襲撃
血の匂いが、風に乗って漂っていた。
飯場勇二郎は、崩れた家の瓦礫の中で妻の名を叫んでいた。
「ミルキラ……ミルキラ!」
返事はない。
彼女の胸には、深紅の穴が開いていた。赤い花が、胸元に咲いている。
空を見上げる。
黒い翼を広げた影が、太陽を遮って去ってゆく。
「待て……待てぇ……!」
声は届かない。
――どうして、こんなことに。
◆◆◆
【十六年前、春】
小さな産声が、部屋に響いた。
「……生まれたぞ」
勇二郎は震える手で、妻の額の汗を拭った。
ミルキラは疲れ切った顔で微笑み、そっと赤ん坊を抱き上げる。
「仲斗……」
彼女が呟いた。
「この子の名は、仲斗」
「いい名だ」
勇二郎は頷き、そっと息子の小さな手に指を触れる。
赤ん坊の指が、父の指をぎゅっと握った。
その瞬間、勇二郎の目から涙が溢れた。
「……守る」
勇二郎は呟く。
「この子を。お前を。何があっても、絶対に」
「ええ」
ミルキラが微笑んだ。
「あなたとなら、どんな未来も怖くない」
二人は抱き合い、小さな命を包み込む。
窓の外では、春の風が優しく吹いていた。
それから、幸せな日々が続いた。
仲斗はすくすくと育ち、やがて笑うようになった。父の顔を見ては、きゃっきゃと笑う。母の腕の中で、安らかに眠る。
ある日の午後。
庭で仲斗を抱いていた勇二郎は、息子の笑顔を見つめていた。
小さな手が、父の髭に触れる。くすぐったそうに、仲斗が笑った。
「あはっ……あはははっ……!」
無邪気な笑い声。
勇二郎も笑う。
突然。
ごおおおおおおおっ……!
空気が、震え、世界が暗転する。
幸せな思い出が消えてゆく……
◆◆◆
【現在】
人里離れた村に、影が落ちた。
飯場勇二郎は空を見上げ、息を呑んだ。
巨大な翼を広げた黒い影が、太陽を遮って降下してくる。
その姿を、二十年前に見た。忘れるはずがない。
「ミルキラ、逃げろ!」
魔王が着地する。
その衝撃だけで、勇者の家は吹き飛んだ。木片と土埃が舞い上がり、視界を塞ぐ。勇二郎は咄嗟にミルキラを庇い、地面に伏せた。
耳を劈く轟音。
背中に瓦礫が降り注ぐ。
――魔剣は。
勇二郎は反射的に壁に掛けた魔剣へと向かう。
しかしそこに魔剣が無い。
「くそっ……!」
土煙の中、必死に周囲を探る。
瓦礫の山。倒壊した柱。砕けた屋根。
そして――魔剣の柄が、わずかに見えた。
瓦礫の下。手の届かない場所。
「久しいな、勇者」
低く、深い声が響く。
土煙の中から、深紅の瞳が二つ、燃えるように輝いていた。
「二十年か。お前にとっては、たった二十年」
魔王が一歩、踏み出す。
その足音だけで、大地が震えた。
「余にとっては、三百年だ」
「ヴァルゲイル……!」
勇二郎は立ち上がり、ミルキラを背に庇う。
魔剣に手を伸ばそうとした。だが、魔王が笑う。
「魔剣を探しているのか?」
魔王の口元が、歪んだ。
「無駄だ。貴様がそれを取りに行く前に――彼女は死ぬ」
「あなた、私が――」
「駄目だ! お前は下がっていろ!」
ミルキラを制し、勇二郎は拳を構えた。
魔剣には手が届かない。しかし戦わねばならない。この女を、守らねばならない。
「ほう」
魔王が、わずかに目を細める。
「魔剣を持たずに余に挑むか。蛮勇だな」
「黙れ。お前を倒して封印する」
「そうだな」
魔王の視線が、勇二郎の背後に向けられる。
ミルキラへと。
「だがその前に――貴様から始末する」
「裏切り者の魔族よ」
その声には、憎悪が滲んでいた。
「同胞を売り、人間に与した愚か者。お前の施した封印を破るのに、三百年かかった」
「私は……あなたを止めなければならなかった」
ミルキラが、震える声で答える。
「あなたは間違っている。憎しみに囚われて、無関係な人々まで――」
「黙れ」
魔王の声が、空気を震わせた。
「貴様に何がわかる」
深紅の瞳が、炎のように燃え上がる。
「余の苦しみが。余の絶望が。貴様ごときに」
「余を三百年も封じた報い――その身で味わえ」
魔王が、腕を振り上げた。
「させるかぁっ!」
勇二郎が飛び出す。
拳に闘気を纏い、魔王の顔面へと叩き込む。だが――届かない。魔王は片手で勇二郎の拳を受け止め、そのまま握り潰すように力を込めた。
「がっ……!」
骨が軋む音が響く。
「人類最強の剣豪といえど、剣が無ければ敵ではない」
魔王が、冷たく呟いた。
「貴様に魔力など使うまでもない」
魔王の膝が、勇二郎の腹部に突き刺さる。
肺から空気が押し出され、勇二郎は血反吐を吐きながら吹き飛んだ。
「あなたっ!」
ミルキラが叫ぶ。
その瞬間、魔王が動いた。
閃光のような速さ。気づいた時には、魔王の爪がミルキラの胸を貫いていた。
「――あ」
ミルキラの口から、小さな声が漏れる。
赤い花が、胸元に咲いた。
「ミルキラァァァァァッ!」
勇二郎の絶叫が、村中に響き渡った。
◆◆◆
魔王は、爪を引き抜いた。
ミルキラの身体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
「やめろぉぉぉっ!」
勇二郎が駆け寄ってくる。
身体は満身創痍。だが、その目には狂気が宿っていた。
「殺す……殺してやる! 絶対に殺してやるぞ、ヴァルゲイル!」
拳が繰り出される。蹴りが放たれる。
だが、そのどれもが魔王には届かない。軽く払われ、弾かれ、躱される。
「これが、勇者か」
魔王の声には、失望が滲んでいた。
「余を倒した男が、この程度か」
勇二郎の拳を掴み、捻り上げる。
肩の関節が、嫌な音を立てて外れた。
「ぐあっ……!」
「魔剣を持たぬお前など、余の皮膚に傷一つ付けられん」
魔王は勇二郎を地面に叩きつけ、その首を踏みつけた。
「お前に、余を殺せはせぬよ」
「ぐ……っ、ミルキラ……ミルキラ……」
「哀れだな」
魔王は、静かに呟いた。
「かつての強敵が、こうも堕ちるとは」
魔王は足を退け、勇二郎を見下ろした。
這いつくばり、それでも妻の元へ行こうともがく男の姿。それは、かつて魔王を追い詰めた英雄の姿ではなかった。
「……つまらん」
魔王の口から、ため息が漏れた。
「ここで野たれ死ぬが相応しい」
踵を返す。
「待て……どこへ……」
「王都だ」
魔王は振り返らずに答えた。
「討伐軍とやらがいるのだろう。そちらの方が、まだ楽しめそうだ」
「待て……待てぇ!」
勇二郎は立ち上がろうとする。だが、身体が言うことを聞かない。魔王の背中を追おうとして、膝から崩れ落ちる。
「くそ……くそっ……!」
這いずるようにして、ミルキラの元へと向かう。
「ミルキラ……ミルキラ!」
妻の身体を抱き起こす。
胸の傷からは、とめどなく血が流れていた。だが、まだ息がある。微かに、胸が上下している。
「しっかりしろ! 死ぬな! 頼むから……!」
勇二郎の目から、涙が溢れ出す。
「俺が……俺が弱いばっかりに……!」
その時、空気が揺らいだ。
ばちん、と音がして、勇二郎のすぐ傍に人影が現れる。
緑色の髪に、樹皮のような肌。人の姿をしているが、その存在感は人間のそれではない。
「校長……先生……」
「無事か、勇二郎」
アーカンダム・ユグドラシルは、静かな声で言った。
「揺れを感じて来てみれば……最悪の事態じゃな」
「ミルキラを……ミルキラを助けてくれ! 頼む!」
「落ち着け。まだ息はある」
校長は跪き、ミルキラの傷を確認する。
「神殿に運べば、助かる可能性はある。だが急がねばならん」
「頼む……何でもする……だから……」
「お主は休め。ここは儂に任せるのじゃ」
校長の手が、ミルキラの身体に触れる。
淡い光が二人を包み込む。転送魔法の準備だ。
「魔王は……どこへ向かった」
「王都だ……討伐軍を……」
「そうか」
校長の顔が、険しくなる。
「勇二郎。お主の息子は、儂の学園におる。必ず守る。だから今は――」
「仲斗を……頼む……」
それだけ言うと、勇二郎の意識は闇の中に沈んでいった。
◆◆◆
王都ソラリス。
レグルス王国の中枢にして、大陸最大の都市。その城壁の前に、討伐軍が整列していた。
魔王復活の報を受け、急遽編成された精鋭部隊。
騎士団、魔法使い、神官、冒険者。総勢三千の軍勢が、魔王を迎え撃つために集結していた。
「来たぞ! 空だ!」
見張りの叫びが響く。
全員が空を見上げる。黒い影が、太陽を遮って降下してくる。
魔王ヴァルゲイル。
たった一人で、三千の軍勢の前に降り立った。
「止まれ、魔王!」
将軍が剣を抜き、叫ぶ。
「ここから先は通さん! 我らレグルス王国討伐軍が、貴様を討ち取る!」
魔王は、将軍を一瞥した。
そして、小さく笑う。
「三千か」
魔王が、腕を広げた。
「足りんな」
魔王の全身から、黒い靄が噴き出す。
それは瞬く間に広がり、軍勢全体を覆い尽くした。
「な、何だこれは……!」
「闇だ! 闇属性の魔法だ!」
「光魔法で払え! 早く!」
光属性の魔法使いたちが、一斉に魔法を放つ。
だが、闇は消えない。むしろ、光を飲み込んで膨張してゆく。
「無駄だ」
魔王の声が、闇の中に響く。
「余の闇は、光程度では払えん」
闇の中で、何かが蠢く。
兵士たちの悲鳴が、あちこちから聞こえ始めた。
「ぎゃあああっ!」
「助け……がっ……!」
「何が起きて……うわああああっ!」
闇の中から、血飛沫が上がる。
騎士の鎧が、内側から引き裂かれる。魔法使いの首が、闇から伸びた何かに掴まれ、ぐるりと回転した。
魔王が動いているのだ。
誰にも見えない速さで、兵士たちを斬り裂いている。
一分。
たった一分で、三千の軍勢は壊滅した。
闇が晴れた時、そこに立っているのは魔王だけだった。
足元には、無数の屍が折り重なっている。血の海が、石畳を染め上げていた。
魔王は、自らの手についた血を見下ろした。
そして、舌でゆっくりと舐め取る。
「……やはり、足りん」
魔王の瞳が、王都の城壁を見据える。
「この程度の兵では、腹の足しにもならん」
踵を返す。
「どこに行けば、強者がいる」
魔王は空を見上げ、遠くを見据えた。
その視線の先には、大陸の中央部がある。
「魔法学園か」
魔王の口元に、笑みが浮かんだ。
「勇者を育てる学び舎。そこになら、多少はマシな者がいるかもしれん」
魔王の背中から、再び翼が展開する。
「待っていろ、雛鳥ども」
魔王は空へと舞い上がった。
「お前たちの命で、余の力を満たしてやる」
黒い影が、王都の空を横切ってゆく。
その行き先は――アーカンダム魔法学園。
災厄が、学園へと向かっていた。




