『埴谷雄高問題』
『埴谷雄高問題』
㈠
俺は、芥川に傾倒していた時に、文体のフォームを見失いかけ、その時に、埴谷雄高に救ってもらった経緯がある。なので、埴谷雄高を批判することはできない。現在でも、執筆の支えになっているからである。しかし、批評ならできる。
㈡
俺は以前に、まとまった埴谷雄高論を書いている。そこで、埴谷雄高の難しさについて書いた。様々に述べているが、結句、埴谷雄高は難しいのだ。難解なのである、そこが、批評するには面白いとも言えるのだが、これが、埴谷雄高問題である。
㈢
読み手が読解の際に、物凄く頭を使わなければならない、これは一つの問題である。しかし、分かりにくいところが、研究の興味を創発させるのである。俺は埴谷雄高を気に入っている。しかし、埴谷雄高問題、と言われれば、それは、読むことの難しさにあるだろう。