表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/26

魔王復活

 世界が、震えた。


 地の底から響く重低音が大気を揺らす。魔王城遺跡の最奥、長き沈黙を守り続けた封印の間に、ひび割れが走った。

 巨大な水晶の表面を、蜘蛛の巣のような亀裂が這い回る。

 ぱきん、と乾いた音を立てて、一片が剥がれ落ちた。

 その瞬間――水晶の内側から、どろりと赤黒い液体が溢れ出す。

 血ではない。あまりにも濃密な魔力が、物質として顕現したものだ。粘性を持ったそれは水晶の表面を伝い、石畳へと滴り落ちる。

 腐臭と、焦げた肉の匂いが混じったような悪臭が立ち込めた。

 液体は意志を持つかのように広がり、床一面を覆ってゆく。

 やがて、その中心が盛り上がった。


 ずるり。


 血溜まりから、腕が生えた。

 肘まで現れた二本の腕は天を掴むように伸び、指先が大きく開く。爪の一本一本が、鋭く歪んだ形をしていた。

 両腕が折れ曲がり、床を掴む。

 ぐぷ、と水音を立てて頭部が浮かび上がった。髪のない頭蓋。閉じられた瞼。表情のない顔。

 腕に力が込められ、首が、肩が、背中が、次々と液体の中から這い出してくる。

 這い出す動きは緩慢で、しかし止まることを知らない。まるで墓穴から蘇る死者のように、その存在は現世へと帰還を果たした。


 膝をついた姿勢のまま、それは動きを止めた。

 まだ肉体は完成していない。筋繊維が剥き出しになり、骨格が透けて見える箇所もある。

 だが、床に広がる血溜まりが蠢き始めた。

 液体が重力に逆らい、その身体を這い上がってゆく。傷口を塞ぐように、欠けた部分を埋めるように。血は皮膚となり、髪となり、鋭く伸びた爪となる。

 頭部に二本の角が生え、捩じれながら天を突いた。

 纏わりつく血は、最後に衣服の形を取る。暗黒の外套が肩から流れ、胸元には呪詛のような紋様が浮かび上がった。


「――ふぅ」


 吐息とともに、白い霧が漏れ出す。

 片足を前に突き出し、ゆっくりと立ち上がる。その動きには威厳があった。王の動きだ。

 天を仰ぎ、瞼が開かれる。

 深紅の瞳が、燃え上がる炎のように揺らめいていた。


 魔王ヴァルゲイル。

 勇者とその妻が施した封印を、三百年かけて破壊し、この世界に蘇った。


 長い指を開き、閉じる。自らの肉体を確かめるように、何度か繰り返す。

 そして周囲を見渡した。崩れかけた玉座の間。苔むした石柱。かつて自らが治めた城の成れの果て。

 口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


「……ようやくだ」


 低く、深く、腹の底に響く声だった。


「三百年。随分と待たせてしまったな」


 その言葉に応えるように、闇が蠢いた。

 柱の影から、壁の隙間から、床の亀裂から。異形の者たちが次々と姿を現す。

 コウモリのような翼を持つ者。腐った肉体を引きずる者。人の皮を被った獣。

 数十、数百、数え切れないほどの魔物たちが、魔王の前に跪く。

 石畳を埋め尽くす異形の海。その全てが、復活した主へ忠誠を捧げていた。


 一人の男が、列を離れて前に出る。

 蒼白い肌に血のように赤い唇。優雅な身のこなしは貴族のそれだが、縦に裂けた瞳孔が人ならざる本性を示していた。吸血鬼の眷属だ。

 男は片膝をつき、深く頭を垂れる。


「魔王様。この結界の中で三百年、我らはこの時をお待ちしておりました」


「ドラクル。お前が筆頭か」


「はい。先代は……勇者との戦で。その直後、我ら生き残りが時空結界を展開しました。外の世界に時を与えず、御身の復活を待つために」


「そうか」


 魔王は短く答えた。感傷はない。ただ事実を受け止めただけだ。


「結界の外では、どれほど経った」


「二十年ほどかと。時空の歪みは我らに長き時を与えましたが、外の世界では――」


「二十年か」


 魔王の瞳が、一瞬だけ揺れた。

 この城を覆う時空属性の結界。家臣たちが命を繋ぎ、維持し続けてきたもの。結界の内と外では、時の流れが大きく異なる。


「勇者は生きておるな」


「はい。人里離れた村に隠れ住んでおります。妻を娶り、子まで成したとか」


「妻……」


 魔王の拳が、ぎりりと音を立てる。


「あの女か。裏切り者の魔族が」


 封印を施したのは、勇者ではない。勇者の妻――魔族でありながら、人間の味方をした女だ。

 魔王の怒りは、その女へも向いていた。


「子……」


 魔王の瞳が、冷たく細められる。


「奴も、平穏を謳歌したようだな。余がこの檻の中で三百年を過ごす間に」


「仰せのままに。いつでも首を取って参ります」


「急ぐな」


 魔王は片手を持ち上げ、広間を見渡した。

 跪く魔物たちの頭上を、視線がゆっくりと撫でてゆく。


「我が配下どもよ。三百年、よくぞ耐えた」


 声が響く。魔物たちが身を震わせる。


「お前たちの忠義、この身に刻もう」


 その言葉の意味を、古参の者たちは理解していた。

 最前列に跪く老いた魔物が、涙を流しながら顔を上げる。


「……光栄にございます」


 かすれた声で、それだけを言った。


「我らの血肉は、御身のもの。命を捧げられること、これに勝る誉れはございません」


 老魔物は短剣を抜き、自らの喉を掻き切った。

 噴き出した血は霧となり、魔王の元へと吸い込まれてゆく。

 それを合図に、次々と魔物たちが自決を始めた。


 悲鳴はない。

 嘆きもない。

 あるのは恍惚とした笑みだけだ。


 主のために死ねる喜び。永劫の忠誠を捧げる誇り。

 何百もの命が散り、その全てが赤い霧となって魔王に注がれる。


 魔王の身体が、血を吸い込んでゆく。

 肌の下で魔力が脈動し、全身から黒い靄が立ち上る。角がさらに伸び、爪がさらに鋭くなる。

 異形たちの命が、魔王の力へと変換されてゆく。


 やがて、全ての魔物が消えた。

 広間には魔王と、最後に残った一人――ドラクルだけが立っていた。


 魔王は目を閉じ、体内で渦巻く膨大な魔力を感じ取る。

 だが、満足していなかった。


「……まだ足りぬ」


 低い呟きが漏れる。


「何かに削がれている。封印の残滓か」


 魔王は己の手を見つめ、拳を握り込んだ。


「だが、もう待つ必要はない」


 深紅の瞳が、ドラクルを捉える。


「ドラクル」


「はい」


 吸血鬼は深く頭を垂れた。


「お前が最後だ。結界を破壊する」


「……光栄にございます」


 ドラクルの唇に、穏やかな笑みが浮かぶ。


「三百年、この時を待ち続けました。我が命が、御身の道を開くのであれば――これに勝る喜びはございません」


 ドラクルは短剣を抜き、自らの心臓を貫いた。


 その瞬間――世界が、震えた。


 ごごごごごごっ!


 城全体が激しく揺れる。

 天を覆っていた時空の膜が、音を立てて崩壊してゆく。


 ばりばりばりばりっ!


 見えない壁に亀裂が走る。

 三百年もの時を閉じ込めていた結界が、砕け散る音が雷鳴のように響き渡った。


 衝撃波が広がってゆく。

 大地が揺れる。空が歪む。

 魔王城を中心に、波紋が外へ外へと伝播してゆく。


 その衝撃は、大陸全土を震わせた。


 ◆◆◆


 遥か彼方、アーカンダム魔法学園。


「……地震!?」


 授業中の教室が揺れ、生徒たちが悲鳴を上げる。

 だが揺れは一瞬で収まった。


「なんだ、今の……」


「まさか……」


 年老いた教師が、窓の外を見つめる。

 遠く、地平線の彼方に黒い靄が立ち上っているのが見えた。


 ◆◆◆


 人里離れた村。


 飯場勇二郎は、畑仕事の手を止めた。

 地面が微かに震え、風が急に冷たくなる。


「……まさか」


 勇二郎の顔から、血の気が引いた。

 二十年前、封印したはずのあの存在。


「ミルキラ! 」


 家に向かって叫ぶ。

 妻が慌てて飛び出してくる。


「どうしたの!?」


「封印が……破られた」


 ◆◆◆


 魔王城。


 ドラクルの亡骸が塵となって崩れ落ち、最後の命さえも魔王へと吸い込まれてゆく。

 魔王は天を仰ぎ、外界の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


 結界が消えた。

 三百年の檻が、ついに破壊された。


「――勇者よ」


 魔王の声が、静かに響く。


「待っていろ」


 深紅の瞳が、炎のように燃え上がる。


 魔王は自らの拳を見つめた。

 力は、まだ不完全だ。全盛期には遠く及ばない。

 だが、それでも構わない。


「奴だけだ。余を追い詰めた者は」


 魔王の口元に、笑みが浮かぶ。


「唯一の、脅威」


 封印された三百年の屈辱。

 だがそれ以上に、魔王の心を捉えて離さないのは――恐怖だった。


 あの男になら、再び敗北する可能性がある。

 だからこそ、真っ先に潰さねばならない。


「恐れているのだな、余は」


 魔王は自嘲する。


「よかろう。恐怖を認めよう。そして――乗り越える」


 魔王の背中から、暗黒の翼が展開した。

 巨大な翼が一度大きく羽ばたき、砂埃を巻き上げる。


「今度は、お前が絶望する番だ」


 魔王は空へと舞い上がった。

 行き先はただ一つ。

 唯一の脅威――勇者の元へ。


 全ての家臣を取り込み、単身となった魔王。

 その姿は、孤高の絶対者そのものだった。


 災厄が、世界に帰還した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ