第三部
3―モササウルス湾
その日は大学で講義がある日だった。帰りが遅くなるかもしれないので、サクラ技官たちのために簡単な昼食も用意してからアルケロン市に向かう。
精霊さん、もといサクラ技官に作ってもらったドアをくぐって、博物館の本館に出る。そこは小さな物置部屋だった。この部屋は展示ホールにつながっている。
私はドアを開け、ホールに出た。私が出てきたドアには、間違って部外者が中に入らないように、「関係者以外立ち入り禁止」の札を貼ってある。
そこには異様な骨格標本が天窓からの明かりに照らされて並んでいた。かつて此処で行われていた人工進化研究の産物だ。その禁断の研究が後の「ノーチラス事変」を引き起こしたのだ。
私は怪物めいた標本群を一瞥し、展示ホールを通り抜けようとして、ふと足を止めた。
巨大な全身骨格の前に、誰かが立っている。
黒のアルザス衣装の上にフード付きの黒い外套を羽織った少女だった。西洋の竜にしか見えない異様な骨格標本を見上げている。
フードの隙間から灰色の髪が見えた。うちの助教だ。いや私が雇っているわけではないから「うちの」じゃないな。なら何と言えばいいのか?彼女と私の関係には適切な用語が思い浮かばない。
今出てるのはどちらだろう?博物館の展示物に興味を示しているとすれば、コノハ助教か?
でもくるりとこちらを向いた少女の瞳は水色だった。
「——カレハ助教、おはよう」
「おはようございます、御館様」
カレハ助教はぺこりと頭を下げた。
「大学で講義ですか?」
「そうだよ、君のほうはここで何を?骨格標本に興味があるのか?」
「ああ、そうですね、いい練習材料になるかと」
「練習?なんの?」
「ふふん、秘密です」
カレハ助教は人差し指を立てて唇の前に当てた。
秘密?なんのことだろう?
でもどうせオタク的な何かに違いない。
私は大して気にせず、その場を離れた。
「行ってらっしゃいませぇ〜」カレハ助教の声がホールに木霊した。
私は博物館の外に出た。
そこで立ち止まる。
目の前にサクラ技官が立っていた。
古風な黒いスーツを着て、黒い山高帽を目深に被っているのはさっきと同じだが、上に浮かんでいた家がない。代わりに、彼女は大きめの旅行鞄を手にしていた。革張りで真鍮の鋲留めが並んだ立派なものだ。家はどこに行ったのだろう?それにあの鞄は?もしかして、家を鞄に変形させたのか?ということはあの鞄は彼女と繋がっているのか?
私がいろいろ考えている間に、サクラ技官は帽子に手を当てて慇懃に挨拶した。ただし人間味が全く無く、まるでロボットみたいだ。よく見ると彼女の端正な口元から触手がにゅっと突き出している。
「あの、触手が見えていますよ」
そう言うと、触手がシュッと口の中に引っ込んだ。彼女は帽子の鍔で瞳を隠したまま、何事もなかったかのように黒革の手袋を嵌めた手で横を示す。
そこには古風な自動車があった。
真鍮製の装具がキラキラ光っている。まるで黎明期の自動車だ。フランスのパナール何とかというやつか。とても小さくて、屋根もなく、まるで玩具みたいだ。
「え、どういうこと?」
サクラ技官が顔を上げた。帽子の蔭から現れたその瞳は作り物みたいなターコイズブルーだった。
その瞳は何も語らない。
もしかしてあの自動車は?
私は記憶を辿る。サクラ技官の黒スーツと同じく、実はこれにも見覚えがあった。
あの野外博物館で、近世風の家のガレージに入っていたやつだ。
あそこから持ってきたのだ。やはり、精霊さんはあの野外博物館の展示物を自由にこの島に持ってきているのだ。
サクラ技官が執事みたいに車を示す。
乗れ、ということかもしれない。
私はおっかなびっくりで、それに乗り込んだ。ちなみに二人乗りだが、小さいので大人が二人乗ったらギュウギュウだろう。
運転席にサクラ技官が乗り込んでくる。彼女は小柄なので二人で乗っても余裕があった。彼女は背後のトランクに旅行鞄をどさっと置いた。そしてハンドルレバーを握る。よく見ると彼女のパンツスーツの腰のあたりから飾り紐が出て鞄の取っ手に繋がっていた。ということはやはり、彼女の体と鞄は一体なのだ。細い尻尾部分を飾り紐に擬態しているのである。
彼女は無言で車を発進させた。黒い衣装と黒革の手袋のせいで、怪しい組織の運転手みたいに見えた。
骨董品みたいな車は軽快なエンジン音と共に博物館前の道を走り出し、木漏れ日の間を抜けて、街に向かう。
スピードといい、揺れ方といい、何だか車というより馬車にでも乗っている感じだ。吹きさらしの座席に秋の名残の風が吹いて、隣で操縦するサクラ技官の金髪を揺らした。でもちらっと見える瞳には何の感情もない。
サクラ技官は黙っている。黒衣で無表情でいられると、まるで宇宙人が人間に化けているみたいだ。確かそんな映画があった気がする。
「あの」私は声をかけた。
「君の呼び名を考えてみたんだけど、『篝サクラ』はどうかな?役職名は技官で『サクラ技官』では?」
精霊少女は少し首をかしげながらこちらを向き、軽く頷いて、イギリス紳士が礼をする時みたいに帽子の鍔に手を当てた。
それだけだった。彼女は再び視線を前に戻す。
そっけないな。でも嫌ならそういう態度を取るだろう。とりあえずこれで良しとしておこう。
やがて車は街はずれの広場に到着した。トロッコ列車よりもずいぶん早い。しかも遊園地のアトラクションみたいで面白かった。
私が車を降りて礼を言うと、黒衣の運転手は礼を返すみたいに小さく頷いた。その時強めの風が吹いて、彼女の黒いジャケットの裾をめくった。金髪が風に踊って、山高帽がふわっと宙を舞う。次の瞬間、彼女の鼻と耳の穴から触手がシュッと伸びて、イカの触腕みたいに空中で帽子をキャッチした。そしてストンと頭の上に落とす。触手がするりと引っ込み、そして彼女は帽子の鍔をちょっと下げて挨拶をすると、車を転回させて戻っていった。
何だか変なことになった。
触手少女の送迎とは。まるで自分が宇宙人が絡んだ秘密組織の首領にでもなったような気がした。
大学でいつものように聴講者の少ない講義を済ませ、廊下を歩いていると、「先生」と声がした。
いつもこの廊下に現れる、コートニーだ。
私は振り返った。
中等部の冬服を着た少女が立っていた。
「寒くなりましたね」
彼女は私と並んで歩き出す。彼女に会うのは暫くぶりだった。
「元気そうで何より」
数ヶ月前には彼女と一緒に異世界に放り込まれて、大変な思いをした。それ以来、彼女のことは何だか戦友みたいに感じている。
「先生、コノハさん達は元気ですか?」
「ああ、元気だよ」
「精霊さん達と仲良くやってますか?」
「ああ、もちろんだよ」
昨夜ちょっとした騒動があった件は、ここでも黙っておこう。
「そっちも変わりないかい?」
「特に何も無いかな。あ、でもお父さんが先生に話したいことがあるって言ってた。あの地底世界に関することみたい」
「え、そう?キャンベル教授が」
「うん」
「そうか、それはちょっと気になるな」
キャンベル教授とはあの一件以来、カハール博士と共同で、世間に公開するための報告書をまとめているところだ。報告は論文にしてしかるべき雑誌に投稿するだろう。今は外界との連絡が途絶しているから、次に交信が可能になる2月頃までに論文をまとめる予定だった。
「急ぐのかな、ちょっとこれから行ってみる。お父さんは今どこに?」
「今頃はたぶんヒューベル博士のところだよ。私はこれから行くけど、先生はどうする?」
コートニーはヒューベル博士のところで見習い整備士をしている。これから行くならちょうどいい。
「じゃあ、一緒に行くよ」
私は答えた。そしてふと、こんな時にサクラ技官が通路を作ってくれたら便利なのに、と思った。
でもこの場にサクラ技官はいないし、私の側の都合で、通路を開くには「ドア」という概念が必要だ。
そこで私は何かが引っかかった。記憶の中からその原因を辿ろうとしたが、途中で見失う。
「先生、なにぼーっとしてるの?行くなら早く」
「あ、ああ」
コートニーに急かされて、私は初冬の日が差す大学の廊下を歩き出した。
ヒューベル博士が探査機の基地にしている場所は、街から少し離れたメイオラニア丘陵にある。
そこまでは線路が延びているので、私はいつもトロッコ列車を利用していた。
今、私とコートニーを乗せた小さな列車は、ゴトゴトと線路を走っていく。
線路は上り坂を登っていき、左手には蒼い海が見えた。
「海の色が変わったね」とコートニーが言った。
「ああ、かなり寒そうな色になった。これからもっと寒くなるんだろう?」
「そうだね。でも、私は去年の今頃は入院してたから、どれだけ寒いかはよくわからない」
そういえば彼女は事変の直後に重傷を負い、冬の間はずっと入院していたそうだ。彼女がここに来たのは確かその年の春だったから、彼女はこの島の冬のことをまだよく知らないのだ。
「大変だったみたいだね」
「まあね。でも私のせいでクレイが大変なことになっちゃって」
そう言って彼女は目を伏せた。その辺の事情はまだ聞いていない。あまり聞かない方がいいと思っている。
ちょっと気まずくなってしまった。私が何か話題がないか考えていると、コートニーが口を開いた。
「そういえば先生」
「何かな?」
「知ってますか、あの噂」
「噂?」
「謎の美女の話」
「何それ?」
「この間のハロウィン祭りの時、みんなが仮装していたでしょう?その時、見たこともない女の人がいたらしいよ、すごい美人だったって」
「・・・・・ほお」
「その人、ドレスを着て、大学の中の広場にいたらしいんだけど、それまで誰もその人を見たことが無かったみたい。それで、ハロウィンが終わったらそれきり姿を現さなくなった。あれは誰だろうって話になってる」
「ふうん、それで?」
「あれはお化けだっていう話もでてきて。そしたら誰かが、その女性はお祭りの時に現れるんじゃないかって言い出して。そしたら、次のお祭りはノエルでしょう?その時にまた現れるかどうかで、騒ぎになってるんだよ」
「そんなことがあったのか」
知らなかった。でもそういえばハロウィンの後で怪談めいた噂が学内で囁かれていた気がする。
見知らぬ女性か。この狭い島だ。お祭りの後に誰も見ていないというのは確かにおかしい。
もしかして本当に何かの物の怪なのか?
でもまさか。
とは言いながら、自分が実際に地底世界で会った精霊さんなどを思い出すと、全てを否定するのは無理じゃないかと思った。もしかしたら今も、未知の存在がこの中に紛れ込んでいるかもしれないではないか。そもそもコノハ助教はその典型ではないか。そして今や私自身だって・・・・・。
「先生?」
私が黙ってしまったので、コートニーが心配そうに尋ねた。
「ああ、大丈夫だよ、それで、もしかして、君はその美女とやらに興味があるのか?」
「・・・・うん」
彼女が頷いたのは意外だった。
「それはどうして?あまり君らしくないというか・・・・」
「実は、クレイが」
「フェンネル君が、どうした?」
「その綺麗な女の人、首有り騎士の仮装をした男の人と話をしていたらしいんだけど、その日、クレイは首有り騎士の仮装をしてて」
「え?」
ちょっと待て。首無し騎士ならわかるけど、首有り騎士は只の騎士ではないのか?
それはともかく、
「フェンネル君とその女性が話をしていたかもしれないと?」
少女は頷いた。
「え、でもそんなの、フェンネル君に尋ねたらすぐわかるじゃないか?」
「もちろん尋ねてみた。でも、知らないって」
「ふうん、じゃあ、その首あり騎士はフェンネル君じゃなかったんだ。暗かったし、仮装してたんだから別人なんじゃないのかな」
「・・・・でも」
コートニーは訝しそうな顔をしていた。
「やあ、わざわざ来てくれたのかね、申し訳ないな」
キャンベル教授は朗らかに言った。
私はヒューベル博士の家にある管制室にお邪魔している。そこは様々な機器が所狭しと詰め込まれた部屋で、まるで子供の頃に観た映画に出てきた秘密基地みたいだった。
そこではヒューベル博士がフェンネル操縦士と無線機でやり取りをしている。
フェンネル操縦士は万能探査機のフェルドランスで近くの場所を調査しているみたいだ。
これから予備の部品を取りに一旦ここに戻るらしい。
馴染みのない機械的な専門用語が飛び交う様を背後で聞きながら、私はキャンベル教授に尋ねた。
「何か私に話がおありだとか?」
「ああ。同僚のタイラー准教授が言っていたんだがね、このノーチラス島が周回している場所の海底は、他の場所と様子が違うらしい」
「海底が?どういうことですか?」
教授は管制室の窓から海を見ながら答えた。
「通常、海底は海洋底プレートが特定の方向に移動している。それは大陸地殻にぶつかると、沈み込む。海洋プレートの方が密度の高い物質でできているためだ。やがて沈み込んだ海洋底は地中深くでマントルになって溶かされる。そうした場所では大陸地殻と海洋底プレートの摩擦により、地震が頻発する」
「そうですね、逆に言うと大陸地殻は軽くて、ちょうど海洋底プレートの上に筏みたいに浮かんでいるような状態になっている。それがどうかしましたか?」
「ノーチラス島の周回部は、プレートテクトニクス的に非働化されているそうだ」
「非働化?ということはつまり、プレートが動いていないと」
「そうだ。その代わり、ノーチラス島周回領域の外周部では、プレートの沈み込みが起きている」
「え?それはどういうことですか?」
「ノーチラス島の下の海洋底は、大陸地殻と似ているということだよ。いや、別の言い方をすると、この下には広大な大陸が沈んでいるんだ」
「大陸が?」
「そう、つまり、我々の真下には未知の大陸がまるごと一つ沈んでいる。その大きさは南極大陸とほぼ同じだ。そしてその大陸は中が空洞になっている。それが、我々が迷い込んだあの地底世界なんだ」
「本当ですか、そんなことに、なってたなんて」
あの世界は、そういう仕組みで存在していたのか。確かに少し気になっていた。もしあの場所が海底だったとしたら、プレートの動きがあるのにどうやって維持されているのか不思議だったのだ。でもそれが大陸であるというなら納得だ。大陸の地殻はプレートの上に浮かんでいるので、壊れることなくずっと維持される。現に、太平洋の海洋底の年代は古いものでもジュラ紀くらいまでだが、大陸にはカンブリア紀以前の地層が普通に残っている。しかし、それにしても。
「大陸が沈んでいたとは」
まるであのムー大陸伝説みたいだ。あれは広大な太平洋の島々に似たような文明があることを欧米人がみて、当時の人々にそんな遠距離まで海を渡る技術が無いと早合点し、かつて太平洋全体に及ぶ大陸があると考えた結果生まれた伝説だ。でも実際は当時の人々の航海技術はずば抜けていて、彼らは島伝いに東南アジアから南米付近のイースター島まで渡っていた。
「大陸が一つまるごと水没するなんて普通では有り得ないよ。これもこの島を作った者たちの仕業だろうな」
「・・・・彼らは空洞の大陸を作り、それを海底に沈めて、そしてその周囲にノーチラス島を巡らせた。エネルギーを暗黒の地底世界に送るために。そして、実現させた、あの世界を・・・・」
「そう、何者からも侵されない、難攻不落の地下要塞であり、安全地帯だ」
「そして特殊な環境における生命進化の実験場でもある。そんなやり方で維持されていたなんて」
「前からわかっていたことだが、この島は重要だよ。そんな場所を成立させる要だ。でもそれに関して、ちょっと気になることがある」
「なんでしょう?」
「そんな大事な場所にしては、ちと無防備すぎると思わないかね?」
「どういうことですか?」
「我々は何の障害もなくこの島に上陸し、好き放題に調べている。もしここがそんなに大事な場所なら、余所者に立ち入って欲しくないはずだ。ふつうなら堅固な防衛機構があるはずだ、でもそんなものの気配は無い」
そういえばそうだ。我々はこの島のどこにでも立ち入っている。あまつさえ彼らの本拠地と言えるあの地底世界にも侵入した。それでも特に妨害があったわけではない。
でも、リール・ド・ラビームの深淵の仕掛けはちょっと特別かもしれない。あれは「彼ら」が地上の生命体を捕捉するために作った、いわば罠みたいなものだ。我々はそれにまんまと引っかかったのだ。だからあの場所に行けたのである。
それを別にしたら、まだ人類の誰もあの場所のことを知らないし、正攻法では誰も行っていない。
余所者に侵害されることを、この島は忌避している。そのための———。
「防衛機構ですか・・・・」
「今まではそれの気配はなかった。ただ、我々がその存在にまだ気づいていないだけかもしれない」
「・・・・実際にはあると」
「我々がそれに触れるとたちどころに滅ぼされるような強力な防御機構が、この島の何処かにあるかもしれない。そう考える方が自然だ。我々はまだそれに気づいていないだけなんだ」
「それは、恐ろしい考えですね」
私は戦慄した。外の景色がちょっと怖い。この島の探査の最先端であるこの場所で聞くような話ではなかった。
私はヒューベル博士を見た。いつしか彼はヘッドホンを外して我々の方を見ていた。どうやらこちらの会話をすっかり聞いていたようだ。
もし教授の話が本当なら、島の防御機構はこの島の何処かに眠っているだろう。それにアクセスする可能性が最も高いのは、彼とその同僚ではないのか?
「ヒューベル博士・・・・」
私は思わず呟いた。
ヒューベル博士は重い表情をして頷く。そして口を開いた。
「教授の懸念は尤もです。だが、私達が、いやこの島の住人が、探索を止めると思いますか?教授だってそうでしょう?博士だってそうだ、止めますか?止められますか?だから我々は、細心の注意を払って、それでも進むしかない」
ヒューベル博士は当然のように言う。そうだ、科学者というのはこういう頭のおかしい連中なのだ。この島で最もちゃんとしていると思うヒューベル博士ですらこうなのだ。そんな者どもがこの島に集っているのである。
私は自分が今、危うい爆弾の上に立っているような気がした。今この瞬間にも、何処かの調査隊が島の何処かで見つけるかもしれない。恐るべき防御機構を。そしたら、そしたら私達はどうなる?
「防御機構・・・・。どんな可能性が考えられますか?」私は恐る恐る教授に尋ねた。
「最も簡単なものであれば、たとえば、一時間海中に沈んでまた浮上する、というので充分だな。それだけで島の上にいる大半の動植物は死滅する。それ以外だと、そうだな、君があの地下世界にいたとき、私が一足先に脱出した後、人魚が襲ってきたのだろう?それらが一瞬で殺されたと聞いたが」
「はい」
「死因は何だったのかね?」
「カハール博士と一緒に調べましたが、結局よくわかりませんでした。どの個体も一瞬で心臓が止まったようにしか見えませんでした」
「なら、それと同じ方法で、我々は殺される。一瞬で心臓を止められてね」
私はゾッとした。その能力はあの精霊さんが持っている。実はずっと近くに、島の防衛機構になり得るものが存在しているのだ。私は教授が言う機構が何処かにある可能性は高いと思った。まだ見つかっていないだけだ。半世紀以上も見つからなかったのだから、たぶん隠されているのだろう。だがそれを見つけてしまったら、そしてそれに手を出したら、我々は破滅する。
なんて恐ろしい場所なんだ。私は改めて、自分が立っている場所に恐怖を感じた。地球ではノーチラス島に行くような者は皆頭がおかしいと言われているが、その通りだ。
「ちょっとネガティブなことを言いすぎたな」
教授が気を取り直したように言った。
「ここで調査している人々は皆一流の研究者だ。バカなことはしないだろう。それに、そんな場所に真っ先に行くのは君たち、ペンクロフト君とクレイ君だ。君たちはあの異世界を経験済みだ。十分注意してさえいれば、危険を事前に察知できるさ」
「はあ、責任重大ですね」
ヒューベル博士が疲れたような顔で言う。
「肝に銘じておきますよ」
その時、遠くから轟音が響いてきた。
私が窓の外を見ると、暗い海から淡緑色の機体が青い光芒を放ちながら接近してきた。ターボファンエンジンの轟音が聞こえる。フェルドランスだ。
戦闘ヘリみたいな胴部に四肢をもち四枚の翼を備えたそれは、一瞬で管制室の前まで来ると、宙を滑るように回頭して、推力偏向ノズルによる停空飛行を開始、そのまま下にある白い滑走路の脇に着陸する。見事な操縦だ。
あれにはフェンネル操縦士が乗っている。
今の話を聞くと、彼の命がとても危ういものに思えてしまう。
彼と、その関係者を護ってくれとアーベル氏は言って、コノハ助教を遣わした。
そしていろいろあって、私もこの探査機の友人達と関係している。そして、彼らを死なせたくはない。
まあ、私の方でもやれるだけのことをするさ
私は暗い冬の海を見ながら、そう思った。
それから、教授は退室した。私もお暇しようと思ったのだが、ヒューベル博士と仕事のことでちょっと話をしているうちに時間が経ってしまった。
気がつけば、辺りは薄暗くなっていた。緯度が高くなったので日が暮れるのも早い。
あれからまた調査に出ていったフェルドランスも既に帰還していて、崖に作られた格納庫でフェンネル操縦士とコートニーが整備をしている。
そういえば、今更だが、私はフェンネル操縦士のことで、ヒューベル博士に聞いておきたいことがあった。
「ちょっといいですか」
だから私は話題が一段落したタイミングで彼に尋ねた。
「何でしょう?」
「あの、フェンネル君のことなのですが」
「クレイがどうかしましたか?」
「ヒューベル博士は彼とずっと一緒に仕事をしていたんですよね」
「ああ、この島に来てからずっとね、いや、来るときの船から一緒でしたね、もう2年近くになりますか」
「それで、彼はここに来て、それから、博物館の館長と兄妹だったと、わかった」
「ああ、その話ですか。あなたも不思議に思われたのですね」
そして、ヒューベル博士の顔に困惑の色が浮かぶ。
「私は今でも信じられません。あの二人が兄妹?何かの間違いでしょう。そりゃ確かに、雰囲気とか仕草が妙に似ていると思うときがありますよ。でも、有り得ますかそんなことが?クレイは子供の頃からずっと地球にいた。しかも孤児だったという。そんな彼に、この島にいたシィナさんと接点があるわけがない」
ヒューベル博士は二人のことをどう捉えているのだろうと思っていたのだが、やはり真実は知らされていない。そして彼はあの二人が兄妹だとは思っていない。
「じゃあ、どういうことだとお考えですか?」
「私は何か事情があって、あの二人は兄妹を演じているのではないかと思いますね。シィナさんは何故か最初から彼を信頼していて、というか彼のことしか信じていなかった。何か事情があるんでしょう。彼女はクレイにそれを話して、兄妹として振る舞うことを依頼した。そしてそれをクレイは承諾した。そんなところじゃないですかね」
館長はヒューベル博士には秘密を話さなかった。あの少女は博士のことをとても頼りにしているように見えるのに。私には話したのに彼には話さなかったのは何故だろう?
たぶん
多分、館長はヒューベル博士の前では普通の人間でいたかったのではないか?島にある謎の装置で複製され死亡したフェンネル君のコピーから、禁断の発生工学実験で作りだされた彼女。さらには人外のアーベル氏と共に暮らすうちに未知の魔法まで使役するようになった。そんな彼女はおそらく、普通の人間関係を欲していたのだ。
「ライト館長はあなたのことも充分信用して頼りにしていると思いますが」
「そうですかねえ、だとしたら嬉しい限りですがね」
私は何となく、ヒューベル博士は館長のことが好きなのではないかと思っている。
「でもね」
ヒューベル博士は暗くなった海を見ながら続ける。
「あなたがここに来て少ししてから、あの人は明るくなった。それまでの、何か思い詰めていたような感じがなくなった。博士が何かしたんじゃないですか?」
「いいえ」
むしろ私は彼女を追い詰めるようなことしか言ってない。
「本当ですか?私は何だかあの人は心の安寧を見つけたんじゃないかって気がするんですよ、クレイとは別のなにかを」
それはもしかしたら、アーベル君と再会したことかもしれない。
ともかく、ヒューベル博士は館長のことをとても気遣っていた。館長は幸せな人だ。こんなにも慮ってくれる人がいる。
館長が持ってきたシクラメンの花言葉みたいに、ヒューベル博士の想いが響き合うことはあるのだろうか?こんなにも他者を思い遣ることができる人物だ。こんな人物こそ幸せになってほしいのだが。
でもそれは、この島にいる我々の未来と同じだ。先のことはわからない。
私がリール・ド・ラビームに戻ったのは、かなり遅い時間だった。既に周囲は暗く、内海を囲む回廊の外灯の明かりが暗い海面に反射して揺れている。
博物館には灯りが点っていた。ウッドデッキから明るい館内が見える。
ふと私は、博物館の窓の奧に異様なものを見た気がした。
私は息を呑み、入口のドアは開けずに、その傍にあるガラス窓にそろそろと顔を近づける。そこからエントランスホールの内部が見えた。
そして、見た。
正面の壁に、執事みたいなタキシードを着た少女が両手を左右に広げ、まるで壁飾りのように壁を背にして張り付いていた。
伸ばした両手の手首の所から、触手が出ている。それは生物の教科書に出てくる神経細胞のシナプスボタンように、幾つかのパッチのような構造が壁にベタベタと張り付いていた。同じ構造が足首からも伸びて壁にくっついている。それらで体を支えているのだ。
そして、少女の口が大きく開いていた。いっぱいに開いた口から、植物の幹のようなものが突き出している。赤褐色をしたそれは一メートルくらい伸び出して、その先で緑色をした巨大な花弁のようなものががばっと開いていた。奇怪な花状構造は少女の頭よりもずっと大きい。
なんだあれは?
よく見ると、その奇怪な緑の花は、天井から下がる電灯に向けて開いていた。花弁の中央から無数の細い触手が出てユラユラと揺れている。
私はあまりのことに恐怖で体が竦み、でも生物学者の性か、それから目が離せなかった。
やがて、一つの可能性に思い当たる。
緑色の花を電灯に向けている。ということは、
光合成を、しているのか?
そんなことができるのか?
でも緑色の構造、すなわち葉緑体を含むかもしれないものを明かりに向けているということは、そういうことなのだろう。精霊さんはそんな能力も持っていたのだ。
でも、ということは、もしかして、お腹が減っているのか?
昼食は用意していたんだけど・・・・・。
私は恐る恐る、玄関のドアを開けた。
ゆっくりと館内に入る。
エントランスホールは静かで、黒スーツを着たサクラ技官が壁に張り付いている姿が余計に異様に見えた。
「さ、サクラ、技官?」
そう言うと、電灯を向いていた花がさっとこちらを向いた。
肉質の花だ。その真ん中ではいくつもの触手が蠢き、眼のようなものがたくさんついていた。
私は悲鳴を上げそうになった。でもそれを堪えた。我慢できたのが不思議だ。一般の人なら気絶していただろう。恐らくこれまでカレハ助教ののっぺらぼうやら館長の魔法怪物やらをたくさん見せられてきたせいで、私には変な顔に対する耐性ができていたらしい。
緑の花が一瞬で畳まれ、幹のような触手がうねりながら少女の口に戻っていった。茎の部分も含めるとかなりの体積があったはずだが、完全に少女の中に消える。
そして、少女の手足からも触手が引っ込み、体が壁から離れ、彼女はストンと床に降りた。
その時には完全に人間の姿になっている。
少女は無言でこちらを見ていた。
「・・・・・遅くなってごめん、食事を作る、暫くしたらカフェに来てくれ」
私の声は少し震えていたと思う。
サクラ技官は無反応だった。でも多分通じているだろう。
カフェに入ると、カレハ助教がいた。
こちらも人外の存在だ。何ということだろう。この夜の博物館に人間は私だけなのだ。
カフェに入ると、カレハ助教が図書室から持ってきた本を読んでいた。
詳しく見るまでもなく、ラノベか何かみたいだ。
「ご無事のご帰還、痛恨の極みであります、閣下!」
彼女はビシッと敬礼した。また何か変なものに影響されてる。それはいいけど、私が帰ってきたことがそんなにも悲しいのか。
「ごめん、遅くなった」
私はそう言いながら、夕食を作ろうと厨房に向かう。でも、ちょっとした違和感があった。
あれ、おかしいな。昨日からずっとカレハ助教が表に出ている気がする。二人が表に出る割合はだいたい6対4くらいで、コノハ助教の方が多い。
「あれ、コノハ助教は?」
私は気になって尋ねた。
「ああ、あのひと、只今絶賛ひきこもり中ですね」
「え、何でまた?」
「さあ」
「え、ちょ、ちょっと代わってくれないか?」
「ええ〜、お腹が空いてるんですけど」
「あ、ああ、ごめん、すぐ作るから、でもちょっと、ほら、ね」
「しょうがないですねえ、はい」
空腹のせいかカレハ助教は大したリアクションもせず、顔の前でさっと手を振った。
手のひらが扇のようによぎると、瞳の色が赤に変わって、瞳孔が縦長になっていた。
コノハ助教だ。でも、いつもの人をからかうような雰囲気は全く無く、瞳を伏せている。
「どうした?」
私は心配になって尋ねた。
「ひきこもってるって、カレハ助教が言っていたけど」
コノハ助教は黙っている。
私は困惑した。どうしたというのだろう?
でもこんな時、考えられる可能性は一つだけだ。
きっとまた私がろくでもないことをしたのだ。
では、何をしたか?私は昨日からの行動を反芻する。確か、コノハ助教とカフェでコーヒーを飲んで・・・・。
あれが気持ち悪かったとか?
有り得る、充分有り得る。
確かにあんな洒落た喫茶店で、私のような者とお茶をするのは不本意だろう。彼女は既に大学や高校に知り合いが何人かいるはずだ。そんな人達に見られても困るだろう。
「ああ、昨日カフェに誘ったことかな、ごめん、配慮ができなくて、今度からは身の程をわきまえる」
コノハ助教は黙っていた。
あれ、違うのか?じゃあ、どれだ?
私はわけがわからない。ならば、可能性は一つだ。
生来ネガティブ思考な私は、こういった事態になると、滝の水が滝壺に落下するように、ひとつの考えに行き着く。
———私がここに存在していることが、いけないのだ。
私の存在が、周囲の和を乱し、正常な人間関係を阻害しているのだ。
私の存在が、知らぬうちにコノハ助教にストレスを強いていたのだ。
彼女は今まで我慢してきたが、とうとう許容量をオーバーしまったのだ。
私の脳内でネガティブな考えが奈落のようにループしていく。
なるほど。ぼくがここにいるのが気に入らないのか?君たちがぼくの存在を疎ましく思っていたことには薄々気づいていた。でも大丈夫、あと数ヶ月でぼくはここを去る。君たちは自由だ。これまで色々と迷惑をかけたことは申し訳ないと思っている。すまないがもう少しだけ我慢してくれ。ぼくがいなくなったら好きなだけこの広い世界を楽しめばいいさ。
それだけの言葉が一気に頭に浮かんだ。私の脳の言語野はそれを出力すべく運動野に情報を送る。私は口を開きかけた。だが、最後の一瞬で、脳のどこかから制止の命が下った。
私は口を閉ざす。私の言葉を止めたのは理性的な活動に関わる前頭連合野か?いやそれとも、感情に関わる辺縁系だろうか?
私は気持ちを落ちつける。コノハ助教の笑顔が浮かんだ。自惚れだとは思うが、彼女だって私と一緒にここで過ごしたことを、一ミリくらいは楽しいと思ってくれているはずだ。
私の思考が冷めていき、そして、私は一つの可能性に思い至った。
「コノハ助教、昨日のことを気にしているのか?その、撃ち損じたことを?」
昨夜、カレハ助教がサクラ技官を攻撃し、でもそれは外れた。その時運動制御を担っていたのは、コノハ助教なのだ。
コノハ助教は顔を上げた。
どうやら当たりだったらしい。彼女は真面目な性格だ。昨夜は結局大事には至らなかったが、もしあれが本当に生死に関わる事態で、そしてミスを犯したなら、と彼女は考えたのだ。
「それについて、君は考え違いをしている」
私は言った。すると、コノハ助教が訝しそうに眉を寄せた。
「あのとき、精霊さん、あ、今は『サクラ技官』だけど、彼女を狙ったカレハ助教の照準は完璧だった。そして、それに応えた君の運動制御も、実は完璧だったんだよ、君は狙いを外していない」
「え、でも」
コノハ助教が初めて口を開いた。
「外れたじゃないか」
「違う」私は首を振る。
「あの時のことを思い出してくれ、サクラ技官の周囲で空間が歪んでいただろう?君の射撃は正確だった。でも空間が曲がっているせいで、軌道が逸れたんだ」
「本当か」
コノハ助教が言った。
「本当だ」私は答えた。
「うそだ、私は見ていた、そんなことは、なかった」
「嘘じゃない、君も知っての通り、ぼくの視覚系は観察に特化している。君の擬態だって見破っただろう?ぼくはあの時、しっかり見ていた。射線が曲がるところを。だから君のせいじゃない、相手が悪かっただけだ」
私はまくし立てた。でも正直なところ、嘘だ。私は実は何も見ていない。あの時は「ロケットなんたらぁ」と叫んだカレハ助教を見て「こいつマジか」と思っていたのだ。
「ほんとか?」
「本当だ、君にあげたリンドウの花にかけて誓う」
私は半ばやけくそだった。だから妙にキザな台詞になってしまった。いかん、これでは本当に嫌われる。
コノハ助教は黙っていたが、しばらくしてふうっ、と息を吐いた。
「私は未熟だ。運動制御も上手くならないし、君が言っていることも本当か嘘かわからない、でも、わかった、君の言葉を信じるよ、・・・・次は絶対に外さない」
「ああ、君ならできるよ」
私は言った。そして、次にまたサクラ技官とコノハ助教たちが対決したら、えらいことになると思った。サクラ技官がこれ以上紛らわしいことをしないように気をつけよう。
翌日は雨だった。
激しくはないが、しとしとと降り続いている。冬の到来を告げる、冷たい雨だった。
そして、驚くべきことが起きた。
あの依頼人、トリーニ氏がリール・ド・ラビームにやってきたのだ。
濡れた傘を持って博物館のエントランスホールに申し訳なさそうに立っている彼を見て、私は思わず「どうされたんですか?」と尋ねた。
「まさか、あんなことがあったのに」
「・・・・・それについては、お詫びの言葉もありません」
依頼人は怯えたように言う。
「こちらからお願いした件で、大変失礼なことを・・・・」
彼はしどろもどろになっていた。かろうじて言葉を発しているという感じだ。
「ま、まあ、とりあえずこちらへ」
私は彼をカフェに案内した。ちょっとコーヒーでも飲んでもらった方がいいだろう。ちなみにこのカフェは表向きは館長がいるときだけ開いていて、食事をするとお金を取られる。ただ私は館長の寛大な配慮により、自由に使わせてもらっていた。もちろん、コーヒーは自前で、食材やら何やらも自分で持ち込んで料理している。
私は厨房でコーヒーを煎れた。
「先日は本当にどうも・・・・」
トリーニ氏はここでもまた謝罪する。私は「もういいですよ」と言ってコーヒーを差し出し、彼の向かいに座った。
彼は怯えたような目でこちらを見ている。また気絶するかと思ったが、今回は踏みとどまっているようだ。
「あ、あの、博士、この間の、あの学生は?」
「ああ、コノハさんですか?彼女は研究補助員なので、ここにいますよ」
すると、トリーニ氏の顔が恐怖に彩られ、それから不可解なことに、何だか恍惚とした表情になった。目つきがちょっとおかしい。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい、平気です。そうですか、いまここに、いるんですね」
「多分、あっちの図書室で調べものをしてるでしょう」
あるいは、あの異世界の遊園地で遊んでいるか。
「はは、そうですか」
そう言って彼は図書室の方を見た。そして、小さく何かを呟いた。
「ああ、恐ろしい」と言ったような気がしたが、気のせいかも。
「それで、どうしましたか?」
依頼人の態度がとても気になりながら、私は尋ねた。
「・・・・・やはり、気になりまして」
「気になる?コノハさんが?」
「いっ、いいえ、とんでもない!」彼はビクッと震えて否定した。
「あ、もしかして、モササウルスの件ですか?」
トリーニ氏は頷いた。驚いた。あの件はまだ終わっていなかったのか。
「確か、あなたが調査している海域に出没したという話でしたね、仕事に支障があるということですか?」
「はい、あんなものがいる場所で調査なんて、怖くて」
「はあ、まあほんとにそんなのがいたら、そうでしょうね」
そういえば、彼が目撃したモササウルスとやらのサイズを聞いていなかった。
「ちなみに、そのモササウルス、大きさはどれくらいだったんですか?」
モササウルスは大型の種でも10メートルそこそこのはず。もしいたとしたら、ちょうど大きなワニくらいの大きさに見えるだろう。
「ざっと、200メートルくらいです」
「は?」
私はきっと目を白黒させていた。
「とてつもなく巨大なモササウルスが、海中から私を見ていたのです。あんなのがいる海に出ることはできません」
「はあ」
私はこれで完全に確信した。館長が言っていたとおりだ。この人は正気を失っている。200メートルのモササウルスなんて、いるわけない。
これはだめだ、お引き取り願おう。私はそう思ったのだが、一つの可能性が浮かんだ。そういえば、先の事変で最後に襲ってきたマンディブラスの全長は200メートルを超えていた。可能性は極めて低いが、もし怪物の生き残りがいて、それが成長していたとしたら・・・・・。
それに、マンディブラスの頭部は巨大な爬虫類のようだったという。この人物はそれを見て、巨大なモササウルスだと思った?
私はこの一年近くの調査で、この島に怪物の痕跡が見られないことを確かめている。だが、こうしてこんな話が来るということは・・・・・。
「あなたのお話は正直信じがたいです。それがモササウルスでないことは確実でしょう。でも、先の事変のことを考えると・・・・」
私は頭を抱えた。このままこの人の話を追いかけるべきか?どうする?
その時、カフェのドアが開いた。
「おお〜い、街に行くけど何か要るものは・・・・」
コノハ助教が立っていた。
「・・・ないか」と言って、彼女は動きを止めた。びっくりしたようにこっちを見ている。彼女もトリーニ氏が来訪するとは思っていなかったようだ。
カフェの入口に立つコノハ助教と、トリーニ氏の視線が交錯した。
「・・・・・お、おお・・・・・」
私の前で、依頼人がぶるぶる震えていた。彼女を凝視している。その顔は恐怖に彩られていた。だが、それだけではなかった。さっき私にちらっと見せたように、何か恍惚とした色がある。しかもそれはさっきよりずっとはっきりしていた。そして彼はガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。その場から退避しようとするかのように後ずさる。
「・・・・・お、恐ろしい・・・・」
今度ははっきり聞こえた。これにはさすがに私もむっとした。
「うちの研究補助員に失礼なことを言わないでください」
私も思わず立ち上がって、かなりきつめに言う。生来こんなことを言うのは嫌いなのだが、今回は抵抗なく言葉が出た。
戸口にいるコノハ助教に彼の言葉が聞こえてないといいんだが。
でも、だめだ。コノハ助教の聴力なら絶対聞こえてる。
私はコノハ助教を見た。彼女は静かにこちらを見ていた。でも、その瞳が危険な色を湛えている。外出するから青紫のカラコンをしているはずだが、今の私には赤い瞳が怪しく光っているように見えた。
そういえば、私は彼女に、この依頼人が人間以外の者を見つける才を持っている可能性を告げていた。自分の正体が人間にばれることを彼女は何としても避けたいはずだ。もしかしたら彼女は秘密を知った者を消そうとするかも。
「コノハ助教、よせ」
私は鋭い声で彼女に告げる。
彼女がそんなことをするわけない。でも彼女は人間ではないのだ。人間である私とは全く違う考えをするかも。
彼女はゆっくりと、こちらに歩いてきた。私は戦々恐々としてその姿を見る。
彼女の口元が不気味に歪んだ。まずい。
だが、
「あらら、私のどこがそんなに怖いんですか?」
意外にもコノハ助教はにっこり微笑んでいた。
「先生、また私の悪口を言ってたんじゃないでしょうね」
彼女は朗らかに言う。その声で、暗かったカフェがぱあっと明るくなったような気がした。
「トリーニさん、でしたね。先生が失礼しました。この先生はちょっとアレなので、会話した人が不安になるんです。きっと先生のせいでここにあるもの全てが気持ち悪く見えたんでしょう、よくあることなんですよ、ははは」
そういうコノハ助教を見て、依頼人は、「あ、ああ」と言い、目が醒めたような顔になった。
「は、すみません、ちょっと変なことを言ってしまって、私の方もあのモササウルスを見てからちょっと精神が不安定になっていて、大変失礼しました」
「ご無理をなさらないでくださいね」
コノハ助教は微笑んだ。私はそれを見て、街で言い寄ってきた映画スタッフをあしらっていたときの彼女を思い出した。
「じゃあ先生、街で買い出しをしてきます、トリーニさん、ごきげんよう」
そして彼女は軽やかに身を翻し、カフェを出て行った。
まるで春の風が吹き抜けていったみたいだった。私も依頼人もしばし黙って立ち尽くしていた。やがて、トリーニ氏が気まずそうに口をモゴモゴと動かした。
「わ、私はこれで、失礼します」
彼はたどたどしく言葉を綴る。
「ち、調査を引き受けてもらえますか?」
私は暫く思案していたが、さっきの懸念があるので、頷いた。というか、頷くしかなかった。この島での私の本来の仕事は怪物調査なのだ。その可能性がある事案を放っておくことはできなかった。
私の承諾を確認すると、トリーニ氏は感謝の言葉を述べた。
「・・・・それで、あの」
だが、依頼人はまだ何か言いたいようだ。
「調査の時に、さっきの方も参加されますか?」
「はあ、彼女は技術補佐員なので、手伝ってもらうことになるでしょうね」
「そ、そうですか」
どうしたのだろう?彼はさっきのコノハ助教の対応で目が醒めたようになっていたのに。それでも尚、彼女のことが怖いのだろうか?
「彼女がいると迷惑ですか?」
「い、いえ、そういうわけでは・・・・・。ではどうか、よろしくお願いします」
彼は何度も礼を言いながら雨傘を差し、降りしきる雨の中を去っていった。
私はその後ろ姿を見送る。彼とコノハ助教は相性が悪そうだけど仕方ない。
それにしても、さっきの彼女の私への言い草は、ちょっと酷いんじゃないだろうか。
「なんだあいつ、嫌な感じだったな」
街から戻って私の研究室に入ってくるなり、コノハ助教が吐き捨てるように言った。
「君と私が何だっていうんだ、死ねばいいのに」
彼女はご立腹である。
「まあまあ」
私も思うところがあったが、彼女が彼に引導を渡さなかっただけで良しとすることにした。
彼女は部屋に置いてあるコーヒーメーカーで自分用のコーヒーを煎れる。私は彼女に椅子を勧めながら言った。
「さっきは焦ったよ、君があの人物を抹殺するんじゃないかと思った」
「バカなことを言うな。君は私のことを一体何だと思っているんだ?」
「いやその、君は自分の秘密がバレるのは嫌だろう?」
「そりゃそうさ、でもだからって人間を殺しまくってどうする?賢いやり方はさっきみたいに誤魔化すことさ。人間の記憶や思考なんて状況次第でコロコロ変わるんだ。私も勉強したんだぞ、人間を最も上手く操る方法は、洗脳だ」
何だか物騒なことを言い始めた。そしてけっこうタチが悪い。
「怖いこと言うな。じゃあなにか?ぼくが君のことをバラそうとしたら洗脳するのか?」
「まさか、でも、ふふん、それも面白そうだな」
コノハ助教は白い指で唇をなぞりながら妖艶に笑った。
「ぼくは君如きに洗脳はされないよ」
私は強がりを言いながらも、たぶんコロッとやられてしまうのではないかと思った。そもそも人外である彼女とこうして世間話をしている時点で、私の脳は既におかしくなっているのかもしれない。
ひとしきり街の様子などを話した後で、コノハ助教が言う。
「じゃあ、調査をするんだな」
「ああ、『200メートルの怪物』という点で、ほっとくわけにはいかないな」
「君も大変だねえ」
「君はどうする?協力してくれるのか?」
「可能性は低いが、もし本物の怪物なら君の身が危険になる、手伝うよ」
「ちょっと待て。そりゃ嬉しいが、何度も言ってるように、君の本来の仕事はアーベル君の友人を護ることだろう?ぼくは対象外だ」
「まだそんなこと言ってるのか、口止めされてるので詳しくは言わないが、君があの世界から彼女らを無事に帰したときの創造主氏の喜びようは相当なもんだったよ、それに」
コノハ助教はコーヒーカップを持った手を私に向けた。
「そんなことをしてる君は、立派に創造主氏の友人を護っている。だとしたらやってることは私と同じだ。ならば、君と私は同僚と言えるのではないかね。なら、私が君に協力するのは当然だ。仲間なんだからさ」
自分の人生では完全に無縁のものと思っていた「仲間」なんて言葉を、まさか人外の存在から言われるとは思っていなかった。少年漫画なんかで持て囃されるその言葉は今でも大の苦手だ。だから私は渋い顔をしたのだろう。
「おおっと、君は『仲間』という言葉が嫌いらしい。まあ私も好きじゃないがね、何だか身勝手で陰険な同調圧力みたいなものを感じる。じゃあこう言い換えよう、君と私は同類だよ。それならいいだろう?」
人外の甲殻少女と同類か、まあそれもいい。というか、
「それがいいな」
私は頷いてコーヒーを飲んだ。
「ところで、そのモササウルスとやらがいるのは、どこなんだい?」
コノハ助教が尋ねた。
「島の末端だよ、尻尾をくるっと丸めたみたいな岬があるだろう、その内側だそうだ」
私はさっきトリーニ氏から聞いた場所を伝えた。
そこはノーチラス島の中でも最も街から遠く、そして最も調査が進んでいない場所だ。
「どうやって行くんだ、そこまで」
「トリーニ氏の調査隊は船を使ったらしい」
「航空機は使えないのか?」
「回転翼機で行ったとしても、降りる場所がない。陸地は密林に覆われている」
「面倒な場所だな」
「だから調査が進んでいないのさ」
「で、その依頼人がいる調査隊は、今もそこにいるのか?」
「いいや、こっちに引き上げてる。次の調査は来週だそうだ」
「その調査に、君が同行するということかな」
「そうだよ」
「ふうん、で、どうやって調べるんだ?君自身が海に潜るのか?」
「いいや、ヒューベル博士に無人探査機を借りようと思ってる。ぼくでも操作できる簡単なやつを」
「なるほどね」
そして、コノハ助教は腕を組んで、思案するような顔をした。
「ということは、その場所には今誰もいない・・・・」
私はこの半年あまりの付き合いで、彼女の考えていることが何となくわかるようになっていた。
「おいおい、これから行くなんて言わないよな?」
「いや、行ってみようよ」
やっぱり。
「冗談はよせ、島の辺境だぞ、そんなところに今から・・・・それに今日は雨だぞ」
「もうすぐ止むよ」
そう言われて窓の外を見ると、いつしか雨は小降りになり、雨雲に白い切れ目が見えていた。だが———。
「どうやって?フクラスズメを使うのか?」
コノハ助教は黙って、研究室の壁にあるドアを指さした。
サクラ技官が作ったドアだ。
「まさか・・・・・」
「作ってもらおう、そこに行く通路を、サクラ技官に。ちょっと呼んでくれないか?」
「え、いきなり、そんな」
「早く、もう二時だ。冬の日は早いぞ。ほら、モササウルスが出没する場所とやらをちょっと見るだけだからさ」
「あ、ああ」
コノハ助教はせっかちだ。前もこんな感じであの地底世界に行ったことがあった。
でもまあ、あの冒険は楽しかった。
そんな事を思ってコノハ助教を見ると、彼女は目で頷く。好奇心を湛えた赤い瞳の煌めきには勝てなかった。私はため息をついて、机を立って部屋の入口に行き、ドアを開けて廊下に顔を出した。
「サクラ技官、いるならちょっと来てくれ」
そう言って耳をそばだてる。沈黙。だがやがて、階段をギシッ、ギシッと上がってくる足音が聞こえた。
まるで何かの怪談みたいだ。あれは「猿の手」だったか。
やがて、階段から何かが姿を見せた。
私は息を呑む。
最初はわけがわからなかった。しばらくして、怪物だ、と思った。
タキシード姿の体が背後にぐるっと反り返り、まるで雑技団のように丸まって、両足首が頭の横に来ている。そして少女の頭は真下を向いていた。その口が大きく開き、そこからイカの触手のようなものがウネウネと下に出ていた。その触手で体を支え、階段を上ってくる。
丸めた体の手首足首の所からも触手が出て、クモの巣みたいになって体を包んでいる。ちょうどスイカが網に入っているような感じだ。
編み篭に入った少女から下向きに触手が出た怪物、まるでアンモナイトを下向きにしたみたいな、あるいはウエルズの「宇宙戦争」に出てくるタコ型火星人をデフォルメしたような、異様なものが階段を上がってきた。
丸まった胴体の上にトランクが載せてある。
「さ、サクラ、技官」私は戦慄していた。
下を向いた小さな顔がこちらを見上げるように動いた。
「な、なんでそんな、格好を」
するとその異様な物体は階段を上がったところでこちらを向くと、胴体を包む触手を全て引っ込めた。手足をすっと伸ばしざまに鞄を上に蹴り上げ、口の触手で体を弾ませると宙返りして床に降り立つ。そして落ちてきた鞄を受け止めた。
黒いスーツを纏った少女がそこにいた。
目深に被った山高帽の奥でターコイズブルーの瞳がぼうっと光っている。
そういえば、ターコイズすなわちトルコ石は、「神が宿る石」と言われている。
暗がりに立つ彼女は、先ほどの姿の余韻のせいで、まるで異形の神みたいだった。
「な、何故?普通に上がってきたらいいのに」
彼女は答えず無言のまま歩いてきて、私の脇を通って部屋に入った。
そして、くるっとこっちに向き直る。
何だか、ひとつひとつの動きが無機的で、人間味が全くない。
私はしばし唖然としていたが、気を取り直して尋ねた。
「さ、サクラ技官、すまないが、島の端まで行きたいんだが」
私は机から島の地図を取り出し、目的地を指さした。
「ここなんだけど?」
すると少女は無言で手にしていた鞄を前に出し、宝箱みたいにカパッと開いた。するとカチャカチャと音を立てて、まるで立体絵本みたいに、そこに木の家が組み上がった。鞄のサイズよりも明らかに大きい。まるで手品だ。それは前に上に浮かんでいた家と瓜二つだった。大きくて青い外灯もついている。
鞄の中から魔法みたいに現れた家に私は驚愕した。彼女はそれを私の目の高さくらいになるように差し出す。
よく見ると、その家は極めて精巧な立体細工だった。鞄の中では複雑に折りたたまれているが、開くと何十箇所もの蝶番が連動して、立体的な家になるのだ。
なんて精巧な技術だろう。まさに芸術品だった。
でも、おかしいな
以前の、姿が見えなかった頃の精霊さんだったら、手近の壁にささっとドアを作ってくれていたのだ。
でも今日の彼女はドアを作ろうとしない。
どうしたのだろう、機嫌でも悪いのだろうか?
私はコノハ助教を見た。彼女は「よくわからない」といった感じで肩をすくめる。
私の目の前にミニチュアの家があった。
改めてじっくり見る。とても精巧にできていた。これが鞄の中で折りたたまれていたとは驚きだ。二階の窓から内部が見えるが、家具もきちんと存在している。煙突もついてるから、一階には暖炉があるのだろうか?玄関のドアを開けたら見えるかも。
ん?
その時、何かが頭をよぎった。
ドアを開けたら———。
ドア
私はその家を再び凝視する。
一階に、大きめの玄関扉がある。
扉だ、ドアがある。
私が精霊さんの能力を利用して他の場所に行くには「ドア」が必要だ。私の脳がまだ未知の権能に慣れていないので、ドアという概念が必要なのだ。だから今までは何処かにドアを作ってもらっていた。でも、それが作れる場所には制約がある。何もない場所には作れない。
だが、ここにはミニチュアとはいえドアがある。つまり、サクラ技官がいる場所には常にこのドアがあることになる。
「もしかして、サクラ技官、このドア、使えるのか?」
私の言葉に応えるように、サクラ技官が袖口から触手を伸ばして、シナプスボタンみたいな先端を使ってミニチュアのドアに触れた。すると、玄関の扉がぎいっと左右に開いた。
暖炉やソファがある整えられた内装が一瞬見え、そしてそれがいびつに歪んで、私の前に緑の森が現れた。その向こうに青い海が見える。
今、見えているのは、もしかして?
私はミニチュアのドア越しに、その景色を凝視した。海や陸地の感じから、どうやらそこが島の端にある岬の辺りだと気づく。
私が指定した場所だ。
私は理解した。サクラ技官が作ったこの家は、私をどんな時でも目的の場所に送るための仕掛けなのだ。例え砂漠の真ん中だろうと海の上だろうと、傍にサクラ技官がいさえすれば、私はこのドアを使ってどこにでも行ける。
でもこのドア、当然だがミニチュアの家なのでとても小さい。ここをくぐることはできるのだろうか?
でもサクラ技官が作ったものだ。何か都合がいい仕掛けがあるかもしれない。
「コノハ助教、このドアから行けるかもしれない」
「ええっ、まさか、冗談だろ」
コノハ助教はびっくりしていた。
「小さすぎる、それに、玩具の家だぞ」
「いや、向こうの景色が見えるんだ。ちょっと行ってみるよ」
「ま、待て、怪しすぎる、危険じゃないか?」
「大丈夫だと思う」
「だめだ、やめろ」
「ここに行こうと言ったのは君だろう?」
「なら、私が先に行く」
コノハ助教が焦ったように駆け寄ってきた。
「君が先に行く理由はないだろう、ぼくが安全を確認するから、もし大丈夫だったら後から来て——」
私がそのドアに手を伸ばすと同時に、コノハ助教が突っ込んできた。
「やめろ、行くな!」彼女はらしくもない悲痛な声で叫び、そして、
「また、私を!」
彼女は私を思いきり突き飛ばした。
「ひとりにするな!」
彼女は力の加減を間違えたのだろう。私の体は弾丸のように吹っ飛んだ。ドアとは別の方向へ。だが、サクラ技官が神速で瞬間移動して、私の正面に来る。まるで野球のボールがグラブにバシッと捕捉されるように、私は全開のドアに突っ込んだ。
するっ、と何か変な感触がした。まるで透明なクラゲに突入したような、異様な感触だった。
次の瞬間、緑の森が見えた。見えたが、私の体はさっきコノハ助教に突き飛ばされた勢いのまま吹っ飛んでいる。
宙を舞う間に、視界にちらっと青い海が見え、そして私は地面に激突してゴロゴロと転がった。
「ぐええ」
意識が遠のく。これまでか、と思った。私はせめて死ぬときくらいは笑っていたいと思い、口元を歪めて笑いの形を作った。
私の周囲は深い青色だった。
体が揺れている。
船に乗ってるんだ、と気づいた。
それは小型の調査船で、甲板では何人かの乗組員が作業をしている。
その中に一人、じっと海を覗き込んでいる者がいた。
痩せた背中を丸めて、海を凝視している。
「お、恐ろしい・・・・」その乗組員が呟いた。
それは、あの依頼人だった。
私は彼のもとに歩いて行き、
「何がそんなに怖いのですか?」と尋ねた。
「ああ、海に・・・・」
彼は何かに取り憑かれたように震えている。
「この、下に・・・・」
彼が船の下をすっと指さした。
「何もいませんよ」
私は彼の横から海を覗き込んだ。
そして、息を呑む。
私の眼下、この小さな船の真下に、何かがあった。
ユラユラ揺れる波の奧底に、何か巨大なものがあった。波の揺らめきのせいでよく見えないが、ふたつある。それはまるで、上顎と下顎のように見えた。
まるで水中深くに二つの山が屹立しているみたいだ。
「モササウルスがいる」依頼人が呟いた。
いや、あれは、モササウルスなんかじゃない。もっと、ずっと———。
私は戦慄していた。足がガクガクと震えている、
あれは、人が触れてはいけないものだ。見ることさえも赦されないものだ。
あれは、例えるなら、そう。
綿津見の神だ。
私の国の古い神話に出てくる、水底に棲む海神。
「恐ろしい」
その乗組員がまたその言葉を口にした。
「———い」
遠くで誰かの声が聞こえる。
「———おい、しっかりしろ」
心配そうな声。私に語りかけている。
「大丈夫か?」
コノハ助教の声だ。彼女は不安げに、
「おい、おい、君」
私の頬をぺしぺしと叩き、困惑しきった声で呟く。
「何で笑ってるんだこいつ?意味がわからない・・・・」
彼女らしからぬ動揺した声だった。
「その笑いは一体何なんだ?」
またぺちぺちと私の頬を叩きながら、彼女は絶望的な声で、
「とうとう頭がイカれてしまったのか」と呻いた。
「・・・・とうとう壊れてしまったか・・・・前からかなりおかしかったけど」
失礼極まりない嘆きを聞いているうちに、徐々に意識がはっきりしてきた。
「うう」
呻きながら目を開く。コノハ助教が上から覗き込んでいた。
彼女の背後に木々の梢が見える。私は森の中の地面に寝転がっているようだ。ゆっくり起き上がろうとして、途中で止めた。まだ頭がクラクラする。
「おい、大丈夫か?私のことがわかるか?」
彼女の赤い瞳が真上にあった。
「こ、ここは・・・・」
私は寝転がったまま、周囲を見た。
そこは森の中だった。木々の間から海が見える。
あのドアの先に見えた場所だ。
やはり、サクラ技官はこのためにあの家を作ったのだ。
「大丈夫か!だから言わんこっちゃない」
彼女は声を荒げた。だが、私をこんな目に遭わせたのはどう考えても彼女である。
「いや、ぼくがこうなったのは君が・・・・・」
「いい加減にしろよ、また私の前からいなくなるつもりか!」
コノハ助教はお怒りであった。私の言うことなど無視して喚いている。
すると、すうっと空間が陽炎のように揺れて、そこにサクラ技官が現れた。
そしておもむろに鞄を背後に回し、それに巻き付くように体を仰け反らせる。鞄の後ろで自分の足首と両手を触手で繋いで丸くなった。ちょうど鞄と彼女の体で+の字みたいになる。そして彼女は手足の裾からたくさんの触手を出して体と鞄の周囲を網のように覆った。
サクラ技官はまるで冬用チェーンを巻いたタイヤみたいになって、そのままコロコロと転がっていく。
私達の前を無言で横切っていった。
それを見て、コノハ助教は言葉を止めた。気持ちを落ち着けるように周囲を見る。
「・・・・・まあ、今回は大事に至らなくてよかったが」
いや、けっこうな大事だぞ、これ。そして、君が何もしなかったらこんな状態にはなっていない。
私はそう言おうとしたが、また怒られたら嫌なので黙っておいた。