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第四部

 

 暫く休んで歩けるようになってから、私は海の畔まで歩いていった。

 さっきの夢というか幻覚というか、脳内に浮かんだイメージが気になる。

 あれはあの依頼人が見たものか。でも彼が見たものが赤の他人の私に見えるわけはない。

 あれはきっと、あの依頼人の話を基に、私の脳が作り上げた幻想だ。

 孤独を愛する人間の例に漏れず、私は脳内でイメージを膨らませるのが得意だった。この島に来てからそれに拍車がかかった気がする。

 私がそんなだから、ありもしないものを想像しただけだ。

 しかし、先ほどの強烈なイメージが頭から離れない。

 もしかしたら、この場所には本当に何かあるのか?

 私は周囲を見回した。静かな水面が広がっている。ここはちょうど尻尾のようにくるっと廻った形をした岬に囲まれた内湾だ。波は穏やかで、まるで湖みたいだった。水深はかなり深いようで、怖いくらい蒼い。

 何となく、昔話なんかで語られる、怪物が出てくる渕みたいな気がした。

 こんな場所だから、あの依頼人はモササウルスなんてものを想像したのだろうか?

 モササウルスか・・・・。

 しかし、気になる。あの依頼人が語ったこと、そしてさっき私の夢に出てきたもの。

 水の中にある上顎と下顎。

 あれは一体何だ?何かの象徴なのか?

 私は澄んだ水面を見る。だが、海は何も語らない。


 結局、今回の遠足では私が要らぬダメージを負っただけで、収穫は何もなかった。リール・ド・ラビームに戻って、私は今後のことを考える。あの依頼人と共にあの場所に行くのは一週間後だ。それまでに何か準備しておくことはないか?

「災難でしたね、御館様」

 部屋でぼんやりしていると、カレハ助教が入ってきた。

「痛みは取れましたか?」

 彼女はそのままずかずかと窓際に歩いていって、まるで自分の部屋みたいに椅子に座り、小説を開く。

「ああ、おかまいなく、コーヒーとかは自分で煎れますから」

「いや、それ以前の話だと思うんだが、なんでここで読むんだ?」

「ここ、眺めがいいんですよ。窓の外の蔦も紅葉して、いい感じです」

 カレハ助教はむふふ、と笑った。

「君はそういう情緒的なのが好きだよな」

 そのへんがコノハ助教と違う。比較するわけじゃないが、性格がかなり違うと思う。

 カレハ助教は窓際の椅子に座って本を読み始めた。

 その様子は清楚な文学少女が読書を嗜んでいるように見える。だがそのタイトルは魔法少女もののラノベだった。

 さっき情緒的とは言ったが、やはりちょっとズレている。

 しかし、その辺りに彼女独自の何かを感じるのだ。そのイメージを膨らませて、この間は彼女を主役にした謎の作品を作り上げてしまった。今思い出しても痛々しい。

 だがそのせいで、彼女は何かに目覚めた気がする。こうして表に出ているとき、前よりもよく本を読むようになったし、自分の部屋に籠もって出てこないことがある。何をやっているのかわからない。聞いても教えてくれない。

「君はさっきの場所で何か感じなかったか?」

 文学的感性みたいなものが彼女の中で育っているなら、何か思うところがあったかもしれないと考え、私は尋ねた。あのとき、彼女は裏で体の制御をしていたが、外の様子を見聞きすることはできたはずだ。

「さあ、私は御館様がおもしろ、いや可哀想で、笑いを、いや涙をこらえていました」

 なんてひどい奴なんだ。

 だが、この無慈悲な少女ともあと数ヶ月でお別れと考えると、些か淋しい気がする。まあ、たまにはこっちに来るけどね。

「まあ、君たちとそうやって戯れていられるのも・・・・・」

「御館様」

 カレハ助教が私の言葉を遮った。

「御館様は、ここに残ることはできないのですか?」

「それは、前にコノハ助教にも言ったけど、無理だろうね」

 私は出向という形でここに来ている。所属は日本の大学なのだ。

「ここで暮らせばいいじゃないですか。この博物館、誰もいないんだから」

「そうもいかないよ。大学の仕事でここにいるんだから。その仕事がなくなったら出ていかないと」

「あれですよ、創造主さんにお願いして、ちゃちゃっと大学の書類をでっち上げてもらえばいいんですよ」

「高校生を研究補助員にするのと、大学教員のポストを用意するのとでは話が違いすぎる。できるわけない」

 それに、アーベル氏が私のためにそんなことをする理由もない。

「じゃあ、行っちゃうんですか?」

「行くしかないんだよ、でも通路を作るからこっちには来られるけどね」

「毎日来て下さい」

「え、それはさすがに」

「毎日、来て下さいね」

 そして彼女は本に目を落として、それからは一言も話さなかった。


 その夜、私は地底世界の野外博物館にいた。

 美しくライトアップされた華やかな通りをぼんやり歩く。

 この場所は「夜」、すなわち天井からの光源が消えると、建物や外灯に灯りが点る。そうなると、まるで夜行性の動物が活動を開始するように、家々が活気づくような気がした。

 ここを管理している精霊たちは、昼間は建物の管理なんかをひっそりとやっているようだが、私がここを甦らせて以来、夜になると何だか賑やかな感じになった。姿は見えないが、家々や通りを行き交い、戯れているように感じる。

 昔読んだケルトの神話で、妖精たちが夜に饗宴を行う場面があった。そうした妖精伝説では、蒼い月の下、夜の荒れ地で行われる恐ろしくも美しい妖精たちの宴を、そこに迷い込んだ人間が怯えながら眺める様子が描かれる。

 ここもそんな感じなのだろうか?ここを遠くから見る人間は、やはり恐怖に震えるだろうか?

 もしそうなら、ここを平気で歩いている私は、カレハ助教が前に言っていたように、人ならざるものになったのかもしれない。

 カレハ助教の言葉を思い出すと同時に、さっきの彼女の言葉も甦った。

 ここで暮らせばいいじゃないですか

 あの言葉は、私と離れたくないということだろうか?だとしたら嬉しいが、きっとそうではない。

 お前は私達をここに置き去りにするのか、という響きを私は感じ取っていた。かつて、留学生を引率してインドネシアに行ったことがある。私は最初の三日だけ現地に滞在して必要な手続きを行い、帰国した。その時、異国に残る学生がこちらを恨めしそうに見ていたのを思い出す。留学は彼らが望んだことだが、それでもこれから数ヶ月異国で暮らすことを思うと、不安だったのだろう。

 カレハ助教もきっと似たような思いなのだ。でも私にはどうしようもない。

 私と彼女の時間が重なるのはほんの一時だけなのだ。大学教員と学生のようなもの。学生たちは研究室配属で私の前にふらりと現れ、一年ほど卒業研究をして研究室を出ていく。彼らの人生で大学時代はあくまで一時のもので、次にもっと重要な人生のステージが控えているのだ。私の時間は止まったまま、学生達は私の前を通り過ぎていく。

 カレハ助教もそうした学生達と同じだ。私の前でふと立ち止まり、そしてすぐに何処かに去っていくのだ。

 私はため息をついて天を仰ぐ。そこに夜空はなく、夥しい数の巨大イモ虫の生物発光でつくられた偽物の銀河があった。


 何となくやりきれない気分になった私は、野外博物館の目抜き通りの坂道を登り、丘の天辺まで来た。

 私の前には奇怪なストーンサークルがある。サークルの周囲には怪しげな灯りが点っていた。数ヶ月前にここで私は妖精さん達を使役する権能を手に入れたのだ。

 そこで振り返って、明かりに溢れた野外博物館を見下ろす。世界の様々な建築物がライトアップされた光景は美しかった。

 その時、私はふと独特な臭気に気づいた。ちょうどストーンサークルの広場に入る手前の場所だ。

 灌木がまばらに生える荒れ地の奧から、匂いがする。かつて何処かで嗅いだことのある匂いだった。

 はて、この匂いは?

 だがその時の私は特に気にせず、暫く物思いに耽ってから野外博物館を後にした。


 冬の日は瞬く間に過ぎ、調査の日がやってきた。

 私は今、調査船の甲板で冷たい風に吹かれている。

 外套を羽織っていてもかなり寒かった。

 空はどんよりと曇っていて、何やら不吉な感じがした。

 船の横には未調査の森林が見えた。船の動きと共に横に流れていく。このまま島沿いに進めば、あと1時間もしないうちに目的地に到着する。

 私の横ではコノハ助教が学生服の上から登山用のジャケットを纏って海を見ていた。その腕には研究補佐員の腕章を付けている。

「うう、寒いねえ、こんなことならあいつにやってもらえばよかった」

 さっきから愚痴を言っている。だが、今回の依頼人に会っているのは彼女だ。カレハ助教ではない。今回はコノハ助教が補佐員を担当する方が自然だ。我慢してもらうしかない。

 ちなみに、この船にはサクラ技官も乗っているはずだ。でも姿は見えない。

 前に地底世界で会ったときも、精霊たちは姿を隠すのが上手かった。もちろん精霊達は自らの姿を消すことができるのだが、常に不可視の状態になっているわけではなく、けっこう普通に姿を現しているようなのだ。地底世界でも、視界の隅に何かがちらっと見えた気がして、そちらを見ると何もいない事がよくあった。どうも我々が見る前に一瞬で死角に移動するらしい。今回もそんな感じなのかもしれない。複数の人間がいる中でも、それら共通の死角に移動するのは大した技術だ。まさに「技官」である。もしそうだとしたら、この船の乗組員は地底世界にいた時の我々と同じく、何とも言えない薄気味悪さを感じているだろう。

 現に、依頼人のトリーニ氏は船室に籠もったきり出てこない。彼特有の感性でサクラ技官の存在を感知し、恐怖に戦いているのかもしれない。

 ちなみに今、私がふと背後を見ると、当たり前のようにサクラ技官が立っていた。いつもの黒いスーツ姿で精巧な鞄を持っている。ついさっきまでそこには誰もいなかった。今の彼女は少女型の生体スーツに入っているから、姿を消すことはできないはずだ。それでもここまでの神出鬼没ぶりを発揮できるとはさすがである。

 そして今日も彼女は元気にその異様さを露呈していた。

 サクラ技官の口と耳から蔓草のように触手が出て彼女の頭上で葉のようなものをわさわさと広げていた。袖口からは根のような触手が何本も出て、体に巻き付きながら垂れている。まるで沖縄でよく見るガジュマルみたいだった。

 何というか、触手を出さずに普通に少女の姿になれるはずなのに、毎回こうして何かをぶちこんでくる。ネタかなにかのつもりなのだろうか?私を驚かせて楽しんでいるとか?

 しかし、「次はどんな姿で現れるのだろう?」と密かに期待している私がいる。

 やがて、海辺の森から黒いアゲハが飛んできて、サクラ技官の触手の付近を舞い始めた。

 美しいアゲハだった。黒い羽根に緑色の鱗粉が散りばめられ、後翅には青い模様がついている。カラスアゲハの一種か。

 やがて、アゲハは二頭に増えた。サクラ技官の触手からは誘引物質か何かが出ているのだろうか?

 黒いスーツを着た可憐な少女の周囲をアゲハが舞う様は美しかった。だが私は今にも彼女が食虫植物みたいに触手でそれを食べてしまうのではないかと気が気でない。

 しかし彼女はそんなことはせず、黙って立っている。

 暫くすると舳先の方で物音がした。誰かが甲板に上がってきたらしい。そちらを向いて、また振り返ったとき、そこにサクラ技官の姿はなかった。

 ただ、二頭のアゲハが困惑したようにひらひらと舞っている。


 そうこうしているうちに、目的地に着いた。

 尻尾みたいな形をした岬に囲まれた内湾の奥深くに停泊する。

 内湾は凪いでいて、船はほとんど揺れなかった。

 岸までは20メートルくらいか。けっこう陸に近い。

 陸には熱帯の木々が繁茂しているが、この寒さの下では強い違和感がある。

 ちなみに、この調査隊の目的はこの場所の水質・環境データの採取である。モササウルス調査はあくまでトリーニ氏が個人的に依頼してきたもので、調査隊のメンバーはそんな怪物のことなど信じていない。

 まあ、常識的に考えたらそうだろう。私だってそうだ。

 ただ、昨年の事変のことがあるから、私の参加を無下には断れないということだろう。

 私がここにいると邪魔になるだけみたいだから、さっさと調査して切りあげるとしよう。

「コノハ助教、始めるぞ」

「了解」

 コノハ助教の返答を受けて、私は甲板にしゃがみ込んでヒューベル博士から借りた無人調査艇を専用の箱から取り出し、コノハ助教に手伝ってもらいながら必要な機器を接続した。あとはモニターを見ながら探査条件を入力するだけ。用事が済んだコノハ助教が「よっこらせ」と立ち上がった。

「ふふん、どうれどうれ、モササウルスさんはいますかねえ」

 コノハ助教は舷側からひょこっと身を乗り出して海中を覗いた。

 私はその様子をちらっと見てから、手元の機器に目を落として数値を入力する。

 暫くしてふと気づいた。

 コノハ助教が何も言わない。

 私は彼女の方を向いた。

 コノハ助教は海をじっと見ていた。その表情から、私は昔見た「ジョーズ」を思いだした。漁船に乗り込んだ警察署長が初めて巨大ホオジロザメを目撃した場面だ。

 あのシーンで、ロイ・シャイダー演じる署長はこう言うのだ。

「この船では小さすぎる」

 その警察署長とコノハ助教が同じ表情をしていた。私は色弱だからわからないが、彼女の顔色もきっと変わっている。

「だめだ」

 彼女は小さいが、鋭い声でつぶやいた。

「どうした?」

「・・・・・ごめん、前に来たときにもっとしっかり調べるべきだった。あの時は君が気絶したから動転してしまって・・・・・」

「何を言ってるんだ?」

 私は彼女の変わりように驚いて、同じように海を覗いた。

 でも何も見えない。暗い冬の海が見えるだけだ。

「何もないんだが?」

「君はこれからこの下を調べるんだよな?」

「ああそうだ、この探査機をこれから投入する」

「調べるフリだけしろ」

「え?」

「浅いところだけ調べるんだ。50メートル以深には絶対に探査機を入れるな、いいか、絶対にだぞ」

 私はコノハ助教の変容に困惑していた。さっきまで軽口を叩いていたのに、今は真剣そのものだった。

 冷たい風が吹いてきて、岸辺の木々がザワザワと揺れた。

 その風がコノハ助教の灰色の髪を揺らし、彼女の顔を隠した。

「あの人間、よくぞ気づいた。大したもんだ、種の防衛本能というやつか、本当にあるんだな・・・・」

 コノハ助教は呟いている。

「どうしたんだ?」

 私はわけがわからなかった。コノハ助教は私を見た。彼女はまるで私の研究の師匠のような顔をして人差し指を立てた。

「いいか、今君がやるべき事は一つ。この連中の探査がここの深みに及ばないように全力を尽くせ。大丈夫、君ならできる」

 彼女は出来の悪い生徒に教え諭すように言った。傍から見たら高校生になりたての少女が、いい年した研究者に研究指導しているように見えるだろう。

 だが私は頷いた。彼女の眼差しには有無を言わせぬ鋭さがあった。

「わかった、何とかする。でも今日だけだ、次の調査にぼくは同行できない」

「今日だけでいい」

「了解」

 私は敬礼の真似事をしようとして、あまり場に相応しくないかと思い、手を止めた。でも、コノハ助教は覚悟を決めたような顔で敬礼した。

 まるで歴戦の兵士が決死の作戦に出ようとしているみたいだった。私は数ヶ月前の、地底空間からの脱出を試みたときの彼女を思い出す。

 私はつられるように敬礼した。

 だが、心の奧底に何か引っかかるものがある。

 果たして、これでいいのだろうか?

 その時、コノハ助教の灰色の髪にぽつり、と雨の滴が落ちた。さらにぽつり、ぽつりと甲板が雨の滴で濡れていく。

 見上げると、暗く澱んだ雲の間から冬の雨が降り注いできた。


 夕刻、

 私はレインコートを着て、雨に打たれる調査船上で海を見ていた。行きとは逆の方向に景色が流れていく。その様子は雨に霞んでいた。

「よくやった」

 レインコートを着たコノハ助教が私の隣で緑の森を見ていた。

「一体どういうことなんだ?」

 何とか彼女の言うとおりに動いて、結局何事もないまま帰路についているのだが、彼女は明らかに安堵したような表情をしていた。

「今の段階であそこが人類の目に触れるのは、たいへん不味かったのさ」

 フードの奥から彼女は私を見た。灰色の前髪が雨に濡れている。

 彼女は何を考えている?私はその青紫の瞳から何かを読み取ろうとした。

 その時、背後でドアが開く音がした。振り返ると、トリーニ氏が怯えたような顔で立っていた。

 それを見て、何を思ったか、コノハ助教が彼に駆け寄っていった。

「トリーニさん、お手柄です!」

 降りしきる雨の中、彼女は依頼人の手を両手でがしっと掴んだ。

「あなたはたいへん素晴らしいことをしました。お陰で私達は救われます。あなたのその鋭い感性に敬意を表します!」

 そうして彼女は彼の真ん前でにっこりと笑った。

 トリーニ氏は間近に彼女を見て顔面蒼白になり、それから感極まったような表情になって、「お、恐ろしい」と呟き、そのまま濡れた甲板に人形みたいに倒れた。

 その顔は恍惚とした笑みを湛えている。

「あらら、気絶しちゃった」

 コノハ助教が私を見て、一昔前のアイドルみたいに笑った。


「これから『モササウルス湾封鎖作戦』を立案、決行しなければならない」

 その夜、リール・ド・ラビームのカフェで、コノハ助教が言った。

 テーブルに私と彼女が向かい合って座り、別のテーブルにサクラ技官が座っている。コノハ助教は考えをまとめるようにテーブルの上で両手を握り合わせた。

「彼らがあそこを次に調査するのはいつだっけ?」

「三日後と言ってたな」

「じゃあそれまでに」

「ちょっと待ってくれ、事情を話してくれないと困る」

「ああ、そこからか」

 コノハ助教は少しうんざりしたように言う。

「大して言うことはない。あの場所の深みにとびきり危険なものがある。人が触れてはならないものだ。だからあそこを封鎖する」

「君は、一体何を見たんだ?」

「あの時、海の中を見たら、100メートルくらいの深みにとんでもないものがあるのに気づいた」

「何だ?まさか、モササウルスか?」

「そんな可愛いもんじゃない。でも、そうだな、あの依頼人にはそう見えたんだろう。私にはこう、何か二つの巨大なものが突き出していて、ちょうど顎みたいに見えた」

 それを聞いて、私はあの場所で気絶したときに見た夢を思い出した。海の底に何か巨大な山みたいな物が二つあった。偶然だろうが、あんな感じだろうか?

「そしてそれより少し深いところに、黒い穴が見えた。洞窟だ。あれが多分、入口だ。あれを塞がないと」

「塞がないと、どうなる?」

「さあな、どこかの間抜けがノコノコ入っていったらバチが当たるだろう、その巻き添えで、我々も消されるかもな」

 ここで私は、少し前にキャンベル教授が言っていたことを思いだした。

 この島の何処かに防衛機構がある。それはこれまで誰にも見つからなかった。すなわち、見つかりにくいところに潜んでいる。

 この島で最も調査が遅れているのは、あの「モササウルス湾」だ。

 そして、教授はこうも言っていた。

 それに手を出したら、消される。

 教授とコノハ助教が同じことを言っている。教授の話を聞いたのはヒューベル博士の家だ。その時コノハ助教はいなかった。教授が言った「防御機構」について彼女は知らないはず。でもここで彼女から同じような話が出ている。全く関係ない二人から同じことが語られているのだ。

「どうしてそう思う?あれがそんなに危険なものだと?」

「君は、たとえば・・・・」

 コノハ助教は出来の悪い生徒を相手にする教師みたいな顔をした。

「例えば、目の前に禍々しい音と紅蓮の炎を放つ地獄の入口があって、そこに巨大な鬼が突っ立っていたら、どう思う?問答無用でヤバいと思わないかね?そしてそこに無軌道な愚か者が入ろうとしていたら、どうかな?」

 抽象的すぎる喩えではあるが、何となくわかった。コノハ助教が見ているのは、とびきり危ない代物のようだ。

 ではやはり、あれが、防御機構なのか?

 そして今、何も知らない人間がそこに接近している?

 もしそうなら、教授が恐れていたことが現実になろうとしている。だが、あの依頼人がそこにある何かに気づいた。コノハ助教と私が纏う雰囲気を感じて恐れ戦くあの繊細な感性によって。

「君があの人物を持ち上げていたのは・・・・」

「彼がいち早く気づいたお陰で、大規模な調査が始まる前に、君の所に話が来た。これは僥倖と言うしかない。我々は彼に救われたんだ」

「で、でも、それが本当だとすると、ぼくたちが何とかしないといけないことになるぞ」

「だから、そうしようと言ってる」

「き、君はいつから人類の味方になった?君の本来の役目はアーベル君の知己を護ることで———」

「あの洞窟の奥にある何かが発動したら、この島の人間はおしまいだ。我々が護衛を任されている人達ももろともに滅ぶ。彼らを護るためにはここで何とかしなければならない」

「でも、ど、どうやって?」

「あの場所を封鎖する」

「だから、それをどうやって?」

「それは君が考えてくれ、研究者だろう?」

「ち、ちょっと、そんなこと丸投げしないでくれ、封鎖するって、魚雷でも撃ち込むのか?」

「それでもいいかもな。洞窟の入口を誰も入れないように塞げばいいんだ。でも・・・・」

「でも?」

「そう簡単にいくかな?あそこで見えたあの顎みたいなもの、あれは入口を護る守護者かもしれない」

「守護者?」

「ギリシア神話でいうケルベロスだ」

 確か、冥界の入口にいるという、三つの頭を持つ怪物だ。それはいいけど———、

「君は神話まで読んでいるのか?」

「あの創造主殿に勧められたのさ。人間心理の基礎を学ぶには格好の教材だとね。・・・・なかなか面白かったよ」

 まあ、ためになったなら良かったけど。しかし、そんな物騒な物がいるのでは、あまり手荒な方法は使えない。

「フクラスズメで突っ込めばいいってわけじゃないのか」

「あれの性能なら勝てるかもしれない。でも、負けるかもしれない」

 それに、洞窟を封鎖するなんて荒技は、フクラスズメには無理だ。

 それに、私には何か引っかかるものがあった。

 今日、あの場所で、コノハ助教に「調べるフリだけしろ」と言われたときに感じた違和感だ。今になってその由来がはっきりしてきた。

 コノハ助教は当然のように、あの場所を封鎖するという。

 確かに危険だ。放って置いて誰かが気づかず手を出したら、島の人間全体が巻き添えで死ぬ可能性がある。しかし——。

 しかしあの場所にはこの島の、いやこの島を作った得体の知れない連中の秘密が眠っているのではないのか。

 この島の本質、そして未知のテクノロジーが、あの先にある。

 このまま何も調べることなく封印する。それは科学者としてどうなのだろうか。

 あの調査隊に状況を伝え、前にリール・ド・ラビームでやった時みたいに、準備万端整えて臨めば・・・・。

 私が複雑な表情をしていたからか、コノハ助教が「どうした?」と心配そうに尋ねた。

「いや、科学者が研究を放棄するのはどうかと・・・・」

 私も自分が何か変なことを言っている気がした。気がしたが、どうしてもそれが口に出てしまった。

「何を言ってる?君だけじゃなく、一緒に探検をしたあの人たちの、それにこの島の人たち全員の命が危ないんだぞ?それでも君は調査を優先するのか?」

「でも、我々はこの島の謎を調べるために、ここにいるんだ」

 私はそう言い切った。

 私はコノハ助教が呆れた顔をすると思った。でも彼女は、憐れむような目で私を見ていた。

「かわいそうに」

 彼女は呟いた。

「君は、いや、君たちは、そこまで壊れているんだな」

 人間ではない者にそう言われて、私は返す言葉を無くす。

 コノハ助教の哀しそうな顔が鉄槌のように私を打ちのめした。

 ああ、やはり、おかしいんだな、私は。

 コノハ助教は好奇心の塊みたいな奴だが、ちゃんと踏みとどまっている。でも私はどうだ?一歩間違えば命を失い、さらには島の人々全員を破滅に導くことを知りながら、それでも尚自分の好奇心を優先させようとしている。

 なんて奴だ、と自分でも思った。

 彼女に軽蔑されるのも当然だ。

 コノハ助教は冷たい顔をして言った。

「でも私は自分の命が惜しいから、あそこを塞ぐよ。君が拒否するなら、私だけでやる。もし君が私の邪魔をするなら・・・・」

 そう言って彼女は私を見た。

「邪魔をするなら、どうする?」

 私は自分の頭がおかしいことを自分でしっかり認識したので、投げやりに尋ねた。

 どうする?彼女は私を抹殺するだろうか?

 思えば、私は異界の精霊を使役するという人ならざる権能を手に入れた。そんな異能を手にした狂気の科学者なんて、もはや人類の敵、悪の帝王ではないのか?それに反して、コノハ助教は真っ直ぐだ。彼女は人ならざるものに作られた存在でありながら、人の心に目覚めて、こうして人類を護る側に立っている。しかも人知れず、陰ながら。一番格好いい奴だ。まさにダークヒーロー、いやヒロインか。

 今の私と彼女は、闇の組織の首領と正義の味方、魔王と勇者の構図だ。

 では、改めて、どうする?彼女は人類の敵に回った私を倒すだろうか?

 きっとそうするだろう。そうするしかないはずだ。

 でも、それでいいのかもしれない。

 こんな人間もどきはさっさとこの世から消えたほうがいいのかもしれない。

 コノハ助教は暫く黙っていて、それから、頭を振る。

「君の好きにしたまえ」

 そして彼女は席を立った。

「今日の話はここまでだ。君は頭を冷やせ。私が言うのも何だが、人の心を取り戻してくれ」

 そしてコノハ助教は「じゃあな」と言い、さっと片手を振って、カフェを出ていった。


 私は椅子にかけたまま、天井を仰ぎ見た。

 これが科学という名の厄介な病だ。いや、宗教というべきか?ある意味宗教よりもタチが悪い。

 知的好奇心という神に従い、それに突き動かされて邁進する。

 そして、それが進んだ後の世界は焼け野原になる。

 人類のためという大義名分のもと、人の尊厳も顧みず、環境のことも一切気にせず、大量殺戮も意に介さない。

「こうかもしれない」「こうしたらできるかもしれない」というアイデアが浮かんだら、それを試さずにはいられない。

「この先に未だ誰も知らない秘密が潜んでいるかもしれない」と思ったら、進まずにはいられない。

 そして厄介なことに、自分は思いとどまっても、それが実現可能なことであれば、例えそれがどんな残虐非道なことであったとしても、必ず誰かがやるのだ。

 破滅に向かって一直線に進んでいく、それが科学という怪物で、私はそれの使徒なのだ。

 自分だってわかっている。この世界で知り合った人々は掛け替えの無い人生の宝物だ。

 その人達を危険にさらすことはできない。それは充分にわかっているのだ。

 でも、謎のものを見てみたい。今まで誰も見たことのない世界を見たい。

 だから何とかして大事な人達と大自然の神秘のどちらも取れるような方法が見いだせないか?

 そんな欲を持ってしまうのだ。

 私はため息をついた。


 私はコノハ助教に言われたとおり、あの野外博物館にでも行って頭を冷やそうと思い、カフェの席を立った。

 ふと見ると、背中合わせの席にサクラ技官が座っている。さっきからずっと座っていたのか。気配がないのと、考え事をしていたせいで気づかなかった。

 サクラ技官は鍔付きの山高帽を目深に被ったまま、微動だにせずに座っている。その口や耳の穴から触手が出て朝顔のように彼女の顔に巻き付いていた。しかしそんな姿を見ても、今では少しも怖くない。こんな自分はやはりおかしいのか?

「サクラ技官、ぼくは人間だよな」

 私は彼女に問いかけるつもりも無く、独り言を言った。

 前にカレハ助教から、そんな台詞を吐く時点で人間ではないと言われている。

 やはり私は、あの権能を得たときから、おかしくなってしまったのか?

 いや、そうじゃない。科学者を志す時点で、人の道を踏み外していたのだ。

 サクラ技官は私の方を見た。帽子の奥からターコイズの瞳が私を見る。

 その青すぎる瞳を見てふと思った。

 この精霊さんに出会ったのはあの地底世界だ。そしてその場所はここリール・ド・ラビームで調査をしているうちに我々が見つけたのだ。見つけたというか放り込まれたのだが。

 つまり、科学的調査の過程で私は彼女に出会ったのだ。

 いや、サクラ技官の中にいる精霊は単体というより集合意識に近いみたいだから、「彼女」というと語弊があるかも。精霊たち、だろうか。

 精霊さん達が私のことをどう思っているかはわからない。でも精霊はあの場所で私に「継承せよ」と告げた。そしてあの場所は息を吹き返したのだ。

 そう考えると、私達が行ってきた科学も、あながち不幸だけをもたらすものでもないのかもしれない。手前勝手な自惚れかもしれないが、上手くやれば良いことだってできるんだ、そう、信じたい。

「ぼくがやったことは正しかったんだろうか」

 私はまた独り言を言った。

 するとサクラ技官は席を立ち、顔に巻き付いていた触手を引っ込めると、「お前は正しかった」とでも言いたげに、私の方を向いて恭しく礼をした。まるで、中世の騎士が王に謁見するときみたいな、あるいは近世の紳士が挨拶するときみたいな、そんな感じだった。

 そして彼女はくるりと背を向けて、カフェの入口に向かう。

 もしかしたら、ここで私が淋しく一人にならないように、一緒にいてくれたのかもしれない。

 精霊さんはおそらく未知の存在によって作られたもので、我々とは全く異なる存在だ。意思の疎通なんてそもそも不可能なはずだ。でも、それでも————。

 私はふと、カフェのテーブルに置かれた鉢植えを見た。

 冬の花。サクラ技官の名前の元になった紫色のシクラメン。その花言葉は『想いが響き合う』、そして『絆』。

 サクラ技官はカフェを出ていく。

 その背中に、私は何となく、あの野外博物館の精霊達の集合意識をぼんやり見た気がした。

 ”冬の花の君”、そんな言葉が浮かぶ。

 冬の花の君は、きっと優しい。


 サクラ技官が出ていき、カフェのドアが閉じた。

 あの地底世界に帰るのだろうか。

 サクラ技官はもともと野外博物館にいたので、夜になるとそこに戻っていく。

 こっちにも部屋があった方がいいと思い、屋根裏部屋の中央の物置部屋を彼女の部屋にしたらどうかと思ったりするが、私はあと数ヶ月でここを去るのだ。そうなると彼女がここにいる理由はない。

 それはコノハ助教達にも言える。私が去った後の彼女達の居場所が必要だ。

 このまま大学の研究補助員で雇ってもらえるように手続きして、何処かに安い部屋を借りるか。それとも・・・・。

 そんなことを考えているということは、やはり私にも人間的なものが少しは残っているのだろうか。

 彼女達と別れるのは淋しいが、それも人間的な感情だ。

 やはり、私が少しでも人間の心を留めているうちに、あの場所は封印するべきだろう。

 あの場所に手を出して消される前に、調べるべき事は山ほどあるのだ。贅沢は言わず、今は目の前の謎に取り組めばいい。

 私はカフェを出た。エントランスホールのカレンダーを見る。

 次の調査まで、あと三日。


 私は地底世界への扉がある研究室に行こうと階段に向かい、廊下を曲がって階段に足をかけた。

「あ」

 すぐ上から声がしたので顔を上げると、灰色の髪の少女が立っていた。ぶつかりそうになったので慌てて後ずさる。

 瞳の色は、暗くてよくわからないが、青っぽく見える。カレハ助教か。

「あ、じゃじゃーん、です」

 カレハ助教は変な挨拶をした。

「ああ、ごめん、考え事をしていて」

 きっとさっきのコノハ助教との会話は彼女の耳にも入っている。だから気まずかった。

「あ、あの、ですね」

 カレハ助教が歯切れの悪い口調で言う。

「さ、さっきのコノハ助教との話で」

「え、どうした?」

「こ、コノハ助教が、その、君に、あ、いや御館様に、その・・・・」

「彼女が何か言ってたのか?」

「はい」

「なんて言ってた?」

「い、言い過ぎた、的な?」

 カレハ助教はどこか挙動不審だった。たどたどしく続ける。

「君が、あ、いや、御館様が狂気の科学者だということはよくわかった、あ、よくわかったそうです。でも・・・・」

 カレハ助教は目を泳がせながら話している。

 いつも彼女はどこかおかしいのだが、今日はそれに輪をかけておかしかった。

「カレハ助教、どうした、風邪でもひいたのか?」

「い、いや、あ、いいえ」

 カレハ助教は口ごもりながら、さっきの台詞の続きを言った。

「でも、ちょっと不思議なんだが・・・・とコノハ助教が言ってまして」

「はあ」

「君が狂気の科学者だということはよくわかった、わかったんだが、私は何故かほっとしているんだ」

 私はここで完全に理解した。

 今、私の目の前にいるのはカレハ助教ではなく、コノハ助教だ。

 カレハ助教のフリをしているのだ。全くできていないが。

 声色をカレハ助教に近づけているようだが完全には合ってないし、肝心の瞳にはカラコンを入れている。私は色弱だから水色と青紫の区別ができないと思ったか。確かに区別は難しいのだが、できないわけじゃない。注意して見るとわかるのだ。今の彼女の瞳は青紫、私が彼女にあげたリンドウの花と同じ色だ。

「ほっとしている?」私は気づいていないふりをして尋ねた。

「ああ。でも、その理由がわからない・・・・あいつなら、わかるのかな」

「あいつって、誰だ?コノハ助教か?」

「え、いや、違っ、あ、いや、そうだね」

 既に完全に誤魔化し切れていない。既に会話は支離滅裂だ。

 でも、要約すると、コノハ助教は私が狂気の科学者と知ってほっとしたということか?

 よくわからない。

「何故、君がほっとするんだ?ぼくには人の心がないんだろう?」

「君は人間だよ、人の心もちゃんとある。でも何か大事なものが欠けているんだ、だが、科学者であることが君を救っている、そんな気がしたんだよ」

「そうか」

「それに、私は君がそんな君でいいと思った、だから、ほっとしたんだ、たぶん」

 私はよくわからなかったが何となく納得した。

 彼女はこれが言いたくて、カレハ助教のフリをしてまで、やってきたのか。

「君はいいやつだ、とコノハ助教に伝えておいてくれ」

 私はそう言って、続けた。

「君こそ、他者を思いやることができる優しい人だ、人類がみんな君みたいだったらいいと思うよ」

 私は彼女に笑いかけた。気持ち悪いかもしれないが、それは仕方ない。

「あの場所は封印する。コノハ助教がそれを望んでいるなら、そうする。ぼくは頭のおかしい科学者だが、同時に君の『同類』だからな」

「そうか」

 コノハ助教はそう言って、踵を返すと階段を上がっていった。何となく、カラコンの色が少し変わった気がした。カラコンの奥で瞳の色が変わったのかもしれない。でも色覚のおかしい私にはわからなかった。


「では改めて、第二回『モササウルス湾封鎖作戦』会議を開催する」

 翌朝、リール・ド・ラビームのカフェで、コノハ助教が宣言した。

 私はぱちぱちぱちと手を叩いた。

「そこ、茶化すな、真面目な話なんだ」

 そうは言うが、作戦会議といってもこの場には3人しかいない。しかも、後ろの席にいるサクラ技官は一度も喋ったことがないので、会議のメンバーは実質2名だけである。

「誰かに入ってもらったらどうかな?正直、ぼくにはいいアイデアがない」

「誰に?」

「君とサクラ技官の秘密を知っている人だ。コートニーはまだ中学生だから、館長か、アーベル君かな。アーベル君はかなり適任だと思うぞ」

「残念だが、創造主氏は留守だ」

「留守?何処かに出かけたのか?」

「ああ、時々いなくなる。どうも自分だけの世界を見つけていて、そこで何かやってるみたいだ」

 自分だけの世界だって?比喩か?いや、彼なら現実にそれが有り得るかもしれない。何ともスケールの大きな話だ。

「ふむ」だがそうなると、ここに参加できる助っ人は限られてくる。

「今、何時かな?」

 私はそう言いながら、自分で壁に掛かっている時計を見た。

「9時か。そろそろ館長がやってくるな」

 窓ガラス越しに外を見ると、ぱらぱらと雨が降っていた。

「今日も雨か」

 私は会議を一時休みにして、コノハ助教とサクラ技官のためにコーヒーを煎れた。そうしている間も一応、例の海中洞窟を封鎖するための方法を考える。だが、それこそ魚雷を撃ち込むくらいしか思いつかない。

 でも、そんなものは手元にない。

 暫くすると、カフェのドアが開いた。

「おはようございます」

 館長が入ってきた。

「皆さんおそろいで、どうしたんですか?」

 この人がもつ優雅な佇まいで、カフェの空気がしっとりと落ち着いた感じになった。

「館長、魚雷か何かに心当たりは?」

 私は単刀直入に尋ねて、いい雰囲気をぶち壊す。

「はあ?」

 美少女は目を丸くした。


「——そんなことが」

 館長は絶句していた。

 まあ当然だろう。いきなり、島の人間を皆殺しにするかもしれない防衛機構があるなんて話を聞いたのだ。

 しかも、それを封印するにはどうすればいいかという難題をふっかけられたのである。

「とても、私達の手に負えるとは思えません」

 彼女は至極真っ当な意見を口にした。

「ではどうすれば?」

「ヒューベルさんに相談したらどうでしょう?保安局に働きかけて、その海域を危険地域に指定して立ち入り禁止にしてもらえるかもしれません」

「ほお、それはいい考えですが、できますかね」

 私はちょっと心配だった。立ち入り禁止にするとしたら、その理由が必要だ。だが今の我々が持っているのは、「危なそうな気がする」程度のもので、物的証拠は何もない。

 コノハ助教も思案していたが、やがて口を開いた。

「難しいんじゃないかな。ヒューベル博士にどの程度のパイプがあるか知らないが、さすがに何の根拠もなく立ち入り禁止にはできないだろう」

 館長は黙りこむ。私は口を挟んだ。

「先の事変の生き残りがいる可能性があることにするとか」

「それにしても証拠がいるだろう」

「そうか」

 私は考え込む。いつの間にか雨が降り始めたのか、ぱらぱらと雨音がしていた。

「あのう・・・・・」

 やがて、館長がおずおずと発言した。

「・・・・こんなことはあまり言いたくないのですが・・・・」

 私はドキッとした。

「何ですか?ぼくがまた何か気に障ることを言いましたか?」

「何だと、君は館長にも酷いことを言ったのか?早く謝れ、今すぐ謝れ」

「い、いえ、そういうことではなく」館長は慌てて手を振った。

「そういうことではなく、先の事変の生き残りということなら、何とかなるのでは、と」

「「何だってぇ!」」

 私とコノハ助教が同時に言った。

 館長は気圧されたように身を引いたが、そのまま続ける。

「その、アーベルはマンディブラスのコピーです。だから、アーベルが作ったものなら、マンディブラスが創造した物と類似の生体物質や遺伝子配列を持っているはずです。それを使って・・・・」

「でっちあげるということですか」

「はあ、あまり気は進みませんが」

 おお、なるほど。それなら怪物の存在を示す証拠が手に入る。

 しかしこの館長、外見に反してなかなかの策士である。

 この少女に少年時代のフェンネル君がいいように操られたのも納得だ。

 館長の意見をきいたコノハ助教はちょっと考えて、

「それは、いいかも」と言った。

「さすが館長、この先生とは大違いだ、さっきまでこの人、魚雷を撃ち込むと息巻いていたんだぞ」

「はあ、それは、物騒ですね」

「何だとう、君だって『魚雷いいねイエーイ』って言ってたじゃないか!」

「そんなこと言ってない。脳が腐ったのか?『魚雷でもいいかもな』と言っただけだ」

「大して変わらないぞ」

「まあまあ」

 見かねて館長が割って入った。

「では、怪物の生き残りの証拠物として、何か使えそうなものはありますか?」

「アーベル氏が作った有機体ということですね」

 私はコノハ助教を見た。彼が創造した者は他でもない、目の前にいる彼女だ。

「何を考えている?」

 コノハ助教は胸を抱いて身を護るような仕草をした。

「まさか、私から手足の二、三本引っこ抜こうというわけじゃないよな?」

「そんなこと考えもしなかったよ、ぼくを何だと思っているんだ」

「頭のおかしい科学者じゃないか、私の手か足を一本だけ証拠品として保安局に提出して、余ったやつを研究するつもりだろう、お見通しだぞ」

「ぐう」

 私は言葉に詰まる。百歩譲って、もし彼女から手足の標本が提供されたら、思わず研究してしまう自信はある。

「館長、助けてくれ、こいつにバラされる」

「人聞きの悪いことを言うな」

 そう言って館長を見ると、何とも言えない目でこちらを見ていた。

「館長、まさかあなたまでぼくのことを」

「いえ、博士がそんな方ではないと思っています。思っていますが、アーベルがあなたについてちょっと・・・・」

「え、彼は、彼はぼくのことをなんて言ってるんですか?」

「はあ、ちょっと変な人物だと・・・・」

「わははは、ほら見ろ」

 コノハ助教が面白そうに笑った。

「あの創造主氏がそんなことを言うなんて、よっぽどだぞ」

 何ということだ、やはり私は真っ当な人の道を踏み外していたのか。

 私は予想外の方向からダメージを喰らって、落ち込んでしまう。

「それはいいのですが」と館長がこの話を打ち切る。でも、それはいい、とは、どういうことですか館長。

「コノハさんの体以外で、何か証拠になるものはないですか?」

「う〜ん、どうかなあ」

 コノハ助教は考え込んだ。

 その時、私は思い出した。確か、彼女の部屋に幾つか木箱が置いてあって、その中には「スーツ」が入っていたはずだ。この前見せてもらったやつはサクラ技官が使っているが、確かコノハ助教が「スーツは何種類もある」と言っていた気がする。

「使っていない『スーツ』はどうだ?生体材料だから組織やDNAが採取できると思うんだが」

「そんなものがあるんですか?」

 館長がコノハ助教を見た。

「ああ、あるにはあるが、う〜ん、あれかあ」

「例えば、水中でも活動できるスーツがあったら、コノハ助教がそれを着てあの海域でフヨフヨする。それを我々が証拠映像として記録し、手足の一部をちょこっと採取して証拠物にする」

「フヨフヨとは何だ、失礼な。でも、そうか、水中用スーツか」

「あるのか?」

「ある。あるけどあまりにダサいから着る気がしなかったんだ」

「そうなのか」

 水中用というから人魚みたいなエレガントなものを想像していた。

「ちなみにどんな形なんだ?」

「どっちだ?ふたつ、あるんだが」

「え?二つもあるのか?」

「ああ」

「それぞれどんな感じなんだ?」

「一つ目は、機能重視というか、理にかなってるんだが、形がかなり、変だ」

「変、とは?」

「君も知ってるだろうが、水中を移動するにはだね、効果的な方法が幾つかある。最も効率がいいのはドリルみたいに回転しながら進む方法だ。これは多くの単細胞真核生物が採用している。体にらせん状に繊毛が生えていて、それを動かして前進するんだ」

「ああ、ゾウリムシが使っている方式だな」

「それを模したスーツがある。それを着るとサボテンから手足が生えたみたいになって、サボテンのトゲみたいに生えてる剛毛が繊毛みたいに波打つんだ。剛毛列は螺旋状になってるから体がグルグル回転しながら進む。これだと効率がいい。あのフクラスズメの回転衝角型推進装置のヒントにもなったくらいだ。でも、これは却下だ」

「何故?」

「目が回るからだ」

 あまりにも当たり前の理由に私は絶句した。なんでそんなの作ったのか。

「じゃ、じゃあ、もうひとつは?」

「そっちは普通だ。人型だが、ヒレみたいなのがついてる」

「う、うん、そっちなら大丈夫そうだ、じゃあそれを使おう。もしよければ試しに着てもらえないだろうか?」

「え、今からかい?」

「今からだよ、館長にも見てもらいたいし、調査は明後日だ、急いだ方がいい」

「う〜ん、気が進まないなあ」

「頼むよ、島のみんなを護りたいんだろう」

 ふと横を見ると、館長も興味深そうに頷いていた。

「ほら、館長も見たがっているみたいだし」

「え、私は別に」館長は首を振る。でも見たそうな顔をしていますよ。

「しょうがないなあ」

 コノハ助教はため息をついた。


 しばらくして、コノハ助教が「うう、寒い」といいながらカフェに入ってきた。

 彼女は競泳用の水着を着ていた。いつの間にか買っていたようだ。研究補助員の謝金を使ったのだろうか。

 こんな時期にそんな格好になるのは確かに気が進まないだろう。

 いつの間にか外の雨も本降りになっている。配慮が足らなかった。私は慌ててストーブの電源を入れる。でもすぐには暖まらない。すまぬ。

 わたわたしながら彼女の姿を見て、息を呑む。今の彼女は、水着姿というより、振袖か袖の長い中華服を着ているように見えた。

 長く伸びた袖が手首よりも先まで伸びて垂れている。だがそれは袖ではなく、先端がヒレ状になっていた。足先もくるぶしから先がダイビングの足ヒレみたいに平たくなって伸びている。それが床にぺたんと広がっている様子は、まるで歌舞伎役者の長すぎる袴みたいだった。彼女はこれをダサいと思ったのか?でも結構格好いいぞ。

 異様なのは頭部だった。いつもの彼女の灰色の髪の間から、クワガタみたいな、あるいは古代エジプトのアヌビス神がもつ長い耳みたいな角が二つ、頭の天辺から頭上に伸びている。

 前に見せてもらったスーツと同じく、付属物の分だけ体が小さくなっているようだ。いつもの彼女より一回り以上小さいようだが、角のせいで。実際より高く見える。

「その頭の上の突起は?」

 一番目立つ特徴について私は尋ねた。隣で館長もうんうんと頷いている。

「これか?水中を真っ直ぐ進むためのものだよ。魚にもよくついているだろう?」

「ああ、メカジキとか、サヨリとかですね」と館長。

「やっぱり、手足はヒレ状なんだな」

「ああ、人型で泳ぐにはこの形しかない。でも、ほいっと」

 彼女は両手を振った。するとヒレ部分がまるで翼竜の翼みたいに背後に折りたたまれる。すると人間と同じような腕になった。ただし手の先は剣みたいに鋭い。折りたたまれた翼は細い槍みたいになって肘の後方へ伸びていた。

「足も、ほら」彼女は同じように足ヒレを後ろに折りたたむ。すると人間みたいな長い足になった。ただしこちらも畳まれた翼が踵から後方に細槍状に伸び、足先はすうっと細くなっている。

 手足の形状は、肘と踵の長槍を除けば、ちょうどスーツを纏う前の甲殻少女に近い姿だ。

「すごい、かっこいいよコノハ助教」

「そりゃどうも」

「お美しいです」館長も賛辞を送った。

「どうもありがとう、館長」

 おや、コノハ助教の返答が私の時よりずっと丁寧だ。この差はどこから来るのだろう?

 それはともかく、

「ふうん、水中でヒレを開いたら、手足がオール状になった海棲爬虫類みたいに見えるかもな」

 そう言いながら、あれ、と私は思った。

「コノハ助教、ちょっと頭はそのままで、体だけ横を向けてくれないか?」

「こうかい?」

 コノハ助教が体を横に向けた。そしてそのまま顔だけを私に向ける。

「館長、この姿を水中で見たら、どう見えますか?」

「え?」

 いきなり話を振られた館長が戸惑う。

 しかし律儀にも彼女はコノハ助教をじ〜っと観察した。

「そうですね、頭に二つの突起がある水中生物のように見えますね」

「あの左右の突起、上顎と下顎みたいに見えませんか?」

「ああ、そう言われれば。口を半開きにしているワニみたいに見えますね。尻尾はありませんが」

「あの姿で、長い尻尾を付けたら、モササウルスみたいに見えませんかね?」

「え、でもあれは角ですよ、顎ではなくて」

「あくまでシルエットの話です。あの姿で泳いでいるコノハ助教を水中から、しかもちょっと遠くから撮影したら、大型の海棲爬虫類に見えると思いませんか?」

「う〜ん、ちょっと無理があるかもですが、角度次第では、そう見えるかもしれませんね」

「ちょうどモササウルスを見たという報告もありますから、彼女に長い尻尾をつけてモササウルスに化けてもらって、海竜型の怪物がいる可能性を示す写真を撮ったらどうでしょう?そして周辺海域を封鎖してもらう」

「・・・・うまくいくでしょうか」

「まあ、やってみないとわかりませんが」

「あ、でも尻尾と言いましたが、そんな都合のいいものがありますか?」

「ああ、それなら大丈夫。ちょっと前のハロウィンの仮装の時に使った怪獣の着ぐるみがあります」

「ああ、あの時の」

「おおい」

 コノハ助教が割り込んできた。

「それはいいが、寒いから着替えたいんだけど」

「ああ、ごめん、もういいよ、ありがとう」

「うう、寒い寒い」

 コノハ助教は不平を言いながら出ていった。

 私は戻ってきたコノハ助教に振る舞うために熱いココアをつくる。ようやくストーブの熱が感じられるようになった。彼女が戻ってくる頃にはちょうど良い暖かさになっているだろう。

「館長も何かどうですか?」

「ああ、では良ければ紅茶を」

「わかりました。前に館長にもらったやつがあるので、それにしましょう」

 私は飲み物を用意しながら館長を見た。彼女は雨が降りかかる窓ガラスの向こうを見ている。

 ちょうどいい機会だ。私は、少し前から考えていたことを館長に話すことにした。

「館長」

「はい?」

 彼女はこちらを向いた。

「ご存知の通り、ぼくは来年の春にはここを出ます」

「はい、でもこっちと繋がるようにはするんですよね」

「まあ、ご迷惑でなければ」

「私は構いません。どうぞ通路を作ってください。どうせここには誰もいませんから」

「そのことなんですが、ぼくが出て行った後、コノハ助教をここで働かせてもらうことはできますか?正規の職員でなくても、アルバイトみたいなものでいいのですが・・・・」

 図々しいとは思ったが、私はかねてからその案を検討していた。博物館には本館と別館があって、どちらも館長が管理している。だが一人で二つの博物館の面倒を見るのは大変そうだ。だから、もしかしたらコノハ助教の働き口として相応しいのではないかと思ったのだ。だがもちろんそれには館長の許可が要る。

「そうですね」

 館長も何かを考えていたのかもしれない。あまり迷うことなく彼女は口を開いた。

「ご存知の通りこの博物館はレプティリカ大学の付属施設の一つです。大学の予算は潤沢とは言えないので、博物館の管理人を増やすことは難しいでしょう。ですが、非正規雇用ならいけるかもしれません。そしたら私の仕事もかなり楽になります。コノハさんがやってくれるなら、私は大歓迎です」

「そうですか」

「でも、給与はそれほど高くありませんよ。それでもいいでしょうか?」

「もちろん、働き口があるだけで、充分です」

「そうですね、ここで働くとなると住み込みにできますから、給与が安くても人並みの暮らしはできるかもしれません」

「では、その方向で大学側に照会してもらえますか?」

「わかりました」

「ありがとうございます、館長、恩に着ます。このお礼はきっと」

「いえ、お礼なんて」

 彼女はそう言ったが、私は何かお礼をしなければと思った。でも何がいいだろう?


 暫くしたらコノハ助教が元の姿になって入ってきた。

「私があの場所で泳ぐのはいいんだけど」

 彼女は入ってくるなり質問してくる。

「あの場所の深みにはとんでもない怪物が潜んでいる。大丈夫なのか?」

「それは、あれが襲ってくるかもしれないという心配か?」

「そうだよ。あいつは、カレハ助教はあのスーツの制御にまだ慣れていない。そんな状態で襲われたらひとたまりもないぞ」

「それはたぶん、大丈夫だ、前の調査みたいに50メートル離れていたら問題ない、と思う」

「どういうことだ、怪物は襲ってこないということか?」

「少なくとも、あれが君たちの方に泳いでくることは恐らく、ない」

「何故そう言いきれる?」

「あれの形だよ、ふたつ、ついてたんだろう?」

「二つって、上顎と下顎のことか?」

「そう。上顎と下顎、あるいは二つの山みたいに見えた構造物のことだ」

「それがあると何故襲ってこないと言える?」

「襲ってこないとは言ってない。遊泳しないと言ったんだ。言い方がよくなかったかな、つまり、固着してると言いたかったんだ」

「固着?岩にくっついているということか?」

「そうだよ、海藻かイソギンチャクみたいにね」

「なんでわかる?」

「だから言ってるだろう、突起が二つあるからだよ」

「よくわからん、私の聴覚野がおかしいのか?いや、やはり君の頭がおかしいのか」

 そう言ってコノハ助教は館長の方を見た。館長は少し首をかしげ、それからああ、と口を開いた。

「もしかして、入水孔と出水孔のことをおっしゃっているのですか?」

「そうです」

 私は答えた。よかった。館長には伝わったようだ。もし動物に詳しい館長にも否定されたら、自分の脳を疑うところだった。

「なんだって?」コノハ助教がやや憮然として尋ねた。

「海産無脊椎動物の中には二つの突起を持つ種が多くいる。ホヤとか、マテガイとかね。コケムシとかもそうだな。それらの突起は先に穴が開いていて、一つは水を取り込み、もう一つは水を排出する。つまり口と肛門みたいなものだ。それが並んでついているのは、それらが胴体で岩に固着しているためだ。そういう状態で効率良く酸素やエサを取り込むには、入水穴と出水孔が並んで突き出しているボディプランが適応的なんだ。君が見た怪物には二つの突起があったという。つまりそれは入水孔と出水孔である可能性が高い。この島から漏れ出ている生命資源をあの場で吸収して生きているんだ。ならば、君が見た怪物はホヤみたいに岩にくっついているだろう。多少伸び縮みするかもしれないが、あの場からは動かないよ」

「つまり、コノハさんが見たのは巨大なマテ貝みたいなものということですか?」と館長。

「そうですね。異様に長くて肉厚の入水・出水孔を持つ二枚貝類がいます。例えばキヌタアゲマキとか。そんな奴が殻の部分を岩に埋め、鎌首をあげているところを上から見たら、脊椎動物の顎みたいに見えるんじゃないでしょうか?」

「君、そんなことを考えていたのか?どうして今まで黙っていた?」

「考えついたのは昨日だ。君と一緒にあれを封印すると決めてから、あれの正体について推測していたんだ。もしウロウロ動き回るような怪物なら、既に発見されるか、調査する側に被害が出ていただろう。でもそうなっていない。それから考えると固着性の種ではないかと思った。そのことと、二つ突起がある動物の多くが固着性だという常識を考え合わせると、当然すぎる帰結だ」

「ちょっと待て、それは地球産の生物に関することだろう?宇宙人が作った生物にも当てはまるのか?」

「宇宙人という言い方は慣れないな、地球外知的生命体とか?まあ同じことだけど。でも、地球外生物でも同じ環境に適応するなら地球産生物と同じような形に落ち着くんじゃないか?」

「そんなものかなあ?」

「あくまで仮説だ。かれらが作ったものには精霊さんみたいにとんでもないのもいるが、今回のやつは常識に則った生物のように見える。君が見た怪物が固着性である可能性はけっこう高いと思う」

 コノハ助教はう〜んと唸った。

「だったら大丈夫かな」

「もちろん近づくと危険だ。絶対50メートル以上離れている必要がある」

「わかった。じゃああそこに潜るとしよう。となると、残る問題は一つ。いつ実行するかだ」

 そう、それが問題だ。時間がなさ過ぎる。

「トリーニ氏の研究チームがあそこを調べるのは明後日だ。もう時間がない。明日か、いや保安局に対応してもらうなら、それじゃ遅い。できれば今日やらないと」

「それは・・・・可能ですか?」館長が心配そうに尋ねた。

「今からちゃちゃっとあそこに行って、証拠映像を撮れば?」

「ちょっと待ってください。それは難しいです。確かにサクラさんに言えばあそこに行けるでしょうが、普通は無理なんです。どうしても船が必要です」

「それはどういう?」

「例えば証拠映像を撮って、保安局に見せたとしましょう。その時に『どうやってあの場所に行って、これを撮ったのか』と訊かれたらどうしますか?」

「ああ、そういうことですか、確かにそれは」

 私は自分がかなり間抜けだったことに気づいた。あの場所で証拠写真を撮るには、正規の方法で、つまり船か何かを使って、あそこに行く必要がある。だが今の我々にはその手段が無いのだ。

「歩いて行くのは・・・・無理か。そうだ、フェンネル君に超軽量飛行機を借りて、それで行くのは?あれにはフロートがついているから水上に降りられる」

「外を見てください」

 館長は窓の外を指さした。

 だが外はほとんど見えなかった。大量の雨粒が窓に叩き付け、ガラス面を急流のように流れている。

 いつの間にか、博物館の外は土砂降りの雨であった。


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