結実
魔王が、一歩を踏み出した。
暗黒壁はない。だが、その存在感は少しも衰えていなかった。
「よくぞここまで追い詰めた」
魔王の声が、戦場に響く。
「だが、終わりだ」
闇の魔力が膨れ上がる。大気が重く沈み、生徒たちの呼吸が浅くなった。
仲斗は身構えた。しかし、体が思うように動かない。合体魔法の反動で、魔力が底をつきかけている。足が震え、視界が揺らいだ。
「仲斗……! 」
リーラが叫ぶ。彼女もまた、限界に近い。声が掠れている。
コイムは膝をついていた。魔力を使い果たし、立つことさえ難しい状態だ。肩で息をしている。
他の仲間たちも同様だった。
ガルは倒れたまま動かない。胸が微かに上下しているだけで、意識はない。超回復のチートでさえ、これほどの消耗には追いつかないのだ。
クラーラとギラは、互いに支え合いながら辛うじて立っている。
キャルは地面に座り込み、ドラゴはその巨体を横たえていた。
父親は意識を失ったままだ。
戦える者が、もういない。
「さらばだ、若き魔法使いたち」
魔王が手を掲げた。
闇の球体が生まれる。それは脈動し、膨らみ、死の気配を放っていた。
あれを喰らったら——終わる。
仲斗は歯を食いしばった。
ここで終わりなのか。
こんなところで——
◆◆◆
リル・リルは、パフ先生の傍らで全てを見ていた。
生徒たちが戦い、傷つき、倒れていく姿を。
魔王の圧倒的な力の前に、希望が潰えていく様を。
そして——夢の中で見た、魔王の過去を。
愛する妻を失った王。目の前で娘を殺された父親。裏切りと絶望の果てに、魔王と化した男。
あの悲劇を、誰も知らない。
魔王がなぜ魔王になったのか。その苦しみを、誰も理解していない。
だから、倒すことしかできない。
だから、憎しみの連鎖が終わらない。
「……伝えなきゃ」
リルは呟いた。
「みんなに、伝えなきゃ……」
しかし、どうやって?
リルの能力は、心を読むスキル。誰かの心に入り込み、その想いを知ることができる。
だが、それを他者に伝える力はない。
一人の心を読むことはできても、大勢に届けることは——
その時、傍らのパフ先生が微かに身じろぎした。
『……リル』
念話が聞こえる。
「パフ先生……! 」
『聞こえていた……お前の、声が……』
パフ先生の巨大な瞳が、リルを見つめた。赤い鱗が剥がれた傷口から、血が滲んでいる。
『私の念話は……校長の力を借りれば……世界中に届く……』
「それって……」
『私の心に……魔王の記憶を……流し込め……』
リルは息を呑んだ。
パフ先生の念話に、校長先生の力を加える。
それができれば——魔王の過去を、世界中に伝えられる。
「でも、そんなことをしたら、パフ先生の体が……! 」
『構わない……これが、私にできる……最後の仕事だ……』
パフ先生の瞳に、覚悟の光が宿っていた。
『やれ、リル……今しかない……』
リルは唇を噛んだ。
迷っている時間はない。
魔王の手が、今まさに振り下ろされようとしている。
「……分かりました」
リルの魔眼が輝いた。
パフ先生の瞳に触れ、その心に入り込む。
そして自分の中にある記憶を、パフ先生の心に差し出した。
魔王の過去。英雄王の悲劇。愛と絶望の物語。
全てを、一気に——
◆◆◆
校長先生は、パフ先生の意志を受け取った。
子供の姿をした校長の手が、地面に触れる。世界樹の根が、地下深くで脈動した。
そしてパフ先生の咆哮が、世界を震わせた。
それは音ではなかった。
記憶そのものが、波となって広がっていく。
校長先生の力が加わり、増幅された念話は、音を超え、映像を超え、感情そのものとなって世界中に届いた。
戦場の生徒たちの脳裏に。
学園で祈る生徒たちの心に。
遠くの街で暮らす人々の魂に。
魔王の過去が、世界中に伝播していく。
◆◆◆
仲斗の頬を涙が伝った。
周囲を見ると、リーラも泣いていた。コイムも、クラーラも、ギラも。
戦場にいる全員が、涙を流していた。
魔王の過去。
英雄王の悲劇。
誰も知らなかった、三百年前の真実。
「この人も……」
リーラが、嗚咽混じりに呟いた。
「私と……同じだった……」
属性を偽り、家族に苦しめられ、それでも愛することをやめられなかった。
リーラには、魔王の苦しみが痛いほど分かった。
「家族に……裏切られて……それでも……愛していて……」
仲斗は、魔王を見た。
振り上げられていた手が、止まっていた。
魔王の顔には、驚愕の表情が浮かんでいる。
「何を……した……」
魔王の声が、震えていた。
「何を……見せた……! 」
その時、仲斗は気づいた。
世界中から、何かが集まってきている。
光の粒子が、風に乗って流れてくる。それは温かく、柔らかく、まるで無数の手が魔王を優しく包み込もうとするかのように。
「祈り……?」
世界中の人々が、魔王の過去を見た。
英雄王の悲劇を知った。
そして——祈り始めていた。
魔王を倒すためではない。
魔王を、救うために。
◆◆◆
学園の生徒たちが、手を合わせていた。
戦いの手を止め、祈っていた。
「救いたい……」
「あの人を……救いたい……」
遠くの街でも、人々が祈っていた。
記憶を見た全ての者が、同じ想いを抱いていた。
「可哀想に……」
「あんな目に遭って……」
「救われて欲しい……」
世界中から、祈りが集まってくる。
魔王を救いたいという、純粋な願い。
光の粒子となって、魔王の元に降り注ぐ。
しかし——
「やめろ……! 」
魔王が叫んだ。
「今更……今更、何だというのだ……! 」
祈りを拒絶するように、闇の魔力が膨れ上がる。暗い波動が、光の粒子を弾き返していく。
「三百年だぞ……! 三百年、私は憎み続けた……! 」
魔王の目から、涙がこぼれた。
「妻を殺された……! 娘を殺された……! 全てを奪われた……! 」
慟哭が、戦場に響く。
「許せるわけがない……! 許せるわけが……ないだろう……! 」
祈りの光が、闇に押し返されていく。
魔王の絶望は、それほどまでに深かった。
三百年分の憎しみは、世界の祈りでさえ届かないほどに。
◆◆◆
仲斗は、立ち上がった。
体は限界を超えている。魔力もほとんど残っていない。
それでも、立ち上がった。
「仲斗……!? 」
リーラが驚いて声を上げる。
「何を……」
「行かなきゃ」
仲斗は、魔王に向かって歩き始めた。
「俺が……行かなきゃ」
なぜそう思ったのか、自分でも分からなかった。
ただ、確信があった。
今、自分が行かなければ——魔王は救えない。
魔王の前に立つ。
闇の魔力が、肌を焼くように痛い。呼吸するたびに、胸が締め付けられる。
それでも、仲斗は逃げなかった。
「何のつもりだ」
魔王が、仲斗を見下ろした。
「死にたいのか」
「違う」
仲斗は、魔王の目を見つめた。
赤く染まった瞳。しかしその奥に、深い悲しみが見えた。
「あんたに……伝えたいことがある」
「伝える? 私に?」
魔王が嘲笑う。
「何を伝えるというのだ。慰めか? 同情か?」
「違う」
仲斗は首を振った。
「俺は……あんたの気持ちが分かる」
「分かる、だと?」
魔王の声に、怒りが滲んだ。
「何も知らない小僧が……私の何を分かるというのだ」
「俺も……仲間外れだったから」
仲斗は、静かに言った。
「人間と魔族のハーフ。どっちの世界にも居場所がなかった」
魔王の目が、僅かに揺らいだ。
「人間からは魔族の子と蔑まれた」
仲斗は続ける。
「魔族からは人間の血が混じっていると疎まれた」
魔王は、黙って聞いていた。
「ずっと思ってた」
仲斗の声が震える。
「なんで俺はこんな風に生まれたんだろうって」
拳を握りしめる。
「なんで俺だけ、こんな目に遭わなきゃいけないんだって」
魔王の表情が、僅かに変わった。
「でも……」
仲斗は顔を上げた。
「違ったんだ」
仲斗の目に、涙が滲んだ。
「俺の母さんは魔族だ」
声が震える。それでも、仲斗は言葉を紡ぎ続けた。
「父さんは異世界から来た人間だ」
一歩、前に出る。
「二人は愛し合って、俺を産んでくれた」
魔王の体が、微かに震えた。
「俺がハーフなのは——」
仲斗は、真っ直ぐに魔王を見つめた。
「両親が俺にくれた贈り物なんだ」
その言葉に、魔王の目が見開かれた。
「呪いなんかじゃない」
仲斗の声が、戦場に響いた。
「愛の証なんだ」
魔王の表情が、変わった。
怒りでも、嘲りでもない。
何かを思い出すような、遠い目。
「あんたの奥さんは……」
仲斗は続ける。
「あんたを守るために、自分を犠牲にした」
王妃の姿が思い浮かぶ。闇を肩代わりして、それを隠し続けた女性。
「闇を肩代わりして、それを隠し続けた」
魔王の体が、震えた。
「それは呪いなんかじゃない」
仲斗は一歩、また一歩と近づく。
「あんたへの、愛だった」
魔王の目から、一筋の涙がこぼれた。
「あんたの娘さんは……」
仲斗の声が、優しく響く。
「最期まで、あんたを浄化しようとしてた」
幼い少女の姿が浮かぶ。父を想い、必死に魔法を使い続けた娘。
「死の間際まで、父親のことを想ってた」
仲斗の頬を、涙が伝った。
「それも呪いなんかじゃない」
仲斗は、魔王の目の前に立った。
「あんたへの、贈り物だったんだ」
魔王の目から、涙が溢れた。
三百年ぶりの、人間としての涙。
「あんたの家族は……」
仲斗は、魔王の目を真っ直ぐに見つめた。
「呪いなんかじゃなかった」
その言葉が、戦場に響いた。
「贈り物だったんだ」
魔王は、何も言わなかった。
ただ、涙を流し続けていた。
小さな光の粒が、魔王の体に吸い込まれていく。
それはとても小さな祈り。しかし一つ、また一つと——世界中の想いが集まってくる。
その時——
魔王の胸の奥で、小さな光が灯った。
◆◆◆
祈りで力を与えられ、光は少しずつ大きくなってゆく。
魔王の内側から、何かが浮かび上がってくる。
「これは……」
魔王が、驚愕の声を上げた。
光の中から、一人の少女が現れた。
金髪に紫の瞳。あどけない笑顔。
リリアーナ・ヴァルゲイル。
三百年前に命を落とした、王女の魂。
「おとうさま」
幼い声が響いた。
「リリィ……ずっと、そばにいたよ」
魔王の——いや、アーサー王の目が見開かれた。
「リリアーナ……? お前……生きて……」
「ううん、リリィはもう死んじゃった」
少女の魂は、悲しそうに、でも優しく微笑んだ。
「でもね、おとうさまの中で、ずっと一緒だったの」
「私の……中で……?」
「おとうさまが悲しい時も、怒ってる時も、リリィはずっとそばにいたよ」
少女の手が、王の頬に触れた。
温かい光が広がる。
「ずっと、おとうさまを治そうとしてたの」
アーサー王の体が、震えた。
「あれから? 三百年……お前は……三百年も……」
「リリィ、約束したもん」
少女が笑う。
「いつかおとうさまのことも治せるようにって。頑張って練習するって」
涙が溢れる。
「だから……ずっと、頑張ってたの」
アーサー王は、膝をついた。
娘の魂を抱きしめようとして——しかし、その手は虚空を掴んだ。
「リリアーナ……すまない……すまない……」
「謝らないで、おとうさま」
少女の声が、優しく響く。
「リリィは怒ってないよ。だって、おとうさまのこと、大好きだもん」
その時、もう一つの光が現れた。
銀髪に淡い紫の瞳。儚げな美しさを持つ女性。
セレスティア・ヴァルゲイル。
王妃の魂が、夫と娘の前に姿を現した。
「あなた」
王妃の声が、静かに響いた。
「ずっと……そばにいました」
「セレスティア……」
アーサー王は、妻を見上げた。
「お前も……私の中に……」
「はい。ずっと、あなたを見守っていました」
王妃の魂が、夫の前に跪いた。
「嘘をついていて……ごめんなさい」
「嘘……?」
「私が闇を肩代わりしていたこと……あなたには、言えませんでした」
王妃の目から、涙がこぼれた。
「心配をかけたくなかったの。あなたは、いつも民のために戦っていたから」
「セレスティア……」
「でも……結果的に、あなたを苦しめてしまった」
王妃は深く頭を下げた。
「許して……ください……」
アーサー王は、しばらく黙っていた。
そして——静かに、首を振った。
「許すも何も……ない」
王の手が、妻の頬に触れようとする。手は透けて、触れることはできない。それでも、想いは伝わった。
「お前は……私を守ろうとしてくれたのだろう」
「あなた……」
「それが……嬉しいんだ」
王の目から、涙が流れた。
「お前も、リリアーナも……私のために、そこまでしてくれていたのか」
三人の姿が、重なった。
夫と妻と娘。
三百年ぶりの、家族の再会。
「おとうさま、おかあさま」
リリアーナが、両親の手を取った。
「リリィ、やっと……家族みんなで一緒にいられるね」
セレスティアが、娘を抱きしめた。
「ええ……やっと……」
アーサー王が、妻と娘を抱きしめた。
「すまなかった……二人とも……」
「謝らないで、あなた」
「謝らないで、おとうさま」
二人の声が重なった。
「私たちは……ずっと、あなたのそばにいたのだから」
その時、王妃の魂が光り始めた。
慈母の抱擁。他者の傷や病や呪いを、自分に取り込む力。
王妃は、その力を使った。
夫の魂を——魔王から、引き離すために。
「セレスティア……!? 」
「大丈夫」
王妃が微笑んだ。
「あなたの魂を……魔王から解放します」
「しかし、それでは……! 」
「私は、もう十分に幸せでした」
王妃の体が、光に包まれていく。
「ずっと……あなたと、リリアーナと……一緒にいられた」
涙が流れる。
「それだけで……十分です」
「わたしも手伝うよ」
リリアーナも、光り始めた。
魂の浄化。闇に染まった魂を、元に戻す力。
三百年間、父を浄化し続けた力が、最後の仕上げを行う。
「おとうさま」
リリアーナが笑った。
「リリィ、約束……守れたね」
「リリアーナ……」
「おとうさまのこと、治せたよ」
光が、最高潮に達した。
そして——
アーサー王の魂が、魔王の体から離れた。
◆◆◆
魔王の体が、崩れ落ちていく。
黒い霧が晴れ、その中から一人の男が現れた。
金髪碧眼。鍛え抜かれた体躯。精悍な顔立ち。
英雄王アーサー・ヴァルゲイルの魂が、三百年ぶりに解放された。
王は、妻と娘と共に立っていた。
三人の魂が、静かに輝いている。
その時——新たな光が現れた。
一つ、二つ、三つ……数え切れないほどの光が、王の前に集まってくる。遠くから、気配が近づいてくる。
「これは……」
王が驚きの声を上げた。
仲斗も感じた。無数の存在が、この場に集まってきている。
光の中から、人影が現れた。
鎧を纏った騎士たち。剣を手にした戦士たち。
かつて王のために戦い、死んでいった者たち。
霊となった騎士団が、王の前に整列した。
「陛下」
先頭に立つ騎士が、跪いた。
「我らは……ずっとお待ちしておりました」
「お前たちは……」
「陛下、ようやく戻って来られたのですね」
騎士が顔を上げた。その瞳には、忠誠の光が宿っている。
「あの日……陛下を守れなかったことを、ずっと悔いておりました」
「……そうか」
王の目に、涙が浮かんだ。
「お前たちも……私のそばに……」
「はい。ずっと、お供しておりました」
騎士団が、一斉に立ち上がった。
そして——王に向かって、敬礼した。
「陛下」
騎士たちの声が重なった。
「我らの王よ。我らの誇りよ」
剣が掲げられる。
盾が打ち鳴らされる。
霊となってなお、騎士たちの忠誠は揺るがなかった。
「我らの力を、お受け取りください」
騎士たちの魂から、光が放たれた。
その光が、王の魂に流れ込んでいく。温かく、力強く、忠誠の証として。
アーサー王は、目を閉じた。
そして——静かに、頷いた。
「……ありがとう」
王の声が、戦場に響いた。
「みんな……ありがとう」
妻と娘が、王の手を取った。
騎士たちが、王を囲んだ。
家族と仲間たち。
三百年の時を超えて、ようやく——王は、救われた。
◆◆◆
仲斗は、その光景を見つめていた。
涙が、止まらなかった。
魔王は——もういない。
そこにいるのは、一人の父親だった。
家族を愛し、国を守ろうとした、一人の男だった。
「よかった……」
リーラの声が聞こえた。
振り返ると、彼女も泣いていた。
「本当に……よかった……」
コイムが、仲斗の肩に手を置いた。
「君のおかげだよ、仲斗くん」
「俺は……何も……」
「君の言葉が、魔王の……ううん、アーサー王の心を開いたんだ」
コイムが笑った。
「『呪いじゃない、贈り物だ』……いい言葉だったよ」
仲斗は、照れくさそうに頭を掻いた。
しかし、心の中では——確かな達成感があった。
救えた。
魔王を——いや、一人の父親を、救うことができた。
ようやく戦いが終わった。
そして、大きな一歩を踏み出せた。
仲斗は、空を見上げた。
夜明けの光が、少しずつ差し込み始めていた。オレンジ色の光が、雲を染めていく。
◆◆◆
誰も気づいていなかった。
魔王の体が崩れ落ちた場所——その地面に、何かが残っていることを。
黒い血の塊。
アーサー王の魂が分離した時、取り残された闇の残滓。
それは、蠢いていた。
ゆっくりと。しかし確実に。
まるで意志を持つかのように、血の塊が脈動している。ドクン、ドクンと心臓のように。
その中心で、何かが形を成そうとしていた。
三百年前、王を陥れた男。
不死の呪いを得て、魔王の中に取り込まれた男。
血の塊の奥深くで——
鷹のように鋭い目が、ゆっくりと開いた。




