第五部
私は愕然として窓の外を見ていた。
「ああ、これじゃダメだな」
コノハ助教ががっかりしたように言う。
「その超軽量なんとかじゃ、こんな雨の中を飛べないだろう?それに、こんな日にあんな場所に行ってた理由を聞かれたら返答できないぞ」
その通りだ。困ったことになった。
このままでは、トリーニ氏の調査隊がまたあの場所に行って調査を始めてしまう。
「万事休すか」
やはり魚雷で吹っ飛ばすしかないのか。
でも魚雷が無い。
「ぐぬぬ」私は唸った。
その時、それまで黙っていたサクラ技官が、やはり黙ったままだが、ゆっくりカフェの入口の方を指さした。
しかしそこには誰もいない。
「どうした、サクラ技官?」
しかし彼女はずっとカフェのドアを指さしている。カフェのドア?もしかしてその先か?
「もしかして、誰か来た?」
「ああ、外に誰かいるぞ」コノハ助教の視線が鋭くなる。彼女も感知したようだ。
「え?誰か来たんですか?こんな雨の中を?」館長は訝しそうだ。
「とにかく、ホールを見てきます」
私は皆をそこに残してカフェを出た。
薄暗いエントランスホールに雨音が響いている。
こんな雨の日にこんな辺鄙な場所を尋ねてくるなんて、普通では有り得ない。
何だか怪談めいているな、と思った。
そして、入口のドアが開く。ここは博物館なので日中は誰でも入ることができる。
ドアの向こうで、雨に濡れながら立っていたのは、あの依頼人であった。
「ど、どうされました」
私は驚いて駆け寄った。
大雨で傘も役に立たず、濡れ鼠みたいになったトリーニ氏は、少し狂気が混ざったような目で私を見た。
「あ、あの、折り入ってお話が・・・・・」
「とにかく中へ。カフェにストーブが点いてますから」
私は彼をカフェに連れていこうとして、はたと思い当たった。
彼を中に入れていいのか?
今、カフェの中にはノーチラス島の魔術師と、異形の甲殻少女と、地底世界の精霊さんが揃っている。
こんなところにこの繊細な人物を連れ込んだら、また気絶するか、下手したら発狂するかもしれない。
「あ、いや、ちょっと待ってください」
私はそう言って彼をホールに残し、カフェのドアを開いた。
すると、三人のそれぞれ個性的な女性が一斉にこちらを見る。
私はそのままバタンとドアを閉じた。
これはダメだ。
彼には刺激が強すぎる。
特にサクラ技官はダメだ。彼女を見たらきっと彼はおかしくなる。下手したら死ぬ。
「え〜、あのですね」
「博士、今、あの中に、いらっしゃるんですね、あの方が」
「ああ、あの方というと、コノハさんのことでしょうか?」
トリーニ氏はこくんと頷いた。
「ああ、いると思いますが、あ、いや」
その時私は思い当たった。まずい、コノハ助教はカラコンを着けてない。今は縦長の瞳孔をもつ赤い瞳のままだ。人間で無いことがバレてしまう。
「いや、今いるのは双子の妹のカレハさんです!」
私はカフェの中にいる彼女に聞こえるように叫んだ。
「博士、何故そんなオペラ歌手みたいな大声を出すのですか?」
「え、いいえ。大きな声を出すのが趣味なので」
「そうですか、変わったご趣味ですね」
「大声を出すと、あああ、脳が活性化されるのです!」私はやけになって叫んだ。
「とおにかく!中にいるのはカレハさんなのでえす!」
これだけ叫んだらいくら何でも聞こえているだろう。そうでなければただの変人になってしまう。
「もしかしてその方、カレハさんも、その・・・・」
「ああ、コノハさんとよく似ています、というか、そっくりです。びっくりされると思いますよ」
「え、そ、そうですか、それは是非、お目にかかりたいもので」
「ああ、だったらいい機会かもですね」
だがしまった、まずい。サクラ技官も何とかしないと。
「ああそうだ、サクラ技官はいないのでえす!ああ、サクラ技官はいないのでえぇす!」
「なぜ、このタイミングで居ない方の名前を二度も叫ばれるのですか?」
「あ、いえ、いない人の名前を叫ぶのが趣味なので」
「そうですか、変わったご趣味ですね」
もう滅茶苦茶だ。
私はあたふたしながら、彼をカフェのドアの前まで連れていった。サクラ技官は上手く部屋から出て行っただろうか?私はヒヤヒヤしながら真鍮のノブを回してドアを開けた。
中には笑いを必死で押し殺しているカレハ助教と、同じく笑いをこらえて肩をふるわせている館長がいた。あの館長がこんな態度を見せるのは珍しい。
どうやら、私がかつて大学の分類学の授業で昆虫の完全変態と不完全変態の解説をしたとき、不完全変態について、「まだ羞恥心がちょっと残っている感じですかね」というボケをかましたときと同じくらいにはウケたようだ。
ちなみにその授業の出席カードのコメント欄は、「先生は完全変態ですか不完全変態ですか?」「ぼくの性癖はXXXなのですが、ぼくは完全変態でしょうか不完全変態でしょうか?」といった質問が溢れ、閉口した。
それはともかく、
サクラ技官は幸いなことにいない。展示室の方に逃がしたのだろう。
「お、おお・・・・」
トリーニ氏は感極まったような顔をしていた。一見すると容姿端麗な女性二人に目を奪われているように見えるが、私には分かる。彼は異形の人外少女と、恐るべき本物の魔眼をもつ美少女を前にして、恐怖を必死で押し殺していた。そしてさらに、得も言われぬ恍惚を感じている。
それはまさに、魔に魅入られた人間の姿だった。
あ、これ、気絶するかな。
私がチラリと横目で見ると、彼の膝はガクガクと震えていた。
そんなに怖いのか。
そんな態度を取られると、平然としている私の方がおかしい気がしてくる。事実おかしいのかもしれない。
「どうしました?」
魔法使いの館長が声をかけた。
「顔色が悪いようですが?」
「い、いえ」
トリーニ氏はかろうじてそう答えた。彼は何とか持ちこたえたようだ。サクラ技官がいなくて良かった。いたら絶対気絶している。
「何か飲み物を用意しますよ、手近なテーブルにおかけください」
私がそう促すと、彼は彼女達から少し離れたカウンター席に腰を下ろした。座るときにチラリと後ろを振り返ったのを私は見逃さなかった。本能的に退路を確認したのだろう。彼にしてみれば、トラとライオンがいる檻の中に生身で入ったような状況なのだろうか?
「それで、どうされました?」
私は厨房でコーヒーを煎れながら尋ねた。
こんな雨の中を一人でやってきたのだ。何か特別な理由があるのだろう。
「実は明後日、またあそこで調査をするのですが」
「はい、知ってます」
「その際にまた、ご同行願えないかと」
「え?調査は前回行って、『異常なし』とお伝えしましたよね?」
「ええ、でも、ちょっと、気になりまして。もしかして博士、何か私に秘密にしていませんか?」
「え?」
私は少しギクッとした。この依頼人はコノハ助教が「調べるフリだけしろ」といった件に感づいているのか?
私は思わずカレハ助教を見た。彼女はきょとんとした顔で首をかしげる。だめだ、コノハ助教じゃないと。
「それはどういうことですか?」
私は慎重に彼に尋ねた。館長の方を見ると、彼女も警戒するように彼を見ていた。こんな時、この少女は頼もしい。私が何か不味い返答をしたら、カレハ助教の代わりに対処してくれるだろう。
トリーニ氏は怯えたような声で答えた。
「あの時、帰りの船で、コノハさんが私をすごく誉めてくれました。その理由がよくわからなくて。でも、彼女は私が深刻な危機にいち早く気づいたと言っていた。だからもしかして、私が見たモササウルスは幻覚でも思い込みでもなく、本当にいたのではないか?そしてそれにあなたとコノハさんが気づいた」
「・・・・・それで?」
「それで、あなたたちは何かをしようとしている」
「何か、とは?」
「確証はありませんが、私達とは別にあそこを調べるおつもりでは?」
私はこの依頼人の勘の鋭さに思わず唸った。
まさにそうしようとしていたのだ。より正確には事実無根の情報をでっち上げようとしていたのだが。
「・・・・だとしたら、どうだというのです?」
私は警戒するように言った。コミュ障気味なので何か不味いことを言ってしまうかもしれない。でもその時はきっと館長が止めてくれるだろう。
「もしそうなら、」とトリーニ氏が答えた。
「もしそうなら、先ほど申し上げたとおり、また我々にご同行いただきたいのです。私はあなた方抜きで、またあの海に行くのが堪らなく恐ろしい。それならばいっそ、あなた方と行動を共にした方がマシだと思ったのです」
「何か誤解をされているようだが、私達には特別な技術も能力もありませんよ。あなたが言う恐ろしいことについて、特別な対応はできません。私達も普通の人間なので。こちらからも伺いますが、あなたは一体私達のことを何だと思っているのですか?」
「よく、わかりません。でも、とても恐ろしい何かを感じるのです。大変申し訳ないのですが、どうしようもないのです」
「きっと、お疲れなのですよ」その時、館長が口を開いた。
「この島にいらっしゃった方にはよくあることです。静養なさるのが一番だと思いますよ」
隣でカレハ助教がうんうんと頷いていた。彼女は私の前では饒舌だが、実は人見知りなので、こんな時はオタクめいた態度は取らない。いや、そんな態度が実にオタク的ではある。
私は館長が、前に私にそうしたように、「よろしければ楽にしてさしあげましょうか?」と言うかと思ったが、彼女は黙っていた。あの魔眼は人を選んで使っているのかもしれない。ならば彼女が私にそれを使ってくれたことを感謝すべきか。
「う〜ん」
私は思案した。もしかしたらこれは渡りに船という奴かもしれない。今日明日中に怪物実在の証拠をつくれないなら、彼らの調査に同行して、その時に証拠映像を撮ればいいのだ。上手くすれば彼らも目撃者になってくれる。そしたらあの海域を封鎖するように依頼しやすくなるかも。
「・・・・・わかりました。我々としては、再びあそこを訪れる理由はありませんが、そちらがお望みとあらば同行しましょう。あなた方の調査隊は我々の参加を承諾してくれるんですよね?」
「はい。それは大丈夫です。私が説得します」
「なら問題はありません。あ、今回コノハさんは不参加になりますが、それでいいでしょうか?」
そう言うと、トリーニ氏は明らかに安堵したような表情をした。
それを見て、カレハ助教がちょっとむっとしたような顔をする。
いつもコノハ助教と仲が悪そうにしているのに、彼女が悪く言われたりすると腹が立つのか。私は少し安心した、というか少し微笑ましい気持ちになった。
「では明後日に」
それでその話は終わり、私は彼にストーブに当たって濡れた服を乾かしてから帰るように言った。
彼はそうしたが、その間中ずっと恐怖に震えながら、私達を凝視していた。
その様子を見ながら、私はぼんやりと考える。
コノハ助教は彼を評して、「種の防衛本能」と言っていた。今、この島にいる我々の存続が危うい状況になって、彼のような人物が現れた。これは偶然としか言いようがないが、もしかしたら人類の中には一定数こんな人が混じっていて、我々が危うい状況に陥ったとき、そんな人達が恐怖による警鐘を鳴らすことで、人類はこれまでに幾度か種の存続の危機を回避してきたのかもしない。
なんてことを考えた。
だが、違うだろうな。
もしそんなことがあるなら、きっと近代において大量破壊兵器が作られることはなく、我々の観察者も人類を見捨てることは無かっただろう。
ただ今回、この島では、彼のもつ素質が我々の生存に役立ったということだ。
だがその時、別の考えが雨雲のように私の頭に浮かんだ。
この人物がもつ素質?この人物はあの海域に潜む謎の存在を見いだし、コノハ助教はそれを「種の防衛本能」と呼んだ。だがしかし、人間に果たしてそんな都合のいい能力があるだろうか?少なくとも自分にはない。それに、脳科学の分野でそんな能力が見つかった例はこれまでにない。とすれば、この人物はどうやってあの怪物に気づいた?100メートル下の物体を海上から見つけるなんて、人間には不可能なのだ。
そして何かもうひとつ、彼にはおかしいことがある。怪談めいた不可思議なことだ。私は漠然とそう思ったが、それが何かはわからなかった。
では、この人物は一体何者なのか?本当に、人間なのだろうか?
カフェの片隅で怯えている依頼人。彼はもしかしたら我々の危機を救った救世主かもしれない。だが、もっと別の、何か恐ろしいことを隠してはいないか?
「トリーニさん、あなた——」
私が言いかけたその時、その依頼人は席を立った。
「それでは、失礼します」
そして怯えたような顔で我々を見る。
すると館長が声をかけた。
「雨もまだ止みそうに無いですし、ここで遅い昼食をご一緒にどうですか?」
彼女は彼のことがちょっと可哀想になったのかもしれない。
「暖まりますよ」
トリーニ氏はびくっと怯えたような顔をして、だが恍惚とした表情で首を横に振った、それから小さく何かを呟いた。
きっと、「お、恐ろしい」と言ったんだろうな、と私は思った。
彼は恐縮しながら、来たときと同じように、雨の中に消えていった。
依頼人を送り出した後、私はカフェに戻って、ふと窓の外を見た。
土砂降りの雨がガラス窓を叩いている。
少し、不吉な予感がした。
その日の夜、雨はまだ降っていた。
私は研究室の机に座って、ぼんやり窓の外を見ていた。雨足は昼間よりも弱くなっている。
窓の外で深淵は沈黙していた。今日の雨はあの怪奇現象を起こすだけの水量には達していない。あの現象は、今夜は起きないだろう。
この小島の深淵とあの「モササウルス湾」は似ている。どちらも未知の存在の息がかかっていて、独特の怪しい雰囲気があった。
私は冬の雨が降る窓の外を見た。
雨に歪む窓ガラスの向こうで、外灯が暗い内海を照らしている。
今この瞬間、「モササウルス湾」にも冷たい雨が降っているだろう。
そしてその暗い海の底には・・・・。
明後日、つまり調査の日、私はそこにいる。
私の目の前に蒼い水の世界が広がっている。
時々、コクピットのキャノピーの脇を気泡が上に登っていった。
私はフクラスズメに乗り込んで、海中にいた。
コンソールの水深計を見る。深度5メートル。まだまだ浅く、上を見ると水面の向こうに太陽が揺らめいて見えた。
私の目の前を白いものが横切る。
水中用のスーツを着たコノハ助教だった。人間の少女のような姿をしているが、肘から先と足首から先の部分に長い袖のようなものがある。それが水中でゆらりと揺れると、彼女の体がすうっと水中を舞うように加速した。
まるで妖精の舞のような姿に思わず息を呑む。
彼女は私の方を見て軽く前ヒレを振ると、そのまま下に潜っていった。二つの角が水を切り裂いて、瞬く間に彼女の体が深みに消える。だがすぐに彼女は浮上してきて、私の目の前を矢のように飛びすぎると、そのまま水上に躍り出た。私の方からは上にある水面が裂けて彼女の輪郭がおぼろになる。一瞬の滞空の後、彼女は水に飛び込んできた。
酸素ボンベを装着していないので、呼吸はこうして水面に出る必要があるそうだ。まるで海棲哺乳類である。
彼女は水中でまた私の前を横切り、すうっと下に向かう。
あの怪物はずっとずっと下だ。しかも私の予想では固着性である。水面付近でこうしている限りは安全だろう。
コノハ助教が私の前に浮上してきた。何だか楽しそうな彼女の顔を見て私も嬉しくなる。海の水は冷たいかもしれないが、今日は晴れているし、あとで何かご馳走することにしよう。
私は彼女に向けて手を振った。
それに応えるように彼女がイルカみたいに水中で回転する。
その時、けたたましく警報が鳴った。
目の前で水の塊がぶわっと膨れたような気がした。
そして何の前触れもなく機雷が爆発したように、機体を衝撃が襲う。
コクピットのアラームが狂ったように鳴っていた。
私は目の前を見た。
コノハ助教の片手がなくなっている。
彼女は苦しそうに仰け反り、がはっと息を吐いて、そのまま頭を下にして沈んでいく。
まさか
攻撃されたのか?
私は反射的に機首を下に向けた。コノハ助教が深淵に吸い込まれるように落ちていく。
「コノハ助教!」
私は叫んだ。次の瞬間、水中でまた爆発が起こり、私の目の前でコノハ助教の体が四散した。
「コノハ助教!」
私は悲鳴をあげた。
そしてその自分の悲鳴で、目を覚ました。
ベッドの上で私の体はほぼ硬直していた。
恐怖に目を見開き、歯をギリギリと食いしばっている。
恐ろしすぎる夢のせいで、私は暫くまともに呼吸ができなかった。
まるで過呼吸のように苦しい。ベッタリと汗をかいていた。
あまりにも生々しい姿。水圧に引き裂かれるコノハ助教の姿が頭から離れない。
どうして、どうして私はあんな夢を見たのか?
あの海に潜ることについて、コノハ助教にはあの怪物が固着性であると説明し、接近しなければ大丈夫と言った。だがおそらく、私の深層心理は少なからず不安を抱えていのだろうか。
本当に大丈夫だろうか。
あの時コノハ助教も言っていたが、相手は未知の存在が作りだしたものだ。地球生物の常識は通用しないかもしれない。私が思いもよらない手段で攻撃してくる可能性がある。
例えばさっきみたいな遠隔攻撃で。
そんな奴がいる海の中をコノハ助教は泳ぐことになる。大丈夫だろうか?彼女はいつもと違うスーツを着ている。もし何かあってもいつもみたいには対応できないかもしれない。
そんな不安が、さっきの夢を見せたのか。
私の脳裏にまた、ろくでもない勘が瞬いている。たぶん、私の作戦には何か問題がある。このままではきっと、何か良くないことが起きる。
何が起こるのか?
わからない。
あの怪物が固着性なのは多分間違いない。だが、さっきの夢みたいに、遠くまで届く飛び道具を使ってきたら?
ならどうすべきか?
でも、これまでの調査では何の異常も無かった。水面付近を泳ぐ程度で何かが起きるとは考えにくい。
しかし、でも———。
考えた末、私は、明後日の調査の前にあらかじめ自分自身で様子を探ってみることにした。
予備実験というやつだ。我々研究者はえてして本格的な実験の前に同じ条件下で模擬的な実験を行う。今回もそれを行って、安全を確認すればいい。
さらによくよく考えた末、私は今回の予備調査はコノハ助教抜きで行うことに決めた。
その理由は幾つかある。
まず一つ目、もちろん、さっきの夢が原因だ。何の根拠も無いが、もし本当にあんなことが起きたら取り返しがつかない。
それから二つ目。コノハ助教も込みで予備実験をするなら、彼女にはこんな寒い時期に二回も海に潜ってもらうことになる。それは申し訳ない。あの水中用スーツを着た彼女は「寒い寒い」と言っていた。ということはあのスーツに断熱効果は期待できない。彼女が風邪をひくかどうかは知らないが、辛い思いはなるべくさせたくない。少なくとも私は寒いのは嫌いだ。
それから三つ目、これまで私は彼女に頼りきりだった。前回の地底探検でも私はずっと彼女を頼ってきた。これから数ヶ月後に私はこの島を離れ、元の孤独な生活に戻る。そうなったら彼女とは実質的にお別れだ。もちろん、私は通路を作ってこの島との連絡を残すつもりだが、彼女にとって私はもはや過去の人間だろう。今までみたいに傍にいてはくれない。
そんな未来を考えると、今回の予備実験を彼女の助け無しでやりきることは重要だと思った。
だが一人では無理だ。サクラ技官には手伝ってもらう。彼女がいないとそもそもあそこに行けない。
早朝の薄明が入る部屋で私は暫く気持ちを落ち着けてから、一階に降りた。必要物資の買い出しのために街に行こうとして、図書館の前のドアを横切る。
「おはようございます」
図書館のドアが開いて、灰髪の少女が姿を見せた。水色の瞳。カレハ助教だ。
「今日はやけに早いですね、御館様」
さっきの夢を思い出して、私はギクッとする。
「どうしましたか?」
「い、いや、何でもない、は、早いね、君」
「今更何を言っているのですか」
カレハ助教は呆れたような顔をした。そういえば彼女達は交代で眠るため、夜でもどちらかが目覚めている。そして彼女達は一晩中本を読んだり映像作品を観たりしているのだ。これが、彼女達がすごい速さで人類社会に馴染むことができた理由である。昨夜もずっとカレハ助教は図書館で本を読んだりしていたのだろう。そんな当たり前のことを失念するなんて、やはり今日の私はおかしい。
「あ、ああ、そうだったね。ごめん、ちょっと寝ぼけているみたいだ」
私はそう言って、彼女をじーっと見る。本物だよな。さっき目の前でコノハ助教が消えてしまったので、不安になる。
だがカレハ助教はそこにいた。私を見て不思議そうな顔をしている。
私はほっとした。全て悪夢のせいだとわかっているが、やはり安心する。
「何処かにお出かけですか?」
「ああ、ちょっと街まで。すぐ戻るよ。朝食はクロワッサンか何かを街で買ってくる」
「わかりました」
そう言うと、カレハ助教は「ふんふ〜ん」とか言いながらまた図書室に戻った。
バタンと図書室のドアが閉まる。
私はちらっと、彼女に何も言わずに調査を行うことへの後ろめたさを感じた。
ここで彼女に伝えるべきだろうか?
「カレハ助教」私は閉じたドアに向かって言った。
「何ですかあ」ドアの向こうから返事がした。
「い、いや、何でもない」
「は〜い」
だめだ。
今の私には彼女に何も言えない。あの悪夢はそれほどに強烈だった。
でも、「明日はぼくだけで予備実験する」くらいは言っても良かったはずだ。
この時、私はどうして彼女に伝えなかったのだろうか?
それはもしかしたら、私によくあるネガティブな感情の発露だったのかもしれない。
彼女の人生から自分がふるい落とされていくことが辛くて、それならむしろ自分の方から突き放そうと思った。
そして、一人でも生きていけると自分を安心させたかったのだ。
4―未知との遭遇
私は街に赴いた。
街で少し買い物をしてからレプティリカ大学を訪れると、ちょうど最初の講義が始まるくらいの時間だった。
確か今日はフェンネル操縦士が来ていたはず。
彼はクリスもといカハール博士の下で学位論文を仕上げている。
今日は朝一番に進捗の報告をすることになっていたはずだ。
今頃はクリスの部屋で論文の直しをしているだろう。
私は大学付属の研究所にあるクリスの部屋に行って、ドアをノックした。
「入りたまえ」
部屋の中から嗄れた声がした。
私はドアを開けて入室する。
「あれ、師匠、どうしました?」
部屋の真ん中にあるソファに座っていたクリスはマスクを外して驚いたような顔をした。
テーブルを挟んで向かいに座っていたフェンネル操縦士もこちらを振り返る。
二人ともちょっと疲れているようだ。
「忙しいときに申し訳ない」
私は二人のところに行って、街で買っておいたクロワッサンをテーブルの上に置いた。
「ああどうもありがとうございます師匠。じゃあ、ちょうどいいから休憩にして、コーヒーでも煎れましょうか」
クリスが席を立った。
「先生、どうかしましたか?」
フェンネル操縦士が尋ねる。
「ああ、ちょっと、君の学位論文のことで。確か、チューリップの土台部分については水中で観察したんだよね」
「そうです」
チューリップとは先の事変で襲ってきた怪物のひとつだ。形態を自在に変える上体部と、水中にあるヒトデ状の土台部分から構成されていた。彼はその土台部分を水中で撃破したのだ。
「それについて、水中での様子をもうちょっと詳しく記載したらどうかと思ったんだ。あれを水中で観察したのは君だけだ」
「ああ、そうですか。わかりました。どんな情報が必要ですか?」
「そうだね、ちょっと、その時の様子を話してもらえないだろうか?」
「いいですよ」
フェンネル操縦士は私にその時の様子を語ってくれた。私はさりげなくその時の彼の操縦法を聞き出し、水中での怪物への対処法を学ぶ。
もしもの時は、水中での戦闘経験があるこの操縦士の意見が役に立つと思ったのだ。もちろん彼の学位論文の質を上げることにも繋がるので、彼にとっても悪い話ではないはずだ。
いろいろ細かいことを確認する私に対して、彼は少し驚いたような顔をした。
「先生、水中での制御にお詳しいですね。まるでご自分でも潜ったことがあるみたいな。潜水艇での調査経験がおありですか?」
「まあ昔ちょっとね」私は誤魔化した。
「先生の指摘のお陰で、より客観的な記述ができそうです」
「それは何より」
私はそれからさらに幾つか必要な情報を聞き出し、席を立った。
部屋を出るとき、クリスが近寄ってきた。
「師匠」
「何かな?」
「何かやるつもりですか?」
彼女は鋭い目で私を見ていた。
「い、いや、何でもないけど。ちょっとフェンネル君の学位論文の手伝いができればと、思って」
「師匠はそんな殊勝な考え方をする人でしたか?」
クリスは失礼なことを言いながら訝しそうに私を見ていた。私は彼女に嘘は通用しないことを知っている。ちょっと不味いことになった。
「あ、いや、ぼくのところに怪物の調査依頼がきてね、島の端にある海域を調査することになったんだ。フェンネル君の経験がそれの参考になればと」
私はとりあえず本当のことを言った。
「ふうん」
クリスはまだ訝しそうにしている。
「師匠、自分の調査に彼の経験を利用しようとするのは、実に師匠らしいと思いますがね、あなた、前の地底調査の時も一人でいろいろ抱え込んでいたでしょう?あの時はとりあえず何とかなりましたが、次も上手くいくとは限りません。あまり変なことに首を突っ込まないで下さい」
「ああ、わかってるよ。心配してくれてありがとう」
私は愛想笑いをしながら礼を言った。
彼女はふんと鼻を鳴らして部屋に戻る。
「フェンネル君の学位論文の審査会は一月後、ノエルの前日です。それまでに死んだりしたら承知しませんよ」
「ああ、わかってるよ」
でも死んだら承知も何もないのでは、と思ったが、そう言ったら怒られそうなので黙っておく。
「じゃあクリス、これで。フェンネル君、ありがとう、学位論文がんばってくれ」
私は部屋を出た。
アルザス風の建物が並ぶ街の目抜き通りを抜けて、街外れに向かう。海沿いの高台にある広場にサクラ技官が車を止めて待っているはずだった。
石畳の坂を登ると、広場にでる。
そこに何だか異様なものがあった。
四角い土台のようなものから、何かがニューッと伸び上がっている。その先が傘みたいに広がっていた。
まるでキノコみたいだ。でもあんなでかいキノコがあるか?
いやそれより、それは先の事変で襲ってきた怪物「チューリップ」に似ているように見えた。それに気づいて私は総毛だった。
まさか、こんなところで!
予想もしなかった事態に、私は身構える。冷や汗が出てきた。だがやがて、それがあの怪物よりずっと小さいことに気づいた。
恐る恐る近づいていくと、それの実体が見えてきた。
サクラ技官が、黎明期の古風な自動車の運転席に片足で立っている。
体を支えている足の先からは赤黒い触手が植物の根のようにわらわらと出て、それらが車の各所にからみつきながらウネウネと蠢いていた。そして彼女はもう片方の足を新体操かバレエの選手みたいに真上に伸ばしている。その足を顔にくっつけて片手で抱くようにしていた。I字バランス?というやつか。
彼女は上を向いて、んあ、という感じで口を開け、そこから肉質の茎を出していた。それは彼女の細い足に巻き付きながら伸び上がり、その先でベニテングダケみたいな円い傘が開いていた。
少女からキノコが生えたような異様な光景だった。思わず「冬虫夏草」という単語が浮かび、あまりの悍ましさにそれ以上の思考を止める。
だが、そんな彼女の周囲では、夥しい数のチョウがひらひらと舞っているのだった。
それは異様で、でも息を呑むほどに美しい光景だった。
私が絶句していると、サクラ技官がチラリとこちらを見た。
もしかして、私がびっくりするのを見て楽しんでいるのか?
あるいはもしかして————
その時、いつも何の役にも立たない私の勘が作動した。
もしかして、これはコスプレか?この前から火星人みたいになったり輪入道みたいになったりしているのは、何かに仮装しようとしているのでは?そういえば先日のハロウィンの時も彼女は透明化して私の傍にいた。もしかしてあの祭りを見て感化され、「自分ならもっとやれる」などと思っているのでは?
「来年のハロウィン、出る?」
思わずそう訪ねてしまった。
サクラ技官の青い瞳が、少し揺らめいたような気がした。もしそうなら彼女が初めて見せた感情の顕れだ。だがそれを見定める前に、煌めくように青いヘレナモルフォが彼女の金髪に留まり、その表情を隠す。
そして彼女は一瞬で触手をしまった。
何百もの美しいチョウが、行き場を失ったようにはらはらと舞う。
チョウが乱舞する中で、サクラ技官は丁寧に一礼した。もしかしたらハロウィンの参加を承諾したのかもしれない。でも返事をしてくれないので真意はわからない。
だがとにかく仮装を解いてくれて助かった。流石にこの島で「チューリップ」の真似はやばい。ブラックユーモアにしてもやりすぎだ。
「お待たせ」
私が気を取り直してそう言うと、彼女は黙って車を降りてエンジンスターターを回そうとした。
彼女とはずっとこんな感じだ。言葉による意思疎通は可能だが、こちらからの一方的なもので、言葉を用いたコミュニケーション、いわゆる「会話」ができない。そのへんがコノハ助教の場合と大きく違う。サクラ技官には音声を用いた会話という概念がないのかもしれない。何ともやりにくい。
「エンジンはまだかけなくていいから、朝食はどう?」
私は街で買ったクロワッサンを彼女に渡した。
彼女はそれを受け取り、操縦席に戻った。
私も彼女の横に乗り込んで、クロワッサンを紙袋から取り出す。
フランス留学時代にはよくクロワッサンを朝食にしていた。
その時の習慣からか、私は何気なくサクラ技官に向かって言った。
「Bon appétit」
「Merci」
可憐な声で返事があった。
お決まりの挨拶。私はフランス留学時代にそうしていたように小さく頷き、そして———
「え!」
喋った!?サクラ技官が!私は仰天した。今までどんなに話しかけても何も言わなかったのに!
「君、喋れるのか!」
慌てて尋ねる。でも彼女は何も答えない。
私ははたと思い至った。もしかして、フランス語なら喋るのか?
「Vous pouvez parles français?」
「Non, je ne parle pas français」
答えた!でも、え?話せないだって?でも話してるじゃん。矛盾してる。
「Mais vous parles bien français……」
という感じでいろいろ訊いてみる。だが、私の質問が要領を得ないせいか、結局話せるのか話せないのか、よくわからなかった。
私が食べ終わると、少女は黙って車を発進させる。まあいいか。おいおい、状況がわかってくるだろう。
真鍮製のライトの向こうを景色が流れていった。石畳の道の左側には海が見える。
冬の海は少し荒れていて、白い波頭が羊の群みたいに見えた。
「今日はフクラスズメで『モササウルス湾』に行く。君には通路を開いてもらいたいんだが、いいかな?」
いちいち不慣れなフランス語で言うのが面倒くさいので普通に話す。運転席に座るサクラ技官は黙ったまま頷いた。
その時、私は一つの可能性に思い至った。
「サクラ技官、もしかして」
私はサクラ技官を見る。彼女は黙ってハンドルを握っている。
「きみはあの防御機構について何か知っているのか?」
もしも彼女がこのノーチラス島を作った存在によって作られたなら、あの場所のことも知っているかもしれないと思ったのだ。
「Connaissez-vous ce mécanisme de défense?」念のためフランス語でも尋ねる。実に面倒くさい。
「Je ne sais pas」
だが彼女はそう言って首を左右に振った。
そうか。ならどうしようもないな。
私は小さく息を吐いて、ぼんやりと海を見た。
冬の海は暗いけど、空は晴れ渡っている。
風は冷たいが、澄み切った空気は清々しく感じた。
そんな中を骨董品みたいな車で走っているうちに、今朝からの自分の振る舞いがやや恥ずかしく思えてきた。
少しやさぐれていたかもしれない。
確かに嫌な夢を見て、コノハ助教を抜きで予備実験をすることにしたが、それとは別の感情、すなわちこの島を離れることが嫌だから、カレハ助教にひねくれたような態度を取ってしまった気がする。
私はこれまで傍観者に徹していて、他人の人生に介入すること無く生きてきた。だが、この島に来てから、ようやくまともな対人関係を構築することができた気がする。でもそのせいで、これまでに直面しなかった感情に遭遇してそれを持て余している気がした。コノハ助教に黙ったまま一人で実験をするなんて、まるで当てつけみたいじゃないか。彼女はそれを望まないだろう。それに私も彼女との関係を壊したくはない。
調査には私一人が赴くつもりだが、余計な心配をさせないために、やはり今日の調査のことはコノハ助教に話しておくべきだろう。
サクラ技官の運転する車は走っていく。
私は冬の海を見ながら、
「Participerez-vous à l'Halloween de l'année prochaine ?」
と尋ねてみた。
来年のハロウィンには参加しますか?
彼女は山高帽の奧からチラリとこちらを見て、小さな声で、
「Oui」
と答えた。
私はリール・ド・ラビームに戻ると、コノハ助教を探した。さっきはカレハ助教が出ていたが、もし今もそうなら彼女にお願いしてコノハ助教に代わってもらおうと思っていた。
私はエントランスホールを横切って図書室の前に行き、ドアを開けた。
誰もいない。
私はそれからカフェに行ってドアを開けた。
カフェの中では灰髪の少女がストーブに当たっていた。
「うう、寒い」
瞳が赤い。コノハ助教だ。彼女は私の方を向いて、
「あ、戻ったのかい」と言った。
「ああ」
私は答えて、街で買ってきたクロワッサンの紙袋をカフェのテーブルに置いた。
「遅くなってしまったけど、今日の朝食だ。これからコーヒーを煎れる」
「ああ、そうしてくれ」
そう言ってコノハ助教はストーブの前で丸くなる。
「うう、明日は海に潜るんだろう。勘弁してくれよ、君は船の上にいるからいいだろうけど、こっちは堪ったもんじゃないよ。報酬はきっちりもらえるんだろうな」
「あ、ああ」
「しかもあんな尻尾なんか着けて。バカみたいじゃないか」
コノハ助教は心底迷惑そうな顔をしていた。私は今日の予備調査のことを話すべきかどうか、また迷ってしまう。
ここであの話をしたら、どうなるか?私はこれから起こるであろう会話を脳内シミュレートした。多分こんな感じになる。
私:実は、予備実験をしようと思う
コ:どんな?
私:フクラスズメであの海に潜ってみる
コ:どうして?
私:危険が無いかどうかを細かいデータを取って確認するんだ
コ:ふうん、で、私も一緒に来いと。このクソ寒い日に。君はあれか、鬼か?
私:いや、そうは言ってないよ。君は来なくていい
コ:でもそれ、私も潜った方が確実じゃないか?
私:いや、データを取るだけならフクラスズメで充分だ
コ:フクラスズメが攻撃されるかもしれないぞ?そしたらどうする?
私:その可能性は低いと思うけど、その時は対処するよ
コ:う〜ん、何かあったとき、君一人で対処できるとは思えないな
私:信用が無いな、でも大丈夫だよ、たぶん
コ:仮にそうだとしても、攻撃される可能性があることを考えると、事前に自分でしっかり様子を見ておいた方がいい。私がそう言うことを知っててこんな話をするとは、君はやっぱあれだな、鬼だな、死ねばいいのに
こんな風に、彼女は嫌々ながらも気を利かせて同行を申し出るかもしれない。そしたらこの寒空の下で、彼女を二回も冬の海に潜らせることになる。
「コノハ助教、やっぱり海に潜るのは嫌だよな」
「そりゃそうだよ、当たり前だろう。こんな季節に海水浴するのはよほどの性格異常者だ」
「そうだよな」
さっきは彼女に話そうと決めたものの、彼女の様子を見ていると何だか悪い気がしてきた。今日は安全を確認するだけだし、彼女が来る必要はない。私は空気を読んで、いや読んだつもりになって、今日の調査のことを黙っておくことにした。
「わかった。明日の海水浴の報酬は何がいい?」
「そうだなあ」
彼女は指先を口元に当てて考え込むような仕草をした。
「何がいいかなあ?何か美味しいものが食べたいかな、あ、それから、これはちょっと難しいだろうけど・・・・」
「何かな?」
「暖かくて広いお風呂とか、いいね」
「ああ、温泉みたいなやつか」
「そう、でもこの島には無いよな」
「さすがにそれは聞いたことないな」
「この博物館の浴室は狭いからなあ」
確かにそうだ。この博物館は住むには申し分ないのだが、ただひとつ欠点をあげるとすれば、浴室が広くない。まあこれはこの島のどの家でもそうだし、街の人も文句は言ってない。私は日本から来たから広い風呂が恋しいだけだ。
でも、これについてはコノハ助教の願いを叶えられそうにない。
「お風呂は難しいけど、食事なら何とかするよ」
私はそう答えた。
「ふうん、わかった。それで、今日はこれから何かやることはあるかな?」
「いや、君は特にないね」
私はそう言って、遅い朝食を食べた。
朝食を食べ終わって、カフェから博物館の展示室に出る。ドアを閉じるとき、私は振り返った。
コノハ助教は小さく体を丸めて椅子に座って、ストーブの前で寒そうにしていた。
展示室にはサクラ技官がいた。私は彼女と一緒に展示室からガラス温室に出て、奥にある通路からフクラスズメの格納庫がある地底湖に行った。
石の階段を降りると、青い外灯に照らされた地底湖が見えた。
澄んだ水を湛えた湖の縁には小さな家があるが、明かりはついていない。
今日もアーベル氏は留守のようだ。
私は格納庫に行き、ドアを開けて明かりを点けた。
そこではフクラスズメが整備用の台座に乗せられて鎮座していた。
マニピュレーターを備えた二足歩行型の機体には背部に四枚の翼があり、胸部からは長い衝角が突き出している。まるで四肢を備えた甲虫か、前傾したカワセミみたいに見えた。
カーキ色に塗装された胸部にはリンドウの紋章が描かれている。
いつもここに来るときはコノハ助教かカレハ助教が傍にいるので、彼女達がいないと少し違和感がある。
私は整備台に登り、胸部にあるコクピットハッチを開いた。ちなみにこの機体には頭部がない。その代わりに頭部があるべき場所には各種センサーを備えたユニットがある。そこは台座みたいになっているので、コノハ助教はいつもそこに跨がっていた。今日はそこに誰もいない。
私は何となく心細い気がしたが、頭を振って雑念を追い払い、操縦席に乗り込んだ。コクピットからは前に伸びる回転衝角が見える。その先の床にサクラ技官が黙ったまま立っていた。
「サクラ技官、機体を動かす。格納庫の外に出ていてくれ」
私がそう言うと、彼女は頷いて格納庫を出て行った。
私は機体を起動させる。メインスイッチをオンにすると、この機体独特のエンジン音がした。ターボファンエンジンよりずっと静かで、まるで飛翔昆虫が飛翔筋を高速振動させてアイドリングしているような感じだ。やがて背部から蒼い光芒が閃く。
起動成功。
機体を地上走行モードにする。背部エンジンがアイドリング状態になり、代わりに駆動系が脚部のユニットに切り替わった。
私はスロットルペダルを踏んで、機体を前進させた。
機体はゆっくりと足を踏み出し、格納庫の外に出た。
目の前に地底湖が見える。
その畔にサクラ技官が佇んでいた。
「サクラ技官、この機体ごと『モササウルス湾』に行きたいんだ、君の作った家で行けるかな?」
そう尋ねると、サクラ技官はこくんと頷いて、手に持っていた旅行鞄をカパッと開いた。
鞄から立体細工の精巧な家が現れる。そのドアが開いた。その向こうに蒼い海が見える。
彼女は機体の真ん前に立った。衝角のすぐ先に開かれたドアがある。
「このまま前進していいのかな?」
私が尋ねると、彼女はまた頷いた。
「了解」
私は機体をゆっくりと前進させた。
このまま衝角をあのドアに入れる感じで進めばいいのだろうか。もしそれで行けるなら、その後でサクラ技官はどうするのだろう?彼女も後から転移してくるのだろうか?でもそれでは彼女は海の上に出てしまうかもしれない。
「サクラ技官、海の上に出るかもしれない、君はここに残ってくれ」
そう言うと、彼女は首を左右に振った。
うん?ではどうするのだろう?岸辺に出て待っていてくれるのだろうか?
「わかった。でも海に落ちないように気をつけて」
そう言うと、彼女は頷いた。
まあ、彼女のことだから大丈夫だろう。
私はゆっくりとフクラスズメを前進させる。機体の脚部関節を一杯に曲げて、機体を低い体勢にした。衝角の先端がちょうどサクラ技官が持つ家の辺りに来る。
私はそのまま機体を前に進めた。衝角の先がドアに近づき、そのまますうっと中に入る。すると何かの力に惹かれるように、というか穴に落ちていくような感じで、機体は模型の家のドアに突入した。
「Allez-y」通り抜けるとき、サクラ技官の声が聞こえたような気がした。
次の瞬間、私の目の前には蒼い水面が見えた。
「うわ!」
すうっと落ちる感覚、そして、まるで水中にダイブするように、機体が海に突っ込む。衝角が海面を切り裂いて、錐のようにフクラスズメは水中に突入した。
目の前を無数の泡が包み、それが晴れると蒼い世界が広がった。コンソールの水深計の表示が水深5メートルを示している。
私はそのまま機体を水中移動モードに変えた。操縦桿とフットペダルが背部の翼の駆動系と繋がり、操縦桿の操作に合わせて翼がウミガメのヒレみたいに動いた。羽ばたきに会わせて機体がぐうっと沈降する。
回転衝角は動かさない。これを使うと高速移動できるようになるが、キャビテーションの泡が派手に出てしまうので視界が悪くなる。コノハ助教がサポートしてくれるなら何とかなるが、今の状態ではだめだ。
私は背部の翼だけを使って機体を水中で反転させた。
同時に周囲を探る。強化ガラスのキャノピーから見える視界は青一色だ。
だが、ソナーを作動させると機体のモニターに周辺地形が表示された。右斜め前に崖みたいなものがある。遠くてよくわからないが、あれがノーチラス島の岩壁だろう。
私はあらかじめ調べておいた目的地の座標を入力した。モニターに該当箇所が赤く表示される。
機体をそちらの方角に向けた。このまま島に沿って進めば目標の場所に行けるはずだ。
その時、私は背後に何かの気配を感じ、びくっとして振り返った。
私の背後から小さな白い顔が覗いている。
「わあ!」
思わず大声が出た。
操縦席のシートの肩部分から小さな顔がこっちを見ていた。
まさに怪談だ、でも、この顔は———。
「サ、サクラ技官か?どうやって?」
私は驚いた。まさか?この機体は一人乗りだ。
しかし、そういえばシートの裏には物置として使えるスペースがある。コノハ助教が着替えの入ったトランクを入れていた場所だ。
でもそこにサクラ技官の大きな鞄を入れたら、残りのスペースには彼女の小さな体格でも収まらないのでは?と思ったが彼女は実際に収まっていた。何だか手足を変な方向に曲げて、奇っ怪な姿で狭い場所に収まっている。シートの背もたれの彼女の頭が出ている逆側からは膝から先が突き出ていた。一体どんな体勢で収まっているのか?
ともかく、私をこっちに送った後、彼女はこの機体の中に移動したのか。移動中の物体の中にも自在に移動できるとはすごい能力だ。
「でも、窮屈じゃないか?」
私は心配になって声をかけた。
サクラ技官は無言で首を振る。ほぼギュウギュウだが何とか収まっているようだ。
でも、そうか、彼女はついてきてくれたのか。
少し、いやかなり心強かった。やはりコノハ助教がいないことでかなりの不安を感じていたのだろう。
「・・・・Merci」私は礼を言った。
「De rien」あっさりした口調で彼女が返した。
私はフクラスズメを操作して冬の海を進んだ。キャノピー越しの海の色はやはり夏のそれとは雰囲気が違う。明日、コノハ助教はここで泳ぐのかと思うと、かなり気の毒になった。
私も何だか淋しい気分になる。さっさと予備調査を済ませて帰ろう。
目的の場所はモニターの地図で正確にわかる。
あと少しだ。現在の水深は20メートル。海上は晴れているが、この深度ではかなり暗い。
私はフクラスズメのライトを点灯した。視野が丸く明るくなる。だが視界には水しかなかった。
何も無い水の中は、もの悲しい感じがした。
こうして海に潜るのは初めてではない。あの地底空間の海に潜ったことがあるが、あの時はコノハ助教がフクラスズメに乗っていて、二人で何やかんやと話をしていた。
改めて、彼女の存在は大きかったのだと思う。
やがて、機体は目的地の直上に到着した。
水深は変わらず20メートル。
機体のライトの先に、ゴツゴツした岩の壁がぼんやり見えた。陸のすぐ傍に来ている。この岩の壁に沿ったずっと下に、問題の「モササウルス」がいるはずだ。
私は操縦桿を操作して、機首を下に向けた。
少し後退し、目的の場所からやや離れつつ沈降を始める。あまりに近すぎると危険だと思ったからだ。回転衝角を使っていないので、視界は良好である。スピードは出ないが、ヒレで羽ばたくように動いているので、傍からは巨大なウミガメみたいに見えるはずだ。あのモササウルスの防御機構がいかなるものかはわからないが、スクリューで水を掻きながら接近するよりは隠密性が高いだろう。
探照灯が蒼い水を切り裂いて伸びている。沈降するにつれ、水は深い青から闇のような黒に変わっていった。
明かりの先には不気味な岩の壁が見える。ノーチラス島の水面下の部分だ。この辺りはほぼ垂直の壁になっている。無機質な岩の壁は周囲の暗い水と相まって、まるでアルカトラズ刑務所の高壁みたいに見え,私は酷い不安を感じていた。
水深50メートルを過ぎると、上からの光はほとんど視認できなくなった。ただぼんやりと上が明るい気がする程度だ。
暗闇に取り残されたような不安感がどんどん強くなる。
フェンネル君はこんな状況で怪物と闘ったのか。改めて彼の凄さを実感した。
モニターの海図に示された目標地点が近づいてきた。かなり深い。コノハ助教はよくもこんな深さにいるものに気づけたものだ。だがあの依頼人は?こうして潜ってみると明らかだ。人間では絶対にこの深みを見通すことはできない。あの人物はどうやってこんな深淵の奧を見たのか?
改めて、恐ろしくなった。あの人物の正体がわからない。やはり人間ではないのか?だとしたら一体何者だ?
ハロウィンに紛れ込む魔物のように、この島には得体の知れないものが混ざっていて、もしかしてそれが————。
深い海の底でそんなことを考えていたら恐怖が増してくる。背後の暗闇からあの人物が真っ黒な眼窩でこちらを見ているような気がしてきた。私はその嫌な気持ちを振り払う。いや、彼は人間だ。きっと何も見ていなかっただろう。ただ怪しげな辺境の海を見てありもしないものを空想したのだ。それが偶然ここにあるものと一致しただけ。あるいは、この下にある物体からは何らかの警告みたいなものが発散されていて、それを彼は感知したのかも。
いや、と私は頭を振る。余計なことを考えるな、今はこの予備探査に集中すべきだ、そう思った。だが、意に反して博物館に残してきた彼女の面影が浮かぶ。
今頃、コノハ助教は何をしているだろうか。私が彼女に黙ってここに来ていることを知ったら怒るだろうか?いや多分余計な水泳をしなくてすんだことを喜ぶだろう。
現在の水深は70メートル。
ここまで潜っても特に異変はおきていない。周囲も異常なしだ。
明日、コノハ助教はこんなに深くまでは潜らないだろう。ならば、彼女がここで泳いでも大丈夫だということになる。
それがわかったなら、今日の目的は達成だ。
もう帰ろうか———。
しかし、この先数十メートルの所に、何か途方もないものが存在している。コノハ助教をも戦慄させたものだ。
この先にそんなものがあるのに、このまま帰るのはどうだろうか?
研究者としての好奇心が毒蛇みたいに頭をもたげてきた。
コノハ助教の謂う「種の防衛本能」とやらがもし私にもあるとしたら、今感じている警戒心こそがそれだ。それに従うならここで操縦桿を手前に引いて浮上するべきだ。だが科学という病がヒトとしての本能の壁を易々と突き崩してしまった。
ちょっとだけ見てみるか。
私は操縦桿を下に倒したまま、沈降を続ける。
やがて、何かが探照灯の明かりに照らし出された。
その姿が一瞬だけちらっと見える。
機体が傾き、また何も見えなくなった。私はどきっとして反射的に機体を後退させた。
さっきちらっと見えたものから距離を取る。
フクラスズメは翼を今までと逆方向に羽ばたかせてゆっくり後退した。
それに合わせて、私は機体の向きを調整し、さっき見えたものの方に機首を向けた。
「・・・・あれは、なんだ」
私は呟いた。サクラ技官に言ったわけではない。思わず出た独り言だ。
ライトで照らされた先には、これまでの岩の壁とは違う、なにか巨木の幹みたいなものが見えた。
島の壁から距離を取りながら潜ってきたので、対象物との距離はかなり離れている。探照灯の明かりが映し出しているそれは、やはり巨大な樹木みたいだった。
でも、水中に樹木だって?
私はそれを凝視した。観察力にはいささか自信がある。これまでに自分が見て来た数多の生物と何か類似点がないか、私は文字通り目を皿のようにしてそれを観察した。
やがて、ひとつ思い当たるものがあった。
まるで植物を思わせる表皮。
植物の幹は細胞壁から成っている。細胞壁の主成分はセルロース。動物には存在しない物質だ。だが動物の中にたった一つ、それをもつものがいる。
それは外皮にセルロースを含むため、植物のような、でも動物のような、不思議な質感を持っている。
その動物とは、被嚢類あるいは脊索動物門の尾索類、すなわちホヤだ。
今、私の前に見えている巨大な物体は、私が過去に海岸の磯で見たホヤを連想させた。
もちろん、地球産のホヤではない。こんな巨大なホヤは存在しない。あくまでこれはホヤと同じ設計思想の下で発達した生命体だ。
そして私は自分の予想が当たっていたことを知る。
ホヤには二つの突起、すなわち入水管と出水管があるのだ。その二つの突起を鎌首みたいに上に伸ばしているユウレイボヤという種もいる。
その二つの突起がコノハ助教には上顎と下顎みたいに見えたのかもしれない。私は機体を少し上に傾けて、探照灯でそれの先端部分を見た。
そして息を呑む。
巨木のような体幹の先で、恐ろしく巨大で長い二つの突起がにゅーっと上に伸びていた。
まさに巨大な顎だ。
上から見たら巨大な怪獣が顎を開けているように見えるだろう。
コノハ助教はこれを見たのか。
私はそれから目を離せなかった。
気がつくと、操縦桿を握る手がブルブルと震えていた。
恐ろしい。
私の前に、これまで隠されてきた、この島の防衛機構が屹立していた。
よく見ると、それはゆっくりと膨らみ、そしてまた縮むという動きを繰り返していた。おそらく、ホヤと同じように入水管から水を取り込み、出水管から排出しているのだろう。その時にこの島から漏れ出す資源を吸収しているのだ。その様子はまるで巨大なクジラが呼吸をしているみたいだった。
だがそいつはクジラよりも遙かに大きい。
今見えているだけで、縦に伸びている高さは20メートル以上ある。そしてそれはこれより下にずっと伸びている。全長は100メートルを余裕で越えているだろう。
幅もかなりある。
これが、この島の守護神なのか。
コノハ助教はこいつを地獄の番犬ケルベロスに喩えていた。私はこれがホヤに似ていることに不気味さを感じている。
ずっと前、私がまだ理学部の学生だった頃のことだ。私が通っていた大学には発生学の教授がいた。群体性のホヤを研究していたその教授は、あるとき授業の中で、自分が出演したニュース番組の動画を放映した。
動画では、研究室で撮影されたホヤの映像を使って、幼生から成体への発生が紹介される。その時、若い女性アナウンサーが明るい声で、
「先生、ホヤは何の仲間なんですか?」と尋ねた。
するとその教授は渋い声で、
「人間です」
と答え、そのアナウンサーを絶句させた。
これはあながち間違いではない。ホヤは我々と同じ脊索動物門なのだ。昆虫やミミズなどよりもずっと我々に近い。体の仕組みもかなり複雑だ。
でも、「人間です」は言いすぎではないか?
当時の私はそう思ったのだが、今、この巨大な物体を目にしたとき、その言葉が恐ろしく不気味な符牒のように甦った。
ホヤは人間です
背筋がゾゾッとする。何だか巨大な人間がぼーっと突っ立っているように見えてきた。私はその考えを追い払い、そいつの胴体に沿って下にライトを動かした。ゴツゴツした樹皮のような肌がずっと下まで続いている。その果ては見えない。肌には皺の模様がまるで人間の顔みたいに見える箇所が幾つもあった。ただの皺だ。人間は三つの点が集まった図形を人の顔と認識する。シミュラクラ現象というやつだ。でも中には本当に人の顔みたいに見えるものもあって、私は戦慄した。恐怖に震えながら、私は機体を沈降させてライトで下を照らしていく。私の予想が正しければ、こいつは固着性のはずだ。こいつがホヤと同じ設計思想を持つなら、そのはずだ。ホヤは卵から孵化したときはオタマジャクシみたいな形態をしているが、やがて変態して成体になる。そのとき、幼生は岩に付着して、完全な固着性になるのだ。
その怪物の巨大な胴体を下に下に辿っていくと、その根本では触手みたいなものがウネウネと這い、岩にいくつもめり込んでいた。やはり固着性だ。触手みたいなものはおそらく仮根で、樹木の根みたいに張られているのだ。やはり、こいつはこの場からは動かない。
深さは水深200メートルを超えていた。
コノハ助教は水深100メートルの所に異様なものがあると言っていた。彼女が見たのはこいつの先端部分だったということだ。固着性だからそれより上には来られない。コノハ助教が上で泳いでいても、こいつが水面までやってくることはできない。
私は少し安堵しながら、そいつの基部を観察した。
ゆっくりと機首を巡らせ、そいつの周囲を照らす。
基部付近には他に特に気になるものはない。
コノハ助教は洞窟があると言っていた。あれは確か水深100メートルよりも少し深い場所だったはず。
私は再び、慎重に機体を上昇させていった。
すると、110メートル付近の崖に、真っ黒いものが見えた。
あれは——。
私は目をこらした。怪物の傍にある岩壁に真っ黒な穴が口を開いていた。
間違いない、コノハ助教が見たという、あれは、洞窟だ。
やはりあった。
ではあれが、この島の心臓部への入口なのか。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
でもこんな巨大な怪物がいるのだ。何か重要な場所なのは間違いないだろう。
真っ黒な穴は底知れぬ不気味さを漂わせていた。黄泉の国に通じる穴だ。この怪物が綿津見の神だとするなら、あの穴は黄泉比良坂、冥界への入口だ。
私は自分の唇がカラカラに乾いていることに気づいた。
よし、もうこれで充分だ。
私の中で、何かが囁く。
必要な情報は得た。謎の物体をこの目で目撃した。フクラスズメのカメラにも記録されているだろう。後はそれを解析すればいい。ここに留まる理由はもはや何もない。
だが、私の中では別の声も聞こえていた。
ここからでは遠すぎる。
自分は何か重要な情報を見過ごしているかもしれない。あと10メートル、いや1メートルでも近づいたら、何かすごいものが見られるかも。
それは、危険だ。
私の心が警鐘を鳴らす。
だが、恐らく私の狂気の部分が、それを打ち消してしまう。
もう少し、もう少しだけ。
私は知っている。過去に読んだ物語や、子供の頃に聞いた童話で、何度も繰り返し語られてきたことだ。
物語で、「もうちょっとだけ」の誘惑に負けてしまった者がどうなるか。
十分に知っている。
だが私は、人類がその進化の中で培ってきた大事な警鐘を無視した。
前にもこんなことがあったような。
そうだ。あの地底空間に関係者全員が飛ばされたときも、私は事前に嫌な予感がしていた。私は新発見の魅力に負けてそれを無視したのだ。
今回も同じことをするつもりか。今回も前と同じく、コノハ助教はいない。前と全く同じ状況じゃないか。同じ失敗を繰り返すのは愚か者のすることだ。
そう、全てわかっている。
全てわかっていて、私はそれを無視した。
もうちょっとだけ。
私は操縦桿を前に倒し、それに接近した。
だめです!
心の奥底で、カレハ助教の声が聞こえた。
私はぎくっとして、操縦桿を倒す。翼が反転して機体が横に傾いた。
後で知ったが、私はこれで命拾いをした。
私の目の前で何か巨大な質量がぶわっと広がったような気がした。次の瞬間、すごい水圧が機体にぶつかる。
「うわ!」
フクラスズメはまるで玩具のように水中をグルグルと舞った。
制御不能、天地が逆さまになって、遠心力で体が滅茶苦茶な方向に引っぱられる。シートベルトをしていなければ強化ガラスのキャノピーに激突していただろう。史上最悪のアトラクションだ。意識が飛びそうになり、私は咄嗟にオートバランサーのスイッチを入れた。機体がひとりでに動き、背中の翼が何度か翻って、機体は正常な姿勢に戻った。
だが、コクピットにアラームが響いている。
私はけたたましく鳴る警報を確認した。
“左腕喪失”
一瞬、自分の目を疑う。計器の異常かと思い私はコクピットの外を見た。左側の腕を確認する。それは、肘から先の部分が消失していた。
さっきの衝撃波だ。あれで、機体の一部が持っていかれたのだ。
あのとき、巨大な水の塊がぶつかったか、あるいは何か未知の方法で攻撃を受けたのだ。直前で機体を回頭できたせいで、機体が粉砕されずにすみ、私は命拾いした。
私は戦慄しながらキャノピーの外を見た。
暗い世界が見える。
その時、また警告音が鳴った。機体の状況を知らせる音ではない。
私は嫌な音を発する計器を見た。
それは、周辺の状況を映していたモニターだった。
“現在地不明”
それはそう告げていた。