絶望を越えて
リル・リルは目を覚ました。
とても長い旅をしてきたような——そんな感覚が体に残っている。
傍らには、傷を負って倒れているパフ先生の巨体があった。エンシェントドラゴンの赤い鱗が、魔王の攻撃で所々剥がれ落ちている。剥き出しになった肉が、鈍く脈打っていた。
「パフ先生……しっかりして……」
リルの呼びかけに、パフ先生は微かに念話を返す。
『……すまない、リル。私は……もう動けない……』
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、轟音が響いた。
空気が揺れる。
リルは顔を上げた。
学園の中央——巨大な世界樹が、魔王の前に立ちはだかっている。
校長先生だ。
アーカンダム・ユグドラシル。何千年もの時を生きた世界樹が、学園そのものと一体化して、最後の防壁となっていた。
「生徒たちに手を出すことは許さんのじゃ」
校長の声が響く。時空属性の魔力が渦を巻き、空間そのものが歪んでいく。魔王を押し留めようとする力の奔流が、目に見えるほどの輝きを放っていた。
しかし——
「邪魔だ」
魔王が、ゆっくりと腕を振り上げた。
闇の奔流が放たれる。
黒い波動が、大気を引き裂き、空間そのものを歪ませながら世界樹に迫った。
リルは、その瞬間を見た。
校長先生の本体——学園に根を張る巨木が、真っ二つに裂けていく。
亀裂が走る音。
軋み。
そして——崩壊。
「——っ! 」
声にならない悲鳴が喉から漏れた。
轟音。悲鳴。そして、絶望。
世界樹が崩れ落ちる。何千年もの時を生きた巨木が、一撃で倒されていく。幹が地面に激突し、大地が揺れた。衝撃で砂埃が舞い上がり、視界が白く染まる。
リルの目から、涙がこぼれた。
夢の中で見た光景が蘇る。愛する者を失い、絶望に飲まれた男の姿。王冠を戴いた男が、妻子を失い、狂気に堕ちていく過程。
あの悲劇が、今ここで繰り返されようとしている。
◆◆◆
仲斗は、信じられないものを見ていた。
校長先生が——倒れた。
学園最強の魔法使いが、たった一撃で。
「嘘だろ……」
隣でリーラが息を呑む。コイムの顔からも血の気が引いていた。
周囲の生徒たちの間に、絶望が広がっていく。誰もが立ち尽くし、戦意を失いかけている。
しかし同時に、仲斗はここで立ち止まっている気にもなれなかった。
風が吹いた。
生暖かい風。魔王の力が放つ、死の匂いを含んだ風だ。
仲斗の胸に、何かが引っかかった。
遠くから——誰かが駆けつけてくる気配。
「行こう」
仲斗は前に踏み出した。
「仲斗!? 」
リーラが驚いて声を上げる。
「待って、無謀よ! 校長先生でさえ——」
「分かってる。でも、このまま黙って見てられない」
闇の力を手に集め、剣の形に作る。漆黒の刃が、微かに震えている。それは恐怖ではなく——怒りだった。
「俺たちが何もしないで、誰がやるんだ」
コイムが、リーラが、仲斗の隣に並んだ。
「……仕方ないね」
コイムが苦笑する。
「僕も行くよ」
「私も」
リーラが頷いた。
三人が、魔王に向かって駆け出そうとした——その時。
「待つのじゃ」
声と共に、目の前に光が弾けた。
転送魔法。
光の中から現れたのは、子供の姿をした人影だった。
頭に若葉を生やした、幼い姿。
「校長……先生……?」
仲斗は目を疑った。
さっき、目の前で倒れたはずだ。世界樹が真っ二つに裂けるのを、この目で見た。
「驚くのも無理はないのじゃ」
子供の姿の校長が、にやりと笑った。
「あの大樹はワシの本体ではあるが、ワシ自身ではない」
「どういう……」
「森全体が、ワシの体なのじゃよ。大樹は破壊されたが、まだワシは死んではおらん」
その言葉に、仲斗は希望が湧き上がるのを感じた。
心臓が高鳴る。まだ、戦える。
しかし、校長の次の言葉が、その希望を押し留めた。
「じゃが、お主たちを行かせるわけにはいかん。今のお主たちでは、魔王には——」
「それでも行かせてください! 」
仲斗は叫んだ。
「俺たちは、ここで諦めるわけにはいかないんです! 」
校長が、仲斗の目を見つめた。
しばしの沈黙。
風が吹いた。魔王の力が放つ、あの死の匂いを含んだ風。
しかし同時に——別の気配が近づいてくる。
そして——校長は、ふっと笑った。
「……よく言った」
校長の手に、二本の杖が現れた。
見覚えのある杖。
「転送魔法で回収してきたのじゃ。この杖には、ワシの力の一部が込められておる」
校長が杖を差し出す。
「いままでよう耐えた。これを使って思いっきり戦うが良いぞ」
仲斗が杖を受け取ろうとした時、背後から声がかかった。
「私たちにも、戦わせてください」
振り返ると、クラーラとギラが立っていた。
氷の精霊族と、オーガ族の女戦士。
「クラーラ……ギラ……」
「むっ……仲斗たちだけに格好つけさせるわけにはいかないでしょ」
クラーラが、珍しく感情を露わにして言った。頬が微かに紅潮している。
「そうだよ。私たちも、この学園の生徒だもん」
ギラが拳を握りしめる。土属性の魔力が、彼女の周囲で渦を巻いていた。
校長は頷き、二本の杖を二人に渡した。
「クラーラ、ギラ。お主たちにこれを託そう」
「はい! 」
二人が杖を受け取る。
校長が、全員を見回した。目を細め、満足そうに頷く。
「ワシも全力で守ってやるからの。思いっきり暴れてこい」
その言葉に、仲斗は頷いた。
「行くぞ、みんな! 」
◆◆◆
魔王の前に、生徒たちが立ちはだかった。
仲斗、リーラ、コイム。クラーラ、ギラ。
そして——
「俺も忘れてもらっちゃ困るぜ」
ガル・エクストラが、雷を纏いながら降り立った。青白い電撃が、彼の全身を包んでいる。空気が焦げる匂いがした。
その隣には、キャル・ウィンディの小さな姿と、ドラゴ・バルスラの巨躯がある。
「全員揃ったか」
仲斗が仲間たちを見回した。
かつてはライバルだった者たち。ぶつかり合い、時には敵対した者たち。
今は、同じ敵に立ち向かう仲間だ。
「ほう」
魔王が、僅かに興味を示した。
「小僧どもが群れたところで、何ができる」
「やってみなきゃ分からないだろ」
ガルが不敵に笑った。
「行くぞ——! 」
◆◆◆
最初に動いたのはガルだった。
全身に雷を纏った体が、一瞬で魔王との距離を詰める。青白い電撃が尾を引き、地面に焦げ跡を残していく。
「喰らえ! 」
雷撃が炸裂した。
魔王の周囲に、暗黒壁が展開される。黒い障壁が電撃を弾き、空中で散らした。
「効かないか……! 」
だが、ガルは止まらない。
魔力が底を突く——しかし次の瞬間、体中から青白い光が迸り、魔力が満ち溢れた。超回復のチート。魔力が尽きても、高速で回復する能力だ。
連続する雷撃が、暗黒壁を叩き続けた。
一撃。二撃。三撃。
途切れることのない雷の連打が、暗黒壁に亀裂を走らせ始めた。
「ガルだけに任せるわけにはいかないね! 」
キャルが羽ばたいた。
小さな妖精の周囲に、無数の虫が群がる。スズメ蜂、カブトムシ、クワガタムシ——攻撃性の高い虫たちが、キャルの命令に従って集結していく。
「みんな、お願い! 」
虫たちが、魔王に向かって突進した。
「風よ! 」
キャルの風魔法が虫たちを加速させる。音速に迫る速度で、黒い弾丸と化した虫の群れが暗黒壁に叩きつけられた。
しかし、魔王は片手を振るうだけでそれを払い除けた。
「虫けらが」
闇の波動が、虫たちを空中で弾き飛ばす。
「——今だよ、ドラゴ! 」
キャルの声に応え、ドラゴが火属性付与のスキルを放った。
「燃えろ! 」
払い除けられた虫たちが、一斉に燃え上がる。
炎を纏った虫の群れが、再び向きを変えて魔王に突進した。無数の火炎弾と化した虫が、暗黒壁に降り注ぐ。
爆発。
連鎖する爆炎が、魔王の視界を炎で覆った。
「ぐっ……! 」
さすがの魔王も、この連携には僅かに怯んだ。暗黒壁が揺らぐ。
「隙ありだよ! 」
ギラが杖を地面に立てる。
大地が揺れる。巨大な岩塊が現れ、周囲の空気を押しのける。ギラは両手で杖を掴み、全力で魔力を込めると、杖から放たれた光が巨大な岩を圧縮する。より小さく、より固く。
「クラーラ! 」
「分かってる」
クラーラが杖を降る。氷がギラの岩を包み込む。さらにトゲのように無数の氷の槍を打ち込んでゆく。
透明な氷の針山に、巨大な岩が封じ込められる。
「これで——」
ギラが岩塊を蹴り飛ばす。
時間停止された氷塊が、まるで何の抵抗もないかのように、魔王に向かって飛んでいく。慣性も重力も無視した、不自然な軌道。
魔王がそれを叩き落とそうとした瞬間——
「解除」
クラーラが再び指を鳴らした。
パチン。
時間停止が解除される。蓄積されていた運動エネルギーが一気に解放され、氷塊が爆発的に加速した。
轟音。
暗黒壁に、亀裂が走る。
「効いてる……! 」
ギラが叫んだ。
しかし、亀裂はすぐに修復されていく。黒いもやが傷を覆い、暗黒壁を再生させていく。
「足りない……もっと強い一撃が必要だ」
「なら、私たちの番ね」
リーラが前に出た。
光と時空の魔力が、彼女の周囲で渦を巻く。二つの属性が反発し合い、空間が歪んでいく。
「コイム、仲斗——行くわよ」
「了解」
「ああ」
三人が魔力を重ねる。
闇と光と時空。本来なら反発し合う属性が、一つの力となって収束していく。仲斗の暗黒剣が、これまでにない輝きを放った。漆黒の刃が、虹色に輝いている。
しかし——
「まだ足りない」
魔王が冷たく告げた。
「その程度では、この壁は破れない」
暗黒壁が、さらに厚みを増していく。二重、三重、四重——幾重にも重ねられた障壁が、魔王を守っていく。
三人の合体魔法でさえ、突破できない。
絶望が、再び忍び寄ってきた。
その時——
「待たせたな」
聞き覚えのある声が、戦場に響いた。
仲斗は振り返った。
そこに立っていたのは、一人の男。
黒い髪に、鋭い眼光。手には一振りの剣——魔剣が握られている。
仲斗が感じていた気配の正体。
「父さん……! 」
飯場勇二郎。
異世界から召喚された勇者にして、仲斗の父親。
「よくやった、仲斗」
勇二郎は息子を見て、僅かに笑った。満身創痍の体。それでも、その瞳には強い意志が宿っている。
「だが、ここからは俺に任せろ」
「でも——」
「お前たちが暗黒壁を削ってくれたおかげで、隙が見える」
勇二郎が魔剣を構えた。
刃が輝く。闇を切り裂く光の剣。
「また会ったな、魔王」
魔王が、勇者を見据えた。
「……勇者か。死にかけが、くたばっていれば良いものを」
「お前は俺の大切なものを傷つけた。只で済ませるつもりは無い」
勇二郎が地を蹴った。
勇者と魔王の剣撃が始まった。
魔剣が閃くたびに、暗黒壁が軋む。
生徒たちが削った亀裂に、勇者の刃が食い込んでいく。削られた部分から、黒いもやが漏れ出していく。
「おおおおおっ! 」
勇二郎が吼えた。
渾身の一撃が、暗黒壁を貫いた。
崩壊。
漆黒の障壁が、砕け散っていく。破片が光になって消えていく。
「やった……! 」
仲斗が叫んだ。
暗黒壁が——破れた。
しかし、その代償は大きかった。
勇二郎の体が、ぐらりと揺れた。
「父さん! 」
「……すまん、これ以上は無理なようだ。ははっ、カッコ悪いな……」
魔剣を握ったまま、勇二郎が膝をついた。
暗黒壁を破るために、残された全ての力を使い果たしたのだ。魔剣が、微かに震えている。
「後は……頼んだぞ……」
勇二郎が倒れる。
魔剣が地面に突き刺さった。
「今だ! 」
仲斗は叫んだ。
「暗黒壁がない今なら——! 」
三人が再び魔力を重ねる。
今度こそ、魔王に届く。
仲斗の暗黒剣が振り下ろされた。
リーラの光がそれを包み、コイムの時空魔法がさらに増幅する。空間が歪み、時間が加速し、光と闇が融合していく。
三つの力が合わさった一撃が、魔王の体を直撃した。
轟音。
閃光。
魔王が、吹き飛ばされた。
初めて、明確なダメージを与えた。
「やった……! 」
リーラの声が響く。
魔王の体が、深く抉られている。胸部に大きな穴が開き、黒い霧が漏れ出していた。傷口からは魔力の残滓が火花のように散っている。
再生が追いつかない。三つの属性が混ざり合った攻撃は、魔王の回復能力さえ上回っていた。
「ぐっ……」
魔王が膝をつく。
今までにない、明確な手応え。
勝てる。
この戦い、勝てるかもしれない——
しかし。
「……見事だ」
魔王が、ゆっくりと立ち上がった。
「暗黒壁を破り、この私に傷を負わせるとは」
傷が塞がっていく。
黒いもやが傷口を覆い、肉が再生していく。
「だが、それでも」
魔王の目が、仲斗たちを見据える。
「私を滅ぼすことは、できない」
不老不死。
何度倒しても、復活する。
それが、魔王の真の恐ろしさ。
仲斗は、倒れた父親を見た。
そして、疲弊した仲間たちを見た。
暗黒壁は破った。魔王に傷を負わせた。
だが、それでも——まだ足りない。
魔王を倒す方法が、まだ見つからない。
リルの脳裏に、夢で見た光景が蘇った。
あの時、魔王は——いや、王は、どうやって——
戦いは、まだ終わっていなかった。




