5 歌うのは、嫌いか
そんな会話が交わされていたとはつゆ知らず、セレーネはその日の夜もガイウスに歌を捧げていた。
既に彼女の乏しいレパートリーは尽きている。今日の歌は、もう何度か彼の前で歌ったことのある童謡だ。
相変わらず難しい顔をして、ガイウスは微動だにせず彼女の歌に耳を傾ける。
その生真面目な鑑賞姿勢に、セレーネは喜びと同時に居た堪れない申し訳なさを抱えていた。
「歌うのは、嫌いか」
歌い終わったセレーネに、ぼそりとガイウスが尋ねた。
その思いがけない質問に、セレーネの身体がびくりと跳ねる。もしかして、気づかぬうちに彼の気分を損ねてしまったのだろうか。
「す、すみません……! 私の歌い方が不快でしたか……?」
かつて前の婚約者に「辛気臭い」となじられた記憶が蘇る。
それからは歌う時は笑顔を心がけていたが、どうしたって歌う人間は同じなのだから自信は持てなかった。
何を言われるのだろうと身を縮めるセレーネに、ガイウスはきっぱりと首を振る。
「違う。恐縮する必要はない。ただ、気になっただけだ」
迷うように瞳を揺らしてから、俺は、とガイウスは続ける。
「奇跡の効果を除いても、セレーネの歌を気に入っている。だが、セレーネが辛いのなら、無理に歌う必要はない。毎日の奇跡のおかげで、俺の呪いもほとんど痛まなくなった」
「ガイウス様……」
彼の口から出た予想外の言葉に、セレーネは息を呑む。
たどたどしく不器用な言い方であったが、彼の言葉は嘘のない誠実な気遣いに溢れている。――それが、彼女の心を打った。
「私、そんなに嫌そうに歌っていますか」
「嫌そうというより、辛そうだ。そして、怯えている。俺が原因であれば……」
「いえ、違います」
ガイウスの弱気な言葉を、セレーネはすかさず否定した。優しい彼に、これ以上負い目を感じてほしくはないから。
ひと呼吸おいてから、彼女はもう一度口を開く。
「ガイウス様に歌を捧げることは、私にとっても喜びです。それは、間違いありません。――私の歌を褒めてくれるガイウス様の言葉を疑っているわけではないんです。でも、過去の経験から私はどうしても自分の歌に自信が持てなくて……」
言葉にしながら、胸の前でギュッと手を握りしめた。
血の回らなくなった指先が白く染まり、小さく震える。それを、どこか他人事のようにセレーネは見ていた。
心の柔らかい部分につけられた、醜い爪痕。
意識することすら嫌で、ずっとそれと向き合うことを避けていた。目を逸らし続けていた。
――でも、本当は誰かに聞いてほしかった。
聞いてほしい「誰か」に出会うことなんて、今までなかったけれど。
でも、今。
無口で顔が怖くて……そして不器用な優しさを持つ彼に聞いてほしいと。――そう思ったことに、自分でも驚きを覚えている。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「ガイウス様もご存じのとおり、私は婚約者に捨てられた女です」
そっと吐き出した声は震えていて。
でも、ガイウスを見つめるその視線を逸らすことはしなかった。
何か言いかける彼を制して、セレーネは話を続ける。
「前の婚約者であるマシュー様はこの婚約に乗り気ではありませんでした。これは、彼の叔父である総司令官のグルディア様が強引に結んだ話ですから」
総司令官は騎士団長の上司にあたる立場になる。グルディアのことは、ガイウスもよく知っていた。
今回のセレーネとの婚約も、実のところ彼の口利きによるものだ。
聖女を騎士団の身内に取り込んでおくことは重要だから、と半ば強引にマシューの後釜を命じられたのだ。
つまり彼は、自分のあつらえた婚約が失敗に終わった尻拭いをガイウスに押しつけたこととなる。
……まぁ、今ではガイウスもこの縁に感謝をしているのだけれど。
「何故、総司令官殿はセレーネを……」
「当時、マシュー様は訓練中に大きな怪我を負ってしまったのです。私の声で痛みを治せるなら、と考えたのでしょう」
聖女の奇跡は、本来そう簡単に手に入れられるものではない。大概は聖女認定された時点で有力者に囲い込まれてしまうからだ。
だからこそ、このタイミングで聖女として現れた婚約者のいない彼女は、これ以上ないほどに都合の良い存在だったわけだ。
でも、とセレーネは悲しげに続ける。
「残念ながら、私の聖女の力は微々たるモノでした。怪我を治す力なんて、到底なかった……」
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
――その時のことを、セレーネは鮮明に覚えている。
初めての顔合わせの時から、マシューは無理やり引き合わされた彼女に否定的であった。
「こんな貧相な女が、僕の婚約者だって? 最悪だ」
聖女の装いで現れた彼女に向かって、マシューは悪しざまに言い放つ。
そんな彼の冷たい反応に、セレーネは思わず顔を伏せた。
自身の恰好が顔合わせに相応しくないものであることは、わかっていた。けれど、聖女の装い以外に彼女はちゃんとした服を持っていないのだ。
実家である伯爵家で、妾腹である彼女の環境はあまり恵まれたものではなかった。
銀色の髪は櫛を通しただけで結うこともせず、肩に垂らしただけ。化粧っ気もなく、肌もかさかさで荒れている。
そんな醜い彼女と婚姻することになったなんて、遊び人として名高いマシューにとっては屈辱以外の何物でもないだろう。
「ちっ、叔父貴の命令とはいえ、相手がこんな女とはな。……それじゃ、さっさと歌えよ。それしか役に立たないんだろ」
高圧的な言葉にびく、と身体が震える。
彼の不快そうな視線に耐えながら、セレーネは必死に歌いはじめた。緊張から喉が引き攣る。それでもかすれた声で必死に一曲終えて――。
「下手くそだな」
マシューが言い放ったのは、そんな辛辣な評価であった。
「音程もメチャクチャだし、声も出ていない。そして何だ、その曲は? 子供向けの歌なんか歌って、僕を馬鹿にしているのか?」
「いえ、そんなつもりは……」
やんわりと否定をするが、マシューは彼女の反応など気にも留めない。
「まぁ確かに、多少は痛みがマシになったような気はするが……その程度だな。傷が治るようにも感じないし、力としては下の下か。くそっ、能無しが」
吐き捨てるように言って、マシューは背を向ける。
最後に放った一瞥は、氷の矢のように冷たいものだった。
――その後のマシューとの顔合わせも、似たようなものだった。
一応痛み止めとしての役割は認めているらしく、セレーネは定期的に彼に呼び出されることとなった。
でも、婚約者としての交流などそこにはない。彼が何かをしている横で、ひたすら歌わされるだけだ。時にマシューは、恋人とおぼしき女性を侍らせていることもあった。
さらに彼女の心を削ったのは、彼の反応だ。
歌っている彼女の横で聴くに耐えないと言わんばかりに首を振ったり、溜め息をついたり。
そして歌い終えたときには決まって「下手くそ」とボソッと呟くのだ。
もともと、歌を歌うことは好きだった。その時だけは、辛いことを忘れられたから。
でも、マシューの態度は徐々にセレーネの気持ちを蝕んでいった。
そして気がつけば、歌を披露することに震えるほどの苦手意識を感じるようになってしまっていたのである。
そんな彼との日々は、唐突に終わりを迎えた。
「お前との婚約を破棄する」
最後までセレーネと目を合わせることなく、マシューは一方的に宣言した。
「ようやく筆頭聖女の奇跡を受けることができた。お前とは違う、本物の奇跡だ! ……これで、俺の怪我が治る。お前ももう、用済みだ。毎回毎回クソみたいな時間を取らせやがって」
「そんな……」
失意に沈むセレーネを、マシューはさらに追い打ちをかける。
「ああ、次の婚約のことなら既に叔父貴に相談してあるから安心しろよ。お前の次の婚約者は、新参騎士団長のガイウスだ。血に飢えた悪鬼と名高い凶悪騎士団長を、その下手くそな歌で慰めてやったらどうだ?」
――そうして、急遽セレーネとガイウスの婚姻は結ばれたのであった。
「マシュー様の言葉も、もっともなんです。私は音楽をちゃんと習ったわけでもありませんし、歌える歌だって母が聴かせてくれた子守唄や童謡だけ。ちょっとした奇跡をもたらせるから、歌の聖女と呼ばれてはいますが……。だから、ガイウス様に喜んでいただけるのは嬉しいんですけど、歌に関しては自信が持てなくて」
「そうか」
彼女の長い独白を聞き終えたガイウスは、簡潔にひと言述べた。
普段は吊り上がっている眉を悲しそうにひそめ、彼は傷だらけの腕をそっとセレーネに向ける。
「……辛かったな」
ぽん、と優しく肩に手が回された。
自分のではない温かな体温と、柔らかなほっとする香り。
「いえ、辛かったというわけでは……」
「アンタは……セレーネは、よく頑張った」
――何故だろう。別に、特別なことを言われたわけではないのに。
そのひと言に、つんと鼻の奥が切なくなった。はく、はくと息が乱れる。
その呼吸は、やがてしゃくりあげるような声になっていって。
婚約破棄をされてから、セレーネは初めて声を上げて泣いたのだった。
「お見苦しいところをお見せしました」
徐々に冷静さが戻ってくるにつれて、羞恥心が込み上げてくる。
ガイウスの胸に顔を埋めたまま、セレーネはそっと謝罪の言葉を口にした。
「俺は気にしていない」
ぶっきらぼうなガイウスの言葉が、どれだけ嬉しいことか。
優しく、強引ではないほどの強さで彼はセレーネの肩を抱く。
「俺はセレーネの歌が下手だと思ったことはないし、良いと思っている。でも、その音程やら曲目やらに引け目を感じるってなら、いっそそれを習ってみたらどうだ」
「習う、ですか……?」
「ああ。プロの歌手に指導してもらえば良い。その最低な男は別に歌の専門家ってわけでもないんだろ? プロに認めてもらえれば、自信もつくんじゃないか」
「でも、プロの歌手なんて……」
「任せろ」
戸惑うセレーネに、ガイウスは自信たっぷりに答える。
「俺にひとつ、アテがある」




