魔王復活
世界が、震えた。
地の底から響く重低音が大気を揺らす。魔王城遺跡の最奥、長き沈黙を守り続けた封印の間に、ひび割れが走った。
巨大な水晶の表面を、蜘蛛の巣のような亀裂が這い回る。
ぱきん、と乾いた音を立てて、一片が剥がれ落ちた。
その瞬間――水晶の内側から、どろりと赤黒い液体が溢れ出す。
血ではない。あまりにも濃密な魔力が、物質として顕現したものだ。粘性を持ったそれは水晶の表面を伝い、石畳へと滴り落ちる。
腐臭と、焦げた肉の匂いが混じったような悪臭が立ち込めた。
液体は意志を持つかのように広がり、床一面を覆ってゆく。
やがて、その中心が盛り上がった。
ずるり。
血溜まりから、腕が生えた。
肘まで現れた二本の腕は天を掴むように伸び、指先が大きく開く。爪の一本一本が、鋭く歪んだ形をしていた。
両腕が折れ曲がり、床を掴む。
ぐぷ、と水音を立てて頭部が浮かび上がった。髪のない頭蓋。閉じられた瞼。表情のない顔。
腕に力が込められ、首が、肩が、背中が、次々と液体の中から這い出してくる。
這い出す動きは緩慢で、しかし止まることを知らない。まるで墓穴から蘇る死者のように、その存在は現世へと帰還を果たした。
膝をついた姿勢のまま、それは動きを止めた。
まだ肉体は完成していない。筋繊維が剥き出しになり、骨格が透けて見える箇所もある。
だが、床に広がる血溜まりが蠢き始めた。
液体が重力に逆らい、その身体を這い上がってゆく。傷口を塞ぐように、欠けた部分を埋めるように。血は皮膚となり、髪となり、鋭く伸びた爪となる。
頭部に二本の角が生え、捩じれながら天を突いた。
纏わりつく血は、最後に衣服の形を取る。暗黒の外套が肩から流れ、胸元には呪詛のような紋様が浮かび上がった。
「――ふぅ」
吐息とともに、白い霧が漏れ出す。
片足を前に突き出し、ゆっくりと立ち上がる。その動きには威厳があった。王の動きだ。
天を仰ぎ、瞼が開かれる。
深紅の瞳が、燃え上がる炎のように揺らめいていた。
魔王ヴァルゲイル。
勇者とその妻が施した封印を、三百年かけて破壊し、この世界に蘇った。
長い指を開き、閉じる。自らの肉体を確かめるように、何度か繰り返す。
そして周囲を見渡した。崩れかけた玉座の間。苔むした石柱。かつて自らが治めた城の成れの果て。
口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「……ようやくだ」
低く、深く、腹の底に響く声だった。
「三百年。随分と待たせてしまったな」
その言葉に応えるように、闇が蠢いた。
柱の影から、壁の隙間から、床の亀裂から。異形の者たちが次々と姿を現す。
コウモリのような翼を持つ者。腐った肉体を引きずる者。人の皮を被った獣。
数十、数百、数え切れないほどの魔物たちが、魔王の前に跪く。
石畳を埋め尽くす異形の海。その全てが、復活した主へ忠誠を捧げていた。
一人の男が、列を離れて前に出る。
蒼白い肌に血のように赤い唇。優雅な身のこなしは貴族のそれだが、縦に裂けた瞳孔が人ならざる本性を示していた。吸血鬼の眷属だ。
男は片膝をつき、深く頭を垂れる。
「魔王様。この結界の中で三百年、我らはこの時をお待ちしておりました」
「ドラクル。お前が筆頭か」
「はい。先代は……勇者との戦で。その直後、我ら生き残りが時空結界を展開しました。外の世界に時を与えず、御身の復活を待つために」
「そうか」
魔王は短く答えた。感傷はない。ただ事実を受け止めただけだ。
「結界の外では、どれほど経った」
「二十年ほどかと。時空の歪みは我らに長き時を与えましたが、外の世界では――」
「二十年か」
魔王の瞳が、一瞬だけ揺れた。
この城を覆う時空属性の結界。家臣たちが命を繋ぎ、維持し続けてきたもの。結界の内と外では、時の流れが大きく異なる。
「勇者は生きておるな」
「はい。人里離れた村に隠れ住んでおります。妻を娶り、子まで成したとか」
「妻……」
魔王の拳が、ぎりりと音を立てる。
「あの女か。裏切り者の魔族が」
封印を施したのは、勇者ではない。勇者の妻――魔族でありながら、人間の味方をした女だ。
魔王の怒りは、その女へも向いていた。
「子……」
魔王の瞳が、冷たく細められる。
「奴も、平穏を謳歌したようだな。余がこの檻の中で三百年を過ごす間に」
「仰せのままに。いつでも首を取って参ります」
「急ぐな」
魔王は片手を持ち上げ、広間を見渡した。
跪く魔物たちの頭上を、視線がゆっくりと撫でてゆく。
「我が配下どもよ。三百年、よくぞ耐えた」
声が響く。魔物たちが身を震わせる。
「お前たちの忠義、この身に刻もう」
その言葉の意味を、古参の者たちは理解していた。
最前列に跪く老いた魔物が、涙を流しながら顔を上げる。
「……光栄にございます」
かすれた声で、それだけを言った。
「我らの血肉は、御身のもの。命を捧げられること、これに勝る誉れはございません」
老魔物は短剣を抜き、自らの喉を掻き切った。
噴き出した血は霧となり、魔王の元へと吸い込まれてゆく。
それを合図に、次々と魔物たちが自決を始めた。
悲鳴はない。
嘆きもない。
あるのは恍惚とした笑みだけだ。
主のために死ねる喜び。永劫の忠誠を捧げる誇り。
何百もの命が散り、その全てが赤い霧となって魔王に注がれる。
魔王の身体が、血を吸い込んでゆく。
肌の下で魔力が脈動し、全身から黒い靄が立ち上る。角がさらに伸び、爪がさらに鋭くなる。
異形たちの命が、魔王の力へと変換されてゆく。
やがて、全ての魔物が消えた。
広間には魔王と、最後に残った一人――ドラクルだけが立っていた。
魔王は目を閉じ、体内で渦巻く膨大な魔力を感じ取る。
だが、満足していなかった。
「……まだ足りぬ」
低い呟きが漏れる。
「何かに削がれている。封印の残滓か」
魔王は己の手を見つめ、拳を握り込んだ。
「だが、もう待つ必要はない」
深紅の瞳が、ドラクルを捉える。
「ドラクル」
「はい」
吸血鬼は深く頭を垂れた。
「お前が最後だ。結界を破壊する」
「……光栄にございます」
ドラクルの唇に、穏やかな笑みが浮かぶ。
「三百年、この時を待ち続けました。我が命が、御身の道を開くのであれば――これに勝る喜びはございません」
ドラクルは短剣を抜き、自らの心臓を貫いた。
その瞬間――世界が、震えた。
ごごごごごごっ!
城全体が激しく揺れる。
天を覆っていた時空の膜が、音を立てて崩壊してゆく。
ばりばりばりばりっ!
見えない壁に亀裂が走る。
三百年もの時を閉じ込めていた結界が、砕け散る音が雷鳴のように響き渡った。
衝撃波が広がってゆく。
大地が揺れる。空が歪む。
魔王城を中心に、波紋が外へ外へと伝播してゆく。
その衝撃は、大陸全土を震わせた。
◆◆◆
遥か彼方、アーカンダム魔法学園。
「……地震!?」
授業中の教室が揺れ、生徒たちが悲鳴を上げる。
だが揺れは一瞬で収まった。
「なんだ、今の……」
「まさか……」
年老いた教師が、窓の外を見つめる。
遠く、地平線の彼方に黒い靄が立ち上っているのが見えた。
◆◆◆
人里離れた村。
飯場勇二郎は、畑仕事の手を止めた。
地面が微かに震え、風が急に冷たくなる。
「……まさか」
勇二郎の顔から、血の気が引いた。
二十年前、封印したはずのあの存在。
「ミルキラ! 」
家に向かって叫ぶ。
妻が慌てて飛び出してくる。
「どうしたの!?」
「封印が……破られた」
◆◆◆
魔王城。
ドラクルの亡骸が塵となって崩れ落ち、最後の命さえも魔王へと吸い込まれてゆく。
魔王は天を仰ぎ、外界の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
結界が消えた。
三百年の檻が、ついに破壊された。
「――勇者よ」
魔王の声が、静かに響く。
「待っていろ」
深紅の瞳が、炎のように燃え上がる。
魔王は自らの拳を見つめた。
力は、まだ不完全だ。全盛期には遠く及ばない。
だが、それでも構わない。
「奴だけだ。余を追い詰めた者は」
魔王の口元に、笑みが浮かぶ。
「唯一の、脅威」
封印された三百年の屈辱。
だがそれ以上に、魔王の心を捉えて離さないのは――恐怖だった。
あの男になら、再び敗北する可能性がある。
だからこそ、真っ先に潰さねばならない。
「恐れているのだな、余は」
魔王は自嘲する。
「よかろう。恐怖を認めよう。そして――乗り越える」
魔王の背中から、暗黒の翼が展開した。
巨大な翼が一度大きく羽ばたき、砂埃を巻き上げる。
「今度は、お前が絶望する番だ」
魔王は空へと舞い上がった。
行き先はただ一つ。
唯一の脅威――勇者の元へ。
全ての家臣を取り込み、単身となった魔王。
その姿は、孤高の絶対者そのものだった。
災厄が、世界に帰還した。




