叫び
城門が、轟音と共に破られた。
「王女を出せ!」
「呪いの魔女を殺せ!」
松明を掲げた群衆が、城内に雪崩れ込んでくる。
その数は数百。
いや、千を超えているかもしれない。
怒りに燃える目。
憎悪に歪んだ顔。
もはや人の群れではなく、一つの巨大な獣だった。
「何事だ!」
寝所から飛び出したアーサーは、窓から広がる光景に息を呑んだ。
城の中庭が、松明の海に沈んでいる。
悲鳴と怒号が入り混じる。
どこかで剣撃の音が響いていた。
「陛下! 民衆が城門を破りました!」
血塗れの衛兵が駆け込んでくる。
「我々では抑えきれません。数が多すぎます」
「なぜだ。なぜ民が城を襲う」
「分かりません。ただ、『王女を殺せ』と叫んでおります」
「リリィを……?」
アーサーの顔から血の気が引いた。
◆◆◆
王妃の寝所。
セレスティアは、怯えるリリアーナを抱きしめていた。
「お母様、怖いよ。外で怖い声がする」
「大丈夫よ、リリィ。お母様がついているから」
セレスティアの声は震えていた。
窓の外から聞こえる「王女を殺せ」という声。
なぜ、こんなことになっているのか。
扉が開き、アーサーが飛び込んできた。
「セレスティア! リリィ!」
「あなた!」
「お父様!」
アーサーは二人を抱きしめ、すぐに離れた。
「時間がない。隠し通路から逃げろ。私が民衆を止める」
「あなた、何を言っているの。一緒に逃げましょう」
「駄目だ。私が出なければ、彼らは収まらない」
アーサーは妻の肩を掴んだ。
「私は王だ。民と話し合う義務がある。きっと何かの誤解だ。説得すれば分かってもらえる」
「でも……」
「リリィを頼む。必ず守ってくれ」
アーサーは娘の頭を撫でた。
「リリィ、父はすぐに追いつく。母上と一緒に先に行っていなさい」
「お父様も来てね。約束だよ」
「ああ、約束だ」
アーサーは微笑んだ。
それが、家族で交わす最後の笑顔になるとは、誰も知らなかった。
◆◆◆
アーサーは、城の正面に立った。
眼下には、怒りに燃える民衆の群れ。
松明の炎が、夜を昼のように照らしている。
「皆の者、聞いてくれ!」
アーサーは声を張り上げた。
「私はアーサー・ヴァルゲイル。お前たちの王だ。何があったのか、話を聞かせてくれ」
「話など聞くか!」
群衆から石が飛んでくる。
アーサーの頬を掠め、血が滲んだ。
「お前は呪われている! 娘に呪いをかけられているんだ!」
「だから俺たちを見捨てたんだろう!」
「税を倍にしやがって! 俺の家族は餓死したぞ!」
「娘を出せ! あの魔女を殺せば、全てが元に戻る!」
アーサーは愕然とした。
税を倍に?
民が餓死?
何の話だ。
「待ってくれ、私はそんな命令を出していない! 何かの間違いだ!」
「嘘をつくな!」
「呪われた王の言葉など信じられるか!」
群衆の怒りは、もはや言葉では止められなかった。
彼らの目には、アーサーは「民を苦しめる暴君」としか映っていない。
長年蓄積された恨みと怒りが、一気に噴出していた。
「陛下、危険です! お下がりください!」
騎士たちが盾を構え、アーサーを守ろうとする。
けれど群衆は止まらない。
「騎士も王の手先だ! 殺せ!」
狂気に駆られた民衆が、騎士たちに襲いかかる。
武器を持たぬ民が、素手で、農具で、石で。
数の暴力が、訓練された騎士たちを圧倒していく。
「やめろ! やめてくれ!」
アーサーは叫んだ。
しかし誰も聞いていない。
目の前で、忠実な騎士たちが一人、また一人と倒れていく。
彼らの血が石畳を濡らす。
断末魔の叫びが夜空に響く。
「くっ……」
アーサーは剣を抜いた。
民を斬ることはできない。
けれどこのままでは皆殺しにされる。
せめて、妻と娘が逃げる時間を稼がなければ。
「来い! 相手になってやる!」
アーサーは、群衆の中に飛び込んでいった。
◆◆◆
隠し通路。
セレスティアは、リリアーナの手を引いて走っていた。
「お母様、お父様は大丈夫?」
「大丈夫よ。お父様は強いから」
そう言いながらも、セレスティアの心は不安で押し潰されそうだった。
あの怒号。
あの殺意。
夫は無事でいられるのか。
通路の先に、出口の光が見えた。
もう少しで外に出られる。
そこから森に逃げ込めば――
「やあ、王妃様」
光の中から、人影が現れた。
痩せぎすの長身。
鷹のような目つき。
黒いローブ。
「モルドレッド……」
セレスティアは、リリアーナを背中に庇った。
「なぜ、ここに」
「なぜ? 決まっているでしょう」
モルドレッドは、にやりと笑った。
「あなたを迎えに来たのです。王妃様」
「何を言っている」
「王は死にます。民衆に殺されるか、私が殺すか。どちらにせよ、今夜で終わりです」
モルドレッドは一歩、また一歩と近づいてくる。
「そして新しい王には、新しい妃が必要だ。あなたは私のものになる」
「狂っている……」
「狂っている? ええ、そうかもしれませんね」
モルドレッドの目が、暗い炎に燃えていた。
「あなたをずっと見ていました。あの美しさ、あの儚さ。王には勿体ない。私こそが相応しい」
「お母様……」
リリアーナが、セレスティアの服を握りしめる。
小さな身体が震えている。
「安心しろ、王女」
モルドレッドは、懐から短剣を取り出した。
「お前の苦しみは、すぐに終わる」
刹那、モルドレッドが動いた。
短剣がリリアーナに向かって突き出される。
「リリィ!」
セレスティアは、咄嗟に娘を突き飛ばした。
そして、自らが刃の前に立ちはだかる。
鮮血が飛び散った。
◆◆◆
「お……お母様……!」
リリアーナは、信じられない光景を見ていた。
母の胸から、短剣の柄が突き出ている。
白いネグリジェが、見る見るうちに赤く染まっていく。
「逃げ……なさい……リリィ……」
セレスティアは、それでもモルドレッドにしがみついていた。
刃が胸を貫いたまま、腕で男の身体を拘束している。
「逃げて……森に……お父様が……必ず……」
「お母様! 嫌! お母様を置いていけない!」
「行きなさい!」
母の悲痛な叫びが、リリアーナの足を動かした。
涙で前が見えないまま、リリアーナは走り出した。
「ち、離せ!」
モルドレッドはセレスティアを振りほどこうとする。
しかし瀕死の王妃は、驚くほどの力で離さない。
「この……!」
短剣を引き抜き、何度も何度もセレスティアを刺す。
それでも、セレスティアは離さなかった。
娘が逃げる時間を、一秒でも長く稼ぐために。
やがて、セレスティアの腕から力が抜けた。
床に崩れ落ちる王妃。
その顔には、微かな笑みが浮かんでいた。
娘は、逃げた。
それだけで、十分だった。
「くそっ……!」
モルドレッドは舌打ちし、リリアーナの後を追った。
◆◆◆
隠し通路の途中。
アーサーは、壁に寄りかかる妻を見つけた。
「セレスティア!」
駆け寄り、妻を抱き起こす。
その身体は血に塗れ、もはや息も絶え絶えだった。
「あな……た……」
「喋るな! 今、治療を――」
「間に合わない……」
セレスティアは、震える手で夫の頬に触れた。
「リリィを……お願い……森に……逃がした……」
「リリィは森に? 分かった、すぐに追いかける。だから、お前は――」
「聞いて……」
セレスティアの目から、涙が溢れた。
「嘘を……ついて……ごめんなさい……」
「嘘? 何の話だ」
「私……あなたの闇を……ずっと……取り込んで……」
アーサーは息を呑んだ。
妻のスキルは「癒し」だと思っていた。
けれど違ったのか。
「スキルを……使うたび……私も……蝕まれていた……でも……あなたに……心配かけたく……なくて……」
「セレスティア……」
「リリィが……私を……浄化して……くれていたの……だから……今まで……保てた……」
全てが繋がった。
妻が時折見せていた疲労の色。
娘が毎晩母の元に通っていた理由。
二人は、自分を守るために、秘密を抱えていたのだ。
「なぜ、言ってくれなかった……」
「あなたは……王……弱みを……見せられない……でしょう? だから……私が……」
セレスティアの目が、遠くを見つめた。
「モルドレッドが……裏切り者……彼が……全部……仕組んだ……」
「モルドレッドが……?」
妻の血が、赤い霧となってアーサーに流れ込んでくる。
途端、全てが見えた。
モルドレッドの陰謀。
ヴィクターとの結託。
偽の税。
民衆への嘘。
そして、妻を手にかけた男の歪んだ欲望。
「……っ!」
怒りで視界が赤く染まる。
けれど今は妻の傍にいなければ。
「セレスティア、しっかりしろ!」
「リリィを……」
セレスティアの手が、力なく落ちた。
「お願い……」
それが、最後の言葉だった。
「セレスティア……? セレスティア!」
返事はない。
アーサーは、冷たくなっていく妻の身体を抱きしめた。
嗚咽が漏れる。
しかし悲しんでいる時間はなかった。
リリィ。
娘を守らなければ。
アーサーは妻の遺体をそっと横たえ、森へ向かって走り出した。
◆◆◆
森の中。
リリアーナは必死に走っていた。
息が切れる。
足がもつれる。
涙で前が見えない。
それでも、走らなければ。
お母様が時間を稼いでくれた。
無駄にしてはいけない。
けれど運命は、残酷だった。
「いたぞ! 王女だ!」
松明の光が、森の中に差し込んでくる。
民衆の一部が、森に逃げ込んだ王女を追ってきていたのだ。
「逃がすな! 呪いの魔女を捕まえろ!」
リリアーナは悲鳴を上げ、さらに奥へ逃げようとした。
しかし小さな足では、大人に敵わない。
「捕まえた!」
腕を掴まれ、引き倒される。
落ち葉の上に転がり、見上げると、松明を持った男たちが取り囲んでいた。
「お願い、離して! リリィ、何も悪いことしてないよ!」
「嘘をつくな! お前が王に呪いをかけたんだろう!」
「違う! リリィは、お母様を助けてただけ!」
「母親? 王妃にも呪いをかけていたのか!」
男の顔が、憎悪に歪む。
「この悪魔め。お前のせいで、俺の家族は死んだんだ」
「知らない……リリィ、そんなこと知らないよ……」
「黙れ!」
拳が、リリアーナの頬を打った。
小さな身体が吹き飛び、木の幹に叩きつけられる。
「がっ……」
「まだだ。これだけで済むと思うな」
男たちが、次々とリリアーナに殴りかかる。
蹴り、踏みつけ、石を投げる。
幼い少女に対する暴力は、留まることを知らなかった。
「やめて……痛い……痛いよ……」
リリアーナは丸くなって耐えようとした。
けれど暴力は止まらない。
「俺の息子を返せ!」
「俺の妻を返せ!」
「お前のせいで、全部お前のせいで!」
民衆は、自分たちの苦しみを全てこの少女にぶつけていた。
重税で家族を失った怒り。
飢えに苦しんだ日々。
希望を奪われた絶望。
その全てが、無抵抗の少女に向けられていた。
白いドレスが、血で赤黒く染まっていく。
金髪が泥と血にまみれる。
紫の瞳は涙と血で滲んでいた。
美しかった王女の姿は、もはや見る影もなかった。
「まだ息があるぞ」
「しぶとい魔女だ。もっとやれ」
誰かが、鋭利な農具を持ち出した。
「苦しめ。俺たちが苦しんだ分、苦しめ」
その時だった。
「や、やめろ! 子供に何をする!」
群衆の中で、一人の老人が叫んだ。
白髪に皺だらけの顔。
村で長年畑を耕してきた、温厚な農夫だった。
「これはおかしい! いくら何でも、子供にこんなことを!」
「黙れ、ジジイ!」
若い男が老人を突き飛ばす。
老人は他の民衆に押しのけられ、地面に倒れ込んだ。
「お、お前たち……正気か……」
老人の声は震えていた。
けれど誰も聞いていない。
群衆は既に、個人の意思を失っていた。
ただ一つの巨大な憎悪の塊と化していた。
◆◆◆
森の奥から、悲鳴が聞こえた。
「リリィ!」
アーサーは、全速力で駆けた。
枝が頬を切る。
石に躓きそうになる。
それでも止まらない。
やがて、松明の明かりが見えた。
人だかりができている。
その中心に――
「リリィ!!」
アーサーは剣を抜き、民衆に斬りかかった。
もはや説得など頭になかった。
娘を傷つける者は、誰であろうと許さない。
「う、うわあああ!」
「王だ! 王が来た!」
民衆は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
アーサーは追わなかった。
今は、娘の元へ。
「リリィ……リリィ!」
駆け寄り、娘を抱き起こす。
そして、息が止まった。
変わり果てた姿だった。
全身に無数の傷。
折れた骨が皮膚を突き破っている箇所もある。
顔は腫れ上がり、元の愛らしい面影はほとんど残っていない。
白いドレスは血で真っ赤に染まり、もはや原型を留めていなかった。
「リリィ……嘘だろ……嘘だと言ってくれ……」
アーサーの声が震える。
こんなことがあっていいはずがない。
こんな理不尽が許されていいはずがない。
「……お……とう……さま……」
リリアーナの唇が、かすかに動いた。
「リリィ! 生きているのか! 待っていろ、すぐに治療を――」
「……ごめん……なさい……」
「謝ることなど何もない! お前は何も悪くない!」
リリアーナの腫れた目から、涙が溢れた。
「リリィ……お母様を……治せなかった……力が……弱くて……」
「そんなことはどうでもいい! 今はお前のことだけを――」
「お父様……」
リリアーナの手が、アーサーの頬に触れた。
その小さな手から、淡い光が漏れ出す。
「リリィ……お父様のことも……治したかった……」
「やめろ、リリィ。スキルを使うな。お前の身体が持たない」
「だから……ずっと……練習してたの……」
虹色の光が、二人を包み込む。
リリアーナの『魂の浄化』が発動していた。
「強くなって……お父様の中の……悪いものを……全部消して……」
「やめろ! やめてくれ!」
アーサーは娘の手を掴んだ。
けれどリリアーナは止めなかった。
「お父様……笑って……リリィ……お父様の笑顔……好き……」
「リリィ……」
アーサーは思い出していた。
娘が初めて歩いた日。
初めて「お父様」と呼んでくれた日。
二人で庭を歩いた、あの春の午後。
――あの笑顔を、もう一度見たい。
けれど心の奥で、分かっていた。
もう、遅い。
「約束……また……遊んで……ね……」
光が、一際強く輝いた。
そして、消えた。
リリアーナの手が、力なく落ちる。
「リリィ? リリィ!」
返事はない。
瞼が閉じられ、穏やかな表情だけが残されていた。
最期の瞬間まで、父を救おうとしていた。
それが、十歳の少女にできる、精一杯の愛だった。
「嘘だ……嘘だ……嘘だ……」
アーサーは、娘の亡骸を抱きしめた。
体温が、急速に失われていく。
妻を失った。
娘を失った。
守るべき全てを、奪われた。
なぜだ。
何が間違っていた。
民のために戦ってきた。
弱者を守ってきた。
正しく生きてきたはずだ。
それなのに、なぜ。
娘の血が、赤い霧となってアーサーに流れ込んでくる。
最後の想いが、心に刻まれる。
――お父様を助けたい。
――お父様を治したい。
――お父様の笑顔が見たい。
――大好き。
「ああああああああああああっ!!」
慟哭が、森に響き渡った。
アーサーの中で、何かが壊れた。
心の奥底に押し込めていた闇が、堰を切ったように溢れ出す。
魔物から取り込んだ憎しみ。
怨念。
絶望。
それらが、妻と娘を失った悲しみと混ざり合う。
一つの巨大な感情と化していく。
憎い。
許せない。
殺してやる。
全てを。
◆◆◆
森の中を、民衆が逃げ惑っていた。
「に、逃げろ! 王が来る!」
「殺される! 殺されるぞ!」
けれど逃げ場などなかった。
闇の中から、王が現れる。
その姿は、もはや人のものではなかった。
金髪は漆黒に染まっている。
碧眼は深紅に燃えている。
全身から黒い瘴気が立ち昇り、周囲の草木を枯らしていく。
「モルドレッドォォォォォ!」
王の咆哮が、森を震わせた。
その声を聞いた民衆は、本能的に悟った。
これは、もう王ではない。
人の形をした災厄だ。
「ひ、ひいいいいっ!」
逃げようとした男の首が、一瞬で刎ねられた。
血飛沫が舞う。
赤い霧となって、王に吸い込まれていく。
「お前たちが……お前たちが、リリィを……」
王の剣が閃くたび、民衆が倒れていく。
一人、また一人。
抵抗する間もなく。
返り血を浴びるたび、王の瘴気は濃くなる。
力は増していく。
「許さない……許さない……許さない……」
虐殺は、夜明けまで続いた。
◆◆◆
森の外れ。
モルドレッドは、その光景を遠くから見ていた。
「化け物め……想定以上だ」
民衆を王にぶつければ、消耗して倒しやすくなると思っていた。
しかし現実は逆だった。
民衆を殺すたび、王は強くなっていく。
「仕方ない。私も不死となるか」
モルドレッドは懐から小瓶を取り出した。
ヴィクターから分けてもらった、不老不死の呪いの薬だ。
一気に呷る。
刹那、激痛が全身を貫いた。
「がああああっ!」
身体が変貌していく。
皮膚が黒ずむ。
骨格が歪む。
人としての姿が、醜く変わっていく。
けれどそれと引き換えに、不死の力を得た。
「これで……殺されることはない……」
モルドレッドは立ち上がり、王の元へ向かった。
◆◆◆
「見つけたぞ、モルドレッド」
森の中央。
死体の山の上で、二人は対峙した。
「陛下……いえ、もう王ではありませんね」
モルドレッドは、醜く変貌した顔で嘲笑する。
「セレスティア様は、実に良い女でした。最期まで、娘を守ろうとしていた」
「貴様……」
「あの美しい身体を、もっと堪能したかったのですがね。惜しいことをしました」
殺意が、爆発した。
「死ねえええええ!!」
アーサーの剣が、モルドレッドを両断した。
けれど傷口はすぐに塞がる。
「無駄ですよ。私は不死だ。何度斬られても死にません」
「ならば、何度でも斬る!」
アーサーは狂ったように剣を振るった。
腕を斬り、足を斬り、首を刎ね。
そのたびにモルドレッドは再生し、嘲笑う。
「諦めなさい。あなたには私を殺せない」
「黙れ!」
激闘が続く中、アーサーは気づいた。
モルドレッドの血を浴びるたび、不思議な感覚がある。
血が霧となって自分に流れ込む。
そして――魔力が、増えていく。
「……そうか」
アーサーは剣を止めた。
「私のスキルは、血から魂を取り込む力だ」
「何を……」
「お前が不死でも、魂まで不死ではあるまい」
アーサーは、モルドレッドの胸に手を突き入れた。
「な、何を……がああああああ!」
直接心臓を掴む。
血を強制的に取り込む。
モルドレッドの血が、赤い霧となってアーサーに流れ込んでいく。
「お前を、魂ごと食ってやる」
「や、やめろ……やめてくれ……」
モルドレッドの身体が、崩れ始めた。
不死の呪いがあっても、魂が抜かれれば肉体は維持できない。
「ひ、ひいいいっ……俺は……俺は王に……」
「黙れ。お前の言葉など、聞く価値もない」
最後の血が吸い込まれ、モルドレッドは崩れ落ちた。
ただの肉塊となって、地面に転がる。
そして、アーサーはモルドレッドの記憶を全て知った。
陰謀の全容。
ヴィクターとの結託。
各地で行われた悪行。
加担した貴族たち。
民衆を騙した手口。
全てが、明らかになった。
「ヴィクター……貴様も、許さん」
◆◆◆
同じ頃。
ヴィクター・ゴールドハイム公爵は、財宝を馬車に積み込んでいた。
「急げ! もっと積め!」
状況が悪くなったと見るや、真っ先に逃げ出そうとしていた。
金さえあれば、どこでもやり直せる。
他国に逃げて、また贅沢に暮らせばいい。
「公爵様、民衆が!」
「何?」
館の外から、怒号が聞こえてくる。
「ゴールドハイムを殺せ!」
「お前も王の仲間だろう!」
民衆の一部が、公爵の館に押し寄せてきていた。
彼らはようやく気づいたのだ。
税を引き上げたのは王ではなく、この公爵だと。
「ば、馬鹿な……なぜバレた……」
「モルドレッドの使い魔が消えたのです。情報統制ができなくなりました」
「くそっ……!」
ヴィクターは懐の小瓶を取り出した。
不老不死の薬。
これを飲めば、殺されることはない。
けれど躊躇した。
飲めば、姿が醜く変貌する。
あの美しい装飾品も、贅沢な衣服も、似合わなくなる。
それは、ヴィクターにとって死よりも恐ろしいことだった。
「ま、待て! 話を聞け! 俺は味方だ!」
館に雪崩れ込んできた民衆に、ヴィクターは必死に叫んだ。
「王を倒すために協力したんだぞ! お前たちのためにやったんだ!」
「嘘をつくな!」
「お前が税を上げたんだろう!」
「俺の家族を返せ!」
民衆は聞く耳を持たなかった。
彼らは真実を求めていたのではない。
怒りをぶつける対象を求めていたのだ。
王女が死に、王が化け物となった今、新たな標的が必要だった。
「や、やめ――」
民衆が、ヴィクターに襲いかかった。
殴り、蹴り、刺し、引き裂く。
かつて彼が民衆にしてきたことが、そのまま返ってきた。
「ぎゃあああああ!」
断末魔の悲鳴が上がる。
やがて静かになった。
公爵の死体は、原型を留めていなかった。
皮肉にも、彼が蒔いた憎しみの種が、彼自身を滅ぼしたのだった。
◆◆◆
夜が明けた。
アーサーは、廃墟となった城の玉座に座っていた。
周囲には、無数の死体が転がっている。
民衆。
兵士。
騎士。
誰彼構わず殺した。
モルドレッドの記憶から、陰謀に加担した者たちの名を知った。
貴族たち。
商人たち。
役人たち。
そして、民衆を殺した者たち。
全員の居場所を突き止め、必ず殺す。
けれどそれだけでは足りない。
民衆は騙されていた。
それは分かっている。
しかし騙されたからといって、娘を殺した罪は消えない。
あの子は何も悪くなかった。
母を助けようとしていただけだった。
それなのに、あんな目に遭わせた。
許せない。
許せるわけがない。
民衆だけではない。
人間という種族そのものが信じられなくなった。
簡単に嘘を信じ、簡単に暴力を振るい、簡単に命を奪う。
そんな存在が、生きている価値があるのか。
「……全て、滅ぼしてやる」
アーサーは立ち上がった。
彼の中で、無数の魂が蠢いている。
騎士たちの魂。
魔物たちの魂。
モルドレッドの魂。
殺した民衆たちの魂。
その全てが、混ざり合い、一つの巨大な力となっていた。
瘴気が溢れ出し、城全体を包み込む。
黒い霧が立ち昇り、空を覆っていく。
英雄王アーサー・ヴァルゲイルは、この日死んだ。
そして、魔王が誕生した。
◆◆◆
夢の中で、リル・リルは声を上げて泣いていた。
純粋な愛が、歪んだ悪意によって踏みにじられた。
幸せな家族が、陰謀によって引き裂かれた。
そして、英雄が魔王へと堕ちた。
けれど夢の中の彼女には、何もできない。
ただ、見届けることしか。
涙で視界が滲む中、リル・リルは気づいた。
アーサーの中で、妻と娘の魂が静かに寄り添っている。
彼は気づいていない。
けれど二人は確かにそこにいる。
どれだけ闇に染まっても、その魂だけは失われていない。
――いつか、きっと。
リル・リルは、そう祈った。
いつか、この魂が彼を救う日が来ると。




