血の継承
――心に入ると、夢を見ているような感覚になる。
リル・リルは、自分が心の夢にいることを自覚していた。
けれど、これはただの夢ではない。
誰かの記憶だ。
遠い過去の、血と慟哭に満ちた記憶。
彼女の魔眼が封印された魔王の残滓に触れてしまったのか。
それとも、魔王自身が見せているのか。
答えは分からない。
ただ一つ確かなのは――この光景が、かつて確かに存在した真実だということ。
◆◆◆
森が燃えていた。
アーサー・ヴァルゲイルは、倒れた騎士の傍らに膝をついていた。
周囲には討伐隊の亡骸が散らばっている。
精鋭二十名。
そのすべてが、たった一体の魔物によって屠られた。
巨大な剣を携えた、鎧姿の魔物。
人の怨念が凝り固まって生まれた化け物。
その化け物は、今しがたアーサーの剣によって両断された。
黒い霧となって、消えてゆく。
しかし、勝利の代償はあまりにも大きかった。
「……なぜ、余を庇った」
アーサーは、腕の中の騎士に問いかけた。
騎士の名はガレス。
王直属の近衛騎士であり、十年来の戦友でもあった。
魔物の必殺の一撃。
それを、ガレスは己の身体で受け止めたのだ。
「王を……守ることこそが……」
ガレスの声は、すでにかすれていた。
鎧の隙間から溢れる血が、アーサーの手を濡らしてゆく。
「私の……任務であり……誇り、です」
「馬鹿者が」
アーサーは歯を食いしばった。
王として、感情を露わにすることは許されない。
けれど今この瞬間、彼はただの人間だった。
「死ぬな。お前の死を悲しむ者がいるのだぞ」
「王よ……私は、独り者です」
ガレスの唇が、かすかに笑みの形を作った。
「悲しむ者など……おりませぬ。あの日、王に救っていただいて以来……この命は、王のもの」
「悲しむ者がいないなどと言うな」
アーサーの声が震えた。
「この私が――お前との別れを、辛くないと申すか」
ガレスの目が見開かれた。
そこに浮かんだのは、驚きと、そして深い感謝の色。
「ああ……王よ……」
血に塗れた手が、アーサーの頬に触れる。
「願わくば……たとえ、この身が滅んでも……魂となって……御身の、そばに……」
その手から、力が抜けた。
ガレスの瞳から光が消える。
瞼がゆっくりと閉じられた。
「…………」
アーサーは、動かなくなった騎士を抱きしめた。
周囲には他の騎士たちの遺体も横たわっている。
皆、最後まで王を守ろうとした者たちだ。
彼らの無念が、アーサーの胸を締めつける。
「ああ――その望み、叶えよう」
アーサーは、静かに誓った。
「共に歩んでくれ。余と共に。そなたらの流した血は、決して無駄にはしない」
その瞬間だった。
虹色の光が、アーサーの身体を包み込んだ。
「これは……」
眩い輝きが視界を満たす。
身体の奥底から、何かが目覚める感覚。
神の祝福――固有スキルの発現だ。
光が収まると同時に、不思議な現象が起きた。
アーサーの手を濡らしていたガレスの血が、赤い霧となって立ち昇る。
そして、その霧がアーサーの身体に吸い込まれていった。
「……っ」
刹那、ガレスの想いが流れ込んでくる。
王への忠誠。
民を守りたいという願い。
仲間たちへの感謝。
そして――死してなお王と共にありたいという、最後の祈り。
「ガレス……」
アーサーは、自分の手を見つめた。
ガレスの血は跡形もなく消えている。
それでも、彼の魂は確かにここにある。
己の内に。
ふと、他の騎士たちの遺体に目を向ける。
彼らもまた、血を流していた。
その血もまた、赤い霧となってアーサーの元へ集まってくる。
「……感じるぞ」
アーサーは、両手を握りしめた。
騎士たちの想いが、身体中を駆け巡る。
王を守れという意志。
民を救えという願い。
悪しきものを打ち倒せという覚悟。
「共に歩もう。我が生命果てるまで、この身に刻もう」
血の継承。
それが、アーサー・ヴァルゲイルに与えられた神の祝福だった。
◆◆◆
王都ヴァルゲイルに、不穏な報せが届いた。
近隣の村々で魔物が出没し、被害が拡大しているという。
騎士団でも対処できる相手ではあったが、今回現れたのはボスクラスの強敵だった。
「陛下、私どもが参ります。どうか王自らお出ましになる必要は」
騎士団長が進言する。
けれどアーサー・ヴァルゲイルは首を横に振った。
「民が苦しんでいる。王が先頭に立たねば、誰が続く」
金髪碧眼の精悍な顔に、揺るぎない意志が宿っている。
英雄王。
民を愛し、自ら剣を取って戦う理想の君主。
その名は国内外に轟き、人々の希望となっていた。
「行ってくるぞ、セレスティア」
出陣の前、アーサーは妻の元を訪れた。
銀髪に淡い紫の瞳。
儚げな美しさを持つ王妃は、穏やかに微笑んだ。
「お気をつけて、あなた」
「お父様!」
幼い声が響き、小さな影が駆け寄ってくる。
金髪に紫の瞳。
十歳になる王女リリアーナだ。
「リリィもお父様と一緒に行く! 悪い魔物をやっつけるの!」
「はは、リリィはまだ早いな」
アーサーは娘を抱き上げ、額に口づけた。
「お前は母上を守っていてくれ。それが、リリィの大事な任務だ」
「うん! リリィ、お母様を守る!」
元気よく頷く娘を見て、アーサーとセレスティアは顔を見合わせて微笑んだ。
この幸せを守るために戦う。
それが、アーサーの原動力だった。
◆◆◆
森の中、魔物との戦いは熾烈を極めた。
巨大な猪の姿をした魔物。
全身が黒い瘴気に覆われ、赤い眼が憎悪に燃えている。
騎士たちが次々と吹き飛ばされる中、アーサーだけが正面から立ち向かった。
「はあああっ!」
渾身の一撃が、魔物の首を両断する。
黒い霧となって消えゆく魔物。
その血飛沫がアーサーに降りかかった。
瞬間、血が赤い霧となり、アーサーの身体に吸い込まれていく。
「……っ」
流れ込んでくる。
憎しみ。
怨念。
絶望。
魔物とは、人々の負の感情が魔力と反応して生まれた存在だ。
その血には、生前の苦しみが凝縮されている。
アーサーは胸を押さえ、荒い息をついた。
最初にこの力を得た時は、仲間の想いを受け継ぐ祝福だと思った。
けれど魔物の血は違う。
取り込むたびに、心が少しずつ蝕まれていく。
「陛下、ご無事ですか!」
騎士たちが駆け寄ってくる。
アーサーは表情を繕い、立ち上がった。
「ああ、問題ない。皆も怪我はないか」
王として、弱みは見せられない。
この苦しみは、誰にも知られてはならない。
アーサーは、そう己に言い聞かせていた。
◆◆◆
それでも、見ている者がいた。
森の木陰に、一匹の虫が止まっている。
何の変哲もない小さな虫。
しかしその複眼は、アーサーの一挙一動を捉えていた。
◆◆◆
王城の一室。
薄暗い書斎で、モルドレッド・シャドウクロスは目を閉じていた。
痩せぎすの長身に、鷹のように鋭い目つき。
黒いローブを纏った宮廷魔術師だ。
彼の固有スキル『影の瞳』は、影を媒介にして離れた場所を覗き見る力。
召喚した小さな虫を目や耳として使い、王国中の秘密を収集していた。
「ほう……」
モルドレッドの唇が、薄く歪んだ。
「陛下は何やら苦しんでおられるようだ。魔物の血を取り込むと、ああなるのか」
野心の炎が、その瞳に灯る。
モルドレッドは、壁に掛かった鏡を睨んだ。
痩せぎすの頬。
鷹のような目つき。
貴族らしい優雅さなど、どこにもない。
「……結局、俺は『没落貴族』か」
彼は唇を噛んだ。
幼い頃から、周囲は彼を蔑んだ。
金もない、地位もない、才能だけが取り柄の男。
それでも必死に這い上がってきた。
宮廷魔術師の地位を得た。
なのに――なぜまだ満たされない。
なぜアーサーだけが全てを持っているのか。
王座も、美しい妻も、愛らしい娘も。
民からの敬愛も、騎士たちの忠誠も。
「いずれ、全て奪い取ってやる」
モルドレッドは、密かにそう誓った。
◆◆◆
同じ頃。
王都から遠く離れた領地で、もう一人の男が暗躍していた。
ヴィクター・ゴールドハイム公爵。
肥満体に脂ぎった顔。
常に高価な装飾品を身につけた、強欲の権化のような男だ。
「もっと搾り取れ。民など、金を稼ぐための道具に過ぎん」
薄暗い部屋で、ヴィクターは配下の者たちに命じていた。
「税を上げろ。王の命令だと言え。逆らう者は始末しろ」
「しかし公爵様、これ以上は民が……」
「知ったことか」
ヴィクターは葡萄酒を呷りながら、下卑た笑みを浮かべた。
「あの英雄王とやらが気に入らんのだ。民に慕われ、正義を振りかざし、俺たちの商売を邪魔しおって」
悪徳貴族たちは、魔物を利用して私腹を肥やしていた。
魔物が現れれば、民は怯え、貴族に頼る。
討伐費用の名目で金を巻き上げ、裏では魔物を召喚して被害を拡大させる。
そんな悪辣な循環を、ヴィクターは長年続けてきた。
「それでも、あの王がいる限り、大きな商売はできん」
ヴィクターは、懐から小瓶を取り出した。
禍々しい紫色の液体。
闇市場で手に入れた、不老不死の呪いを宿す薬だ。
「これを使えば、死なぬ身体が手に入る。しかし……」
副作用として、姿が醜く変貌するという。
虚栄心の強いヴィクターは、まだ使う決心がつかなかった。
「時が来れば、使う時も来よう」
小瓶を懐に戻し、ヴィクターは不気味に笑った。
◆◆◆
そしてある日、二人の悪党が手を結んだ。
モルドレッドがヴィクターの領地を訪れたのは、偶然ではない。
『影の瞳』で各地の情報を集める中、この公爵の悪行を掴んでいたのだ。
「ゴールドハイム公爵。取引をしませんか」
「取引だと? 宮廷魔術師殿が、何の用だ」
警戒するヴィクターに、モルドレッドは薄く笑った。
「私は王座が欲しい。あなたは金と権力が欲しい。利害は一致しているかと」
「……ほう」
ヴィクターの目が、強欲の光を帯びた。
「続けろ」
「王は魔物の血を浴びるたびに、心を蝕まれています。放っておいても、いずれ狂うでしょう。しかし、それでは遅い」
モルドレッドは、蛇のような笑みを浮かべた。
「もっと魔物を増やしましょう。私が魔物を召喚します。王をさらに追い詰めるのです」
「なるほど。それで王が倒れれば……」
「私が王座を継ぎ、あなたを宰相に据える。税は思いのまま、民は好きに搾り取れる」
ヴィクターは喉を鳴らして笑った。
「良い話だ。しかし、王は強いぞ。狂ったとて、あの剣技は健在だ」
「ご心配なく」
モルドレッドは目を細めた。
「王には、弱点がある。妃と娘です。あの二人さえ排除すれば、王は崩れる」
「娘か。あの可愛らしい王女を?」
「ええ。まずは民衆を煽りましょう。『王女が両親に呪いをかけている』と」
ヴィクターは一瞬、眉をひそめた。
けれどすぐに下卑た笑みが戻る。
「面白い。やってみろ」
こうして、二人の悪党による陰謀が始まった。
◆◆◆
王城。
討伐から戻ったアーサーを、セレスティアが出迎えた。
「お帰りなさい、あなた。お怪我はありませんか」
「ああ、大したことはない」
アーサーは笑顔を見せた。
しかしセレスティアの目は誤魔化せなかった。
夫の顔色が悪い。
魔物討伐のたびに、少しずつ憔悴していくのが分かる。
「あなた、少しお休みになって。私が楽にしてさしあげます」
セレスティアは、そっとアーサーの手を取った。
彼女の固有スキル『慈母の抱擁』が発動する。
淡い光と共に、アーサーの苦しみがセレスティアの身体に流れ込んでいく。
「……セレスティア」
「大丈夫です。私は平気ですから」
微笑むセレスティア。
けれど彼女の身体は、内側から蝕まれていた。
夫から取り込んだ闇が、少しずつ彼女を蝕んでいることを、アーサーは知らない。
セレスティアは、夫に心配をかけたくなかった。
だから、何も言わずに微笑み続けた。
◆◆◆
その夜。
王女リリアーナは、母の部屋をそっと覗いていた。
「お母様……?」
母が苦しそうに胸を押さえている。
父といる時は元気そうなのに、一人になると辛そうな顔をする。
最近、ずっとそうだ。
「お母様、大丈夫?」
リリアーナが駆け寄ると、セレスティアは慌てて笑顔を作った。
「リリィ。起きていたの? 大丈夫よ、少し疲れただけ」
「嘘。お母様、ずっと苦しそう」
幼いながらも、リリアーナは母の異変に気づいていた。
紫の瞳に、涙が滲む。
「リリィ、お母様を助けたい。お母様から悪いものを取って、元気にしたい」
「リリィ……」
セレスティアは娘を抱きしめた。
この優しい子に、何も背負わせたくない。
そう思っていた。
それでも、運命は残酷だった。
数日後、セレスティアは倒れた。
取り込んだ闇が限界を超え、意識を失ったのだ。
「お母様! お母様!」
リリアーナは母の手を握りしめ、心から祈った。
「お願い、お母様を助けて。お母様から悪いものを消して。元気なお母様に戻して」
その瞬間、リリアーナの身体から虹色の光が溢れた。
神の祝福。
固有スキルの発現。
「……リリィ?」
セレスティアが目を開けた。
身体が軽い。
胸を締めつけていた闇が、薄れている。
「お母様!」
リリアーナは泣きながら母に抱きついた。
「リリィ、お母様を助けられた? 悪いものを消せた?」
セレスティアは娘を抱きしめ、涙を流した。
娘に授かった力は『魂の浄化』。
闇に染まった魂を、少しずつ元の状態に戻す能力。
ただし、リリアーナの魔力はまだ弱い。
完全な浄化には至らないが、それでも確かに効果があった。
「ありがとう、リリィ。でも、これはお母様とリリィだけの秘密よ」
「秘密?」
「ええ。お父様には内緒。心配をかけたくないの」
「うん、分かった。お母様との約束、守るね」
リリアーナは元気よく頷いた。
それから毎日、娘は母の手を握り、浄化の力を使った。
娘なりに一生懸命、母を助けようとする。
「えへへ、今日はリリィの魔法、もっと強くなったよ!」
娘は誇らしげに胸を張った。
セレスティアは微笑んで、娘の頭を撫でる。
「本当ね。リリィはすごいわ」
「えへへ。お母様のためなら、リリィは何でもできるもん!」
その無邪気な笑顔が、セレスティアの胸を刺した。
この子は、何も知らない。
母が背負っている闇のことも、父が抱える苦悩のことも。
そして母は毎日、父の闇を取り込み続けた。
この秘密の連鎖が、やがて悲劇を招くことになるとは、誰も知らなかった。
◆◆◆
しかし、それを見ている者がいた。
部屋の片隅に、一匹の虫が止まっている。
モルドレッドの『影の瞳』が、全てを捉えていた。
「なるほど、なるほど……」
書斎で、モルドレッドは暗い笑みを浮かべた。
「妃は王の闇を取り込み、娘は妃を浄化している。面白い。実に面白い」
これは使える。
王女が両親に「呪いをかけている」という嘘を広めようとしていた。
けれど真実は違う。
王女は母を「浄化している」のだ。
しかし、民衆にそんな区別がつくだろうか。
「王女が両親に何かしている」という事実さえあれば、いくらでも捻じ曲げられる。
「ヴィクター公爵。そろそろ、計画を進める時が来たようだ」
モルドレッドは、闇の中で嗤った。
◆◆◆
夢の中で、リル・リルは震えていた。
純粋な愛が、歪んだ悪意によって踏みにじられようとしている。
彼女には、その結末が見えていた。
けれど夢の中の彼女には、何もできない。
ただ、見届けることしか。




