7 俺と、結婚してほしい
月日はゆっくりと、だが確実に流れていく。
セレーネの歌う歌は徐々にティナから習ったものが増えていき、そして歌の後に笑顔を見せることも多くなっていった。
時には、ティナを招いて歌ったり。あるいはガイウスと二人で流行歌を口ずさんだり。
気取らない歌の時間は、二人の仲をより親密にしていく。
そして。
「聞け、ジル! とうとう婚姻の承認が下りたぞ! これでもう、いつでもセレーネと結婚できる!」
「おめでとうございます、旦那さま! しかしその知らせは、私なんかよりも真っ先にセレーネさまに伝えてあげた方が良いのでは?」
――ガイウスの元に、ようやく待ち望んでいた福音がもたらされたのであった。
主人とともに喜びに目を細めながらも、ジルは冷静な指摘を口にする。
彼にしてみれば、至ってもっともな言葉だ。しかし、何故かガイウスは真面目な顔になって、それにキッパリと首を振る。
「その前に、お前に話しておきたいことがある」
そう言ってジルを手招きすると、ガイウスは自分のシャツをゆっくりとはだけたのだった。
セレーネとの初めての顔合わせの時とは違って、今日のガイウスはラフな格好だ。容易く彼の引き締まった身体があらわになる。
それを見たジルは、静かに目を見開いた。
「旦那さま? 呪いによる傷は治らないはずでは……」
「ああ、本来は、な。だが、見ての通りだ」
かつて黒い怨念が刻まれていた胸の傷。だが、二人がどれだけくまなく探しても、その傷跡はもう跡形もない。
「これがセレーネの奇跡の御業だ」
「そんなことが……」
驚きに息を呑むジルに、ガイウスはさらに告げる。
「当然、彼女にもこのことは話してある。そのうえで教会の聖女認定の見直しを要請するかどうか、彼女に確認した。呪いの浄化ともなると、認定は上級聖女になるのが妥当だろう」
「そんな、旦那さま! もしそんなことになったら……」
上級聖女として認められれば、彼女の価値は跳ね上がるだろう。ガイウスよりももっと家柄も資産もある貴族たちが、彼女と縁を持ちたいと押し寄せるはずだ。
そうなったときに、ガイウスには彼女を引き留める手段はない。婚約承認なんて、紙切れも同然だ。
「彼女の当然の権利だ。それで彼女が幸せになれるなら……と思ったんだがな」
苦笑いを浮かべて、ガイウスは首を振る。
「だが、彼女は断ったよ。なんの未練もなく、きっぱりと……な」
『この奇跡はきっと、ガイウス様にしか発動しないと思います』
――もっとよく考えろと食い下がるガイウスに、セレーネは確信に満ちた声でそう答えたのだった。
幸せそうに微笑む彼女の表情に、迷いはない。
『あなたの婚約者になれたから、私は輝けたんです。きっと、誰よりも大切なあなた以外にこの奇跡は届かない。どうか、これからもおそばに置いていただけませんか』
その時の彼女の顔は今でもガイウスの脳裏に焼き付いている。
清廉で美しく、まっすぐな愛情にあふれた彼女の視線。それは、ガイウスの心臓を愛おしいという感情で苦しいほどに締め付けた。
それなのに「……そうか」と不愛想に一言しか口に出せなかった自分の、なんと情けなかったことか。己の不甲斐なさが、本当に口惜しい。
「彼女の選択を尊重したい。この奇跡のことは、今後も周囲には伏せておけ」
「承知しました」
ガイウスの指示を重く受け止めてから、ジルは思い出したようにふと言う。
「奇跡といえば……セレーネさまの歌を漏れ聞いているだけの私でも、最近は体調がどんどん良くなっているように思います。旦那さまほどではなくても、私も奇跡の恩恵を受けているのかもしれません」
「ありうることだ。本来、彼女の歌はその音色で身体の底からエネルギーを引き出すようなものなのだと思う。……その音楽から耳を塞いでいたヤツには、一生気づけないだろうがな」
そう言って、ガイウスは意地悪くニヤリと唇を吊り上げた。
「まぁ前の婚約者は、本当に馬鹿なことをしたってわけだ」
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「くそっ……くそくそくそっ……!」
――ちょうどその頃。
とある居酒屋で酒を浴びるように飲みながら悪態をついている男がいた。
撫でつけられていたはずの頭髪は乱れ、顎には無精髭が目立つ。
かつては伊達男ともてはやされていた面影はすでになく、漂うのは退廃した敗北者の哀愁だ。
「こんなはずじゃ……どうしてこんなことに……」
――それは、かつてセレーネの婚約相手であった……そして最若手での司令官就任目前と噂されていたはずのマシュー、その人であった。
「僕の人生、ケガを除けばほぼ完璧だったはずだ……冴えわたる頭脳、ケガを抱えながらも最低限の修練で上達する武芸の腕前、誰もが見とれる顔面と文句のつけようのない血筋! 懸案だったケガを完治させて、お荷物だった冴えない婚約者を乗り換えて……いよいよこれからだってのに……」
それなのに、何故だろう。
昔は一目見ただけで理解できた書類はいくら読んでもなんの理解も捗らず、実戦の討伐任務は失敗が重なっていく。新しく得たはずの美しい婚約者も、最近では顔を見せることすらなくなってきていた。
以前は可愛がってくれていた叔父のグルディアの目も徐々に厳しくなってきているのをひしひしと感じている。彼のコネが使えなくなったら、果たして今の地位にどれだけしがみついていられることか。
「何故だ、どうしてこんなに何もかも上手くいかなくなってしまったんだ!?」
いらだちのあまり、手にしたジョッキを机に叩きつける。
給仕の女性が冷たい目でこちらを見ているのには気づいていたが、彼に自分を止めるだけの理性は残っていなかった。
――彼は、知らない。知る由がない。
今まで自分の実力だと思っていたすべての能力が、ずっと下に見ていたセレーネの恩恵によるものだったなんて、思いもしない。
疎み、馬鹿にしながら聞き流しても、彼女の歌はこれだけの効果を発揮していたのだ。
真剣に耳を傾け、お互いに心を通わせた彼女の奇跡の歌には、一体どれほどの力が眠っていることか。
……でも、それは彼にとって関係のない話だ。
最低限の誠実さすら持ち合わせていなかった彼はもう、後は堕ちていくだけ。
――だが、そんなのはこれから幸せになる二人にとっては関係のない話である。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「セレーネ。これを」
いつも通り歌を披露しようとしたタイミング。ガイウスは突然、そう言ってセレーネを呼び止めた。
振り向いた彼女の目に入ったのは、ガイウスの浮かべるいつも以上に凶悪な表情だ。
強く引き結んだ口は憤怒を堪えるようで、ぎょろりと睨む眼は息苦しいほどの圧迫感がある。さらに血が昇った顔はこめかみに走る傷をいつも以上に浮かび上がらせていて、獰猛な彼の表情をさらに鬼気迫るものに仕立て上げていた。
そんな表情の彼を前にして、セレーネはふわりと笑う。
その表情が緊張によるものだと彼女にはわかっていたし、ガイウスの手の中にはその凶悪な顔には似つかわしくない可愛らしい花束が握られていたからだ。
唇を惹き結んだまま、ガイウスは片膝をついて無造作に……いや、彼にとってはできる限り優雅さを心掛けた動きでセレーネに花束を差し出す。
「まぁ、素敵な花束。良い香りですね」
受け取った花束にセレーネが喜びの声を上げたのを聞いて、ようやくガイウスは少しだけこわばった表情を緩めた。
「ああ。いろんな種類の花をできるだけたくさん入れてもらった。――満開のモノも、まだ蕾のモノも含めて、な」
少しだけ言い淀んでから、ガイウスはもう一度セレーネを見上げる。そこには、今までにないほどの焼かれてしまいそうなほどの熱が籠められていた。
「花を愛でることを、蕾の可能性を教えてくれたのはセレーネ、貴女だ。貴女に会って、俺の世界は変わった。血と汚れに塗れ、汚れた俺を眩しいほどの綺麗な世界に導いてくれたセレーネ。貴女のことを、心から愛している。これからも俺の隣で、ともに歩んではくれないだろうか――婚約者ではなく、これからは生涯の伴侶として。こんな凶悪な顔の俺だが、貴女のことをきっと幸せにすると誓おう。……俺と、結婚してほしい」
つっかえながらも、真剣に、誠実に。ガイウスは思いの丈をぶつける。
気障なことは言えない。彼にできるのは、自分の感情を飾らずに言葉にすることだけだ。
だが、今までこんな長文を、正直な己の内を言葉にしたことが果たしてあっただろうか。
返事が返ってくるまでの一秒一秒が、まるで永遠のように感じられる。
息をすることも忘れてセレーネの返事を待つ彼の手に、そっとセレーネの右手が触れた。
「はい、ガイウス様。喜んで」
へなへなとガイウスは安堵で崩れ落ちそうになる。そんな彼の耳に、「……でも」とセレーネの不吉な言葉の続きが飛び込んできた。
何を言われるのだろうと心臓を鷲摑みされたような顔でその言葉の続きを待つガイウスに、セレーネは少し拗ねたようなふくれっ面を向ける。
「ご自分のことを『汚れた』とか『凶悪な顔』とか言わないでください。ガイウス様はお優しくて、まっすぐで、もう立ち直れないと思っていた私を救ってくださったヒーローなんですから。見た目だって、凶悪ではありません。むしろ、格好良いです!」
「そう言ってくれるのはセレーネぐらいのものだが……」
「内面の良さは皆様に知ってもらいたいですが、ガイウス様が格好良いのは私だけが知っていれば十分ですね」
いたずらに微笑んでから、花束を抱えたままセレーネは膝をついたガイウスの頭をそっと引き寄せる。
二人のシルエットが一瞬だけ重なり、そしてまた離れた。
「そ、その……今のは……!?」
一瞬の出来事。
まだ感触が残る唇をガイウスは落ち着きなく触った。今起きたことは、本当に幻ではないのだろうか。
「私だって、ガイウス様のことを愛してるってことですよ」
余裕ぶって返すセレーネだが、その頬は隠し切れないほどに朱に染まっていく。
「セレーネ!」
「きゃっ!」
抑えきれずがばりと彼女を抱き締めると、小さな彼女の身体はすっぽりと自分の腕の中に入り込んでしまった。その温もりが、あまりに愛おしい。
「貴女は……時々、私よりも大胆で男らしい」
「お嫌でしたか?」
「まさか」
ふっと笑って、ガイウスは今度は自分から彼女の唇にキスを落とした。
脳を焼き尽くしそうなほどの多幸感にクラクラする。このまま彼女を貪りつくしたいという気持ちに負けてしまいそうだ。
「君は本当に……最高だ」
愛してる、と囁きながらガイウスは腕の中の彼女に何度もキスの雨を降らせた。今まで必死で我慢してきた分、なかなか自分を止められない。
しばらくして息ができなくなったセレーネに背中を叩かれて、ようやくハッとその腕を緩めた。
もう、と唇を尖らせながらも微笑んでセレーネは彼を仰ぎ見る。
「ガイウス様。これからも歌を捧げさせてください。そして……たまには一緒に歌いましょう?」
今度は自分から胸に飛び込んできたセレーネを抱きとめて、とガイウスはその言葉に何度も頷いた。
――音には聞こえないけれど。
その時の二人の耳には間違いなく、世界一幸せな恋の歌が鳴り響いていた。
これにて本編終了です。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
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また、今回の企画には時期が合いませんでしたが、先日完結したばかりの
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も、騎士団長をヒーローにした作品となっています。
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