べて」
ハート型のクッキーだった。ピンク色の砂糖がまぶしてある。
「……普通の形にできなかったのか」
「愛情たっぷりだよ」
「いらねえよその愛情」
文句を言いつつも、一つ摘まんで口に入れる。
……美味い。悔しいが美味い。
サクサクとした食感の後に、バターの風味が広がる。砂糖の甘さも絶妙で、思わず次の一枚に手が伸びる。
「どう?」
「……まあ、悪くない」
「素直じゃないなあ」
コイムが嬉しそうに微笑む。
こいつといると調子が狂う。男だと分かっているのに、時々ドキッとしてしまう自分が情けない。
いや、違う。これは友情だ。友達として、コイムの作った料理を美味しいと思っているだけだ。
そう自分に言い聞かせながら、僕はクッキーを頬張った。
「そういえば、その鍋どうしたの?」
コイムが、僕が転がしてきた巨大な鍋を指差した。
「パフ先生から褒美でもらったんだ。エンシェントドラゴンの炎で作った特別な鍋らしい」
「へえ、すごいね。じゃあ今度、これで鍋パーティーしようよ」
「この大きさで?」
「みんな呼んで、寮の中庭でやればいいじゃん。リーラも、ギラも、ガルも、ドラゴも、キャルも、クラーラも」
コイムの目が輝いている。
確かに、悪くない提案だ。この鍋なら、大人数でも十分に楽しめるだろう。
「そうだな。じゃあ、近いうちに企画するか」
「やった! じゃあ僕、具材の買い出しリスト作るね!」
コイムが嬉しそうに跳ねた。
その姿は、年相応の少年のようで。
僕は思わず笑みを零した。
「そういえば、コイム。お前の妹が学園に来るって話、どうなった?」
以前コイムから聞いた話だ。双子の妹がいて、入れ替わって生活しているという。
コイムの本名はルイムで、妹の本名がコイム。ややこしいが、事情があってのことらしい。
「うん、明日入学してくるんだ」
コイムの表情が、さらに柔らかくなった。
「やっと会えるんだ。ずっと会いたかった」
「どんな子なんだ?」
「んー、僕とは正反対かな。凛々しくて、男前で、女子にモテモテで」
「お前と正反対って、つまり普通ってことか」
「ひどい!」
コイムが頬を膨らませた。
まあ、こいつの妹なら変な奴ではないだろう。たぶん。
「楽しみだな」
「うん! 仲斗にも紹介するね!」
コイムが目を輝かせている。
妹の話をする時のコイムは、いつも特別に優しい表情をする。どれだけ大切に思っているか、その様子から伝わってくる。
僕も、早く会ってみたいものだ。
◆◆◆
翌日の午後、僕はリーラと中庭で昼食を取っていた。
リーラ・ブライト。光属性の貴族の娘で、僕のパートナーだ。
本当は強力な時空属性を持っているが、親に矯正されていた。今はその力を解放し、二重属性の使い手として活躍している。
「今日は良い天気ね」
リーラが空を見上げながら言った。
中庭の木陰で、僕たちは並んで座っている。弁当箱を開けると、色とりどりのおかずが並んでいた。
「リーラの弁当、相変わらず豪華だな」
「お母様が気合を入れて作ってくれたの。『英雄の娘には、英雄に相応しい食事を』って」
リーラが少し照れくさそうに笑った。
魔王討伐の後、リーラの両親は彼女に対する態度を改めたらしい。時空属性を恥じることなく、娘の力を誇りに思うようになったのだと。
「良いことだ」
「うん。でも、ちょっと過保護になっちゃって……毎日すごい量のお弁当を持たされるの」
「それは大変だな」
「仲斗も食べる? 多すぎて食べきれないから」
リーラが弁当箱を差し出した。
遠慮なく一つ摘まむと、柔らかい鶏肉の照り焼きが口の中で広がる。
「美味い」
「でしょ? お母様の料理の腕は確かなの」
リーラが嬉しそうに微笑んだ。
こうして並んで食事をしていると、本当に平和なんだと実感する。
二週間前は、世界が終わるかと思った。
魔王との戦いは苛烈で、一瞬の判断ミスが命取りになるような緊迫した状況だった。
でも、今は違う。
こうして仲間と笑い合い、美味しい食事を楽しむことができる。
「ねえ、仲斗」
「ん?」
「私、戦いが終わった後、ずっと考えてたの」
リーラの声が、少し真剣になった。
「何を?」
「私の力のこと。時空属性のこと」
リーラが手のひらに小さな光の球を浮かべた。
それが次第に変化し、時空属性特有の歪みを帯びていく。光と時空、二つの属性が融合した魔法。
「リーラの融合魔法、本当にすごかったよ。あれがなかったら、きっと勝てなかった」
「そ、そんなことないわ。みんなの力があったから……」
リーラの頬がわずかに赤くなった。
「でもね、仲斗。私、気づいたの」
「何に?」
「私の時空属性って、実はすごく強いんだって」
リーラが真剣な表情で僕を見た。
「魔王討伐の時、コイムの時空属性と共鳴して、あんなに大きな力を出せた。先生たちも驚いてたって聞いたわ」
「ああ、教師陣の間で話題になってるらしいな」
「うん。だから、私……もっと自信を持とうと思うの」
リーラが決意を込めて言った。
「時空属性であることを恥じない。光属性だけが優れてるわけじゃない。私の時空属性も、素晴らしい力なんだって。これから示していくわ」
その言葉に、僕は思わず笑みを零した。
「それでいい。リーラの時空属性は、本当に素晴らしいものだから」
「ありがとう、仲斗」
リーラが微笑んだ。
以前の彼女は、自分の力を恥じていた。時空属性であることを隠し、光属性に矯正され、本当の自分を押し殺して生きていた。
今は違う。自分の力を受け入れ、誇りを持っている。
その変化が、僕は心から嬉しかった。
「そういえば、今日、コイムの妹が来るんだってね」
「ああ、そうらしい。どんな子なんだろうな」
「コイムと正反対らしいわよ。凛々しくて、男前で」
「そう聞いてる」
「楽しみね。コイムの妹なら、きっと面白い子だわ」
リーラが期待に胸を膨らませている。
僕も同感だった。
コイムの妹。どんな子なんだろう。
まさか、この期待が裏切られる形で叶うとは、この時の僕は知る由もなかった。
◆◆◆
午後の授業が終わり、夕方になった頃。
僕は寮の自室でくつろいでいた。
コイムはまだ戻っていない。妹の入学手続きを手伝っているのだろう。
窓の外に目をやると、夕日が学園を赤く染めていた。
魔王討伐から二週間。
この短い期間で、世界は確実に変わった。
そして僕は――。
胸に手を当てる。
魔王アーサー・ヴァルゲイルの最後の言葉が、今も心に残っている。
『この世界を――頼んだぞ』
彼の想いを、僕は確かに受け取った。
だから、行かなければならない場所がある。
近いうちに、あの場所へ。
魔王城遺跡へ。
そう決意した時、扉が開いた。
「ただいま、仲斗!」
コイムが元気よく入ってきた。
その顔は、いつになく嬉しそうだった。
「妹さん、無事に入学できた?」
「うん! 明日から授業に出るんだって!」
「そっか、よかったな」
「ねえねえ、仲斗。明日、僕の妹を紹介するから、よろしくね」
「ああ、楽しみにしてる」
コイムが嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ていると、こちらまで嬉しくなってくる。
明日から、また新しい日常が始まるのだろう。
コイムの妹が加わることで、学園はさらに賑やかになるに違いない。
僕は窓の外の夕焼けを見つめながら、そっと微笑んだ。
この平和な日常が、いつまでも続きますように。
――そう願わずにはいられなかった。




