行方不明のわかと温かな粕汁・上
薬研家の力をもってしても、薬研家以外が保有している金や貴重な赤珊瑚を現金に換えるのは、なかなか厄介なことらしい。
俺としては急ぎの用ではなかったから、ゆっくりでいいと思っていた。期日までに千円さえ払えれば、それで十分安心だったからね。
財宝の残りは、尊さんに頼んで時間をかけて換金してもらっている。現金も財宝も、今はすべて尊さんが管理してくれていた。長屋暮らしの俺たちがそんな大金を持ち歩くのは、さすがに不用心だ。「預かっておく」と言ってくれた尊さんには、本当に頭が上がらない。
今は洋風の建物を建てることが増えていて、資材も大工もすぐには揃わない。尊さんは洋風建築を手がけられる大工まで手配してくれており、換金が済んで資材が揃い次第、蕗谷亭の改装工事が始まる予定になっている。洋館に建て替わるまでの間は、もうしばらく尊さんに甘えさせてもらうつもりだ。
家と畑はすでに俺の名義に変わっていて、これ以上焦る理由もなかった。家賃を払わずに営業できる分、定食屋としての売り上げはまるごと俺たちのものになる。そう思うと、自然と仕事にも熱が入った。
憧れだった自分の店を持てる――それがまだ夢のようで、しのと頬をつねり合っては笑い合っていた。
年が明けて、明治四十三年の三月。先月は、例年どおり家族で俺としのの十四歳の祝いをした。今年は尊さんと勝吉さんも参加してくれて、賑やかな夜になった。おっかさんも楽しそうで、久しぶりに家族そろって心から笑っていた気がする。
尊さんからは、思いがけない誕生日の贈り物をもらった。俺には袴を二腰と綿のワイシャツ、しのには帯を二本。「もう兵児帯は卒業だな」と、尊さんが笑った。新しくできる店を見越しての心づかいだろう。
明治の洋装は、実のところ飯屋には少し動きづらい。袴の方がずっと実用的だ。しのは新しい帯に目を丸くしながら、おっかさんと一緒に鏡に映してはしゃいでいた。確かにもう、俺たちは兵児帯の年頃じゃない。いつのまにか、顔立ちも大人びてきた。
俺たちは尊さんにお礼を言って、この日のために用意した料理でもてなした。勝吉さんもおっかさんも喜んでくれて、作った料理はきれいに平らげられた。
あの勝吉さんは――大根泥棒未遂をしたのが嘘のように、今では蕗谷亭の働き手として真面目に頑張っている。
俺が手を回せずにいた畑を、松吉さんに教わりながら丁寧に手入れをしてくれて、そのおかげでこの冬の野菜は俺が世話していた頃よりも出来がいい気がする。
空いた時間には、しのに読み書きと算術を学び、俺から包丁の扱いや料理を教わっている。火の番、三度の飯炊き、洗い物――今はそれらを率先してこなしてくれていた。
彼は、驚くほどよく働く。根が真面目なんだろう。あの時、蕗谷亭で雇うと決めて本当によかったと思う。おっかさんも彼を気に入ってくれて、「いい子じゃないか」と笑っていた。事情を話しても、実際の働きぶりを見れば納得だったのだろう。おっかさんは、俺たちとは少し違う形で、彼に優しかった。
ただ――冬の洗い物だけは、どうにも慣れない。冷たい水に手を入れるたび、あかぎれの傷口に沁みて痛む。勝吉さんの手は、俺たち以上に荒れて真っ赤だ。それでも泣き言ひとつ言わずに黙々と働いてくれていた。
「恭介、今月も給金をありがとう」
その日は給料日だった。俺は現代で叔父さんからバイト代をもらっていた二十日を、給料日にしていた。今までは曖昧にしていたりんさんの分も、勝吉さんと同じ金額を払うことにしている。
ただ、りんさんには長屋代がかかるから少し多く渡そうとしたんだが、「同じでいい」と譲らなかった。その気持ちはありがたかった。まだ店の稼ぎも十分じゃないからね。
「こちらこそありがとう。勝吉さんが畑を世話してくれて、本当に助かってるよ。野菜が豊富だから、定食の献立を考えるのが毎日楽しい」
朝早くしのと蕗谷亭に行くと、すでに勝吉さんは竈に火を入れていた。火の世話が落ち着いた頃を見計らって給料を手渡すと、彼は両手でそれを大切そうに受け取った。
「勝吉さん、これどうぞ。確か、お財布持ってなかったよね?」
しのが着物の襟元から、小さな手縫いの財布を取り出した。夜なべして縫っていたのを、俺は知っている。
勝吉さんの生活用品は、来た当初にできる限り揃えたけれど、こうした小物は気づいた人が少しずつ差し入れてくれる。長屋では、そういう助け合いは珍しくない。俺だって先月、着なくなった着物を清に譲ったばかりだ。
「しのちゃんが縫ってくれたのか?」
「うん。裁縫は得意だからね」
まだ眠そうなしのは眼鏡を外して目をこすり、いつものように明るく笑った。昔から、俺たちの着物の破れを繕ったり虫食いを直したりしてくれていた。得意にならざるを得なかったのだろうけど、それを明るく口にできるところが、しのの優しさだ。
鉄色の端切れで作られた財布は、流行りのがま口ではなく昔ながらの三ツ巻き財布。俺たちが生まれるより前――明治初期に仏蘭西から入ってきて流行したがま口は、まだまだ高価な代物だ。しのの手作りの方が、勝吉さんらしい。
「ありがとう。大切にするよ。お金は、今はなるべく貯めるようにしてるんだ」
少し照れくさそうに笑いながら、勝吉さんは給料を財布に入れ、帯に挟んだ。
「おはようさん」
そこへ、りんさんがやって来た。手には泥のついた長ねぎと蕪。
「おはようございます。あ、葱を抜いてくれたんですね。ありがとうございます。蕪も立派だなぁ」
「これ以上大きくなると味が落ちるからねぇ。昨日から気になっててさ。忘れないうちに畑に寄ってきたんだよ。これは漬物にしておくね」
「おはようございます。俺、その蕪洗ってきます」
勝吉さんはすぐに蕪をりんさんから受け取り、井戸へ向かった。
「働き者だねぇ」
りんさんが笑う。その顔には、どこか誇らしさもあった。りんさんも勝吉さんを仲間だと思っているからだからこそ、だろう。
彼女にも給料を渡して、俺たちはそれぞれ朝の支度に取りかかった。
――昼時。源三さんと一緒に来たとよさんが、不思議そうな顔をした。視線の先には、まつさん一家が揃って食事をしている。ただ、治郎の姿はない。
「治郎ちゃんとわかは、まだなのかしら?」
その言葉に、まつさんと松吉さん、清が箸を止めた。
「おとよさん、治郎は熱があって家で寝てるよ? 昨日そう言ったろう? わかちゃんがどうしたんだい?」
まつさんが不思議そうに答えると、おとよさんの顔がみるみる青ざめた。
「そうでした! 私、ちゃんと聞いていたのに……! おとっつあん!」
突然の声に、店の中が一瞬静まり返る。
「私、朝ご飯のあと、わかに「治郎ちゃんと遊んでおいで」って言って……家の前で別れて、おとっつあんと店に向かったんです! でも、さっき長屋に寄ったら、わかの姿が見えなくて!」
おとよさんは唇を押さえ、震えていた。源三さんが「落ち着け」と肩を支える。
わかは今年で五歳になる、まだまだ小さい子だ。こんな寒い日に迷子になっていたら――命にかかわる。
「俺、探してきます」
竈の火を見ていた勝吉さんが立ち上がり、藍染の前掛けを外しておとよさんのもとへ向かった。
「俺たちも行く。清、お前はかっちゃんと一緒に探してくれるか?」
「分かった」
松吉さんの声に、清が真剣な顔で頷く。清は尋常小学校から帰ったばかりで、朝以来わかを見ていない。熱を出している治郎もこの春から尋常小学校に上がる予定で、清と治郎にとってわかは妹のような存在だ。
「まつ、お前は治郎を看ててくれ。あいつの熱が下がらねぇうちは、お前は治郎のそばに居ろ。俺が源三さんと探す。わかは小さい、そう遠くには行けねぇはずだ」
まつさんを制して松吉さんが言うと、源三さんも頷いた。
「治郎の容態が悪化しちゃいけねぇ。まつさん、松吉さんと清を借りるぞ――恭介、勝吉を借りる!」
「お願いします!」
俺は頭を下げた。外は底冷えする寒さ。迷子のままなら、風邪どころか……。
昼食の最中だったが、松吉さんと清、源三さん、おとよさん、勝吉さんが店を飛び出していった。俺たちは行きたくても、今は客でいっぱいの昼どき。蕗谷亭の厨房から、ただわかの無事を祈るしかなかった。
「今日はこんなに寒いのに……わかちゃん、大丈夫かね……」
りんさんの声は沈んでいた。少し声を潜めて、ぽつりとつぶやく。
「拐かしに遭ってないといいけど……」
この時代、子供の誘拐は珍しくなかった。男の子なら労働に、女の子なら遊郭へ。警察の力もまだ弱い。そんな目に遭ったら、もう見つからないことだってある。
どうか――無事でいてくれ。
俺は鍋をかき混ぜながら、戸が開くたびに顔を上げ、何度も期待を込めて入口を見つめていた。




