1 アンタの歌には価値がある
顔を上げろ、と言われてからどれくらいの時間が経っただろう。
おそらく十秒にも満たないその瞬間を、セレーネは切り取られた永遠の時間のように感じていた。
険しい顔で射貫くような鋭い眼光をセレーネに向けているのは、見上げるほどに大きい体躯の男性だ。
身長だけではない。がっしりした肩幅も厚い胸板も丸太のような四肢も……何もかも彼はすべてが大きく、セレーネを圧倒している。
猛々しい、という表現がまさにピッタリくるような男であった。
その立派な体格も、焔を宿した赤銅色の短い髪も、こめかみに薄く残る大きな傷跡も、匂い立つような獰猛さと血の匂いを振り撒いている。
それは、話でしか聞いたことのない戦をセレーネに思い起こさせるものであった。
背中に汗が流れるのを感じる。ヘビに睨まれたカエルのようにセレーネはじっと身を固くして、その剣呑な視線を受け止め続ける。
気がつけば、息をすることすら忘れていた。
――永遠にも感じる長い対面を経て。
「アンタが《歌の聖女》か」
ぶっきらぼうで獣の唸り声のように低い声が、男の口から発せられた。
萎縮しながらもセレーネはそれに腰を折って答える。
「はい。ガイウス騎士団長様。セレーネ・ステラトスと申します。貴方のもとに輿入れに参りました。このたびは急な話ですが……」
「歓迎する」
「え??」
セレーネの言葉を遮るように短く告げられたひと言に、反射的に間抜けな声が出た。
そんな礼を失した彼女に気を悪くする様子もなく、ガイウスはもう一度ゆっくりと述べる。
「アンタを歓迎する、と言った」
「その、お言葉は嬉しいのですが……」
思いがけない反応に戸惑いながらも、セレーネは彼が勘違いをしているのではないかと慌てて口を開く。
「聖女とは言いましても、私は教会の中でも最下級の力しか持ち合わせておりません。怪我や病に関しては、まったくの役立たずです。私にできるのはせいぜい、歌声で痛みを和らげるくらいで……」
「それを求めていた」
端的にそう告げると、厳めしい顔つきのままガイウスはやおら身に纏っているマントを床へと放り捨てた。
どさり、という重い音を背に、今度は騎士団長の徽章のついた上着の前を彼は躊躇いもなくガバリと開く。
「きゃっ」
「旦那さま……」
初めて目にする男性の脱衣に赤面して目を背けるセレーネと、困り顔を浮かべながらも服が崩れないように拾い集める執事。
両者の反応を尻目に、肌を隠す最後の一枚となるシャツの前をガイウスは大きく広げる。
「これを、見てくれ」
低い声の指示に、セレーネは恐々と顔を上げた。
上半身であっても、男性の裸体を見ることは初めてのことだ。羞恥心で逃げ出したくなる衝動を、無理やりに抑えつける。
大丈夫、いずれ旦那さまとなるお方なのだから……自分にそう言い聞かせながら、おずおずと示された場所へと目を向ける。
そこで彼女はハッと息を呑んだ。
「これは、魔物にやられたのですか。なんてひどい、呪いの跡……」
「ああ、三ヶ月前の傷だ。魔物は屠ったが、この傷はいつまで経っても治らん」
「怪我には慣れているはずの旦那さまが、ここ最近はずっとこの傷の痛みに苦しめられているのです」
「ジル、黙ってろ」
横から口を出した執事に、今にも噛みつきそうな声でガイウスは唸る。
しかし、そんな殺気立つ彼の声を気にせず、ジルと呼ばれた執事は言葉を続けた。
「いいえ、黙ってはいられません。旦那さまのお身体に関わることなのですから! 聞けば、魔物の呪いによる苦しみは一生涯ついてまわるとのこと。私も心を痛めていたのですが、聖女さまのお力があれば……!」
「その口を閉じろと言ってるんだ。こっちの勝手な都合を押し付けるな」
「いえ、やらせてください」
押し問答する二人を前に、迷いなくセレーネははっきりと答えた。
常に相手を睨んでいるような吊り上がり気味のガイウスの目が、驚きに丸くなる。その反応に微笑みをこぼしながら、セレーネは背筋を伸ばした。
「どこまでお役に立てるかわかりませんが、私の歌を捧げましょう」
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
場所が変わろうと、相手が変わろうと、なすべきことはいつも同じだ。
慣れた旋律をなぞりながら、セレーネは心を込めて歌いはじめる。
この声が、歌が、少しでも彼の痛みを癒すことを祈りながら。
母との思い出が詰まった、優しい子守唄。
勇壮な、男らしいガイウスには合わないかもしれないと思いつつも、セレーネの知る歌のレパートリーは少ない。
喜ばれなくても、あの人のように聞き流してくれれば効果はあるのだ。遮られることだけを恐れて、セレーネは歌い続ける。
――やがて、邪魔をされることもなく歌の終わりまで来て。
セレーネは、そっと口を閉じた。
沈黙が、頭上に重くのしかかる。
顔を上げて相手の反応を確かめるのが、怖い。
「お聞き苦しいものを失礼しました。その、お耳障りでも聞き流していただければ効果は出ると思いますので……」
顔を伏せたまま言い訳を口にする。
言葉を重ねれば重ねるほど惨めな気持ちは増していって、声はどんどん早口になっていった。死刑宣告を待つかのように、気持ちはひたすらに追い詰められていく。
そんな彼女を落ち着かせるかのように、ポン、と優しい感触がした。
大きくて分厚い手が、躊躇いがちに彼女の頭をゆっくりと撫でる。――それは粗野で凶悪という彼の噂にはそぐわない、優しくてホッとする暖かな手つきであった。
その感触に、セレーネの気持ちは徐々に穏やかさを取り戻していく。ふっとセレーネの肩のこわばりが解れた。
顔を上げれば、気まずそうにガイウスは目を逸らして手を離す。
取り繕うようにシャツのボタンを留め直す彼の姿に、あらためてその半裸の姿に気付かされた。
先ほどの状況を客観的に振り返ったセレーネの頬が、恥ずかしさに朱く染まっていく。
「……良い声だった」
ぽつりと、視線を落としたまま無愛想にガイウスは呟いた。
ひと言だけの、不器用な賛辞。そんな彼の言葉不足を補うかのように、その横でジルが何度も頷きながら激しく手を叩きはじめる。
「言葉が足りなすぎます、旦那さま! こんな素敵な歌を聖女さまが披露してくださったというのに……。わたくし芸術には疎いのですが、感動で涙がこみ上げました。旦那さまにも奇跡が感じられたのでは?」
しばらく確かめるように身体を動かしてから、ガイウスは「そうだな……」と慎重に口を開いた。
「確かに、痛みはなくなったように思える」
「旦那さま……!」
ガイウスの言葉に、ジルは感動で身を震わせる。
「嬉しゅうございます! 要らなくなった結婚相手を下げ渡すと突然通達が来たときは、一体どんな問題人物を押し付けられるか戦々恐々の思いでしたが…」
「ジル! 今すぐその口を閉じろ!」
ビリビリとガラスが震えるほどの怒鳴り声が響きわたった。吠えるようなその声に、ベラベラと調子よく喋っていたジルは慌ててその口を噤む。
怒気をあらわにしたガイウスの剣幕は、気の弱い女性であれば失神してしまうであろうほどに恐ろしい。
しかし、ジルが頭を下げたのは、そんな主人ではなくセレーネに対してであった。
「大変失礼いたしました。不用意な発言を、心よりお詫びいたします」
「いえ、そんな……」
自分は気にしてないと、セレーネはわたわた両手を振る。普段他人に頭を下げられたことのない彼女には、この場をどう納めれば良いのかわからない。
助けを求めてガイウスに目を向ければ、「とにかく」と、強引に彼は言葉を話を断ち切った。
「外聞や過程を気にするな。俺たちはアンタを歓迎している」
「旦那さまのお言葉のとおりです。セレーネさまのお部屋も、張り切って準備いたしました。……とはいえ、屋敷に女性が住まうのは初めてのこと。何かと不足はあると思いますので、遠慮なくこのジルにお申し付けくださいませ」
「ありがとうございます……」
「アンタの歌にはそれだけの価値がある」
申し訳なさそうに身を縮めるセレーネに、ガイウスはこともなげに告げる。
「その歌を聞かせてもらえれば、それ以上は求めない。自由に過ごしてくれ」