光と闇の決闘
中庭は、広かった——そして今、圧倒的な魔力で満ちていた。
白い石畳が敷き詰められ、周囲には手入れの行き届いた庭木が並んでいる。噴水の水音が、妙に大きく聞こえた。心臓の音と重なって。
静寂は、もう存在しない。空気そのものが、戦いの予感に震えていた。
「ルールは単純だ」
レイモンドが言った。
「どちらかが戦闘不能になるまで。命のやり取りはしない。だが——手加減もしない」
「望むところだ」
俺は構えを取った。
闇の魔力が、全身を巡る。属性の相性で言えば、光と闇は反発し合う。互いの力を打ち消し合う関係だ。
だが、それは同等の力を持つ場合の話。
レイモンドの魔力は、俺とは比べものにならないほど巨大だった。肌がピリピリと痛む。光の粒子が、彼の周囲で渦を巻いている。
「来い」
レイモンドが右手を掲げた。
「——光槍」
瞬間、眩い光が俺に向かって飛んできた。
速い。
反応が遅れる。
咄嗟に跳んで避けるも、光の槍は俺の頬を掠めていった。熱い。そして皮膚が焼ける匂い。
「くっ……!」
頬が焼けるように熱い。血が滲んでいる。
一撃目から、これか。
「どうした。避けるだけか」
レイモンドの声は冷たかった。
「リーラを守ると言ったな。その程度の力で、何を守れる」
「黙れ……!」
俺は闇の魔力を練り上げた。黒い霧が両手に集まる。
「闇弾!」
黒い魔力弾がレイモンドに向かって飛ぶ。
「無駄だ」
レイモンドが片手を振った。光の壁が現れ、俺の攻撃を弾き飛ばす。まるで子供の投石を払うように。
「闇属性の攻撃など、私には通じん」
レイモンドが歩み寄ってくる。その体から、圧倒的な光の魔力が溢れ出していた。白い光の粒子が、まるで雪のように舞い落ちている。
「光魔法騎士団の元団長を舐めるな。私は二十年間、闇属性の魔物と戦い続けてきた。お前程度の闇魔法、目を閉じていても防げる」
俺は歯を食いしばった。
わかっていた。勝てる相手ではないと。
だが——
「それでも……!」
俺は再び魔力を練り上げた。闇が、俺の足元から這い上がってくる。
「俺は諦めない!」
「愚かな」
レイモンドの目が冷たく光った。
「——光刃」
光の剣が、レイモンドの手に現れた。
眩い。直視できないほどの輝き。剣身から光の粒子が溢れ、空気を震わせている。
彼が一歩踏み込む。その速度は、俺の目では追えないほど速かった。
「がっ……!」
腹に衝撃。視界が白く染まった。
光の剣の柄で殴られたのだと気づいた時には、俺は地面に倒れていた。石畳の冷たさが背中に伝わる。
「立て」
レイモンドが見下ろしている。
「まだ終わりではないだろう」
俺は這いつくばりながら、立ち上がった。
腹が痛い。息が苦しい。口の中に鉄の味が広がる。
だが——まだ動ける。
「……言っただろ」
俺は顔を上げた。
「俺は諦めない」
「なぜだ」
レイモンドの声に、わずかな困惑が混じった。
「なぜそこまでする。リーラは、お前にとって何だ」
「仲間だ」
俺は真っ直ぐにレイモンドを見た。
「俺の、大切な仲間だ」
レイモンドが黙った。
その目に、何かが揺らいだように見えた。
「……いいだろう」
だが、レイモンドはすぐに表情を引き締めた。
「ならば、その覚悟を見せてみろ」
レイモンドの魔力が、さらに膨れ上がった。
空気が震える。いや、違う——空気そのものが歪んで見える。
光が渦を巻き、中庭全体を照らし出す。まるで太陽が降りてきたかのような輝き。
熱い。息が詰まる。目を開けていられない。
「——光翼」
光の粒子が、レイモンドの背中に集まっていく。
無数の光の粒が、まるで意思を持ったかのように渦を巻き、形を成していく。
そして——現れた。
レイモンドの背中から、光の翼が生えた。
神々しいまでの輝き。まるで天使のような姿。六枚の翼が、ゆっくりと広がっていく。
これが——光魔法騎士団の元団長の本気か。
「終わりだ、勇者の息子」
レイモンドが翼を広げた。無数の光の羽根が、翼から剥がれ落ちる。
いや——落ちているのではない。俺に向かって、まるで矢のように飛んでくる。
「くそっ……!」
俺は全力で闇の障壁を張った。黒い壁が俺の前に現れる。
だが、光の羽根は障壁を貫通し、俺の体を切り裂いていく。
痛い。
熱い。
皮膚が裂ける音がする。
「ぐあっ……!」
腕に、足に、胸に。無数の傷が刻まれる。血が噴き出す。
意識が遠のきそうになる。視界が暗くなる。
「まだだ……!」
俺は膝をついた。だが、倒れない。倒れるわけにはいかない。
両手を地面につき、必死で体を支える。
「しぶといな」
レイモンドが近づいてくる。
「だが、限界だろう。もう立てまい」
「立てる……」
俺は震える足で、立ち上がろうとした。
だが、体が言うことを聞かない。傷が深すぎる。魔力も尽きかけている。
視界が滲む。もう、レイモンドの姿すら霞んで見える。
「認めろ。お前では、私には勝てん」
レイモンドが光の剣を構えた。
「これで終わりだ」
光の剣が振り下ろされる。
俺には、もう避ける力が残っていなかった。
動け、動いてくれ——
そう思った瞬間。
「やめて!」
声が響いた。
空間の歪みが、俺とレイモンドの間に現れた。
「なっ……!?」
レイモンドが驚愕の声を上げる。
俺も目を見開いた。
空間の歪みは光を取り込み壁となる。その前にリーラが立っていた。
「リーラ……!?」
「飯場くん……!」
リーラの顔は蒼白だった。体が震えている。だが、その目には強い意志が宿っていた。
「リーラ! なぜここに!」
レイモンドが叫んだ。
「部屋にいろと言っただろう!」
「いられません!」
リーラが叫び返した。声が震えている。
「飯場くんが、私のために戦ってくれているのに……見ているだけなんて、できません!」
「馬鹿な……! お前は療養中だ! 魔法を使える状態ではない!」
「それでも!」
リーラの体から、光の魔力が溢れ出した。
だが——それだけではなかった。
光と共に、歪んだ空間が渦巻いている。時空属性だ。二つの属性が、互いに反発し合っている。
「リーラ、やめろ! 魔力が不安定だ!」
レイモンドの声に焦りが混じった。
「今、魔法を使えば——」
「わかっています!」
リーラの目から涙が溢れた。
「わかっているんです……! でも、私は……飯場くんを守りたい……!」
リーラの魔力が、さらに膨れ上がった。
光と時空。二つの属性が、制御を失って暴走し始めている。
空気が歪む。時間の流れが乱れる。俺の体が浮き上がるような感覚。次の瞬間、地面に引き寄せられる。
まずい——これは、本当にまずい。
「リーラ!」
俺は叫んだ。だが、体が動かない。
「やめろ……! お前が壊れる……!」
「いいんです」
リーラが微笑んだ。泣きながら、笑っていた。
「飯場くんが……私を助けに来てくれた……それだけで……私は……」
その瞬間、リーラの魔力が爆発した。
「きゃあああああっ!」
リーラの叫び声。光と闇が渦を巻き、巨大な魔力の奔流となって吹き荒れる。
空間が裂ける音がした。時間が逆流するような感覚。
世界が、壊れていく。
「リーラ!」
レイモンドが駆け出した。娘を止めようと、手を伸ばす。
だが——
「——っ!」
暴走した魔力が、光の槍となってレイモンドに向かって飛んだ。
娘の力が、父親を貫こうとしている。
「あなた!」
声が響いた。
銀色の髪が、宙を舞う。
セレナが——レイモンドの前に飛び出していた。
「セレナ!!」
レイモンドの絶叫。
光の槍が、セレナの胸を貫いた。
「お母様っ!!」
リーラの悲鳴。魔力の暴走が、ぴたりと止まった。
セレナが、ゆっくりと崩れ落ちる。
レイモンドが、妻の体を抱きとめた。
「セレナ……! セレナ……!」
レイモンドの声が裂けた。光魔法騎士団の元団長が、ただの夫に戻った瞬間だった。
「あなた……」
セレナの声は、かすれていた。胸から血が溢れ、白いドレスを赤く染めていく。致命傷だ——誰の目にも明らかな。
「なぜ……なぜ庇った……!」
「当たり前でしょう……」
セレナが微笑んだ。血の気の失せた顔で、それでも笑っていた。
「あなたは……私の夫だもの……」
「馬鹿な……! 私は……私は……」
「ごめんなさい」
セレナの目から涙が溢れた。その手が、震えながらレイモンドの頬に触れた。
「私、あなたに……隠していたことがあるの……」
「隠していた……?」
レイモンドの声が震えている。
「私の本当の属性は……」
セレナの声が震えた。レイモンドの目を見つめながら、最後の告白を紡ぐ。
「……時空なの。あなたの隣に立ちたくて……光が、欲しかった」
レイモンドの顔が凍りついた。
「な……」
「あなたと過ごしたくて、私はスキルを捧げて神と契約をした」
セレナの声が途切れそうになる。息が苦しそうだ。
「リーラの属性……私から受け継いだもの。私が……残した呪い」
セレナの声が震えた。
「だから……どうか……リーラを許してあげて……あの子は何も悪くない……私が……私が全部……」
「セレナ……」
レイモンドの声が震えていた。目に涙が浮かんでいる。光魔法騎士団の元団長が、泣いている。
「なぜ……なぜ言わなかった……」
「神にとっては恥ずべき行為、だから言わないと約束……」
セレナの声が、さらに弱くなる。
「言えば永遠の眠り……あなたに嫌われるのが……怖かった……」
セレナの手が、レイモンドの頬に触れた。そして瞼が閉じてゆく。
「やめろ……! 死ぬな……! セレナ……!」
俺は、その光景を見ていた。
体は動かない。だが、心が叫んでいた。
痛みなど、もう感じなかった。
ただ——このまま黙っていたら、リーラが自分を責め続ける。
セレナさんが自分を呪いだと思ったままで終わってしまう。
それだけは、絶対に嫌だった。
違う。
これは、違う。
「呪いじゃない」
声が出た。自分でも驚くほど、大きな声だった。
「呪いなんかじゃない!」
俺は這いながら、三人の方へ向かった。
腕を引きずる。血の跡が石畳に残る。
でも、止まらない。止まれない。
「俺の母は魔族だ!」
セレナが、俺を見た。レイモンドも、リーラも。
「人間と魔族——両方の血を持ってる。闇属性を持って生まれた。あんたたちみたいな奴らに、何度も蔑まれてきた!」
俺は三人の前で膝をついた。石畳に手をついて、顔を上げる。
「でも、これは——俺の両親が俺に与えてくれた力なんだ!」
既に光を失いかけているセレナの目を、真っ直ぐに見つめる。
「大切に思ってくれているから、この力をくれたんだ。呪いなんかじゃない。贈り物だ!」
涙が溢れた。止められなかった。
「贈り物……」
セレナが呟いた。
「だから——そんな悲しいことを言わないでくれ!」
俺の目から、涙が溢れた。鼻水も出た。でも、構わない。
「リーラは凄いんだ! 実習で俺たちを守ったんだ! 広域の転送魔法だ! リーラの力がなかったら、俺たちは無事じゃなかった! 助けてくれたんだよ!」
リーラを見た。リーラも泣いていた。
「リーラの力は、呪いなんかじゃない! あんたたちが与えてくれた、大切な贈り物なんだ!」
レイモンドを見た。拳で地面を叩く。
「リーラを誇りに思ってくれよ! あんたの娘は、こんなに強いんだ! こんなに優しいんだ! こんなに——素晴らしい奴なんだ!」
俺は頭を下げた。額が石畳にぶつかる。
「どうか……お願いします!」
沈黙が流れた。
長い、長い沈黙。
「……あなた」
セレナの声が響いた。
「ああ……娘の将来を見届けたかった……あなたと一緒に……年を取りたかった……」
その言葉に、レイモンドが嗚咽を漏らした。
セレナの目が閉じる。
「セレナ……」
繋がれた手から光が溢れる。
セレナの体から、眩い光が放たれる。
だがそれは、攻撃の光ではなかった。
温かく、優しい虹色の光。まるで春の日差しのような。
「これは……」
レイモンドが目を見開いた。
「祝福……? スキルが……発現した……?」
光がセレナの傷を包み込んでいく。
血が止まる。傷口が塞がっていく。肌が元の白さを取り戻す。
「神の慈悲……」
セレナが呟いた。目を閉じたまま、穏やかな表情で。
「神様が……くれたのね……一度だけの……」
セレナの体から力が抜けた。
だが——息はある。胸が、かすかに上下している。
「セレナ!」
「……眠っているだけだ」
レイモンドが妻の脈を確かめた。その目には、まだ涙が残っている。
「命は……助かった。だが……」
「契約の代償……」
俺は呟いた。
「一度きりしか使えない、魂を肉体に繋ぎ止めるスキル。神の慈悲……」
セレナは、スキルを返してもらったんだ。
そして、契約を破った代償として——目覚めることができなくなった。
「お母様……」
リーラがセレナに駆け寄った。母の手を握り、声を上げて泣いた。
「お母様……お母様……!」
レイモンドは、妻と娘を見つめていた。
その目には、様々な感情が渦巻いていた。悲しみ、怒り、後悔——そして。
「……私は」
レイモンドが呟いた。
「私は、間違っていたのか」
誰に言うでもなく、独り言のように。
「妻を守ろうとして……娘を守ろうとして……結局、二人とも傷つけた」
「レイモンドさん……」
「セレナは、時空属性だった。私と同じ……いや、私以上に、この世界の偏見に苦しんでいたはずだ。なのに私は……気づかなかった。気づこうとしなかった」
レイモンドが顔を覆った。肩が震えている。
「私は……何を守っていたんだ……」
その姿は、光魔法騎士団の元団長には見えなかった。
ただの——不器用な父親だった。
「お父様」
リーラが立ち上がった。涙で濡れた顔のまま、父親の前に立つ。
「お父様は……私を守ろうとしてくれたんですよね」
「リーラ……」
「方法は……間違っていたかもしれません。でも……お父様が私を愛してくれていたことは……わかります」
リーラがレイモンドの手を取った。小さな手が、大きな手を包む。
「だから……お母様が目覚める方法を探します。それが私の望みです」
「……」
レイモンドは何も言わなかった。
ただ、娘の手を握り返した。
その手は、震えていた。
◆◆◆
しばらくして。
セレナは屋敷の寝室に運ばれた。専属の治療師が呼ばれ、容態の確認が行われた。
「命に別状はありません。ですが……目覚めるのかは、わかりません」
治療師の言葉に、レイモンドは黙って頷いた。
俺は中庭のベンチに座っていた。
体中の傷は、治療師に応急処置をしてもらった。重傷ではあるが、命に別状はない。包帯だらけの体だが、痛みは治癒魔法で和らいでいる。
「飯場仲斗」
声がして、顔を上げた。
レイモンドが立っていた。
「……レイモンドさん」
「傷の具合はどうだ」
「大したことない。すぐ治る」
「そうか」
レイモンドが隣に座った。
夕暮れの空は、すっかり夜に変わっていた。星が瞬いている。冷たい夜風が頬を撫でる。
「お前の言葉……」
レイモンドが口を開いた。
「贈り物、か」
「……はい」
「私は、時空属性を呪いだと思っていた。セレナもそう思っていたから、隠していたのだろう」
レイモンドが空を見上げた。その横顔は、疲れ切っているように見えた。
「だが……お前は違う考えを持っている」
「俺の両親が、そう教えてくれたから」
「そうか」
沈黙が流れた。虫の声が聞こえる。
やがて、レイモンドが立ち上がった。
「飯場仲斗」
「はい」
「リーラを……頼む」
俺は目を見開いた。
「私には、もう……娘を守る資格がない。妻を傷つけ、娘を苦しめた。私のやり方は、全て間違っていた」
「レイモンドさん……」
「だが、お前は違う」
レイモンドが俺を見た。その目には、もう冷たさはなかった。ただ、深い悲しみと——わずかな希望が宿っていた。
「お前は、リーラの力を認めている。リーラのために戦ってくれる。リーラを……贈り物として受け入れてくれる」
「当たり前です。リーラは俺の仲間だから」
「ああ」
レイモンドが、かすかに笑った。初めて見る、本当の笑顔だった。
「お前は……いい奴だな。勇者の息子」
「……ありがとうございます」
「リーラの退学は取り消す。学園に戻るがいい」
俺は立ち上がった。
「本当ですか」
「ああ。矯正も……やめる」
レイモンドの声が震えた。
「セレナが目覚めたら……謝らなければならん。リーラにも……ちゃんと向き合わなければ」
「レイモンドさん」
俺はレイモンドに手を差し出した。
「リーラは、きっと許してくれます。あなたのこと、嫌いになんてなっていない」
「……そうだといいが」
レイモンドが俺の手を握った。
父親の手は、予想以上に温かかった。
「頼んだぞ、飯場仲斗。娘を……よろしく頼む」
「はい。任せてください」
俺たちは、固く握手を交わした。
◆◆◆
翌日。
俺は学園に戻った。
「仲斗!」
門の前で、コイムたちが待っていた。
「大丈夫だったの!? 怪我だらけじゃない!」
クラーラが駆け寄ってくる。心配そうな顔だ。
「何があったの!? リーラは!?」
「落ち着けって」
俺は笑った。
「リーラは大丈夫だ。退学も取り消しになった」
「本当に!?」
ギラが目を輝かせた。
「リーラ、戻ってくるの!?」
「ああ。明日から、また一緒に授業を受けられる」
「やった!」
ギラが飛び跳ねた。クラーラも嬉しそうに笑っている。
「よくやったね、仲斗」
コイムが近づいてきた。いつもの冷静な表情だが、目が笑っている。
「僕の魔道具のこと……ごめん。リーラを追い詰める結果になってしまって」
「お前のせいじゃない」
俺は首を振った。
「お前の魔道具がなかったら、リーラはもっと苦しんでいた。結果的に、リーラを助けることになったんだ」
「……そう言ってもらえると、助かるよ」
コイムが微笑んだ。珍しい表情だ。
俺たちは、教室に向かって歩き出した。
明日から、また五人で過ごせる。リーラが戻ってくる。
空を見上げた。
青い空に、白い雲が流れている。秋の風が、心地よい。
リーラ——待ってろよ。
俺たちは、ずっとお前の仲間だ。
何があっても——それは変わらない。




