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どす黒い心

 陰謀は、静かに動き出した。


 ヴィクター・ゴールドハイム公爵の領地から、それは始まった。

 ある日突然、領民たちに新たな税が課せられた。


「今月より、税を倍に引き上げる。これは王の命令である」


 役人たちが村々を回り、触れを出す。

 民衆は困惑した。英雄王がそんな命令を出すはずがない。何かの間違いではないか。


「間違いなどあるものか。王城から直々に下った勅令だ」


 役人は偽の書状を掲げ、民衆を黙らせた。

 もちろん、その書状はモルドレッドが偽造したものだ。王の印璽に酷似した偽物を作るなど、宮廷魔術師の彼には造作もなかった。


 払えない者からは、容赦なく取り立てが行われた。

 家財を没収され、家を追われる者が続出する。

 それでも足りなければ、家族を人質に取られた。


「王は我々を見捨てたのか」


「英雄王など、所詮は貴族の味方だったのだ」


 民衆の間に、不満の種が蒔かれていく。


 ◆◆◆


 ヴィクターの館。

 報告を受けた公爵は、満足げに頷いた。


「順調だな。もっと絞れ、もっと苦しめろ」


「しかし公爵様、このままでは餓死者が出ます」


「構わん。死なない程度に搾り取れと言っただろう。多少死んでも、代わりはいくらでもいる」


 配下の者は顔を青くしたが、逆らうことはできなかった。

 逆らった者がどうなるか、皆知っていたからだ。


「それよりも」


 ヴィクターは葡萄酒を呷りながら、にやりと笑った。


「例の噂は広まっているか」


「は、はい。各地の酒場や市場で、密かに流しております」


「よし。もっと広めろ。王女が呪いをかけているという話をな」


 ◆◆◆


 噂は、毒のように広がっていった。


「聞いたか。王が最近、体調を崩しているらしい」


「ああ、魔物討伐に出られなくなったとか」


「原因は王女だそうだ。あの娘が、両親に呪いをかけているんだと」


 酒場で、市場で、井戸端で。

 囁きは少しずつ形を変え、尾ひれがついていく。


「王女は魔女だ。夜な夜な怪しい儀式をしているらしい」


「王妃様も最近お加減が悪いとか。きっと王女の呪いだ」


「あんな幼い娘が? まさか」


「だからこそ恐ろしいんだ。見た目に騙されちゃいけない」


 人々は不安を抱えていた。

 重税に苦しみ、生活は困窮し、明日への希望が見えない。

 そんな時、人は誰かを責めたくなる。怒りをぶつける対象を求める。

 王女という「敵」は、その格好の標的だった。


 ◆◆◆


 ある村で、一人の男が立ち上がった。


「おかしいじゃないか。英雄王がこんな酷い税を命じるはずがない」


 村の鍛冶屋だった。屈強な体躯に、正義感の強い男だ。


「俺は王都に行って、直接陛下に訴える。この税が本当に王の命令なのか、確かめてやる」


 村人たちは彼を止めようとした。危険すぎる、と。

 だが男は聞かなかった。


「このまま黙っていたら、村は潰れる。誰かが動かなきゃならないんだ」


 男は王都への道を歩き始めた。

 だが、その姿を見ている者がいた。


 ◆◆◆


 森の中で、男は襲われた。


「な、なんだお前たちは!」


 黒装束の男たちが、道を塞いでいた。

 顔は布で隠され、誰なのか分からない。


「王への直訴は許されない。ここで消えてもらう」


「くそっ、貴様ら!」


 鍛冶屋は抵抗したが、多勢に無勢だった。

 剣で斬られ、崖から突き落とされる。


「始末したか」


「はい。死体は獣に食わせます。証拠は残りません」


 黒装束の男たちは、闇の中に消えていった。


 翌日、村では鍛冶屋が行方不明になったと騒ぎになった。

 だが、誰も真相を知ることはなかった。


「王都に向かった奴は、皆消えるらしい」


「直訴しようとすると、殺されるんだ」


 恐怖が、民衆を支配していく。


 ◆◆◆


 モルドレッドの書斎。

 各地からの報告を受け、宮廷魔術師は満足げに頷いた。


「順調だ。民衆の怒りは着実に高まっている」


 机の上には、王国各地の地図が広げられている。

 赤い印がついた場所は、既に「処理」が済んだ村々だ。


「直訴しようとした者は全て始末した。王に真実が届くことはない」


 モルドレッドは窓の外を見た。

 王城の尖塔が、夕日に照らされている。


「陛下は何も知らない。民衆が苦しんでいることも、自分が憎まれ始めていることも」


 そう、アーサーは何も知らなかった。

 魔物の血を取り込み続けた影響で体調を崩し、視察に出られなくなっていた。

 城に届く報告は、全てモルドレッドの手によって改竄されている。

 「民衆は平穏です」「税収は順調です」「陛下のご回復を皆が祈っております」

 そんな嘘ばかりが、王の耳に届いていた。


「哀れな王よ。あなたが愛した民は、もうあなたを愛してはいない」


 モルドレッドは、暗い笑みを浮かべた。


 ◆◆◆


 王城。

 アーサーは寝台に横たわっていた。

 魔物の血を取り込み続けた代償が、ついに表面化していた。


 悪夢にうなされる夜が続いている。

 目を閉じれば、魔物たちの怨念が襲いかかってくる。憎しみ、絶望、狂気。それらが渦を巻いて、心を蝕んでいく。


「あなた、大丈夫ですか」


 セレスティアが、心配そうに夫の額に手を当てた。

 熱はない。だが、顔色は蒼白で、以前の精悍さは失われつつある。


「すまない、セレスティア。また心配をかける」


「いいえ。私がそばにいます。いつでも」


 セレスティアは夫の手を握り、静かにスキルを発動させた。

 『慈母の抱擁』。夫の苦しみが、彼女の身体に流れ込んでくる。


 黒い靄のようなものが、アーサーからセレスティアへと移っていく。

 それは目には見えないが、確かに存在する闇の力だった。


「……ふぅ」


 アーサーの表情が和らぐ。呼吸が穏やかになり、安らかな眠りに落ちていく。


「お休みなさい、あなた」


 セレスティアは微笑んだ。

 だが、その微笑みの裏で、彼女の身体は悲鳴を上げていた。


 ◆◆◆


 自室に戻ったセレスティアは、壁に手をついて荒い息をついた。


「……っ、はぁ、はぁ……」


 胸の奥が、焼けるように痛い。

 取り込んだ闇が、内臓を蝕んでいるような感覚。

 最近は、立っているのも辛くなってきた。


「お母様!」


 小さな足音が駆け寄ってくる。

 リリアーナが、心配そうな顔で母を見上げていた。


「お母様、また苦しそう。リリィがすぐに楽にするね」


「リリィ……ありがとう」


 セレスティアは娘を抱きしめた。

 この子がいなければ、自分はとっくに倒れていただろう。


 リリアーナは母の手を握り、目を閉じた。

 『魂の浄化』が発動する。淡い虹色の光が、二人を包み込む。


 セレスティアの身体から、黒い靄が少しずつ消えていく。

 完全には消えない。リリアーナの魔力では、まだ力が足りない。

 だが、それでも確実に効果があった。


「ふぅ……楽になりました。ありがとう、リリィ」


「えへへ、リリィ、もっと強くなるね。お母様を全部治せるように」


 リリアーナは嬉しそうに笑った。


「毎日練習してるの。魔力をもっともっと強くするの。そしたら、お母様もお父様も、リリィが守ってあげる」


「……ええ、リリィは優しい子ね」


 セレスティアは娘の頭を撫でた。

 この子に、こんな重荷を背負わせたくなかった。

 だが、他に方法がない。夫を守るためには、自分が闇を引き受けるしかない。そして自分を守るためには、娘の力を借りるしかない。


 この連鎖は、いつまで続くのだろう。

 セレスティアは、不安を押し殺して微笑み続けた。


 ◆◆◆


 だが、この光景もまた、見られていた。


 部屋の片隅に止まった小さな虫。

 モルドレッドの『影の瞳』が、全てを記録していた。


「毎日毎日、律儀なことだ」


 書斎で、モルドレッドは嗤った。


「妃は王の闇を取り込み、娘は妃を浄化する。この連鎖が続く限り、王は死なない」


 それは都合が悪かった。

 王が死んでくれれば話は早いが、妃のおかげで延命している。


「だが、逆に考えれば」


 モルドレッドは顎に手を当てた。


「妃を排除すれば、王は一気に崩壊する。そして娘は……そうだな、民衆に殺させるのが一番だ」


 王女が呪いをかけているという噂は、既に広まっている。

 あとは、民衆の怒りを爆発させるだけだ。


「ヴィクター公爵。そろそろ、最終段階に移りましょうか」


 モルドレッドは、羊皮紙に密書をしたためた。


 ◆◆◆


 数週間後。

 民衆の怒りは、臨界点に達しようとしていた。


 税はさらに引き上げられ、もはや生きていくのがやっとの状態だ。

 餓死者も出始めている。それでも取り立ては容赦なく続く。


「もう限界だ」


「このままでは、皆死んでしまう」


「王は何をしている。なぜ我々を救ってくれない」


 怒りは、やがて憎しみへと変わっていった。


 そんな中、ある噂が決定打となった。


「聞いたか。王女の呪いのせいで、王は正気を失っているらしい」


「だから民のことなど考えられないんだ」


「王女さえいなければ、王は元に戻る。我々を救ってくれる」


「そうだ、王女が諸悪の根源だ」


「王女を殺せば、全てが元通りになる」


 誰が最初に言い出したのか、もう分からない。

 だが、その言葉は燎原の火のように広がっていった。


 ◆◆◆


 ヴィクターの館。

 モルドレッドとヴィクターは、最後の打ち合わせをしていた。


「準備は整った。民衆は限界だ。あと一押しで、城に押し寄せるだろう」


「よかろう。で、その一押しとは?」


 モルドレッドは不気味に笑った。


「明日、私が民衆の前で演説します。『王女の呪いを見た』と証言するのです」


「なるほど。宮廷魔術師の言葉なら、信憑性がある」


「ええ。そして私は言います。『王を救うためには、王女を排除するしかない』と」


 ヴィクターは喉を鳴らして笑った。


「面白い。だが、衛兵はどうする。城を守る兵がいるだろう」


「衛兵の一部は、既に買収済みです。城門を開けさせます」


「用意周到だな」


「この日のために、何年も準備してきましたから」


 モルドレッドの目が、狂気に燃えていた。


「明日で全てが終わる。王座は私のものになり、妃も私のものになる」


「妃? お前、あの女が欲しいのか」


「ええ。あの美しさ、あの儚さ。ずっと欲しかった」


 モルドレッドは舌なめずりをした。


「王を殺し、娘を殺し、そして妃を手に入れる。それが私の望みです」


 ヴィクターは肩をすくめた。


「好きにしろ。俺は金と権力さえ手に入ればいい」


「では、明日。歴史が変わる日に」


 二人は杯を掲げ、禍々しい乾杯を交わした。


 ◆◆◆


 その夜。

 王城では、いつもと変わらぬ夜が過ぎようとしていた。


 アーサーは、久しぶりに穏やかな眠りについていた。

 セレスティアの献身のおかげで、悪夢に苛まれることもなく、静かに眠っている。


 セレスティアは、娘と共に自室にいた。

 リリアーナの浄化を受け、少しだけ楽になった身体で、娘を寝かしつけていた。


「お母様、明日は何して遊ぶ?」


「そうね。お庭でお花を摘みましょうか」


「うん! リリィ、お花大好き! お父様にも見せてあげるの」


「ええ、お父様も喜ぶわ」


 リリアーナは嬉しそうに笑い、やがて眠りに落ちた。

 セレスティアは娘の寝顔を見つめ、そっと額に口づけた。


「おやすみなさい、リリィ。良い夢を」


 窓の外では、月が静かに輝いていた。

 明日も、平和な一日が来ると信じて。

 誰もが、そう思っていた。


 ◆◆◆


 だが、闇は既に城を取り囲んでいた。


 王都の外れ、広場に集まった群衆。

 松明の炎が、夜空を赤く染めている。

 その中心に、モルドレッドが立っていた。


「聞いてくれ、民衆たちよ!」


 モルドレッドは声を張り上げた。


「私は宮廷魔術師として、長年王に仕えてきた。だが、もう黙っていられない。真実を伝えなければならない」


 群衆がざわめく。


「王女リリアーナは、両親に呪いをかけている! 私はこの目で見た! 夜な夜な、禍々しい儀式を行い、王と王妃の魂を蝕んでいるのだ!」


「やはりそうだったのか!」


「だから王は我々を見捨てたんだ!」


 群衆の怒りが爆発する。


「王を救うためには、呪いの元凶を断つしかない! 王女を排除するのだ!」


「王女を殺せ!」


「城に乗り込め!」


 群衆は、怒涛のように城へ向かって動き出した。

 松明の波が、夜の王都を埋め尽くしていく。


 モルドレッドは、その光景を見て嗤った。


「さあ、始まりだ。英雄王の終わりが」


 ◆◆◆


 夢の中で、リル・リルは叫んでいた。

 止めて。お願い止めて。

 彼らは騙されている。王女は呪いなどかけていない。

 母を救おうとしていただけなのに。


 だが、彼女の声は誰にも届かない。

 これは過去の記憶。既に起きてしまったこと。

 リル・リルにできるのは、ただ見届けることだけだった。


 悲劇の幕が、今まさに上がろうとしていた。


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