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想ひ出のアヂサヰ亭  作者: 七海美桜
三膳目
9/65

華族の薬研家! 牛鍋をご一緒に・中

蕗谷(ふきや)恭介さんのお宅でしょうか?」

 馬車が止まった音がして誰かが降りてくる音がした。足音から、二人いるのだろうか。玄関を開けっぱなしにしていたので、知らない男がひょいと顔を覗かせた。長屋では珍しい――洋服姿だった。

「どなた?」

 そよが怪訝そうな顔で、その男に尋ねた。男はその言葉を聞いて、優雅に礼をした。

「失礼しました。私は、薬研(やげん)家の執事の門田と申します。先日、薬研家の乗る陸軍馬車の護衛の馬が、恭介さんを蹴ったとお聞きしています。その、お詫びに参りました」

「何だい、今更。あの日から何日経ってると思ってるんだい」

 薬研、と聞いてそよは殊更(ことさら)機嫌が悪くなった。まつさんと松吉さんも、あんまりよい顔をしていない。薬研――珍しい名前だが、俺には聞き覚えがあった。俺の時代、有名な製薬会社の一つに『薬研製薬株式会社』があったからだ。まさか、その祖先……なのだろうか?

「当家の主人が、牛鍋でも食べてお詫びをしたいと申しております。お母さまのそよ様と、妹さんのしのさんも、是非ご一緒に」


「牛鍋……」


 教科書で習ったものだ。文明開化を代表とする味。確か、すき焼きの元祖だったはず。それを、まさか食べれるなんて――この時代に来てから牛肉というか肉そのものを食べた事が無く、思わず(よだれ)が出そうになった。


「――分かった、行くよ。あたしは用意をするから、少し待ってくれないかい。二人とも、台所を片付けて出かける用意をしな。まつさん、松吉さん。すまないね」

 そよは不機嫌そうな顔のまま立ち上がり、門田にそう言ってからまつさん夫婦に申し訳なさそうな顔を見せた。

「畏まりました、御準備お待ちします」

「あたしたちの事は気にしなくていいよ――気を付けていきなよ?」

「気を付けてな」

 まつさんも松吉さんも、本当に心配げにそよにそう声をかけた。そよは頷いて、奥の部屋に入って行った。しのは、料理に使ったものを水が入った桶などに入れていた。


「あ! 良かったら、まつさんたちお昼にどうぞ。このコロッケなら、お腹いっぱいになるよ」

 俺はせっかく作ったコロッケが冷たくなって美味しさが半減するのが勿体なく、八個ほど天紙に包んだ。今から昼の用意をするのであれば、遅くなってしまうだろう。

「いいのかい? 珍しいコロッケをこんなにたくさん。うちはありがたいけど」

 そう言いながらも、まつさんは素直に受け取ってくれた。受け取ってくれた事であれはお世辞じゃなかったと、内心俺は安堵していた。

「いいんだ。美味しく食べてくれる人がいるなら、俺は嬉しいからさ!」

「ありがとうな、じゃあ俺達は帰るな」

 松吉さんが屈んで俺の頭を撫でると、夫婦と息子たちは家を出て行った。その時、すれ違う様に誰かが代わりに入って来た。


「坊ちゃん、馬車で待っていてください」


 入って来たのは、俺より少し年上――現代で言う中学生くらいの少年に見えた。坊ちゃん、という事は、彼は薬研家の人間なのだろうか。子供用の洋装に身を包んでいた。確かに、着古した着物姿の俺達とは、育ちが違うのが一目で分かる。


「暇だ――恐れ入ります、少し見せていただいても?」

(たける)様、我儘(わがまま)は少しお控えください」

 尊、と呼ばれた少年は興味深そうに俺達の部屋を眺めていた。しのは、そんな尊を不思議そうに見ている。

「いい匂いがするな。コロッケと聞こえたが――お前たちの母が作ったのか?」

「違うよ、兄ちゃんだよ! とっても美味しいんだから!」

 しのが、もう冷えた油を灯油用にするのか空いた油壺に入れながらそう答えた。それを聞いた尊が、所在無げに立っていた俺に視線を向けた。

「へぇ、お前が作ったのか。俺も食ってみたい、一つくれないか?」

「坊ちゃん、いけません」

 執事は、慌てて止める言葉を向けた。庶民の作ったものを食べさせて腹を壊したら、彼の責任になるのだろう。だから、慌てて尊を止めようとしていた。

「気にするな、食べてみたい」

 尊はそんな事を気にするでもなく、俺に向かって同じ言葉を繰り返した。俺は困ってしのに視線を向ける。しのは、俺を安心させるように笑って頷いた。


「分かった――もう少し冷めてるけど、どうぞ」

 俺は、少し残っているコロッケを一つ菜箸で摘まむと、彼に差し出した。尊は戸惑うことなく、それを受け取った。そうして、大きく口を開けてコロッケに齧りついた。噛み口から、噴き出す湯気が家の中にゆったり漂った。オレンジ色の南瓜が、鮮やかに姿を見せる。


「――うん、美味い。しかし、俺が今まで食べたコロッケと味が違う。今まで食べたコロッケより、ずっと美味い」

 それは、素直な称賛の言葉だった。俺は、びっくりして育ちがよさそうな彼を見つめた。

「お前、――恭介だったな。まだ九つか。それなのに、こんなに上手いものを作れるのか。面白い、気に入った」

「あたしの自慢の子供達だからねぇ。待たせたね、では行きましょうか」

 着物をきっちり着直して、紅を引いたそよが部屋から出てきた。仕事の時の様にきっちり化粧はしていないが、それでも改めて美しいと感心してしまった。

「有難うございました。では、牛鍋の店まで馬車で向かいます――旦那様も、そこでお待ちです」

 門田はそう言うと、先に家を出て俺達を促した。そよはしのに合図をしてそれに続いた。続こうとした俺の腕を、急に尊が掴んだ。


「まだ余ってるなら、持って帰りたい。勿論、代金は払う」

 コロッケを食べ終えて指に付いた油を舐めながら、尊は楽しそうに笑った。

「いいけど……」

 俺が小さく頷くと、尊は満足げに笑って腕を離した。俺はそよたちを待たせないように残りを全部天紙に包んだ。そんな俺に指をハンカチで拭いた尊は「今は、これしか手持ちがない」と、一円札を渡してくれた。

「い、一円!?」

 俺は、驚いた。ここに来て、一円札を初めて見たからだ。現代の一円とは比べ物にならない――数日分の生活費だぞ!?

「悪いが、それしか持っていない。勿論、釣りはいらん」

 俺はこわごわと一円札を受け取った。しかし財布なんて持っていないので、貰ったその一円を着物の帯――兵児帯(へこおび)って言うのかな? に挟んで、掛け時計を確認した。もう、十三時半になろうとしていた。コロッケのいい匂いが鼻に残っていて、俺の腹が小さく鳴った。

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