不良少年勝平とライスカレー・下
勝平の体は、俺が銭湯で綺麗に磨いた。浅黒い肌は、陽に焼けた名残りのようだった。それに、体に残る大小の傷。苦労してきたと分かる体に何とも言えなくなって、俺は丁寧に彼の背中を流していた。
「おかえりー!」
綺麗になった俺たちが蕗谷亭に戻ると、しのが笑顔で迎えてくれた。俺は「ただいま」と笑って返したが、勝平さんは戸惑いながら「……ただいま」と、小さな声で言った。
しのは、俺が指示をした通りの作業をしてくれていた。玉葱と胡蘿蔔、馬鈴薯を細かめのさいの目切りにしてくれていた。
「ありがとうな、しの。じゃあ後は俺がやるから、勝平さんと行ってきてくれ」
「うん!」
「……行くって、どこに?」
不安そうな顔で、勝平さんは聞いてきた。緊張したのか、手をぎゅっと握っている。
「勝平さんの着物や下着、それに布団を買いに行くんだよ。しの一人じゃ持ちきれないからね。帰ったら、昼に使った食器を二人で洗ってくれる?」
「えっ……?」
意外だったのか、目を丸くして固まる勝平さん。
俺は銭湯に行く前に、長屋の皆に頼んでいた。古着の着物や布団が安く手に入るような店を、教えて欲しいって。それらを買えるだけのお金は、ちゃんとしのに渡している。出逢った時に尊さんがコロッケ代金としてくれた、一円の残りはこれでなくなった。
「さ、勝平さん行こう! 遅くなると、お店に迷惑かけちゃう!」
まだ戸惑っている勝平さんの背中を押して、しのは明るい口調で蕗谷亭を出て行った。
静かになった蕗谷亭で、俺は竈で小さくなっていた火を再び大きくして鍋を置いた。そして鍋が温まるまでに、牛肉を細く切った。東京では豚肉が主流で、牛肉は関西……そう思っていた。でも、この時代は牛なんだな。
鍋が温まると、バタを入れて牛肉と玉葱を入れて炒めた。本当に、玉葱は火が通るといい香りが出る。蕗谷亭が、途端にいい香りに包まれた。
本来ならここでカレー粉と水を入れて、後で胡蘿蔔と馬鈴薯を入れて煮る。でも俺は現代風に、それらも鍋に入れて炒めた。煮崩れを気にする調理法らしいから、俺はあえてそうしなかった。だって、煮崩れするほど火が通った野菜って美味しいと思うんだ。
野菜にもある程度火が通ったら、水を入れて再びじっくり煮込む。
俺はこの時間に、夜飯の準備をあらかた終えることにしていた。勝平さんに、これからの事を説明する必要があったからね。副菜や飯は、しのとりんさんに頼むつもりだ。
「ただいまー!」
しのが元気よく帰ってきた。後ろには、大きな荷物を抱えた勝平さんが続く。
「……ただいま」
さっきと同じく、小さな声だった。
「おかえり。しのは少し休んでくれ。俺は、勝平さんとは話があるから」
「はーい」
しのは素直に俺の言葉に頷いて、手を振って蕗谷亭を出て行った。
「勝平さん、これからの話をしましょう」
俺がそう言うと、勝平さんは硬い表情で頷いた。買ってきた布団やらを脇に置いて、座敷に座る。暗くなりそうな雰囲気を変えるために、二人分のお茶を淹れた。
「実は――ここを改装して、本格的な洋食屋を開くことになったんです」
「え!? すごいな。この家を洋風に建て直すのか?」
勝平さんは、きょろきょろと店の中を見渡した。蕗谷亭を作った時に、ある程度直してもらっていたからまだ綺麗な店だ。それを立て直すという言葉に、彼は驚いているのだろう。
「今は昼間しか店を開いてなかったんだ。でもこれからは、夜も店を開けることになりました――勝吉さん。これから、住み込みで働いてもらえませんか? 俺たち三人だけじゃ、人手が足りないんです」
「……俺を、雇うってのか?」
本当に意外な言葉だったのだろう。勝平さんが、驚いた声を上げた。
これは、俺一人で考えたことじゃない。銭湯に行っている間に、しのが長屋のみんなに聞いてくれていたんだ。みんなは「いい案じゃないか」と、応援してくれていた。勿論りんさんも「頼もしいねぇ」と、了承してくれている。
「部屋と三食込みで、ひと月十五銭……で、どうでしょうか? 洋食屋が繁盛すれば、もう少し上げられるとは思います」
「……おい、本気で言ってるのか? 見ず知らずの俺に? それに……俺は、大根を盗もうとした奴だぞ」
勝平さんは、腕を伸ばして俺の腕を掴んだ。乱暴な仕草ではなく、どこか縋り付くような感じがした。
「俺、信じてるんです。勝平さんは悪い人じゃない。もしそう思うなら、ここで働いてほしい。給金があるなら、もう盗む必要なんてないだろ? 悪さなんて、もうできないよ?」
勝平さんが自分のおっかさんの話をしたとき、本当に悲しそうな顔をしていた。あの顔は嘘じゃない、そう信じたかった。
俺は明治時代に一人来て、本当に心細かった。でもそれを救ってくれたのは、おっかさんとしのだ。それに、尊さん。財宝を俺に残してくれた、名前も知らない誰か。長屋のみんな。
勝平さんにとって、俺もそんな人になりたかった。
「……俺、料理なんて出来ない。読み書きや計算も、ろくにできない」
「最初は小さなことからでいいんです。洗い物とか畑の世話とか。出来ることから、少しずつ覚えていきましょう」
俺は安心させるように、掴まれた手を反対の手で包み込んだ。そして、にこっと笑ってみせる。
「『いただきます』『ごちそうさま』『ただいま』『おかえり』『ありがとう』『ごめんなさい』――それが言える人は、絶対にいい人ですよ」
俺は、ばあちゃんが教えてくれた言葉を口にした。小さな頃から、これは大事なんだよ。って、いつもばあちゃんが教えてくれた言葉だ。勝平さんは、瞳を丸くして俺を見つめている。
お人好しかもしれない。俺の選択は間違っているかもしれない。でも、俺には妙な自信があった。勝平さんは、きっと頼れる存在になる――俺たちと一緒に、洋食屋を繁盛させてくれるはずだって!
「……ありがとうな」
勝平さんの目から、不意に涙がこぼれ落ちた。彼はそれを腕で拭ってから、精いっぱいの笑顔を見せてくれた。
「世話になる……これから、よろしくお願いします!」
俺の腕を掴んでいた手を離すと、勝平さんは俺に土下座をした。
「よかったね」
家に帰っているはずのしのが、ひょっこり顔を覗かせて笑った。
俺としのは相談して、蕗谷亭の休憩室を勝平さんの部屋にすることにした。少し狭いが、新しい店が出来るまでは、我慢してもらう。
自分の寝る場所が出来て安心したのか、勝平さんは夕飯を作りに来たりんさんが起こしに行くまで、ぐっすりと寝ていた。きっと、今までの疲れもあったんだろうな。
夕飯の支度を、俺たちは始める。昼間茹でていた鍋に、再び火を入れた。隣では、勝平さんが飯を炊く竈に火をつけていた。しのとりんさんは、副菜となる酢蕪の下ごしらえをしている。
俺は鍋が沸騰すると、火を弱めてカレー粉を入れる。とろみをつけるために、うどん粉。そして、隠し味には尊さんがお土産にくれたスパイスの中からクミンを入れた。
クミンは江戸時代に日本に入ってきた調味料だ。でも、まだ国内では生産されていない。高価な事もあって、このお土産は助かった。
辛い物が苦手なしのやわかたちの為に、林檎のすりおろしも入れる。
この時代風というより、少し現代のカレーライスが出来上がった。いや、この時代での呼び名であるライスカレーの出来上がりだ!
「よかったな、身の振り方が決まって」
夕飯の時間になると、長屋のみんなが集まり始めた。そして、俺たちと一緒に炊事場にいる勝平さんの姿を見つけると、みんなが彼に声をかけた。
「今日から、皆さんよろしくお願いします!」
勝平さんは、深々とみんなに頭を下げた。長屋のみんなは、そんな彼を暖かく受け入れてくれていた。
「ライスカレー、実は初めて食べるんだよ」
「あたしもだよ」
カレーの皿を前に、みんな興味深そうに話し合っていた。ほかほかのカレーには、ゆで卵を乱切りしたものを散らしている。これは、この時代の料理本に書いてあったのを真似た。
「刺激的な香りがするけど、辛いのかな?」
高藤さんがスプーンですくったカレーを口に入れると、みんなが感想を待つようにじっと見守っている。
「ほう、こりゃ美味い! 尖った香りなんだが、ずいぶん食べやすい味だ。シチューとはまた違った、異国的な刺激的な味がする。でも、そんなに辛くはない。恭ちゃん、これはもっと辛くも出来るのかい?」
「はい、辛くも出来ますよ。でも子供達も食べやすいように、今回は甘めに作りました。次は、少し辛いのも別に作りますね」
高藤さんの言葉にそう返事をすると、みんなも食べだした。
「美味しいね、すごくお腹がすく香り! 食べたことがない、不思議な味がする」
清が、少しびっくりした顔になりながらそう言った。確かにカレーに入っているスパイスは、この時代の人にはまだまだ馴染みがない味なのかもしれない。
「まるで洋風の丼みたいだね」
治郎の言葉に、笑顔があふれた。
みんな「美味しい、美味しい」と言ってくれて、男性陣はお代わりをしてくれた。
「――すごいな。みんな、嬉しそうだ。大きな家族みたいだな」
勝平さんが、そんな様子を見てなんだか切なげな表情を浮かべている。
「美味しいご飯には、そんな力があるんだよ。勝平さんが炊いてくれたご飯が、美味しいのもあるんだ」
俺はそう言って笑うと、俺たちの分の用意をし始めた。しのがそれに気が付いて、手伝ってくれる。
「勝平さんは、ライスカレー食べたことある? あたしは、カレー南ばんなら、昔食べたよ」
「いや……洋食なんて、食ったことがない」
しのの言葉に、勝平さんは首を横に振った。
「そっか。なら、初めての洋食は蕗谷亭のみんなで一緒に食べようか」
「いいね! かっちゃん、お代わりちゃんとあるからね! たくさんお食べよ」
しのの言葉にりんさんがそう続けると、勝平さんは穏やかな顔になった。
「おっかさんが――そう呼んでくれてた。うん、一緒に食べよう」
長屋のみんなの食器を下げてから、俺たちはカレーを一緒に食べた。
勝平さんは「美味いなぁ」と、大盛で三杯食べてしのとりんさんを驚かせていた。
新しく俺たちの食堂を手伝ってくれることになった、勝平さん。畑の世話も手が回るかと心配していた俺に、強力な助っ人が出来た!
期待で高鳴る心で食べた明治時代のライスカレーは、素朴でばあちゃんの味がした。