ふみの手紙とたらクリーム煮・上
わかが寒い中摘んだ蓬は若芽で量が少ないこともあって、今回は干して完全に乾いた時に使うことにした。
でも勝平さんが蓬を塗っていないと知ったらわかが悲しく思うだろうと、俺はしのと相談した。そこで、すでに乾燥させてある蓬を買って、あかぎれ用の軟膏を作ることにした。
蓬は、明治では特別珍しいものではない。だから、比較的安価に買える。この時代、薬屋で干した蓬は『艾葉』と呼ばれていた。江戸時代から薬の町と呼ばれていた日本橋本町の薬問屋に売っていると聞いて、しのと勝平さんが買いに行ってくれたんだ。
今は路面電車も増えて、またそう遠くない所だから二銭で行けるんだ。路面電車に乗るのが楽しかった。と、帰ってきたしのと勝平さんは俺に話してくれた。
「これ、お土産」
二人は俺に甘名納糖と呼ばれる、江戸時代から有名なお菓子を買ってきてくれた。仕込みの時間に買い物に行かせてくれた俺やりんさんに、気を遣っているんだろうな。二人は昼定食の時間前に帰ってきてくれたんだから、そんなに気を遣わなくていいのに。
「勝平さんが、買ってくれたんだよ」
「ちゃんと、恭介から貰った給料で買ったからな!」
と、勝平さんは恥ずかしそうに言っていた。俺は二人が買ってきた艾葉と甘名納糖を受け取って「ありがとう」と、丁寧に頭を下げた。それよりも、俺は勝平さんの隣でしのが持っている新橋色のセルロイド櫛が気になっていた。
光に透けるような青緑色の櫛は、しのにとても似合っていた。そして、この頃ひどく大人びた表情を見せるしのを、あでやかに魅せていた。
セルロイドの櫛は、最近しのの年頃の子に人気らしい。先日かよが蕗谷亭に持って来た少女向け雑誌に、そう載っていた。柘植櫛より安価で、化学染料が普及して色鮮やかなものが多い。女子学生がお小遣いで買えると、一気に売れ出しているみたいだ。
しのは性格上、買ったものをいつも俺やおっかさんに嬉しそうに教えてくれる。だが、その櫛についてしのは俺に何も言わない。しのがそんな櫛を持っている姿を今まで見たことがないから、確実に今日買ったに違いないんだ。
多分、これも勝平さんに買ってもらったんだろう。俺は、薬研製薬の遠野さんの事を思い出して、少し落ち込んでしまった。あの時も、しのの隣には俺ではない人が居たからだ。
「艾葉軟膏は、あたしが作っておくよ――さ、ミケおいで」
薬問屋で、作り方も教わったらしい。俺が持っていた袋をしのは取ると、子猫を抱き上げて長屋に一度帰った。
ミケとは、わかが行方不明の時にそばに居た三毛猫だ。黒猫は源三さんの家で飼っている。
自分のそばに居てくれた子猫たちを、わかが離したがらなかったのだ。それでも源三さんは親猫に返そうとしたのだが、辺りの様子を見ても子猫たちの親は見つからなかった。
二匹を飼うのは大変だ。と悩んでいたおとよさんに、しのが「もう一匹の親になる」と名乗り出た。
「ネズミ除けにもなるからねぇ。大丈夫、あたしの所にいるから、いつでも会えるよ」
しのの言葉にわかは喜んで、源三さんとおとよさんは申し訳ないくらい頭を下げてくれた。源三さんもおとよさんも、わかを助けてくれた子猫たちに、恩義を感じていたんだ。
「勝手に飼うって言っちゃって、ごめんなさい」
源三さんの家から子猫を抱いて家に帰ると、出迎えてくれたおっかさんにしのは頭を下げた。おっかさんは何も言わず微笑んで、そんなしのの頭を撫でた。俺も三毛猫を抱きながら「なんて名前にしようかな」って、しのに笑ってみせた。泣きそうだったしのは、俺たちに小さく笑い返してくれた。
「恭ちゃん、何を作ってるんだい?」
俺がぼんやりそんな事を思い出していると、りんさんがそう声をかけてきた。
危ない危ない、牛乳が煮立ってしまうところだった。
「あ……ごめん。ぼんやりしてた。これは、乾酪だよ」
「乾酪? 聞いた事ないね」
不思議そうに首を傾げるりんさんに、俺は竈から牛乳が入っている鍋を下ろしながら説明を続けた。
「北海道で最近作られ始めているものなんだよ。昨日の牛乳が少し余っちゃって、試しに作ってみようかと思ったんだ」
乾酪っていうのは、チーズの事だ。まだまだ一般的に普及されていないチーズだけど、乳業が盛んな北海道ではもう西洋チーズの製造方法が伝わっているみたいだ。先日定食を食べに来てくれた薬研製薬のお客さんに、教えて貰った。でもまだまだ一般的には広まっていない。流行り者好きのお金持ちの間で、今はゆっくり知られ始めているくらいだ。
でもチーズって、牛乳とお酢があれば簡単に作れるんだよ。カッテージチーズや、クリームチーズ風の柔らかいチーズなんかをね。日持ちがしなくて大量には作れないのが、残念だけど。
「洋食のコクを出したりするのに、乾酪はいい食材なんだ」
「へぇ……そうなんだ。ってことは、やっぱりあの噂は本当なんだね? 恭ちゃんが、ここを洋食屋にするって」
りんさんの言葉に、俺は少し驚いてしまった。この話は、今はまだ薬研兼親子と勝平さんしか知らないはずだ。俺は長屋のみんなにはまだ話していなかったから。
財宝の換金がすべて終わってから、まずは蕗谷亭を手伝ってくれているりんさんに話そうと思っていたんだ。
「あたしには、近い内に話してくれるつもりだったんだろ? ごめんよ、そんな話をたまたま聞いちまってさ」
りんさんは、少し申し訳なさそうな顔をしている。俺は、俺たちの姉のような存在のりんさんを悲しませたくて黙っていたわけじゃないんだ。だから、誤解を解いておきたい。
「うん。正式に段取りが出来たら、ちゃんと話そうと思っていたんだ。ここを改装して、昼から夜に開店できる洋食屋を開こうと思っているんだよ。もしりんさんが、まだ手伝ってくれるなら……」
「よしておくれよ。あたしはまかない食堂を作った時から、あんた達と頑張ると決めたんだ。流行りの洋食屋で働けるなんて、楽しみで仕方ないよ! まだまだ仲間でいさせておくれ、恭ちゃん! それで、これの続きは?」
照れたように笑ったりんさんは、牛乳が入った鍋に視線を落とした。
そうだった、すっかり忘れてしまっていた。こんなに時間がかかっていたら、昼の定食が始まってしまう。
「少し冷めちゃったから、もう一度温め直すよ。鍋のふちに泡が出てきて湯気が出た頃に下ろして、酢を入れるんだ」
俺は温度が下がってしまった牛乳を竈に戻して、再び温めた。温度計がないから感覚で作るしかない。六十度くらいに温まっていると期待して、火からおろしてお酢を混ぜる。少し混ぜるとぼろぼろと小さな塊が出来てくると、布巾をかけたざるに流し込んで水分と分ける。
「作業はこれで終わりかい?」
「うん。三時間ほどゆっくり水分を抜いて、落ち着かせるんだ。それと、この水分は捨てないでね。栄養があるから、お味噌汁に入れるといいんだよ」
空いている鍋に載せたざるを、俺は邪魔にならない場所に置いた。まだ牛乳は高価だから、余った分とはいえそんなに作れない。これは、本当に実験みたいな感じだな。
「あいよ。出来たら、味見させとくれね」
しのもりんさんも、味見が大好きだ。俺は思わず、くすっと笑ってしまった。
俺たちがそんな作業をしている間に、しのは小さな火種になる神戸からの手紙を手に蕗谷亭に戻ってきた。




