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想ひ出のアヂサヰ亭  作者: 七海美桜
二十一膳目
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不良少年勝平とライスカレー・上

 薬研製薬の新しい寮が終わる頃、俺は財宝を換金してもらった中から千円分の紙幣を用意してもらって、尊さんと一緒に薬研氏に会いに行った。大金だから、と尊さんが付いて来てくれたのだ。

「こんな大金、何かあっては大変だからな。いくらお前が賢くても、町には無頼(ぶらい)の輩もいる。大金を子供一人で運ばせるわけにはいかないだろう」

 大雑把に換算しても、現代の一千万円近く――いや、それ以上の価値があるのだろう。これほどの金額を扱うのは、生まれて初めてだった。


 だからこの状況は、俺にとってはどこか現実味がなかった。冷静な尊さんのおかげで、無事に薬研製薬へ届けられたのかもしれない。

 まあ、古着姿の子供が大金を持っているなんて、誰も思わないだろうけど。


 薬研製薬の応接室で、俺は尊さんと並んでソファに座った。向かいには、尊さんの父親でもある薬研氏が座った。彼は俺が差し出した十円札が入った風呂敷を預かると、当然のように受け取って少し後ろに立っていた銀行員を呼んだ。

 その落ち着きが、逆に不安を募らせた。


 だって、一千万だぞ? 町で細々と小さな料理屋を数年やっているだけで、絶対に貯まるはずがない金額だ。


「あの――薬研様。俺がこれだけのお金を用意したことを、不思議に思わないのですか?」

 薬研氏の態度に我慢できなくなった俺は、出されたお茶に手を伸ばすことはなく少し低い声で尋ねた。考えたくないが、相手は老練な商人だ。子供の俺なんて、騙そうと思えば簡単に手玉に取れる。


 ――千円という金は、ようやくじわじわと俺を不安にさせてきた。


「お前が危ないことをして金を手に入れたとは思わん。また、尊がお前のために用立ててやったとも思わない。これは、純粋にお前が用意した金だろう。だから、儂は約束した通りあの土地と家屋をお前に渡す――それが、おかしいか?」

 薬研氏の言葉を聞いて、思わず呼吸が止まるかのような衝撃を受けた。なんて、恥ずかしいことを聞いてしまったのだろう。

 俺やしのやおっかさんを信用して、応援してくれている薬研親子。分かっていたのに、一瞬でも疑うような思いを抱いてしまった。


 俺は、恥じた。そして、改めて深く二人に感謝した。


 どう頑張っても、千円なんて大金を長屋で生活している恭介(こども)では、到底用意出来なかった。だが、こうして店を開く家屋と土地を手に入れた。

 薬研親子と、財宝を俺に残してくれた誰かが――料理人になるように道を作ってくれていることに、不思議に思いつつ何故かそれが当然であるように思え始めていた。


 間違いなく千円分の紙幣と貨幣があることを銀行員が確認すると、薬研氏と俺は蕗谷亭を買い取る条件を改めて口にした。これは第三者として尊さんと銀行員も話に加わってくれて、何の問題もなく取引ができた。

 蕗谷亭の建物、土地、隣接している畑。これらは全て、蕗谷恭介の所有になった。「洋風建築に建て替えよう」と尊さんが口を挟むと、「金に余裕があるなら、そうした方がいいだろう」と、薬研氏は大きく頷く。


「これから我が国は、大きく変わる。それはきっと、嵐のように大きくて速い風だろう。その風に乗り遅れず、世界の大国に恥じぬような店を開くといい。恭介。お前は、この日本で有名になるくらいの、立派な店を育てるといい」

 俺の方を力強く叩いた薬研氏の瞳は、少年のように輝いている。

 以前までの薬研氏は、あまり軍国的なことを口にはしなかった。息子が二人も軍人になったから、考えが変わってきたのかな? 「頑張ります!」と力強く答えると、自然に口元がほころんだ。


 土地の権利書などは、後日門田さんが正式なものを届けてくれることになった。このまま駐屯地に戻るという尊さんと薬研製薬の門で別れて、俺は蕗谷亭に向かった。

 この時間だと朝飯の後片付けは、もう二人が終わらせてくれているだろう。しのとりんさんに感謝しながら、彼女たちの為にも昼飯の仕込みは俺が率先しようと、少し急ぎ足になる。


 しのもりんさんも、まかない料理も店で提供する料理もすっかり作り慣れたようだった。作ったことがある料理なら、もうメモを見なくてもきちんと仕上げてくれている。

 三人しかいない厨房だから、本当に二人の頑張りには感謝しかない。

 だけど本格的な洋食屋を営業するなら、厨房の人数を増やさないといけないかな?


「あ、そういえばしのが……」

 店が並ぶ通りが広がる道が見えた時、俺はふと朝しのに頼まれた用事を思い出した。ドーナッツを作るために、牛乳を買ってきてほしい。確かに、そう言っていた。

 俺は真っすぐ蕗谷亭に向かう道ではなく、店が並ぶ通りの方に足を向けた。


「ん? なんだか、賑やかだな……」

 昼までまだ間がある往来に、俺はあまり来ることがない。遠くで、人が大声をあげているようだ。それに、少し人が集まっているのが見える。目新しい商品でも売っているのかと、俺は興味が出てそちらに向かった。

「誰か、捕まえとくれ!」

 そこに近づくと、突然女性の大きな声が上がった。

「泥棒だよ! 捕まえとくれ!」

 その声は、おとよさんだった。人が重なって姿が見えないが、聞いたことない大きな声を上げていた。

「どけ!」

 そう言って、俺の前の人だかりをかき分けて走る男――俺と同じくらいの年の、見知らぬ少年が大根を抱えて逃げていた。

 周りの人だかりは、ようやくおとよさんの声に気がつき始めている様子だった。少年が駆け抜けてから、慌てて腕を伸ばすが誰の腕も届かない。


「大変だ!」


 源三さんとおとよさんの八百屋から、大根を盗んだろう。俺はそう判断すると、その名を知らない少年に向かって走った。

「待て!」

 このまま走れば、きっと俺の足では間に合わない――しかし前方に源三さんが立ちはだかるように立っている姿を見て、ぎょっとした

少年に体当たりし、そのまま一緒に倒れ込む。

「こら! 無茶するな、恭介!」

 源三さんが、転がっていた俺たちの体を止めてくれた。包丁を持つ腕を怪我しないように、源三さんは怒鳴ったのだろう。

「なにすんだよ! おま――」

 ――ぐぅぅ……と、少年の腹の虫が鳴った。

 大根を抱えたまま俺に文句言おうとした少年が、恥ずかしそうに頬を赤く染めた。


「腹が減ってるのか? お前。なら、うちに来いよ」


 俺は、ついそう少年に声をかけた。

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