6 嘘でしょ、本気で言ってんの?
それから、ガイウスの動きは早かった。
「昨日言った歌の指導の話だが、今日の夜に会いに行こう」
「今日の夜、ですか……?」
その話をしたのは昨晩だというのに、もう話がついたのだろうか。
しかも夜とは。街の歌劇を見にいくにしても、不思議な時間だが……。
「どんな格好でお待ちしていれば良いですか」
「普段の服で構わない。華美な装いは避けてくれ」
ガイウスの返答に、セレーネはますます首を傾げる。
しかし自信満々の彼の様子に押し切られ、彼女はひとまず頷いたのだった――。
「居酒屋……ですか?」
――その日の夜。
そうしてガイウスに連れられ店に着いたセレーネは、さらに首を傾げることになった。
案内されたのは、どちらかというと大衆向けの猥雑とした居酒屋だ。
厨房前には大きな一枚板のカウンターが備えられ、それ以外のスペースにはところ狭しとばかりに様々な大きさの机が並べられている。
その隙間を縫うように重そうなジョッキや料理を手にした給仕の女性たちが飛び回り、そんな彼女たちに注文を頼む声が頭上を飛び交う。
あちらこちらから聞こえるのは、楽しげな喧騒と乾杯の声。
肉の焼ける香ばしい匂いが、セレーネの食欲を刺激する。
「これは一体……」
「ひとまずは腹ごしらえだ。ここの料理は美味い」
あっさりとそう言って、ガイウスは慣れた足取りで店の片隅にあるテーブルについた。
店員たちに話は行っているようで、それほど待つこともなく大皿料理が次々とテーブルの上に並べられていく。
「えぇと……」
「ああ、取り分けますねー」
戸惑うセレーネの姿に、店員が即座に気を回す。
確かに経験のない彼女には、骨付きの大きな肉の塊や頭や殻がそのままついたエビの身をどうやって切り分けたら良いかわからなかっただろう。
……戸惑っている理由は、そこではないのだけれど。
たくさんの種類の料理がほんの一口ずつ綺麗にお皿に盛り付けられ、そしてその三倍以上残る大皿はすべてガイウスの元に回される。
「乾杯だ」
「はい!」
渡されたグラスを、そっとガイウスのものと合わせる。
最初は戸惑ったものの、渡された料理はどれも目を見開くほどに美味しい。セレーネはいつの間にか本来の目的も忘れて食事に夢中になっていた。
スパイスのきいたスープ、豪快な焼き目の香る肉、正体のわからない不思議な食感の半透明な具材……どれもこれも、今まで口にしたことのない味だ。
気がつけばお皿の中は空っぽになっていて、そして自分のお腹ははち切れんばかりにいっぱいになっていた。
「気に入ったようだな」
笑いを含んだガイウスの声に、頬が赤くなるのを感じる。少し詰め込みすぎてしまっただろうか。
チラリと見れば、セレーネの三倍の量はあったはずだというのにガイウスの皿もすっかり空っぽになっていた。彼の健啖っぷりに、内心で舌を巻く。
「そろそろ始まるぞ」
ぼそりと、ガイウスが呟く。その呟きを合図にしたように、突然歓声が上がった。
彼らの視線の先を見れば、赤いドレスを身にまとった肉感的な美女がゆっくりと歩いてきているのが目に入る。
艶やかな笑顔を浮かべた彼女は、カウンターの横の少しだけ高くなったスペースまでやって来るとそこでゆっくりとお辞儀をした。
「じゃあ、始めるわね。まずは『楽しい我が家』から」
そんなに大きな声を出したわけでもないのに、ややハスキーな彼女の声はざわつく店の隅までよく通る。
しん、と一瞬店内が静まり返った。
その瞬間を見逃さず、目立たぬところに待機していた伴奏者が弦楽器を鳴らしはじめる。
居酒屋の雑音が鳴り響く中で、彼女のコンサートは唐突に始まった。
――それは、セレーネの知るどんな歌とも違うものであった。
教会で歌う荘厳な讃美歌でも、母が聴かせてくれた穏やかな愛情に満ちた子守唄でもない。
それは生きる喜びを歌う歌であった。日々の大変さを乗り越える勇気の歌であった。抑えきれぬ恋の熱情の歌であった。
どれもこれも生々しい感情に満ちていて、聴いている者の心を突き動かしていく。
そして、歌に対する反応もまた、さまざまであった。
手拍子を叩いて盛り上がる者、知っている曲を一緒に口ずさむ者、歌に耳を傾けながら食事を楽しむ者、歌を一切気にせずおしゃべりに興じる者――その反応まで含めて彼女の歌は店の雰囲気によく合っていて、至って自然でそして自由であった。
やがて、いつまでも続くかと思われた歌が終わる。
店の中が喝采に沸き、そして何事もなかったかのように落ち着いていく。
――後に残るのは、先ほどと変わらない賑やかで騒がしい酒場の雰囲気だ。
でも、その中に一粒の清涼剤のように彼女の歌の気配が残っているように思うのは、セレーネの勘違いだろうか。
「団長さん、久しぶりだねぇ!」
「ひゃっ!?」
歌のなくなった空気に寂しさを覚えながらデザートを食べていたところで、突然親しげな声が掛けられた。
「待たせちゃって、すまないね。いやぁ、あんだけ歌うとお腹が空いちゃってさぁ」
そう言いながら空いている椅子にどっかりと腰を掛けたのは、先ほどまで歌を披露していた美しい女性。
目立つ朱色のドレスは茶色の外套でほぼ隠されているが、匂い立つような彼女の色香はそのまままだ。
「ああああの、すっごい良い歌でした! 身体の中が直接揺さぶられるような感じで、私すっごく感動して……その、ありがとうございました!」
慌てて口の中の甘味を飲み込んでから、セレーネは立ち上がって歌の感想を伝えようとする。
でも緊張と興奮で、出て来る言葉は言いたいことの一割にも満たないような切れ端ばかりだ。
それなのに、女性は目を細めて嬉しそうに笑う。
「そうかい、そうかい。そんな素直な褒め言葉を聞くと、背中が痒くなっちゃうね。まぁ喜んでもらえて何よりだよ。……団長さん、こちらの可愛い方はどなた?」
「俺の婚約者だ」
へぇえ、とガイウスの言葉に目を丸くして、女性はセレーネに手を伸ばす。
「団長さんに、こんなに素敵な婚約者さんが現れるとはね。おめでとさん! ……私はティナ。しがない酒場の歌手をやってる」
「よろしくお願いします……!」
「んで? 団長さんは婚約者を連れて、どうしてこんな酒場まで?」
「それがだな……」
「……という訳で、ティナ。アンタに歌の指導を頼みたい」
「はぁぁああ〜??」
ガイウスが手短に事情を話し終えたところで、ティナの口から飛び出してきたのは素っ頓狂な悲鳴であった。
「嘘でしょ、本気で言ってんの? 聖女サマ相手に? 酒場の女が歌唱指導??」
「何かまずいのか」
「いやいや、冗談はその怖すぎる顔だけにしといてよ。聖女サマとかお貴族サマの歌ってのは、もっと高尚で芸術的なモノでしょ? 酒場で歌ってる下賤な私に教えられるわけないじゃない! セレーネちゃんだって、突然こんなトコ連れて来られて絶対びっくりしてるわよ!」
「その、驚きはしましたが……」
恐る恐るセレーネは口を挟む。
「私、ティナさんの歌に本当に感動したんです。もしご迷惑でなければ、ご指導いただけると嬉しいです」
「アンタは色んな歌を知ってるし、適任だと思う」
すかさずガイウスが言葉を添える。
しばらく「あ〜」と呆れた声を洩らしてから、ティナはガシガシと後頭部をかく。
「別にセレーネちゃんがそれで良いってなら、私は構わないけどね。でも、私が指導したところでそのサイッテーな男をギャフンと言わせることはできないわよ? そんな男が弱いのは、権威とか金とかそういうわかりやすいヤツだから」
「別に、あの人を見返したいとかではないんです」
セレーネはキッパリと首を振る。
「私はただ、自分の歌を好きになりたい。そして、ガイウス様のために胸を張って歌いたい――そのために、ティナさんのお力をお借りできませんか」
「ふぅーん……」
ニヤリと笑ってから、ティナは勢いよくガイウスの背中を叩いた。バシーンッ、とセレーネが思わず息を呑むほどの大きな音が鳴り響く。
「良かったねぇ、団長さん! デートの場所に居酒屋を選ぶセンスのない男のところに、こんな良い子が来てくれるなんて。二度とない幸運だよ?」
「ったく、アンタは相変わらず気が強い……」
遠慮のない二人のやり取りを微笑ましく眺めていたセレーネは、しかし、心が何故かチクリと痛むのを感じた。
この幸福な時間に水を差すような、小さな痛み。その正体がわからないままに、セレーネは何気なく口を開く。
「その、ティナさんはガイウス様のことを怖がらないんですね……」
口に出してから、自分がとんでもなく失礼なことを口走っていたことに気がつく。
「いえ! その! 怖がってほしいわけではなくて、ですね……!」
「酒場で歌なんて歌ってたら、どうしたって度胸はつくからね。確かに団長さんはいつも顰めっ面だし目は釣り上がってるしガタイは良いしで迫力あるけど、別に居酒屋で暴れるわけでもなし。むしろ店の治安が良くなるから、ありがたいくらいよ」
あっさりと答えてから、ティナは「ああ」と呟いてニヤリとする。
「こんなに可愛いコにここまで愛されてるなんて、団長さん、ニクいねぇ!」
「何を言う。彼女に失礼だろう」
ガイウスは憮然とするが、ティナの確信に満ちた態度は変わらない。
「なーに言ってんの、本当に朴念仁なんだから! 今の反応見ててわからない? このコ、団長さんに近すぎるって私にヤキモチ妬いているのよ」
「何を馬鹿な。なぁ、セレーネ?」
軽い調子で振られるが、セレーネは「う」とか「あ……」とか言葉にならない声を返すことしかできない。
ティナに指摘されて、ようやく気がついたのだ。自分のこの感情が、紛うことない嫉妬心だということに。
どんどん耳に血が集まっていくのがわかる。きっと、自分の顔は真っ赤になっていることだろう。
恥ずかしくて、俯いた顔が上げられない。
「いや、その……悪い」
気まずそうにガイウスが謝罪の言葉を述べる。それがより一層、ギクシャクした空気を浮き彫りにしてしまって。
「嘘でしょ、アンタ達どこまでピュアなのよ!?」
もどかしい雰囲気をひっくり返したのは、ティナの豪快な笑い声だった。
一度笑い出した彼女は、なかなか笑い止まない。しまいには目に涙を滲ませて苦しそうにヒィヒィと声を上げながら、それでも彼女は笑い続ける。
「ごめんなさい、団長さんがその顰めっ面で初心なのが本っ当に意外で! フフフッ、でも、なんか応援したくなっちゃう! ……良いわ、私で良いなら歌の先生になってあげる。二人のこと、もっと近くで見させてちょうだい」
「良いのか?」
「ありがとうございます!」
喜びに沸く二人に、ティナは茶目っけたっぷりにウインクしてみせる。
「その代わり、二人の結婚式には私も呼んでね?」
――そうして、セレーネは歌だけでなく恋についても頼りになる先輩、ティナと仲良くなったのだった。