第六部
「なんだって?」
私は呟き、そのモニターを凝視する。
“現在地不明”
しかしそこには確かにそう書かれていた。
しかも、さっきまで表示されていた海図も消えている。
私はキャノピーの外を見た。
探照灯が照らす先には、さっきまであったはずの黒い崖が見えなかった。
真っ暗な水だけだ。
水深計を確認する。
水深500メートル。
私は目を疑った。さっきよりずっと深いじゃないか。そしてゾッとする。もしこの表示が正しいなら、自分はとんでもないところにいる。深さ自体はこの機体の潜行可能水深の範疇だが、急激な圧力変化が生じたはず。この機体の耐性がもう少し低かったら圧死していた。
私は恐れ戦きながら、周囲を確認した。
機体を少しひねると、岩の壁が見えた。
ノーチラス島の水面下の部分か。ではここはさっきの場所か?
しかし、岩肌の様子がさっきと違う。それに「現在地不明」の表示はそのままだ。
私はさらに周囲を見て、戦慄した。
巨大なホヤみたいな怪物がぬうっと屹立していた。
あいつだ。
あの怪物が、目の前にいる。
これは一体どういうことだ?何が起きている?
私は反射的に機体を操作した。回転衝角を起動、逆回転。視界が泡だらけになる。しかし機体はすごい勢いで後退した。
回転衝角を止める。そうしないと前が見えない。泡が晴れた先、ずっと向こうにあの怪物が見えた。距離を開けることができた。でも、さっきみたいな遠隔攻撃を食らったらひとたまりもない。私はそいつの顎みたいな突起を見据えた。
さっき、左腕をやられたときはたぶん、水の塊みたいなもので攻撃された。
よくわからないが、有り得るとすれば、あの出水孔みたいなところから戦艦の主砲のように高密度の水塊を撃ちだしているのかもしれない。
ならば、一箇所に止まっていたら危険だ。
そう考えて、私は機体を横に滑らせるように移動させた。停止しないように、でも怪物から目を離さないように、怪物の周囲を巡る。
その間に、フクラスズメのAIが周囲の索敵を行っていた。
この機体に搭載されているAIはごく平凡なタイプだが、アーベル氏の調整が優れているためか機体との相性がよく、すでに必要な演算を始めている。だが現在地は不明のままだ。情報が少なすぎるのだ。
でも、私は何となく思いついたことがあった。
この怪物はノーチラス島の秘密を封じた場所を守護する神だ。
秘密が漏れる危険があるとき、こいつはどんな対応をするか?
あるいは、どのような対応が最も相応しいか?
それについては、少し前にコノハ助教が言っていた。
君は自分の秘密がバレるのは嫌だろう、と訊いた私に、彼女はこう答えたのだ。
「だからって人間を殺しまくってどうする?賢いやり方はさっきみたいに誤魔化すことさ」
誤魔化す———。
そうか。殺人事件は探偵や刑事が呼ばれなければそもそも事件では無くなる。
最も良い方法は、「誰にも気づかれないこと」なのだ。
だから、ノーチラス島の秘密が眠るこの場所は、気づかれた瞬間、別の場所に転移するのだ。そして探索者の前から消えてしまう。そうすればもう追っ手は来ない。
だが、この秘密を見た当事者だけは別だ。この場合は私だ。私は、いかにこれが私の前から消えたとしても、しっかり憶えている。誤魔化しは利かない。
そう言った場合は、どうするか?
決まっている。秘密を知った当事者もろとも転移して、そこで証拠を隠滅するのだ。すなわち、この場で当事者を、すなわち私を、葬り去るのだ。
そうすれば、表向きには行方不明者が一人出ただけになる。この島ではよくあることだ。誰も気にしない。たとえ気にしたとしても、島は海洋を浮動している。現場はどんどん遠ざかり、不明者は4000メートルの深海に消える。
これはまずいぞ。
この守護神は、ここで私を消すつもりだ。
私はぬうっと屹立する怪物を見た。
二つの突起がこちらを追うようにゆっくり動いている気がする。
やはり、狙いを付けてこちらを狙撃するつもりか。
どうする?
私は考えを巡らせた。
でも決まっている。逃げるしかない。
だがどうやって?
下手をすると背後から狙い撃ちされる。このまま相手の様子を見ながらジワジワと後退するか?でもこいつは対象物を転移させることができるのだ。またこいつの正面に戻されるかもしれない。
では攻撃するか?
だがこちらには遠隔攻撃できる武器がない。回転衝角で突っ込むのは無謀だ。突っ込んでいく間にあの水球で粉砕される可能性が高い。
どうする?
私はちらっと背後を見た。サクラ技官が何とかしてくれないか?
だが彼女は黙ったままだった。
私はここで恐るべき考えに思い至った。
彼女は精霊、つまり、「ノーチラス島側」の存在だ。
つまり、今私が相対している守護神の一派なのだ。
だとしたら、ここで私に味方してくれるだろうか?
実際、さっき左腕が破壊されたときも、この場所に転移されたときも、彼女は何もしなかった。
もしかして、私は、前と後ろからわけのわからない存在に挟まれているのか?
「サクラ、技官」
私はすぐ後ろにある白い顔を振り返った。
彼女は能面のような顔のまま、ターコイズブルーの瞳で、じっと怪物を見ていた。
そして、すっとそれを指さす。
「Regardez」
私ははっとして怪物を見た。
二つの突起のうち、出水孔と覚しきものはそのままだが、その下にある入水孔みたいなものがぶわっと膨れていた。
入水孔が作動する?
入水———
まずい!
私は思いきり操縦桿を倒した。
だが、遅かった。
一瞬機体がぐらっと揺れ、次の瞬間、正面のガラスの真ん前に、樹木のような肌が見えた。
あの怪物の表皮だ。
一瞬で、機体は怪物のすぐ脇まで転送されていた。
入水孔は、空間を吸い込むのだ。私とそいつの間にあった空間を吸い込んで、私をすぐ傍まで引き寄せたのだ。
私は総毛だった。
攻撃される!
私は怪物を見た。顎みたいな出水孔がこちらを向いていた。
撃たれる!
ぶわっと出水孔が広がり、水の塊が打ち出された。
私の目の前で景色が歪む。凄まじい密度を持つ水塊が目の前にあった。
これまでだ、と思った。
最後に見たコノハ助教の姿が何故か浮かんだ。ストーブの前で寒そうに体を丸めていた彼女。あれが見納めだったか。
その時、私の目の前で、突如として何かが弾けた。
次の瞬間、高密度の水球が跡形も無く消えていた。
私の背後から白い手が前に伸びている。
サクラ技官が手を前に伸ばしていた。
まさか
彼女が、あれを打ち消した?
しかし、また出水孔がぶわっと膨らむ。また来る。
私は回転衝角を起動。最高出力で機体を前進させた。
機体は放たれた矢のように水中を突き進み、崖に空いた黒い穴に突っ込んだ。
この島の秘密が眠る場所。この島の心臓部。この守護神から逃げるにはここしかない。しかし、これが最悪の選択であったことを私は後で知ることになる。
フクラスズメは暗黒の洞窟に突入し、そして次の瞬間、水の壁を突き抜けた。
機体は開けた空間に飛び出していた。
「Attention」
小さく鋭い声がした。
私は歯を食いしばって、操縦桿を握る。周囲から水が消え、慣性の法則で飛んでいた機体が墜落を始める。私は駆動系を空中モードにした。背部のエンジンから蒼い光芒が放たれ、四枚の翼が展開して、揚力を得る。機体は斜めに傾きながらもぐいっと機首を持ち上げた。
姿勢が回復した。
どうした?ここはどこだ?
さっきまで水中だったのに?
深度計の表示は500メートルのままだ。深度計は空中だと役に立たない。高度計は?
気圧高度計も電波高度計もでたらめな数値を示している。
私は周囲を見た。
強化ガラスの向こうの世界を見た、はずだった。
しかしその途端、私の脳が凄まじい警告を放った。
それは、これまで感じたことのない凄まじい恐怖だった。
周囲の壁にはさっきのホヤみたいなものがびっしりと生えていたような気がする。
広い空間の真ん中に、不気味な白い光を放つ球体があったような気がする。
そして周囲から何とも言えない不気味な音が響いていた気がする。
しかしそれらが脳中枢に視覚や聴覚の情報として送られたとき、私の新皮質はそれを分析することを拒んだ。それこそまさに種の防衛本能だったのだろう。
しかし、それを易々と突き破るほどの凶悪さを、その場所は備えていた。新皮質の制御を無視して、恐怖の中枢である扁桃体が狂ったように活性化する。入ってくる情報が全て恐怖に変換されていた。見ても、聴いても、触れても、息をしても、怖い。
夢を見ているときは、どうでもいいことが妙に恐ろしく感じられることがある。目覚めた後で思い返したら全く大したことないのに、夢の中ではやけに恐ろしいのだ。その感じを数百倍に増幅した恐怖と言えば伝わるだろうか?
恐らくこれも異物を排斥するための防御機構だ。
秘密を見たものはあまねく発狂するのだ。
本来なら私の精神もなすすべなく破壊されていただろう。
だが、フクラスズメの装甲と強化ガラスが、死に至る音響の幾らかを遮断した。そして、アーベル氏と館長から脳の中に送られたよくわからない「核」なる仕掛けが障壁としてはたらき、恐怖の侵蝕からの盾となった。そして何よりあの地底世界で精霊たちを使役する権能を得たときに入ってきたもの、すなわち「こちら側のもの」が、狂気の波動を中和した。
そうして、私はこの恐怖の島の中枢の中でもギリギリ人としての意識を保っていたのである。
だが、それもあと一瞬で消える。
「サクラ技官!」
私は半分狂った頭で絶叫していた。
「Retournez sur l'île de l'Abîme!」
震える語尾が発狂した司祭の詠唱のように歪み、そして、
「D'accord」
次の瞬間、背後から気配が消え、フクラスズメの前にふわりとサクラ技官が浮かんだ。彼女は空中で旅行鞄を開く。私の目の前で玩具の家が組み上がり、ドアが開いた。
その先に見えた世界へ、私はフクラスズメの回転衝角を突き立てた。
これがこの時の最後の記憶だ。私の精神はそれが限界だった。
狂った白い世界の中で、誰かの名を呼んだ気がする。でももう何もわからない。
———それからかなりの時間が経ったようだ。
ぼんやりと、記憶が甦る。
あれはいつのことだったか。遠い遠い記憶だ。人間という種は出生から数年程度の記憶を失う。人生最初の記憶は3歳か4歳くらいとされている。これはそんな最古の記憶の一つだ。
私は日本の田舎にある家の座敷で古い映画を見ていた。
旧型のテレビの画面の中では、何やら洞窟みたいな場所に探検隊のような人々が入り、そこで何かに襲われていた。
探検隊を襲っていたのは、黒いアメーバのような、あるいは葛飾北斎が描く高波のような物体で、それが手招きをするように波打ち、探検隊に覆い被さっていく。
それを見た私は恐怖に戦き、泣き叫んだ。すぐに父親がテレビのチャンネルを変えて、その映像は途切れた。
それから私はいろんな映画を見たが、あの時の作品が何だったのか、わからなかった。もしかしたら夢だったのかもしれない。それにきっと、私の記憶そのままではないだろう。アメーバみたいな怪物として記憶に残っているあれは、たぶん何か他のものだった。
成長するにつれ、私は様々な生き物に興味を抱くようになった。私の好奇心は留まることを知らず、昆虫から爬虫類、植物に菌類などなど、地球に生きる多くの生物が興味の対象となった。ただし、人間はどうしても好きになれなかった。それともう一つ、私はある生き物を心底怖れていた。
自分でもどうしてそれがそんなに恐ろしかったのか、わからない。その生き物とは、鱗翅目昆虫の幼虫、すなわちイモムシと毛虫であった。
田舎に住んでいた私にとってそれらは身近な存在であり、そのために常に私を脅かした。春になると緑が芽吹き、草原には色とりどりの花が咲き乱れたが、丈の高い植物には黒いブラシのようなヒトリガの幼虫が無数に張り付いていた。夏になって雑木林にカブトムシやクワガタが現れるようになると、クヌギの葉の上には巨大で禍々しい形をしたクヌギカレハの幼虫がいて、頭部の毛束を左右に振っていた。夕暮れの公園では、アケビの葉の上をアケビコノハの幼虫が這い、大きな眼状紋をひけらかしていた。通学路の脇でカラムシが繁茂するようになると、その葉の一枚一枚の裏側には毒々しい色をして長い毛を生やしたフクラスズメの幼虫がいた。いつしかカラムシの茂みは成長した幼虫の大群で埋め尽くされ、それらはちょっとした刺激で体をブンブンと振り回した。
私の子供時代は、生命の不思議への強い好奇心の裏に、常にそれらの恐怖が根付いていたのだ。
月日が流れ、私が日本の大学に就職して何年かが過ぎた頃、私はある古い映画を見る機会を得た。
それはある青年が、知人の科学者が発明した装置で月に行くという古典SF作品であった。彼が辿り着いた月世界は荒涼としていて、だがそこには蟲のような形をした知的生命体がいた。そして私は、その映画こそ、私がかつて恐れ戦いたあの作品であることに気づいた。
私が憶えていたアメーバのような、高波のようなものは、月世界人によって飼育されている怪物であった。
それは、巨大なイモムシだった。
人間よりもはるかに大きなイモムシが、鎌首をあげ、波が打ち寄せるような動きで主人公を襲っていた。
ああ、これだったか。
あらゆる生物に好感を抱いた私がどうしても耐えられなかったもの、常に私を怯えさせていたもの、鱗翅目幼虫への恐怖の源はこれだったのか。
私の記憶にイモムシへの恐怖が刻み込まれ、それがずっと私を脅かし続けていたのか。
そして、その恐怖の記憶は、この島に来ても根強く残っていて、私は無意識のうちに、この島で会ったものたちにそれらの名前を付けた。そう、アケビコノハ、クヌギカレハ、そして、フクラスズメ。
それらは全て私の恐怖世界から溢れ出てきたのだ。
思えば、恐怖は他のどんな感情よりも強く、精神を支配する。
それゆえ、怖ければ怖いほど、それは抗いがたい魅力を宿している。
だから私は、この島で出会った大切なものたちに、恐ろしいものたちの名を与えた。
そして彼女達は私にとって恐ろしく、だがかけがえのない存在となった。
恐怖と愛情は紙一重、いや表裏一体のものなのかもしれない。
私がこの島に来たのも、知的好奇心に導かれただけではなく、生きては帰れない島、などと囁かれる恐ろしさに惹かれたのではなかったか。
私は恐怖によって導かれ、そしてここでついに、恐怖の島の深奥を見たのだ。
何処かもわからない場所にある白く狂った球体、その周りの壁に夥しい数のイモムシがびっしりと張り付き、蠢いている。
それらが壁を囓るガリガリという音が聞こえた。
よく見ると、それらには一匹残らず人間の顔がついていた。
私は錯乱し、逃げ惑う。その時誰かの声が聞こえ、天井から一匹の人面イモムシが落ちてきた。空中でそれの背中がバリッと裂け、甲殻人形のような白い肢体が現れる。彼女の背中で巨大な羽根が広がり、白金色の鱗粉が散って、私の視界を埋めた。
———かなりの時間が経ったようだ。
何処かから鳥の声が聞こえる。
窓から冬の日差しが射し込んでいた。
私は今、博物館にある自分の部屋のベッドにいる。
でも、どういった経緯で自分がここにいるのか、どうやってあそこから戻ったのか、全く記憶がない。
そして、こうしている今も、私は発作を起こした。突然得も言われぬ恐怖を感じ、ぶつっと電源が切れるように意識が途絶える。
暫くして何か叫びながら目を覚ます。それを繰り返していた。
きっと、無意識にあの時のことを考えてしまうのだろう。
それは仕方ない。あの記憶が消えるはずがないのだ。忘れようとすればするほど脳に幾つかのイメージが浮かぶ。そしてその度に私は錯乱した。
自分でもよくわからないが、「壁」とか「白い球体」という言葉が浮かび、その度に精神が崩壊しそうになる。私は何度も気絶した。だが、その度に傍に誰かが来て、何か大事なことを言ってくれていたような気がする。
そんな感じで日々が過ぎた。四,五日ほどしてようやく気絶する頻度が減ってきた。そんなある日、私が酷い夢から目を覚ますと、ベッドの傍らに何かが置いてあった。
薄いカーテンから漏れる明かりに照らされたそれは、イーゼルに架けられた一枚の絵画だった。
それはリール・ド・ラビームの博物館を外から見た風景画で、蒼い内海とそれを囲む木の回廊、ガラスの温室、そしてアルザス風の博物館が描かれていた。ウッドデッキに何人かの人がいる。ある人は白衣を着て内海を見ており、ある人は白いブラウスに水色の長いスカート姿で博物館の横に立っている。若い男性二人が何やら話をしていて、それを年配の男性が見ていた。小さな女の子が博物館のドアを開いている。そして、アルザスの民族衣装を着た少女がこちらに向けて手を振っていた。
それはかなり優れた絵師の作品だと思ったが、例えばピカソや葛飾北斎みたいな天才的な凄さをアピールするものではなく、むしろ歌川広重やアルフレッド・シスレーみたいな、しっとりした優しさや郷愁を誘うものであった。
その絵をじっと見ていると、精神の奧のザワザワしたものが収まっていく気がした。私はそれを見つめ続けた。狂気に心が浸食されそうになると、食い入るようにそれを見た。見ているうちに涙が出てきた。絵の中の人々に懐かしさと憧れを、そして初めて恋をしたときみたいなやるせなさと切なさを抱いた。
そして私は少しずつ、正気を取り戻していった。
数日後、私が目を覚ますと、誰かがカーテンを開けてくれたのか、窓からは穏やかな日差しが射し込んでいた。
いつもの絵がそこにある。目覚めたら真っ先にそれを見るのが習慣になっていた。だからこの絵のことは誰よりもよくわかる。だから、昨日とちょっと違うことに気づいた。何かが描き足されている。ガラス温室の中では少年のような人物がこちらに背中を向けて立っていて、そして博物館の脇に小さく骨董品みたいな自動車が描かれており、黒いスーツを着た少女がそれに乗っていた。
ん?描き足されている、ということは、この絵は本職の絵描きが描いたものではなく、ここにいる誰かが現在進行形で描き続けているということか?
一体誰が?
でも、まだ疲れているせいか、考えがまとまらない。
窓を冬の風が叩いた。
ガラス窓の向こうにはリール・ド・ラビームの内海を囲む崖が見える。岩肌に生えた植物が冬の風に枝を揺らしていた。
ふと、ちらちらと白いものが見えた。
雪だ。もうそんな季節、そんな高緯度まで島は来ていたのか。
私は部屋に掛かるカレンダーを見た。今日は何日だろう?あれからどれだけ経ったのだろう?
もしかして、もうノエルを過ぎてしまったか?クリスからフェンネル君の学位審査があると言われていたのに・・・・・。
翌日、私はノックの音で目を覚ました。
「どうぞ」と返事をすると、真鍮のドアノブがカチャッと音を立てて、ドアが開いた。
「おはようございます」
館長が朝食を持って入ってきた。そして、ベッドで体を起こしている私を見て、明らかにほっとした顔をした。
「博士、よくなられたようですね、よかったです」
それから彼女はベッド脇のテーブルに朝食を置いて、傍にある椅子に座った。
私はお礼を言って朝食をいただきながら、彼女にこれまでのことを教えてくれないだろうかとお願いした。
館長は私の顔をじっと見ていたが、大丈夫だと判断したのか、これまでの経緯を語ってくれた。
彼女の話によると、私とサクラ技官が乗るフクラスズメはリール・ド・ラビームの地底湖に転送されたそうだ。
そこには珍しくアーベル氏が居合わせていた。
後になって彼が館長に語ったところによると、その時の私は手がつけられない状態だったという。
意味不明のことを喚き散らし、目を剝いて絶叫し続けていたという。話しかけても一切応じず、「あの場所」やら、「壁に」やら、「白い球体」やらの言葉を何度も叫んでいたらしい。
「いずれ死ぬのは明白だった。そのまま放っといてもよかったが、あそこに死体が転がっているのを見たくなかったから、とりあえず処置をした」
後に彼は館長にそう語ったそうだが、治療の手助けをしていた館長が言うには、
「あんなに狼狽えているアーベルを初めて見ました」
とのことだ。
同じくアーベル氏の助手をしていたカレハ助教も後になって、
「創造主さんは人間嫌いだと思っていたんですがねえ」
と話していたらしい。
とにかく、私は地底湖の傍にあるアーベルの庵で一週間ほど治療を受けた。
アーベルによる精神治療がどのようなものだったのかはわからない。もしかしたら人間の医者が見たら卒倒するような施術だったかもしれない。だがそのお陰で私はからくも一命を取り留めた。
それから、私はまだ意識が錯綜した状態ではあるが、博物館にある自分の部屋のベッドに戻されたのだという。きっと突然死する事はないと判断されたからだろう。
「とにかく、ご無事で何よりでした」
館長は安心したように言った。
私はこれまでのことについて深く礼を述べた。正直なところ、あまり憶えていないが、どうしようもないくらいの醜態を晒したことはわかる。
「本当に、とんだご迷惑を・・・・」
赤の他人にこれほどまで迷惑を掛けたことはこれまで無かっただろう。私は恥ずかしくて彼女の顔をまともに見られなかった。
「いえ、ご無事で何よりでした」彼女はさっきと同じことを言った。
「アーベルも喜ぶと思います」
「彼にも謝らなければ。まだあそこにいますか?」
「さあ、どうでしょう」
そうか。動けるようになったらすぐに行ってみよう。
それから、私には謝らなければならない人物がもう一人、いや二人いる。
コノハ助教とカレハ助教だ。きっと彼女達にも大いに迷惑を掛けたに違いない。
だが、私は彼女達に黙ってあそこに行き、酷い目に遭って戻ってきた。彼女達はそのことをどう思っているだろうか?自業自得だと思っているか、あるいは・・・・?
彼女達に謝らないといけない。だが、どのように接したらいいかわからない。
それから、そうだ、あの調査はどうなったのだろう?トリーニ氏はあの場所に行ったのだろうか?でも多分あそこにはもう———。
「館長、あの依頼人の、トリーニ氏の調査はどうなりました?」
「ああ、あれはですね・・・・」
「調査は行われたよ」
突然、声がした。いつの間にか入口のドアが開いていて、そこに灰色の髪の少女が立っていた。
冷たい宝石みたいな赤い瞳が私を見ている。
「こ、コノハ助教・・・・」
彼女はゆっくりと部屋の中に入ってきた。
「調査は予定通り行われた。そして、何事もなく終わったそうだ。あの依頼人は、恐ろしい気配が完全に消えていたと言っていた」
「・・・・・・そうか」
コノハ助教はそれきり黙った。でも縦長の瞳孔がじっと私を見ている。
やがて、彼女が口を開いた。
「館長、すまないが席を外してくれないか?私はこいつに言うことがある」
「は、はい、わかりました。でも、博士はまだ・・・・」
「わかってるよ、館長、こいつの狂乱ぶりは誰よりもよく知ってる。充分すぎるくらいわかってるさ」
「は、はい、では博士、お大事に」
館長はそう言って退室した。
冬の日差しが入る部屋に、私とコノハ助教だけが残される。
私は黙っていた。
コノハ助教も黙っている。
きっと怒っているな、と思った。結局、彼女には何も言わずに調査に行ってしまった。その挙げ句、半狂乱になって戻り、辺り構わず何日もわめき続けた。
これは、これ以上無いほどはた迷惑な話ではないだろうか?これなら戻らない方がむしろ良かったかも。
「コノハ助教、その、ごめん」
「何が?」
「その、のこのこ戻ってきてしまって」
「そんなこと言う奴は、今すぐ死ね」
コノハ助教はまた黙った。
その横顔を見て、私は大切なものを失ったことを知った。
これまで何度か彼女と衝突し、でもその度に何とか関係を修復してきた。
でも、今回ばかりはダメだ。彼女は全てを拒絶しているように見える。
とうとう、私に絶望したのだ。
私の脳裏にこれまでの人間関係が浮かぶ。いつもある程度まで親密になるが、やがてその関係は糸が切れるように途切れてしまう。そのきっかけは様々だが、原因はやはり私が他人に正しく向き合っていないことだ。他人の心がわからないから、いつも何かに間違い、関係が破綻していくのだ。
今回は何が不味かったのか?どうすればよかったのだろうか?
決まっている。今回の調査について、彼女と事前に話し合っておけば良かった。あのとき、変な忖度なんかせずに、彼女に全部話しておけば良かったのだ。
でももう、遅すぎる。今さら後悔しても、もうどうしようもない。
まあ、彼女とはもうすぐお別れのはずだった。それが少しだけ早くなっただけのことだ。
「・・・・・君には失望した」
暫くして、彼女が言った。私の予想通りの言葉だった。こんな時だけ予想が当たるのは、何かの呪いだろうか?
「そうだろうね」
「君は、もうどうしようもない。私のことを全くわかってくれない。私の望むことを、きみはちっともしてくれない。私を置き去りにするだけじゃないか。だから、もう期待するのは止めた。君が二度と変な気を起こさないように、これから君を完全に洗脳してやる」
彼女は赤く燃えるような瞳で私を見た。
洗脳か。そういえば前に、それが人を最もうまく操る方法だと言ってたな。でも、今の我々には意味がない。君は私を見限ったのだろう?それに、私はもうすぐいなくなるのだ。君の人生からフェードアウトするのだ。君はそれを置き去りだと非難するのか、それもいいだろう、ならば、そんな過去の存在を洗脳して何になるというのか?
「そんなことして何になる?」
「少なくとも今よりは分別がつくようになるだろうさ」
「ふうん」
「わ、私は本気だぞ、本当にやるぞ・・・・それが嫌なら・・・・」
「具体的にはどうやるつもりなんだ?」
「具体的にって・・・せ、洗脳なんてされたくないだろ・・・・だったら、これからは私のことをちゃんと、考えるように・・・・」
彼女は何故か言葉に詰まった。だから私はこう答えた。
「洗脳なんてする必要は、ないよ」
「・・・・・・それはどういう?」
それはもちろん、君にとって私は見捨てるべき人間だからだ。君の前を通り過ぎていくだけの他人だからだ。だから、
「もう、そんな必要はないんだよ」と私は言う。
「だからそれは、どういう・・・・」
「だから、洗脳する余地なんてもうないんだよ」
私はびっくりした様な顔をするコノハ助教を見ながら惜別の言葉を告げる。
「こっちはもう充分なんだ。記憶の宝箱は君との思い出で一杯だ。君と一緒にいられて良かったと思ってる、だから、もうそんなことをする理由は全くないんだよ」
「き、君、自分が何を言っているのかわかっているのか?さすがに気持ち悪いぞ」
コノハ助教は狼狽していた。よほど私のことが嫌なのだろう。彼女が気持ち悪いと思うなら、申し訳ない。でも、それはどうしようもない。
「悪いと思っているけど、どうしようもないんだ。でも、君だってそれを望んでいるんだろう?」
私がここからいなくなって、次のステージが開けることを望んでいるんだろう?
「い、言うに事欠いて、ば、バカなことを言うな」
彼女は激高した。
「君はやはり頭がおかしくなったのか!」
そう言うと、何を思ったか彼女は急に黙り、やがて小声でぶつぶつと呟いた。
「君はそんなにも私のことを・・・・そ、そうか、だからあのとき、私に何も言わずに・・・・・」
いつしか、この部屋に入ってきたときの怒気が彼女から消えている。彼女は何故かしどろもどろになって、呟いた。
「でもだからって、私に何も言わずに行くこと・・・・」
「あれは悪かった」
私は謝った。でも、あの時は、コノハ助教に寒い思いをさせたくなかったし、それから、コノハ助教がいなくてもやっていけることを示したかったのだ。
つまり、自虐的に言うならこういうことだ。
「君の前でいい格好をしたかったんだよ」
「な、な、な・・・・」
コノハ助教は口をあわあわさせながら後ずさった。
「ま、まさかここまで・・・・気持ち悪くなっていたとは・・・・」
「だからもう充分なんだよ、洗脳なんて必要ないんだ」
「わ、わかった、もうそれ以上喋るな」
彼女はくるりと背を向けた。
「君のことなんかもう知らん、勝手にしろ」
彼女はそう言い捨てて、部屋を出て行った。
私はわけがわからない。何となく、彼女の瞳の色が変わったような気がしたが、気のせいだ。
何だか会話がちぐはぐだったような気がするが、でも、これではっきりした。
私は完全に見捨てられたみたいだ。
私は絶望と、病み上がりの脳にうけた過剰なストレスのせいで、そのままベッドに倒れた。
意識が遠くなる。気を失う直前に、イーゼルに架けられた絵が目に止まった。
その絵はここで過ごした日々の具現化であった。
この場所は私にとって、もうどうしようもないくらいに、楽園であったのだ。
それは確かにそこにあった。でももう遠くて、手が届かない。
私は目を覚ました。
日が傾き、窓からは夕方の光が差している。冬の日は短いにしても、朝から今まで眠っていたとなると、やはり私の精神はかなりのダメージを受けていたのだろう。
うっすらと目を開けると、誰かの背中が見えた。
ベッドの脇の椅子に、こちらに背を向けて座っている。
それは、あの絵が架かったイーゼルがある場所だった。
誰かが、あの絵に向かっている。
その背中はほっそりしていて、画学生みたいな白い衣装を着ていた。頭には大きめのベレー帽を被っている。右手に絵筆を持ち、左手には色々な絵の具が乗ったパレットを持っていた。椅子の傍には印象派の画家が野外に持っていくような画材鞄が置いてある。
「ふんふ〜ん」
その人物は鼻歌を歌いながら絵筆を振るう。
この人物があの絵を描いていたのか。あの絵のお陰で、私の精神はここに戻ってくることができた。まさに命の恩人だ。それにあんなにいい絵を描けるなんて、何と優れた感性の持ち主だろうか。
「あ、あの」
私はベッドから起き上がりながら言った。
「ど、どなたかは存じませんが、ありがとうございました。とても、いい絵ですね」
「ふふ〜ん、そうでしょうそうでしょう」
そしてくるりと振り返ったのは、他ならぬカレハ助教であった。
「どうですか御館様、すごいでしょう、うふふ」
「———え」
私は文字通り絶句した。
そんな私を見て、彼女はにま〜っと笑う。
カレハ助教があの絵を?というか彼女が絵画を?
一体何がどうなっているのだ!
「か、カレハ助教、これは一体?」
「これはと言われましても」
カレハ助教は人差し指を口に当てて首をかしげた。
「何というか、世を欺く仮の姿なのですよ。表向きは可憐な美少女画家、しかしその実体は無敵の魔眼を持つ魔法忍者少女なのです!ああ、なんてかっこいい!」
そして彼女は厨二病的なポーズをとった。
ああそういえば。
私は思い当たった。
少し前に彼女に渡した小説のなかに、確かそんな設定があった。
もしかしてこの少女はそれを実践しているのか。
そういえば、最近部屋に籠もって出てこないことがあった。何をしているのか尋ねても教えてくれなかった。
ひそかに絵の練習をしていたのか。
でも、
これは、すごいことかもしれない。
彼女には間違いなく絵の才能がある。
少なくとも狂気で死にかけていた人間の精神を救う絵が描ける。
「カレハ助教、君たぶん、魔法少女じゃなくてもやっていけるよ」
「何を言いますか御館様」
カレハ助教はふくれっ面をした。
「これはあくまで副業です。私の真の姿は闇に生きる宿命を背負った・・・・」
「うん、まあ、君がそれでいいならいいよ」
私は何故か全身の疲れが取れた気がして、ははっ、と笑ってまたベッドに倒れた。
「お、大丈夫ですか御館様、復活したと思っているのですが、間違っていますか?」
「間違ってないよ、多分今ので完全に復活した。でも、コノハ助教からは嫌われてしまったけど」
「ああ、何か恥ずかしいことを言ってましたね。でもあれ、お二人とも勘違いしてますよ、きっと」
「そうなのか?」
「コノハさんは怒ったりしてませんよ、次からは普通に話して下さい」
そうなのか?もしそれが本当ならこれほど嬉しいことはない。
「本当に?もしそうならまるで魔法なんだが?」
「ほんとですよ、なんてったって魔法忍者少女ですから」
そして、偽物の魔法使いはにま〜っと笑った。
カレハ助教には危ないときに助けてもらってばっかりだ。あの触手事件の時も、地下世界に迷い込んだときも、そして今回も。サクラ技官の時はちょっと違ったけど。
「君はいつも私の命の恩人だな。まだ何も返せてないけど」
「充分返してもらっているから、大丈夫ですよ」
カレハ助教は絵筆をひらひらと振った。
「あ、そうだ、今描き足したんですが、どうでしょう?」
カレハ助教は体をずらして絵が見えるようにした。
そこにはウッドデッキに立つ後ろ姿の人物が描かれていた。博物館の前にいる人達に手を振っている。灰髪の少女が手を振っているのに応えているようにも見えた。後ろ姿なので顔や表情はわからないが、きっとこれは———。
「ああ、いいね、とてもいい」
私は何の気も利かせず素直にそう言った。
絵画の中と同じように、カレハ助教が笑っている。
その顔がじわっと滲んだ。
私は慌てて顔を伏せる。ポタポタと布団の上に涙の滴が落ちた。
「うう」何か言おうとしたが妙なうなり声みたいになってしまう。
こんな時、映画の主人公とかなら、何か人を感動させるような慟哭をするのだろう。でも私は無様に「うぅ」と醜い声をあげるだけだ。
その様子をカレハ助教は黙って見ていた。
だめだ、みっともない。
でも、
今夜は久しぶりにいい夢が見られそうな気がした。
次の日
冷たい風を感じて、私は目を覚ました。
早朝の淡い日差しが部屋に射し込んでいる。
部屋の窓が開いていて、そこから冬の風が吹き込んできた。
窓辺には黒いスーツを着た小柄な少女がいて、窓の外を向いて立っている。
窓の外には白い雪が舞っていた。
サクラ技官は口を開き、そこから幹のような触手を出している。それは口の少し先で分岐し、まるで吹き流しか水棲刺胞動物のヒドラみたいに中空に細い触手を広げていた。
その触手が、雪の中をゆらゆらと揺らめいている。
今回の触手はまさにヒドラみたいに淡いピンク色をしていた。
だからまるで蒼い水の中でクラゲの触手が揺れているように見える。
サクラ技官は触手で雪の結晶を拾い集めようとしているのか、細く長い触手をひょいひょいと揺らしていた。
その姿は美しくも儚く、彼女が何だか薄幸の妖精のように見えた。
彼女には間一髪で命を救われた。
あの場所から生還できたのは彼女のお陰だ。彼女の能力が無ければ絶対に死んでいた。もしかしたら、この島が始まって以来、あそこに迷い込んで生還したのは私だけかもしれない。
「サクラ技官」
私は声をかけた。
窓の外を見ていた少女が触手をすっと引っ込め、こちらを向いた。
トルコ石のような瞳が私を見ている。
私はベッドから体を起こし、頭を下げた。
「Merci beaucoup pour votre aide」
私は礼を言った。すると彼女は恭しく礼をして、
「Rendre service à votre Majesté est un honneur pour moi」
一気にそう言った。早口だし聞き慣れない単語ばかりだったから、正直なところ何を言われたのかよくわからなかった。
でも悪いことは言われてないようだ。私が醜態を晒したせいで、彼女、すなわちここの精霊さん達は離れていくかもと思っていたが、そんな様子はなさそうなので、私は少し安心した。
私はベッドから起き上がって、机の所に行き、その引き出しから小さな箱を取り出した。
その中には、古びた金貨が入っていた。私の親がずいぶん前に買った記念硬貨だ。大学に就職した頃に譲り受けて、それ以来なんとなく持ち歩いている。
私はサクラ技官の傍に歩いていき、膝をついて、それを差し出した。
「これを受け取ってくれ、せめてものお礼に」
サクラ技官は首を横に振った。私がさらにそれを差し出すと、両手で制止する。そしてまた首を横に振った。
私は半ば強引にその金貨を彼女の白い手に握らせた。そして彼女の青い瞳を覗き込む。そのずっと奧、何処か遠くにいるはずの「冬の花の君」に向けて、私は言った。
「ぼくの命の値段だと、思ってください」
私は彼女の瞳を見つめていた。彼女も私を見ている。やがて彼女は金貨を握った手をゆっくりとひっこめた。
そして、それを大事そうにギュッと握り締め、深々と礼をした。
5―帰還
十二月も終わりに近づいた頃、私はようやく元通りの生活に戻った。
今は地底空間の野外博物館の目抜き通りを歩いている。
昼だった。天井にある無数の黒い傘から白い光が降り注いでいる。夜の華やかな雰囲気とはちがう、落ち着いた雰囲気があった。
私は体力回復のためと、あと少し思うところがあって、家々が立ち並ぶ坂道を登っていた。
私の後ろから、サクラ技官がついてきている。
いつもと同じく黒い山高帽を被って黒いスーツを着ていた。ただ、パンツスーツのポケットに入れている懐中時計の鎖に、あの金貨が取り付けられていた。
あとそれから、いつの間にか彼女の旅行鞄から飾り紐が消えている。
この前まで、鞄は飾り紐に擬態した尻尾で彼女に繋がっていたはずだ。
いつの間にか、鞄を独立して使えるようになったらしい。
「Vous avez retiré votre sac?」
「Oui」
彼女は頷いた。まあ、その方がズボンに穴を開けなくていいし便利だろう。
丘の頂上近くまで来て、私は周囲を見回した。
湖と森が見えて、眺めは素晴らしい。天井を黒い蔦みたいなものがいくつも這い、蓮の葉みたいに広がったそれらが、皿が重なり合うように明かりを落としている。些か不気味だが、それも慣れてくると壮大な眺めと言えなくもなかった。
確かこの辺りだったはず。
私は周囲を探る。
独特の匂いが漂っていた。これだ。
これには少し前に気づいていた。あまり気にしていなかったが、この匂いは———。
私は匂いがする方に茂みをかき分けながら歩いていった。やがて、建物群のあるところから少し外れた場所で、それを見つけた。
やはり、そうだ。
私はそこにあるものを採取して、持参した器具で簡単な検査をする。危険は、なさそうだ。
それなら———。
私はそこでひとつ、サクラ技官にお願いをした。
彼女はこくんと頷いて承諾してくれた。
さすがだ。「技官」という名は伊達じゃない。
では、ノエルまであと五日、何とかやれるかもしれない。
それから数日は、レプティリカ大学に赴いてフェンネル操縦士の学位審査の発表練習を行った。
クリスは私が暫く顔を出さなかったことをぼやいていたが、私は「体調が悪かった」で通した。彼女に今回の事を話したら、芋づる式にサクラ技官やアーベル氏のことを話さなければならなくなる。それはかなりまずい。
クリスは「ふん」と鼻を鳴らした。
彼女は何かに気づいているのだろうか?そういえば彼女は少女時代にノーチラス島に纏わる怖い体験をしている。この島からの使者のようなものを目撃し、呼び声が聞こえたというのだ。同じような話はフェンネル操縦士からも聞いている。彼の場合はもっと直接的にこの島に関わり、少年時代にこの島に一時的に転移したこともあるという。
そういうことを考えると、この島と、その下にある地底空間を作った存在のことがよくわからなくなる。彼らは世界を複製し、そこで有り得る様々な可能性を顕現させた。そしてそのうちの一つである地球とその生物を観察してきた。彼らは確かに人類にも興味を持っていて、野外博物館まで作って人類の営みを保存した。しかし近代になって俄に興味を失い、サクラ技官達もろとも野外博物館を放棄した。そして何処かに消えてしまったのである。
でも彼らは本当に消えたのか?本当に人類を見捨てたのだろうか?
アーベル君なら「そうだろうさ」と言うだろう。だが、ここ10年くらいの間にもクリスやフェンネル操縦士に接触しているではないか?いやあれも「彼ら」ではなく、サクラ技官みたいな眷属が主人からの古い命令に従っているだけなのだろうか?
わからない。
もう少し様子を見るか、実際にあの地底世界の知られざる中心部に行ってみるしかない。
でも地底世界の奥地の探検はもう少し後にしよう。この間体験したような防衛機構がもし地底世界にもあったら、命が幾つあっても足りやしない。
クリスの部屋を出て、大学内を歩いていると、既にあちこちでノエル、つまりクリスマスの飾り付けが進んでいた。今は街でも飾り付けが進められている。昔、フランスにいたときもそうだった。この季節になると街が電飾で飾られ、夜にはそれに灯りが点って、連日お祭りのような感じになる。欧州の寒い地方の習わしなのだろう。クリスマスツリーもアルザス地方が発祥だと聞いたことがある。
私は懐かしい気持ちでそれを見ていた。
「先生、こんにちは」
背後から声がした。振り返ると、コートニーが立っていた。
「あれ、先生、ちょっとやつれた?」
そういえば今回のことは彼女に話していなかった。
でも、我々の住む島の何処かに恐るべき装置があって、それを見たものは死ぬ、なんて話はこんな少女に聞かせるべきではない。
「ああ、まあ、ちょっとね」私は誤魔化した。
「先生、今日はクレイの発表の準備ですか?」
「そうだよ」
「何とかなりそうですか?」
「大丈夫だよ、クリ、いやカハール博士がついてるんだから」
「でも、あの博士、ちょっとヘンな人だから・・・・・」
「人としてはアレだけど、研究者としては超一流だから安心したまえ」
「・・・・・うん」
コートニーはあまり安心していないような顔で頷いた。
「そういえば先生?」
「何かな?」
「憶えてますか、あの噂」
「噂?」
「謎の美女の話」
「あああれ」
私は思いだした。確かこの間のハロウィン祭りの時、見知らぬ女性がいたという話だ。すごい美人だったが、その後誰も見ていないという。
「あの話がどうした?」
「その女性はノエルの時にまた現れるかもしれないって話になってる」
「ああ君、前にそんなこと言ってたね。それから確か、その女性がフェンネル君と会ってたとか会ってなかったとか」
この少女はそのことを気にしていた。彼の事が気になっている彼女としては、大問題なのだろう。
「でも確か、フェンネル君には確かめたんだよね?」
「うん」コートニーはこくんと頷いた。
「知らないって」
「ふうむ、じゃあ、フェンネル君がその女性に会ってたとは考えにくいな」
「・・・・でも」
コートニーは訝しそうな顔をしていた。
私はハロウィン祭りの時の記憶を辿る。
あの日は私も仮装して大学に来ていたが、そんな美女には会わなかった。あの時会ったのはクリスと・・・・・・。
————あ
私は電撃のように閃いた。
というか、実に当たり前のことであった。
そのドレスを着た女性とは、クリス、つまりカハール博士だ。そういえば彼女はあの日そんな格好をしていた。彼女はいつも変装しているのだが、その日に限って他の人とは逆に、変装を解いて本来の姿でウロウロしていたのだ。学生達がそれ以来見ていないのも当然だ。それから彼女はずっとカハール博士に戻っているのだから。
フェンネル君と会っていたのも、幼なじみなんだから当然だ。クリスは部屋にいるときはいつも本来の姿で彼と話をしている。だからフェンネル君もあまり気にしていなかったかもしれない。でも、コートニーに尋ねられたとき、クリスから秘密を守るように言われていた彼は、咄嗟に誤魔化したのだ。
「ノエルの夜には来るかなあ」
コートニーが呟いた。
クリスが何だかサンタクロースみたいになってる。
その日はフェンネル君の学位審査の日だ。審査の後には祝賀会がある。彼女自身が学位を取った祝賀会の時、彼女はドレス姿で登場した。今回もそうする可能性がある。
「あ、ああ、来る、んじゃないかな」
「先生も大学に来るでしょう?もし見かけたら教えて」
「あ、ああ」
何だか変なことになりそうだ。ノエルの日は私も準備をしていることがある。
何だかいろいろ面倒くさいことが起こる気がして、私はため息をついた。
それからノエルの前日まで、私はフェンネル君の学位の関係で、大学とリール・ド・ラビームを忙しく行き来した。
その間にちょっと時間を作って、私は地底湖に降りていった。
アーベル君にお礼を言いたかったのと、フクラスズメがどうなったか知りたかったからだ。
アーベル氏はあいにく留守だった。
何だか避けられている気がする。まあ彼のことだから、気が向いたらふらっと現れるだろうが。
アーベル氏はいなかったが、湖岸にある格納庫に行くと、コノハ助教がいた。
整備台に載っているフクラスズメの横で作業をしている。
「やあ」
私が声をかけると、彼女は「ああ、うん」と曖昧な挨拶をした。
例の一件以来、ちょっと気まずい。しかしカレハ助教が言っていたように、完全に嫌われているわけではないようだ。
私は整備台に乗せられているフクラスズメを見た。コノハ助教はちょうど左腕の辺りで何かゴソゴソやっている。
前回の探検で失われた左腕が、あれからどうなったのか気になっていた。
その時、コノハ助教の陰から、ひょこっとサクラ技官が顔を覗かせた。
彼女も一緒に作業をしていたらしい。私は手を挙げて挨拶する。
「Ça va?」
「Ça va」サクラ技官が応えた。
「うお、こいつ、喋るのか?」
コノハ助教がびっくりした。
「ああ、ちょっと前にわかったんだ」
「今の何だ?フランス語か?」
「そうだよ。いろいろ試したけど、フランス語で話しかけたときだけ返事してくれる」
「そうなのか?ぼんじゅ〜るこまんたれぶ?」
サクラ技官は黙っている。
「おいちょっと、無視しないでくれ、めっちゃ恥ずかしいんだけど」
「もうちょっと発音をそれっぽくしたらどうかな?」私は助け船を出した。
「ええぇ。あ〜、おほん、・・・・Bon jour?」
「Bonjour」サクラ技官が返事をした。
「お、しゃべった!」
コノハ助教の表情が明るくなった。
「よかったな」
そして気がついたら私は前と同じように彼女と話をしている。サクラ技官のお陰で助かった。
「フクラスズメ、どうなった?」
「ああ、左腕が完全に無くなってたぞ、何があったんだ?」
「ああ、そのうち話すよ」
あの場所のことを思い出すのは、今はちょっとまだ無理だ。あとホヤは大嫌いだ。
「それで、修理はできそうなのか?」
「ああ、サクラ技官がとても優秀でね、あと手が何本もあって助かってる。だから、修理するついでに一工夫することにした」
「へえ、どんな風に?」
「こんな感じだよ」
コノハ助教は左腕を覆っていたカバーを外した。
左腕がついていた。だが、その形が前と大きく変わっている。いや、肩から上腕までは前とほとんど同じだが、肘から先が洋梨みたいに丸く膨らんでいた。その膨らんだ部分に小さな丸窓がついている。
「何だそれ?もしかして、潜水球?」
そう、新しい腕には19世紀頃の潜水装置に使われていたようなガラス窓が嵌まっていた。
ということは、機体の腕の内部に人が入れるようになっているのだ。ただしその容積はかなり小さめだ。子供がギリギリ入れるくらいだろう。
そんな改造をしたせいか、「手」の部分は小さく、深海探査艇にあるような三本爪のマニピュレーターが付いているだけだ。ちなみに「手」がついている部分が潜水艦のハッチみたいになっている。あそこが「手」ごとカパッと開くのだろう。
「今は整備用に腕を90度ひねってる。これから正常な位置に軸を戻す、びっくりするぞ」
コノハ助教が手元の機器を操作すると機械音がして腕が回転し、隠れていた部分がこっちにきた。
「なんだ、これ?」
潜水球みたいな左腕の外側に、サーフボードかカヌーの船体みたいな楕円形の板がついていた。その材質は腕と同じく甲殻類の甲皮みたいだが、金属製の枠が付いていて凄く堅そうだ。
「まるで盾みたいだな」
「その通りだ、盾だよ」
「え、ということは、腕の外側に盾をつけたのか?」
「そうだ、かっこいいだろう?」
盾は腕の背面に貼り付けるように装着されている。つまり前腕と盾が一体化していた。盾は各所に白金色の飾りがついていて、表側にはまるで出窓の手摺りかあるいはストーブの火除けみたいに洒落た金属細工が半円状に嵌められていた。その中に本当に丸窓がある。円い窓枠に十字に鉄枠が嵌められたガラス窓だ。つまり腕の中に入ると盾越しに外が見られるようになっているのだ。ということはこの腕には最初に見えていた小さなガラス窓と合わせて二つの窓があることになる。盾の丸窓を縁取る金属製の窓枠の周りには、欧州でよく見る壁画みたいな絵が描かれていた。図案は博物画みたいな花と昆虫だ。丸窓を囲むように描かれている花はリンドウとシクラメンか?そして盾の表面を彩る蔓草みたいな植物の間を二匹の蛾が舞っている。
「あの蛾、もしかして、アケビコノハとクヌギカレハか」
「そうだよ」
コノハ助教は少しはにかんだように、「あいつが描いたのさ」と言った。
命名者である私は少し気恥ずかしくなった。
「綺麗な絵だな」とだけ言い、
「でもカレハ助教が作った絵の設計図を、実際に手を動かして描き出したのは君だろう」とはぐらかす。実際、彼女達はそうして役割分担をしている。片方が表に出て思考や判断に専念し、もう片方は裏方にまわって、表の担当者が作った運動指令を実行するのだ。
「でもだとしたら、カレハ助教の絵には実際に手を動かす君の癖みたいなものが反映されているかもしれないな。それが独特の風味を出すのに一役買っているのかも」
するとコノハ助教は照れくさそうに笑った。
「そう言って貰えると嬉しいんだが、違うんだよ。あいつが設計する絵のイメージは実際はもっとすごいんだ。でも私の運動制御が下手くそなせいで、本来の良さが出せていない。あいつには申し訳ないね」
彼女は珍しく相方を讃える。いつも仲が悪そうにしているのに、時々こうした物言いをするのを聞くと、微笑ましいというか、何か尊いものに触れた気がする。
私が少し感動して黙ったら彼女も何も言わず、少し気まずい感じになったので、私ははぐらかすように話題を変えた。
「でも盾に窓を開けるとは、発想がイカれてるぞ」
「ロックだろう?でも強化ガラスで窓枠もついてるぞ、鉄柵でも保護してる」
「丸窓の前に手摺りみたいにぐるっとついてる飾りのことか?あれはガラス窓を保護するためなのか。でもあれ編み篭みたいになってるから中に人がすっぽり入れそうだな、いやさすがに無理か、狭すぎる」
「入れるよ。サクラ技官ならね」
「ん、どういうことかな?」
「この左腕はサクラ技官のためのものなんだ。君と潜ったとき、彼女は無理して操縦席に入ったようだが、狭すぎる。それにあそこは私のトランクを入れる場所だ。彼女に入られたら困る。そういうわけで、彼女のための場所を作ったのさ」
「え、じゃあサクラ技官は左腕の中に入るのか?」
「そうだよ。中のスペースは彼女にはちょうどいいはずだ。丸窓から外も見える。でもずっと居るには窮屈かもな。水中に潜るときは腕の中に入るしかないが、それ以外のときは盾の外にいられるように、あのバルコニーみたいな籠をつけたんだ」
盾のポケットに彼女がすぽっと収まったら、背中の丸窓と相まって、少女が欧州風のバルコニーに佇んでいるように見えるだろう。その状態でフクラスズメが飛んでいる様子を想像するとかなりシュールだった。
「それから、彼女のトランクは盾の裏に収納できるようにしてる」
そうなのか。完璧だ。要するに左腕はサクラ技官の専用スペースになったわけだ。
これなら、もし何かに襲われても、彼女は腕の中に避難することができる。コノハ助教みたいに機体の上に乗っているよりもずっと安全だ。
「いいね、前よりずっと良くなった」
「ふふん、そうだろう、左腕が大きくなった分、バランスが悪くなったから右腕も一工夫しようと思ってる。細かい調整に時間もかかるし、使えるようになるのは、そうだなあ、年末くらいかな」
「わかった、じゃあ、完成したら皆で何処かに行ってみるか?」
「じゃあ、また夜の世界にでも行くかね?」
「ああ、それはいいね、そうしよう」
「了解」
コノハ助教は楽しそうに笑った。
それから、フェンネル君の学位論文発表の日が来た。
当日、私は特に心配していなかったが、カハール博士つまりクリスは、今まで見たことないくらいピリピリしていた。
「変な質問をする奴がいたら固定して脳を取りだしてやる」
発表直前にそんなことを言い出したので、なだめるのが大変であった。
審査会はレプティリカ大学で行われ、特に何の問題もなく終わった。まあ、クリスがいろいろ準備していたのだから当たり前だ。一番焦っていたのがクリスだったのが滑稽であった。
その後、祝賀会となった。
大学のホールで行われた祝賀会には、先の「ノーチラス事変」の関係者と、夏の地底空間調査の関係者が集まっていた。かなりの人数だ。この中には彼に命を救われた人も多いだろう。
やはり彼はちゃんとしている。皆に信頼されている。私とは大違いだ。
あと、参加者に学生が多い。もちろんフェンネル君の知り合いも相当数いるだろうが、もしかしたら例の噂の真偽を確かめたくて混ざっている者もいるかもしれない。
シィナ・ライト館長はフェンネル操縦士—いやこれからはフェンネル博士—の妹として出席していた。彼女は美しく着飾っていて、皆の注目を集めている。
コートニーもいい服を着て、父親と一緒に参加していた。
私は副査だったので、一応ちゃんとした服を着て、会場の隅で目立たないようにしていた。一緒に来たコノハ助教は、新調したドレスを着て、そつない感じで会場に溶け込んでいる。さすがだ。
私の横にはサクラ技官が立っている。少女が黒いスーツを着ていると目立つと思って、普通の服にしてくれとお願いしたところ、今日の彼女はスカート姿だった。19世紀末の欧州風の旅装といった感じだ。大きめのトランクと相まってよく似合っている。
これが日本とかだと、やれ開会の挨拶だの、学位取得者の謝辞だの、来賓の祝辞だのと堅苦しい行事がいろいろあるのだが、こっちではそんなものはない。皆一様に食事会を楽しんでいた。
クリスは暫くカハール博士として保安局の人達や大学関係者と話をしていたが、やがて何処かに行った。
そしてしばらくして、赤いドレスを着た女性が会場に現れた。
学生達の注目が集まる。
ざわざわと喧噪がおきた。
「ごきげんよう」
その女性はにこやかに挨拶して、フェンネル君のところに歩いていった。
そしてごく普通に会話を始める。
私は見慣れているが、会場の人々は驚いているだろう。今まで見たことない美人が突然現れたのだ。
フェンネル君の隣にいたヒューベル博士は驚きに目を見開き、食べ物を喉に詰まらせて激しく咳き込んだ。
コートニーはサンドイッチの乗った皿を持ったまま、固まっていた。
そしてもう一人、挙動がおかしくなってる人物がいた。
ライト館長は口をぽかんと開いたまま、呆けたようにその女性を見ていた。館長は容姿端麗なので男性が頻繁に声を掛けてきているが、完全に無視状態になっている。
赤いドレスの美人、つまりクリスはそんな周囲の様子を楽しむようにして、フェンネル君と話をしていた。彼の方は少し困った顔をしながら受け答えしている。
コートニーと館長がそんな彼を困惑しきった顔で見ていた。
この後、彼は大変だろうな。
しかしまあ、私には関係の無いことだ。
でも、もしコートニーに「あの人は誰か知っていますか?」と尋ねられたらどうしよう。クリスのことをばらすわけにはいかないし、かといって少女に嘘をつくのも嫌だ。
だから私は早々に退散することにした。とりあえず挨拶すべき人とちょっと話をして、脱出の機会を窺う。コノハ助教の方を見ると、楽しそうに話をしていた。だから彼女にもバレないように抜け出す必要があった。
「サクラ技官、私は帰る。君は好きにしたまえ」
そして宴もたけなわの頃、私は忍者のように姿を消した。この世界に入ってからずっと、こうして会場を抜け出すことは何度もあった。だから私は祝賀会を抜け出す技術について、天下一品の業を持っていると自負している。
きっと誰一人、私が消えたことに気づかないだろう。
私は外に出て、ひっそりした大学の中庭を出口に向けて歩き出した。
いつの間にかサクラ技官も傍にいた。
まあ、彼女にしたら退屈だったかもしれない。
どうやら二人で帰ることになりそうだ。その時、かねてからサクラ技官にお願いしていたことを思い出した。今日はノエルの前日だ。きっともう完成している。
「サクラ技官、例のものはできているかな?」
彼女はこくんと頷いた。
「ではちょうどいい、これから行ってみようか?」
サクラ技官はこくんと頷いた。
私はあそこに行くため、サクラ技官に鞄を開けてもらおうとした。そのとき、中庭の噴水の所に誰かがいるのに気づいた。
夜の中庭で、大理石の噴水の傍に小さな人影がある。
暗いのでよく見えないが、あれは、
「あれは、コートニーか?」
私はそちらに歩いていった。
私の気配を察したのか、人影がこちらを向いた。
「先生・・・・」
やはり彼女だった。
「どうした?」
「ちょっと、外に出たくなって」
彼女は俯き気味に言った。
「大丈夫?寒いから中に入っていた方が・・・・」
少女は首を横に振った。中に戻りたくないのか。
もしかして、会場でクリスとフェンネル君が親しく話をしていたからだろうか?
私は困惑した。こんな時にどうすればいいか、さっぱりわからない。
でもここは寒い。彼女はコートを羽織っているけれど、このままでは風邪をひいてしまう。
「じゃあ、ぼくが家まで送ろうか?それとも、これからぼくたちは野外博物館に行くけど、君も来る?」
「博物館?何故ですか?」
「ちょっと秘密の計画があって」
そう言うと、彼女は少し興味を抱いたようだった。というか、気を紛らわすことができると思ったのかもしれない。
「わかりました。先生と一緒に行く。お父さんに伝えてくるからちょっと待ってて」
そう言って、彼女は会場の方に駆けていった。
コートニーが戻ってくると、私はサクラ技官にお願いして地底世界への扉を開いてもらった。今は彼女の鞄があるので、彼女が居さえすればどこにでも行くことができる。
コートニーは目を白黒させていた。サクラ技官がつくった仕掛けのことはすでに話していたが、実際に見るのはこれが初めてだ。
「すごい」
鞄を開いて組み上がるミニチュアの家に彼女は感激していた。
これでちょっとは気分が晴れただろうか?
私達はそのドアをくぐって、野外博物館に行った。
夜なので建物群がライトアップされ、華やいだ雰囲気があった。
「いつ来ても綺麗だね」コートニーが嬉しそうに言った。
「こっちだ」
私は坂を登る。世界各地の家々が集められた野外博物館の通りを歩いて、丘の上を目指す。
「先生、ここで何をしようとしているの?」
「・・・・・館長にコノハ助教を博物館で雇ってもらえるようにお願いしたんだ。それから、コノハ助教にも無茶なお願いをした。そのお礼をしたくて、いろいろ考えていたんだけど・・・・・」
「そのお礼のものがここにあるの?」
「そうだよ、何だと思う?」
「そうだなあ」コートニーは首をかしげた。
「家でもプレゼントするの?」
「いや、それはちょっと。ここの家屋は収蔵品だし、もう地球から新たに家屋を持ってくるつもりはないからね。ここで集められる材料で作れるものにした」
「ふうん、何だろう?」コートニーは興味津々といった顔をした。
やがて、丘の上あたりに来た。そこからは新しい道が左の方に伸びている。
多分、下の建物群の真上からちょっと外れたくらいの位置になる。
眼下に雄大な景色が広がっていた。左手には広い湖が広がり、天井からの蟲明かりが湖面に映えて銀河系みたいに煌めいていた。
右手は地底世界の内部へと広がる広大な森がある。その中にも点々と小さな湖があった。
「すごい、綺麗な景色だね」
コートニーが見とれている。
「こっちだ」
私は新しい道を進んだ。少し歩くと、独特の匂いがしてきた。
「え、なに、この匂い」
「硫黄だよ」私は答える。
「ここで湧いているのを見つけたんだ」
「湧いているって、何が?」
そうか、彼女はこういうのは初めてか。
「温泉だよ」
「温泉!」
「そう、源泉を見つけたから、それを元にしてサクラ技官に湯船を作ってもらった。ぼくはまだ見てないけど」
私はそう言って、茂みを抜けた。
すると、白い石で組まれた中世の門みたいなものがあった。大きさはそれほどではないが、左右にも壁があるので向こうは見えない。門には重厚な扉が付いていた。でも鍵がかかっている。
私は傍らにいるサクラ技官に声をかけた。
「Est-ce que vous avez la clé?」
「Oui voila」
彼女は小さな鍵を渡してくれた。
「え、喋ったの?先生、サクラさんと話せるんだ!」
「ああ、君も話せるよ、学校でフランス語は習ってるだろう?」
「うん、ちょっと待ってね、ええと、Je m'appelle Courtney. Enchantée」
「Enchantée」
「やった、話せた」
そうしたやり取りを横目で見ながら,私は鍵を外して、ドアを開いた。
そして、絶句した。
「わあ!」
コートニーが歓喜の声を上げた。
私は予想外の光景を見た。白い大理石でできた広い湯船が目の前にあった。それがいくつもの明かりで照らされている。しかも、湯船は一つではない。丘の斜面に沿ってまるで棚田のように無数の白い湯船が見える。下の方にまで広がる様々な湯船には独自の趣向が凝らされていた。あるところはローマ式の大理石で、ドラゴンの彫刻から温泉が滝のように注がれている。あるところは日本にあるような自然石で囲まれていて、石の床で光と波が作る網目模様が揺れていた。上の湯船から下の湯船に温泉が滝になって落ちているところもあるし、巨大な木の洞がそのまま湯船になっているところもあった。それぞれの湯船の周りには様々な植物が植えられ、所々に石の東屋や噴水もあった。
無数にある湯船から、白い湯気が立ち上っている。
「すごい、ここまですごいことになっていたなんて」
私は唖然とした。精霊さん達は私の命を果たすべくがんばってくれたのだろう。
「C'est excellent!Merci beaucoup. C'est incroyable!!」
私は乏しい語彙を駆使して、賛辞を送った。
「C'est un plaisir pour moi」
サクラ技官は控えめに答え、礼をする。その姿はとてもカッコよかった。
コートニーは目をキラキラさせている。
「これが、館長さんとコノハさんへのプレゼントなの?」
「まあそうだけど、あとカレハ助教にも、アーベル君にも、そして君にも」
「私にも?」
「ぼくがこの島に来てから、いろいろ関わってくれたことへのお礼だ。自由に使っていいよ」
「ほんとに!」
「ああ、この島には大きなお風呂が無かったからね。それだけが残念な気がしていた。でもこれで好きなときにお風呂に入れる」
「すごい、先生、サクラさん、ありがとう!」
コートニーは満面の笑みを浮かべた。よかった。元気になったみたいだ。
「ありがとう、すぐに入りたいけど、まずは館長さんとコノハさんだね。いつ伝えるの?」
「完成したらすぐにと思ってたから、明日くらいかな」
「今から伝えようよ!」
「え、今から?」
「そう、大学に戻ろう、先生!」
コートニーは私の手を取って、元来た道を走り出した。
よくわからないまま、私はまた大学に戻った。
「コノハさんと館長さんを呼んでくるね」
コートニーは会場に向けて走っていく。
「やれやれ、あれが若さか」
私はつぶやいてから、いや多分違う、と思った。
きっと彼女はいつだってそうするだろう。
中庭は相変わらず静まりかえっている。
ふと噴水の方を見ると、人影があった。
何だか少し前も同じようなものを見た気がする。
デジャビュというやつか。
いや、ちょっと違う、前の時より背が高い人だ。あれは、
「館長」
私は声を掛けてそちらに歩いて行った。
「あ、博士」
噴水の所にいた女性がこちらを向く。やはり館長であった。
「どうしたんですか?」
「ちょっと、外に出たくなって」
彼女は俯き気味に言った。コートニーと同じことを言ってる。ということは、この人も戻りたくないのか。会場でクリスとフェンネル君が親しく話をしていたから?
「寒いから、中にいた方がいいですよ」
「はあ、もうちょっとしたら戻ります」
「じゃあ、もし時間があるなら、これから少し出かけませんか?」
「はあ?」
「ちょっとお目にかけたいものが」
「はあ」彼女はあまり興味なさそうに私を見た。
「おお〜い」
その時、背後から声がした。振り返ると、ドレスを着たコノハ助教がコートニーと一緒に走ってくる。
「帰るんなら言ってくれよ」
私の側に来るなり、彼女はふくれっ面でそう言った。
「いや、君が楽しそうにしていたから・・・」
「探したじゃないか。ちょっと目を離したら居なくなって。でも君は上手く抜け出したつもりかもしれないが、逃げようとしてるのは結構バレバレだったぞ」
「え、そうなのか?」
「早く出たくてうずうずしている感じが丸わかりだからな」
そうだったのか。せっかくの数少ない特技だと思っていたのに。私は少し落胆した。
「コートニーさんから聞いていると思うけど、ちょっと見てほしいものがあるんだ」
「いいよ、私もそろそろお暇しようと思っていた。どうもああいう場は苦手だ」
「わかった、じゃあ行こう、さあ、館長も」
「はあ」
そういうわけで、私は二人をあの場所に連れていった。
結論から言うと、二人はとても喜んだ。そして早速みんなで入浴しようということになって、私だけがその場から閉め出された。
翌日はあいにくの雨だった。そんな中、リール・ド・ラビームをトリーニ氏が訪ねてきた。
雨音が響くカフェに私は彼を案内した。
コノハ助教とサクラ技官は留守だ。
サクラ技官には、温泉に行くためのドアを博物館の奧にある廊下に作ってもらった。これで私の部屋を通ることなくあの温泉に行けるようになる。今頃彼女達はそこを抜けてまた温泉に行っているかもしれない。
人気の無いカフェで、トリーニ氏は落ち着き無く座っている。
この人物について、私は色々思うことがあった。一時は彼が人間ではないのではと疑ったが、今は普通の人間だと思っている。
彼のことを疑った根拠は、彼が海の上からは見えるはずのない水深100メートルの深淵を覗いて怪物の存在を言い当てたからだ。それは人間には不可能なことだった。だが、彼ではなく相手側の操作によってはそれが可能だったかもしれない。私は先日の怪物との闘いで、あれが水を自在に操作するのを見た。水を使って球体やそれに類する物体を作れるなら、レンズのようなものを作って海上を見ることもできるのではないか?あの怪物はそうして島の中枢に来る者を水中から監視していた。まさに「深淵を覗き込むとき、深淵もまたこちらを覗き返して」いたのだ。そしてレンズの位置によっては、海上から逆にあれを覗き見ることができたかもしれない。彼はたまたま深淵がこちらを覗いているときに、覗き返したのだ。そしてあれを見た。
そして恐れ戦いて、ちょっと変になってしまった、それだけのことなのだ。
私は彼にコーヒーを差し出しながら話しかけた。
「先日の調査には参加できず申し訳ありません。ちょっと体調を崩しまして」
「いえ」依頼人は目を伏せたまま言う。
「でも、博士、あなたは何かやったんじゃないですか?あの場所にはもう何も居ませんでした。モササウルスも、何も」
「そうですか」
「皆は私の妄想だという。そうかもしれません。それでいいのかもしれません。少なくとも私は安堵しています」
「そうですか」
「あそこで何があったのかは知らない。あなたが何をしたのかも。あなたたちが何者であるかも、私は知りません」
「私は何でもありませんよ。でも多分、あなたは危うい状況から我々を救った。あなたのような人間が必要なのでしょうね。この島には」
私はこの島の何処かにあるであろう、あの防衛機構を想像した。現在、あれは水面下500メートルの所にある。その場所は不明だ。フクラスズメに残された映像記録を徹底的に調べれば推定できるかもしれない。でも、もしそれが、リール・ド・ラビームの真下だったりしたらどうしよう。私はそれが怖くて調べることができずにいる。
この人がいたら、また何かの奇跡で何かに気づいてくれるだろうか?
「そのことにつきまして」
彼は申し訳なさそうに口を開いた。
「次に陸に近づいたら、この島を離れようと思っています」
「そうなんですか?」
「ええ、私にはちょっと、この島は恐ろしすぎて」
「・・・・・そうですか。コノハさんが残念がると思います。もちろん私も」
そう言うと、トリーニ氏は恐怖に怯えた、だがどこか恍惚とした表情をした。
「コノハさんですか」
彼はもの凄く怖い、でも飛びきり面白いホラー映画を観た観客のような顔をしていた。
「あの人は恐ろしくて、でもそれと同じくらい魅力的でした」
「そうですか」
「私にもう少し勇気があれば。とても残念です」
そう言って彼は顔を上げた。
少し血色が良くなった気がする。そして私は、彼がかなりのイケメンであることに気づいた。
これまで妙におどおどしていたから気づかなかったけど、この人、普通にしていたらすごくモテるのでは?
それに、これまでのことを思い返すと、彼は性格も良い。そして、今回の件で犠牲者が一人も出なかったのはひとえに彼のおかげだ。道化のような役割を演じながら、彼は皆を守りきったのだ。
私がしばし呆然としていると、彼は不思議そうに尋ねた。
「どうしました?」
「いいえ」
私は握手の手を差し出した。
「残念ですが、仕方ありません。また機会があれば是非来て下さい」
そして、私は付け加える。
「あなた、最高にカッコいいですね」
私はそれを、最後の挨拶とした。
不思議な事件を運んできた依頼人は、雨の中を退場していった。
地底湖では、フクラスズメの発進準備が進んでいる。
今日は12月31日。あと少しで年が変わる。
フクラスズメの改装が終わり、これから地底空間に行くところだった。
ノエルの前には左腕だけ改装が終わった状態だったが、既に右腕も完成している。
左腕に潜水球と盾が付いたために左右のバランスが整っていなかったので、今は右腕が前より二回りくらい大きくなっていた。肘から先の部分が特に大きく、様々な機器が外付けできるようになっている。マニピュレーターも大型で頑丈なものが取り付けられていた。
そのマニピュレーターが閉じたり開いたりを繰り返す。コクピットにいる私は何も操作していない。
「どうだい、これ」
機体の上に乗ったコノハ助教が自慢するように言った。アルザス風の衣装を纏った彼女は右手に長手袋みたいな物を装着している。それは太いコードで機体に接続されていた。彼女が右手を握ると、フクラスズメの右手も同じように動く。彼女が腕を右にさっと振ると、フクラスズメの右腕も同調して動いた。
「いいね、よくできてる」
私は頷いた。今、右腕の制御系はコノハ助教が装着した長手袋に連動していて、右手は彼女が動かしている。これまでは操縦士が機体と腕の操作を一緒に行っていたが、機体が飛んだり潜ったりしてる状況で腕を動かすのは難しい。フェンネル君やコノハ助教ならできるだろうが、私には無理だ。
でも今回の改装により、右腕は操縦士でなくても動かせるようになった。ついでに左手にも長手袋を嵌めて同じことができる。これなら私は機体の操作に専念できるし、その間にコノハ助教が細かな腕の操作を行える。例えば空中を飛行しながらサンプルを採取することも、盾で機体を護りながら敵を殴りつけることもできる。
つまり、私とコノハ助教の二人がかりで、この機体を自在に動かせるようになったのだ。
しかも、この右腕、肘から先が銛みたいに飛ぶそうである。
前にカレハ助教が撃っていた「ロケットなんたら」のフクラスズメ版だ。
確かこの機体の基になったフェルドランスにも同じような機能が付いていたはずだ。もともとアンカーとして付けられた装置だが、フェンネル操縦士は先の事変でこれを武器として使っていた。彼みたいな天才ならともかく、普通ならこんなもの、まともに使えず持て余すだけだ。でも今回の改装でコノハ助教が右腕を操作できるようになったので、その有効性が格段に上がった。
一方、機体の左腕には美しく装飾された盾が付いている。盾の表面に装着された金属製の手摺りの中にサクラ助教が入っていた。その様子はまるで可憐な少女がバルコニーに佇んでいるように見える。今日の彼女はスカート姿だし、背後に壁画や丸窓があるから尚更だ。
機体が飛行しているときにそこにいれば最高の眺めが楽しめるだろう。
そしてもしサクラ技官が、前に博物館でそうしていたように、手足の先から吸盤触手を出して盾にビタッと張り付いていたら、盾に恐ろしく精巧な少女のレリーフがついているように見えるかもしれない。
でもそれは真に恐ろしいものだ。先の守護神との戦闘でのサクラ技官の能力を考えると、彼女を擁したこの盾こそが、相手にとって最も恐るべきものとなる。ギリシア神話のアテナがもつメデューサの盾と同じく、見たものはあまねく滅ぼされるのだ。
とは言っても彼女を盾にするつもりはさらさら無いが。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
今日は彼女の提案で、また「夜の世界」に行くことにしている。あの野外博物館の周囲も同じく夜の世界が広がっているが、どうせなら行ったことがない場所にしようということになった。未経験の場所なのでサクラ技官に場所の指定はできない。だから前みたいにノーチラス島の下に出て、そこから島の光源が及ばない場所に移動することになる。
ということで、これから湖の底にある通路に向かう。
水に入るので、サクラ技官は左腕の中に入り、コノハ助教はドライスーツを着て機体の上に乗る必要があった。
「サクラ技官、腕の中に入ってくれ」
私がそう言うと、サクラ技官は盾の鉄柵から出て、左腕の潜水球の「手」の部分にある円形のハッチを開き、何だかぬるっとした動きで中に入った。こちらからは潜水球の小窓の向こうでサクラ技官がまるで蛸壺に入ったタコみたいになっているのが見える。普通に入れば膝を抱えた格好で落ち着くはずなのに、体と手足をとんでもない方向に曲げて、まるで人形を無理矢理ビン詰めにしたみたいだ。あれでは前に操縦席の後ろに乗っていたときとあまり変わらない。
だが本人は意に介していないらしく、窓にベタッと顔をくっつけて外の景色を見ていた。
「じゃあ、コノハ助教もドライスーツに着替えて———」
「ああ、その必要はない」
彼女は長手袋を外して機体の収納庫に収めると、開け放したハッチからそのまま中に入ろうとした。
「おいおい、これは一人乗りで、後ろは狭いから君は入れないぞ、知ってるだろ」
すでに操縦座席の後ろにはコノハ助教のトランクが入れてある。トランクは小さめなので、前にサクラ技官が入ったときよりスペースは広いが、だからといってそこに人が入ることは不可能だ。
「私ばっかり外にいるのは不公平じゃないかい」
「でも無理だ、入れないよ」
「まあ見てなって、いや、暫く見るな、ほい」
彼女はそう言って、ショールを脱いで私にバサッと被せた。
「うわ、何をする」
前が全く見えなくなったが、何かがするっと機体に潜ってきた気がした。
「ショール外していいよ、それからこれ、預かっといてくれ」
「何をやっているんだ」
私が言うやいなや、何かがどさどさと操縦席に放り込まれた。
それは白い、人間の手足だった。
「うわあ!」
いきなり目の前にバラバラ死体みたいなものが放り込まれ、私は肝を潰した。しかもその手足は微妙にピクピクと動いている。
怖い。
「ほら、入っただろ」
背後から声がした。
振り返ると、手足をなくしたコノハ助教が、座席の後ろの隙間にすっぽり収まっていた。
白い顔がシートの背もたれの隙間からこちらを覗いている。彼女の肘の少し上から先が無くなり、白い断面からケーブルみたいな物が伸びて、操縦席にある手に繋がっていた。下を覗くと、アルザス衣装のスカートがトランクに被さっている。足の断面のところでトランクに載っているらしい。スカートの裾からもケーブルが出て、手と同じように、それが白い足に繋がっていた。
「は、外したのか?」
「そうだよ。予想通り、ぴったりだ」
彼女はにやりと笑った。
「入ったって?しかし」
私の座っているところに二本の腕と足がある。それらを抱えているので只でさえ狭いコクピットが一杯になっていた。
「これ、どうなってるんだ、繋ぎ目とかは」
「接合部だけ外骨格化してる。でもそれ以外は生身だ、ほうら」
白い腕が艶めかしく動き、私の服をぎゅっと握り締めた。
「うわ、怖すぎる、やめてくれ」
「まあそう邪険にするなって」
コノハ助教はニヤニヤしながら言った。
「向こうに着いたらすぐに外に出るから、それまでの辛抱だ、何なら代わりに操縦してやろうか?」
「やめろ、この狭い中でそれは無茶だ。とにかくじっとしていてくれ」
「そうかい、私の方が上手く動かせるのに」
「いいから」
そんなことをしているうちに、ようやく発進の準備が整った。
「———じゃあ、行くよ」
「了解」
コノハ助教の手が親指をあげた。
私が左腕を見ると、丸いガラス窓の向こうでサクラ技官がこくりと頷いた。
「では、フクラスズメ、発進!」
フクラスズメはレールの上を滑り、暗い地底湖に突入した。
そんなことをしているうちに日々が過ぎていった。
年が明けてから暫くして、私は今回の件を記録しておこうと思い、関連する情報を取りまとめていた。その中で、あの依頼人に確認したいことがあったので、私は彼に会うために街に赴いた。
少し前に綺麗に別れたばかりなので、また会うのは少しばつが悪い気がした。
だが、彼が所属している調査隊の宿舎を訪れたとき、もうその調査隊はこの島を離れていた。島が人類の文化圏に近づくのはもう少し先だが、こんな風に一足先に島を離れて海洋調査をしながら帰還するのはよくあることだという。だがこちらにいる担当者に彼の名前を伝えたとき、担当者は不思議そうな顔をして、
「そんな人物はあの調査隊にはいない」
と言った。
私はキツネにつままれたような気持ちで博物館に戻った。
ちょうどその時はカフェにカレハ助教がいたので、私はそのことを彼女に話した。
「ああそうですか、あのひと、ちょっと変わってましたからねえ」
「変わってたって、何が」
「だって、あのひと・・・」
カレハ助教の言葉を聞きながら、私は彼と会うときに微かに感じていた違和感を思い出していた。
「だって、あのひと、雨の時にしか来なかったじゃないですか」
私はぞくっとした。私の脳裏にこの事件の経緯が甦る。最初に彼が現れたときは、雨だった。そしてそれから三度、彼はこの博物館を訪れた。そしてそのいずれの時も、雨が降っていなかったか?
それに、モササウルス湾を調査したとき、彼はずっと姿を見せなかった。彼が現れたのは、調査が終わった後になってから。そう、雨が降りはじめてからではなかったか?
「————い、いや待て」
私はある事実に思い当たった。
「確かに彼がいる時、雨が降っていた。でも、全部じゃない。そう、最初に彼がここに来た翌日、街のカフェで待ち合わせをした。コノハ助教と一緒に、そこで彼に会った。あの時は、雨は降ってなかった」
コノハ助教を見て彼が気絶したときだ。そうだ、彼は晴れの日にも現れている。私は胸をなで下ろした。
「いえいえいえ」
カレハ助教が顔の前で探偵みたいに指を振った。
「あの時、御館様の仰るとおり、表にはコノハさんが出ていました。私は裏で運動制御をしていましたが、その時の様子は見ていました。御館様、御館様が入ったカフェの名前を覚えていますか?」
「名前だって、確か、『シェルブールの、雨傘』」
私の心臓がきゅっと縮まったような気がした。
「そうです、雨傘、です。そしてあのお店の中では雨が降る映像も流れてましたよね」
古風なテレビにあの有名な映画の冒頭部分が写っていた。雨の中を色とりどりの傘が行き交う————。
「え、もしかして」
「そう、確かにあの日は晴れていました。でもあの人が現れた場所は明らかに雨に纏わる場所でした」
「そ、そんな、バカな」
「そうなんです、あの人は、雨の降る場所にだけ、現れるんですよ」
私の頭で何かがぐわんぐわんと鳴っていた。では、あの人物は、やはり人間ではなかったのか?異形の存在だったというのか?あんなに人間そっくりで、会話もしていたのに。でも、サクラ技官だってフランス語を話すじゃないか。この島の謎に関わる未知の存在であれば、言語を操ることくらい容易いだろう。では私は、この島の謎に関わる存在に出会ったというのか?ハロウィンに紛れ込んだ真の魔物に出会ったというのか?
そんなはずはない。絶対にそんなことはない。だがもし仮に、だ、あくまで仮定の話として、だ、彼がそうだったとして、では何故、彼は私に接触してきた?
彼は、モササウルスがいると言って、あの場所の危険性を訴えていた。
警告、か?
彼はこの島に潜む防御機構に人類が接触しつつあることに気づき、我々に、近づくなと警告をしていたのか?
だが、それだけか?彼はコノハ助教を異様に怖れていた。私は彼が口癖のように言っていた台詞を思い出す。
『お、恐ろしい』
あれは何を意味するのか?コノハ助教の何が恐ろしいというのか?
彼は私に接触して警告を発し、その後、コノハ助教に出会った。そこで彼は彼女の正体に気づき、これまでにない異物と認識して危険を感じた。
恐ろしい
そういえば、彼は我々に警告を発すると同時に、折に触れて、コノハ助教が調査に参加することに難色を示していた。最初の調査の時には、「あの人は参加するのか」と心配そうに尋ね、二度目の調査の時には、彼女が参加しないことを知った彼は明らかに安堵していた。
彼はもしかしたら、コノハ助教というイレギュラーな存在をあの防御機構が認識する未来を怖れていたのか?
結果的に、私が要らぬ気を廻したせいでコノハ助教があの海に潜ることはなかった。だがもしあのとき、コノハ助教があの海に潜ってあれに検知されていたら、そしてあれが彼女を未知の危機と判断したとしたら・・・・・・
私が遭遇したよりももっと破滅的な事態になっていたかも・・・・。
————恐ろしい
それともこれらは全て私の浅慮に過ぎず、彼は本当はもっと全く別の、もっと恐ろしい何かの話をしていたのか?
気がつくと私の手がブルブルと震えていた。
「あいつの言うことなんか、気にするなよ」
その日の夜、私の研究室でコノハ助教が言った。
「雨の日に現れる怪異だって?そんなのあるわけないさ。君が考えたとおり、彼はあの化け物が作るレンズで深淵を見た。そして恐怖に戦いた、それだけさ。私を怖れたのも何か違和感を感じたんだろう。私だって完璧に人間を演じられるわけじゃないだろうからね」
そうだろうか。
そうかもしれない。調査隊の名簿に名前がないのは、きっと偽名を使っていたからだ。私のような得体の知れない者の所に怪物調査の依頼に来るのだ、それくらいやるさ。
私はコノハ助教の意見を受け入れることにした。
だが、今回の一件は、冬の怪談として私の心に留まることになった。
だから私は雨が降る日はふと博物館のドアを見てしまう。
雨の向こうから、あの依頼人がやってくるのではないかと。
どうしても、見てしまうのだ。
6ーエピローグ
日々が過ぎ、私がこの島を去る時がきた。
この一年、この島では色々なことがあった。何度か死にかけたが、それも含めて、灰色だった私の人生が鮮やかな色彩に彩られた気がした。
それも、もう終わる。
内海には春の日差しが落ちていた。
これから私はトリオニクス湾の港に行き、そこで帰りの船に乗る。
ライト館長、フェンネル操縦士もとい博士、ヒューベル博士、キャンベル教授にカハール博士、そしてコートニーはそこで私を見送ってくれるらしい。
だから私はこれからこの博物館で、人外の者たちに別れの挨拶をする。
日本に帰ったら、真っ先にここと通路を繋ぐつもりだ。
でもその時の私はもはやここの住人ではない。
ノーチラス島の乗り人でもない。
彼女達が異邦人となった私を受け入れてくれるかどうかはわからない。むしろ、私のことなんかすっきり忘れて、新しい道を歩いて行った方がいい気がする。
彼女達は既に道を見つけていた。
カレハ助教の絵は、博物館に飾っていた何点かが話題を呼び、今は街の画廊で売られている。島の様々な場所が情緒的に描かれているので、この島を去る人達が記念に買っていくそうだ。
コノハ助教は非正規ではあるがレプティリカ大学付属博物館の学芸員に決まって、リール・ド・ラビ―ムにある収蔵品の管理をすることになった。館長にいろいろ教わっていたが、高校にも通っているのでかなり大変らしく、
「私にできるかな」と戦々恐々としていたが、その心配はサクラ技官の登場で杞憂に終わった。
サクラ技官は長いことあの野外博物館を維持管理していただけあって、博物館の業務はお手の物であった。今や収蔵品の管理はほぼ彼女がやっている。
コノハ助教はもっぱら博物館の展示室の奧に新しくできた売店の店番をしていた。そこではカレハ助教の絵も売られており、わざわざ街から買いに来る客もいるので、結構忙しいみたいだ。
出発の日の朝、私は最後のお別れをしようと、コノハ助教とカレハ助教の部屋に行った。ドアをノックすると、
「は〜い」という返事。これはカレハ助教だ。
「カレハ助教、じゃあぼくは行くから。どうか元気で」
「は〜い。あ、行くんならついでにゴミを出しといて下さい」
何とも素っ気ない応えが返ってきた。
ドアを開けようともしない。おおかた、また絵を描いているのだろう。
まあ所詮、私は彼女にとってその程度だったか。
ドアに背を向けて、私の寝室だった部屋の前を通り、階段を降りる。
階段の途中でサクラ技官とすれ違った。
「Au revoir」
私が別れの挨拶をすると、彼女は訝しそうに首をかしげた。
「A bientôt」
彼女の答えも素っ気ないものだった。そしてそのまま階段を上っていく。
リール・ド・ラビームでの別れの挨拶はこのように実にあっさりと終わった。
私にとっては宝物だったこの島での諸々の出会いも出来事も、彼女達にとってはたいした事では無かったのだろう。
私はかなりがっくりきて、ゴミ袋を持って博物館を出た。
玄関のドアを出て、振り返る。
もしかしたらサプライズでお別れのイベント等があるかと思ったが、そんなものは全くなかった。
でもその時ふと、さっきのサクラ技官の言葉が甦った。彼女は、さよなら、ではなく、またね、と言った。
もしかしたら私の存在は彼女達にとって実に当たり前のことで、これからも今までの関係が途切れずに続くことを信じて疑わないから、彼女達は日常と変わりない対応をしていたのか?
そんな考えがよぎったが、まさかね、と私は首を振った。
私はため息をついて、博物館の脇にあるゴミ箱にゴミ袋を放り込んで、そのままその場所を後にした。
私がレプティリカ大学に教授として赴任して、この場所に戻ってくるのはおよそ一年後のことである。
- 完 -