プロローグ
♢西暦:二千三三年――……。
平脈と、清閑と、静まり返る静寂に、時の音ばかりが、トントン拍子に刻まれ続けていた。
カチカチカチカチカチ――――……。
三月二七日――(日)……。
カチカチカチカチカチ――……。
ガタンッ――――――――!!
――驚いた。
とっ、次に目が覚めたのは、眠りに就いてから約四時間半が経過した午前四時二八分――――ちょうど、レム睡眠に落ちて、しばらくしたときの事だった。
玉響の安寧を翻す瞬火が、線香のチラつきに弾けるたまえども、しかし、静寂の中に、いっそう、目立ってやたらと大きく反響したがる物音が、甲斐かわ、はて。
浅野彩愛は、ガッ、と瞼をカッ開いて飛び起きた。
――ビックリした。
その後も、しばらくの間は、ッドグンッドグンッドグンッ――と、高鳴る鼓動と、呼吸の音さえも、憚られる程に、異様だった静けさだけが、浅野彩愛を置行堀にした。
空気中の物質が、原子核の周りを踊るや回る電子のように、彩愛を囲ってクルリクルリ、クルクルと周りを踊りて通り過ぎる度、度、嘲笑ってやホホ笑んだ。
茫洋とした、酷く洒落た現実に、視界をフラフラと抱えたまま、彩愛は茫然自失と微睡んでいた。驚うた突拍子か、瞳孔はハッキリ開きっぱなしで、あらずや眼振のいまま体を凍てつかせている。
お腹の上に乱雑に、申し訳程度にかかっていたタオルケットの裾を抱いて、一寸の間も、浅野彩愛はこだえていた。
一滴の滴る汗が、辷る、うるしく、頬を伝って渡った。
途切れ途切れに紡がれる、繽紛な呼吸。が、その身の驚愕と、恐怖戦慄の示しを、囃し立てていても、さも、居るようだった。
一回の搏動も、強く打ち拉がれるって、ば、細くしがない血管が酷く、凝縮し、忽ちほほえんだ。
血液循環が良くなったのか、はさて。粟立った腕をみて、さっきまで肌寒かったらしいその体は、次第に、しとどに熱を帯び始め、やがて発汗と、汗が途端に溢れ出た。
口元を歪ませ、眉を寄せ。
ギュウゥゥゥウッッ、と強く押さえつけた胸は、まだ、速かった。
――ドクンッ――――。
何事か、。!?
ふっと、隣を見ると、壁の彼方へ、彩愛にソッポ向いて、スヤスヤ寝息を立てながら、心地良さ気に夢へと堕ちる父が居た。
ひとり、夜の暗い暗い森に取り残されたような、酷い凝縮に包まれた。途端に、彩愛は驚く程に背筋を引いた。
彩愛は、下瞼の縁に、しとどに涙を溜め、強く瞼を下ろすと、涙は瞼を貫通しては、食み出て頬を伝った。
父の背中に強く抱き付きたい一心で、花車な腕をソロリソロリ、と辷り込ますようにして回し、父の大きな広背筋に、幼き顔を押し付けた。鼻先が潰れ、父の背中に涙と鼻水が付着する。そのうち、濡れていった。
ホロホロ、と零れおとる静かな涙は淫らに、して、然らば、まだ未熟である、小さな小さな浅野彩愛という少女の微睡を表すのには十分過ぎていた。
再び心臓が、さんざめいた。
断続的な息が、絶え間なく続き、多段に呼吸が冷めていった。
父の大きな背中に抱き付こうものなら、無防備になった自分の背中が、やけに頼りなく感じた。妙に隙間風が容喙し、チラチラと薄い上皮を摩る。
枝の様だった。
深爪の、細い指先が、サァーーーッ、と何かに、窪んだ背筋を沿って擦られた気がした。
驚いて、思わず背筋を反り、何事かと瞼を開けたがった、が、彩愛はまたグッ、と堪えて押し殺した。瞼を食み出て、目尻から滲む零れ落ちた涙は、ベッドシーツに滴った途端に、ジワリジワリと半径数ミリ以内に沈み込んだ。
数ミリでも、瞼の隙間から外界の様子を覗き見ようものなら、容赦なくして。
ティースプーンで眼球を抉られた眼孔だけのナニカが、宛ら目と鼻の先、至近距離に居て、一寸の先は正しく闇だった。眉の出た黒髪の、腰にまで至るロングヘア。髪質は酷く終わっていて、蝋の如く溶けて爛れた下瞼に、石蝋のように辷る平坦で滑らかな肌。低く、ツンッ、と先の尖った鼻。顎が外れた様子で、こちらを妖艶に微睡みかけている。
そんな気がした。
それは恐らく、昨夜に父に見させられたテレビ番組の所為だろう。彩愛には酷いトラウマを植え付けられたテレビを前に、母の胸に縋って、いたって、泣きじゃくっていた。
腐敗の始まった表皮。濁った黄色のワンピースを着たナニカは、皺くちゃの骨の浮かぶ手をのばし、彩愛の背に、差し迫っていた。
鼻がひん曲がる程に、鼻腔の奥にツンッ、と突き刺さる、後味の悪い、濃い芳しい香水が、卒爾に漂った気がした。
ベッドシーツに沈み込んだ、生汗がビッショリと。
そのうち寝室は、再び静まり返った。
頭からつま先までタオルケットを被せて、父の背中に抱き着いたまま、懼れを凌いでいた彩愛は、強直したまま、息の根を立ち押さえ、プルプルと震えていた。
しかし、いつしか気が付いた頃には、彩愛も疲れ切った様子で、力みなく極々自然に瞼を下ろしていた。
エアコンの温度設定は二六度。けれども、室内温度は、二八度を容易に上回っていた。
恐怖から、身を守る為だとは言え、頭からつま先まで被っていたタオルケットの中で、彩愛は表情を歪ませ、汗をビッショリかいたまま、しばらくは悶えていた。
汗が背筋を、蛞蝓になって瞬間的に辷り落ちたのとほぼ同時だった。
ガタンッガタンッ――――とっ、二連続で物音が届き、一時の安寧をも翻し、耳を立てた彩愛は咄嗟になって焦り、突拍子――――――――――父の背中に凄まじい力で縋った。
「パパ! パパ、パパ、パパ、ぱぱっ!!」
「ンー……………………」
返事というより、長年に亘って体に染みついた反射的な応答もどきだった。
反応こそしているものの、実際には如実に――――――父の耳に、娘の声など届いてはいなかった。
彩愛の息を殺した声では、覚束ない様子で、呼吸さえも憚られる程に、彩愛の体内気圧は外気圧に押し潰されそうだった。体内の臓器を握り、痛みからの解放か、腰をうねらせる。
彩愛の周りを取り囲うようにして漂う低気圧が、呼吸困難へと導き。酸素欠乏症のようだった。
上手く呼吸ができていない所為であり、体には酸素が足り渡らず、脳が真面に機能していなかった。呂律は絡まり、不規則な呼吸で喘ぎたくなるのも、さも当然のことだった。
「し、下かkら…………も、ののの音がする、の…………」
「………………」
上手に伝えられない隔靴掻痒の思いに、彩愛はまた、度々泣き出しそうになる。
「ぱ、ぱぱ……」
「………………」
何度揺さぶっても起きてくれる気配はなかった。
彩愛も諦めて、渋々タオルケットを手に、一度は寝転がってみたが、やっぱりどこか腑に落ちない…………気が気でなかった。
屈託を持ち続けて、脳内で、余計な怖い妄想をしてしまう。
さっきの人だ。
少しでも、瞼の隙間から外界の様子を覗き見ようとしたら、容赦なくして。
ティースプーンで眼球を抉られた、眼孔のみが残るナニカが、宛ら目と鼻の先、至近距離に居て、一寸の先は正しく闇だった。眉の出た黒髪の、腰にまで至るロングヘア。髪質は酷く終わっていて、蝋の如く溶けて爛れた下瞼に、石蝋のように辷る平坦で滑らかな肌。低く、ツンッ、と先の尖った鼻。顎が外れた様子で、こちらを妖艶に微睡みかけている。
皺くちゃな手を、骨が浮かんだ手を、彩愛に語りかけるようにのばして差し迫る。
顰蹙に度重なり、螺旋のように行き重なった幾つもの腕が、天井から伸びて、彩愛の手首を足首を首を腕を太腿を、ガッチリ跡が残る程強く握るように掴み、天井の方へと引き込むや否、どこぞへと引きずり連れ込んで行ってしまう。
また、変な想像をしてしまった。
邪念を払い除けるように、目を力いっぱい瞑って、恐る恐る外界の様子を窺ってみると、雲散霧消して、何もかもがなかったかように、再び酷く洒落た現実が始ってしまっていた。
木造の柱の木目がやたらと怖かった。
「ぱぱ!!ぱぱッ!!起きて、起きて!!!」
また再び、一笑。
涙が込み上げ、押し殺した声にも、やや〝脅え〟が窺えるようになった。うまく回らない呂律で、全方位を包囲する彩愛の空想生物が、どんどんどんどん、どんどんどんどん、彩愛に差し迫る。
されど――――いいや、しかし、助けを乞う父は然程見向きもしない様子でいた。
「ぱぱ!!ぱぱッ!!ぱぱッッ!!起きて、おきてってば!!」
覚束ない様子で、寝言を述べるように、父は応じた。
「母さんが夜泣と戦っているだけだろ。さっさと寝なさい」
――と、さして相手にもしてくれなかった。
彩愛はまた、納得いかない様子で、涙ながらにいじけた。
再び、やたらとうるさい時計の秒針が、時の音を刻むバカリで、場を制し始めた。
虚ろな瞳を漂わせ、ガクガクブルブルと震える体を、彩愛は強く抱きしめた。
寒さの所為もあったのだろうか。はさて。胸を抱き、足を抱えて、粟立つ肌を微かに撫でて、表皮を摩った。
驚くほど、冷たくなっていた手が、体に触れる度、たちまち粟立ちけれども。蕾の如き隆起は然うも膝を触れ、一瞬の間に、喉の奥に指を突っ込まれたように、思わずえずいてビクついた。
早まる心拍数の内に、浅野彩愛は少し考えた。
果たして――――若しくは、本当に母が赤ちゃんの夜泣と戦っているだけだろうか、と。それにしては、赤ちゃんの鳴声はおろか、泣き止ますだけでそれほど暴れるだろうか、と。
母が寝ているのは一階の客間のような部屋だった。
わけあって、父と娘とは別室で、母と二人、赤ちゃんは寝ているのだった。けれど、彩愛の胸元を、ムヤムヤとさせる不快な思いは、妙な居心地に辛抱せずに、いやぁな感じがそろそろ纏わり。全方位から窈窕に刺激するのだった。
事実に従っても然も、もし仮にも夜泣と戦っているのだとしたら、もっと赤ちゃんの鳴声が聞こえる筈だし、もっとうるさい筈だった。
それとも、母がただただ喉が渇き、水を飲みに行っただけだろうか。
千変万化するのは、彩愛の思いばかりで、ものの実際に何が起きているのかやっぱりわからなかった。
水を飲みに行っただけにしろ、東奔西走しているわけでもないし、行住坐臥にしてもそこまでの程だろうか、と彩愛はさっぱりわからなかった。
じゃあやっぱり夜泣との悪戦苦闘の末だろうか。
いくら、寝室から客間までの距離が一階二階の差だとは言っても、彩愛には納得できなかった。特別距離があるわけでもない。階段を下りればすぐ近くに部屋が隣接する構造だった。
でもやっぱり彩愛にはわからなかった。
――じゃあ、一体、音の正体はなに?
再び瞼が重くなってきた頃合。を見計らったように不自然だった。
睡魔が襲い、瞼を下ろしてから約約〇・二五秒の事。また、物音が、一階の方から、彩愛の鼓膜を刺激した。ビクッ、とっ瞬間的に体が物音に連ねて反応し、脳がほぼ完全に覚醒した。
二度の物音で、通常よりも敏感になっていた彩愛の鼓膜は些かな音でさえも逃さず、いま、や斯うして――――瞼を、ガッと開いて飛び起きた。
彩愛としても、これ以上の針の筵は嫌だった。須くして、浅野彩愛は、独立独歩の第一歩から薄志弱行に光の鉄槌を。
ベッドからおもむろに起き上がると、レースの付いた長そで前開きのパジャマを体に通した。
窈窕淑女に、つき、面制圧に図りたがった彩愛は、ガラガラと音を立てやがる寝室の戸を開け、静かに廊下に出た。
足音を忍ばせ、息を殺し、向かいの吹き抜けから頭をちょこん、とだけだして、一階の様子を窺った。
吹き抜けのすぐしたはリビングに直結していた。
日当たりの良い所為なのか、白昼は明るく穏やかな雰囲気に包まれている一階も、夜になれば星一つ、奇妙は月明りに、ローテーブルが照らされ燦然していた。
晦冥によるものか、定か――――――深縹に染まった暗然な一帯。
数分待機し、一階のリビングを凝視してみたはいいものの、これ以上得られそうなものはなかった為、彩愛は、今度は一階へ下る階段の方へと移った。
彩愛は表情を濁らせた。あまり階段を下りて、一階の様子を窺うのは乗り気ではなかった。その一歩を躊躇い、逡巡している間にも、音は、ガサガサと聞こえていた。
腑に落ちない気持ちを他所へ、屈託を持ち続けていたことは確かだった。
斥候の至上命題をこととして、不撓不屈に意を決し、階段の一段目に、足を下ろした。
一段、また一段と下る度、犇めく床に、彩愛には地獄の針山を歩いているように感じられた。
その都度足を竦ませ、苦虫を噛み潰したように、顰蹙し、力んだ。
足音を殺し、一段一段慎重に、平身低頭の如く、小さな体を屈め乍らユックリ下る、永遠に近い階段。
例に倣って隔靴掻痒だなぁと感じ、嫌気が注していた。
大人からしてみれば高が階段も、彩愛の矮躯では、視界情報の迫力の差に相違があった。
まず階段の一段一段が妙に高く感じて、一段降りるのにも一苦労だった。おまけに、些細な電気がついているワケでもなかった為に、こそ、晦冥をさまよい、一階までの道のりがやけに急斜面で、高所恐怖症につづいて喘いでいた。
少しするとようやく、右折ラインにまで届き、そこから顔だけを覗かせて、薄暗い廊下の方を窺った。
一階の廊下に広がっていたのは、光が射し込まない地下空間のような、鬱蒼とした空気に、卒爾な輪郭。剥きだしになった柱の木目に浮かぶ、ムンクの「叫び」のような――――眼球を刳り抜かれて、口が縦に伸びて歪んだ顔――――それが、彩愛の虚ろな瞳を、ものすごく静かな眼で、ただただすごく凝視している。たまらず悲鳴をあげそうになった。だけども、堪えて、口元を手で覆うと共に、後ろに一歩、後退した。
ゆっくりお尻を突き、座り込んだまま、早くも数十秒が経過した。
掣肘を好む蚊が、立ち上がった彩愛を早々に押し倒した。
押し倒したあとも、蚊は遊弋と彩愛の周りをやたら好んで飛び続け、そのうち彩愛に払い退けられ飛び去った。
また、心臓がバクバクと動いていた。
このころにはスッカリ眠気も失せて、無くなっていた。
重い腰をやおら起こして立ち上がり、再び廊下の奥を窺った。
深窈に長ける直線にのびた廊下は、闇を屠らい、卒爾な輪郭さえも、徐々に目が慣れてきていた。
彩愛はそれぞれ、もう一度、リビングの方、母と赤ちゃんが寝ている客間の方、トイレの方、お風呂場の方をゆっくり見渡した。
今の所、ガタンッ、という物音も、聞いていなければ、何も目にもしていなかった。
夜泣も勿論、聞こえてこなかった。
しじまなようだ、空間に。晦冥によるものか、は、一体――――定かでなくとも、音さえもおろかなようだった。
まるで幻影を見ているような、かのような、なんとも不思議な気持ちに陥った。
気持ちがファッファッしていて、どこか落ち着きがない。膠のように、クニャクニャ、フリャフリャしていた。
浅野彩愛という小さな窈糾少女は微かに歪んでいた。
瘴気を帯びたようだった。
リビングの奥にあるシンク――――蛇口からは、ポタポタと水が滴っていた。
――やっぱり気のせいだったのかな。
それとも、母が咽喉が乾いて水を飲みに行っただけだった、とか。考える節々は永久に存在していた。
赤ちゃんの鳴声も、依然として聞こえてこなかった。
何事もなく、所詮ただの物音か、と。単に家が呻いているだけだろうと、さ。
フゥぅウウウ――――――安堵に胸を撫で下ろし、寝室に戻ろうと、踵を返しかけたその時だった。
それらしい物音が、リビングの遠方から聞こえて、たちまち彩愛の鼓膜を小突いた。
コツッ――――。
瞬時に臨戦態勢へと彩愛は切り替え、音の鳴ったリビングの方を、驚いた様子で、目を見張った。
すると、ふとした瞬間に、月灯りに照らされた人影が、ユラユラ、と、まるで蝋燭が風に靡かれ、炎がチラつかせるように、揺らいで壁に映し出されていた。
髪は短いようで、シュッと通った顔の輪郭、背丈は厳密には分からなかった。が、体格からするに、大人のものではなさそうだった。それに、肩幅から女の人のようでもなさそう。
だけども、彩愛には確信があまり持てなかった。
すべてが暫定であり、すべてが暗闇を彷徨う疑わしい虚構の眼。
息を飲んだ。
続いて、彩愛は胸を抱いた。
♢西暦二千三三年――……。
三月二七日――(日)……。
午前五時二十八分――……。
第一の殺人事件が起こった。