陸軍新設部隊とジャーマンビーフ・下
「いらっしゃいまし。尊様も、お元気そうで何よりです。遠い地からご無事にお帰りになり、嬉しく思います。また、たくさんのお土産をありがとうございました」
おっかさんが深々と頭を下げると、尊さんをはじめ彼の部隊の男たちは表情を和らげた。おっかさんには、花のように優雅で人を笑顔にさせる雰囲気があるからね。やっぱり岸田大尉は、そんなおっかさんをほれぼれと眺めていた。
「ご無沙汰していました。改めて、これからも恭介やしのに世話になる機会が多くなります。以前よりいっそう、よろしくお願いします」
陸軍制服姿の尊さんを見るのは、初めてだった。堂々と将校服を着る尊さんはとても大人びて見え、家族でもないのに、俺は誇らしく思った。
「料理は、たくさん用意しています。おなか一杯食べて下さいね」
しのがそう言うと、おっかさんと並んで彼らを席に案内した。まだ残って料理を食べていた長屋の女性陣が、若い軍人たちに嬉しそうな声を上げていた。
まだ仕事の時間だということで、お酒は出さなくていいということだった。なのでパン、スープ、サラダを先に彼らに出した。その間に、俺はジャーマンビーフを焼く。俺流のジャーマンビーフは、肉を太めの細切りにして叩き、牛肉より細かくした豚肉、卵、飴色に炒めた玉葱、パン粉を混ぜ、小判型にしてバターで焼く。これなら現代のハンバーグらしいミンチ肉ではないし、肉の触感が強いのでギリギリステーキ風で、この時代らしい調理法だろう――そう思いたい。
実はこの料理方法は、現代の『アジサイ亭』の人気メニューのハンバーグの作り方と、ほぼ同じだ。そう、俺はミンチ肉ではなく細切りにして固めた牛肉を、本当のハンバーグだと思っていたんだ。これが、母さんのハンバーグと大きく違うところだ。育つにつれて、どちらのハンバーグも好きになった。
隣の竈では、りんさんがフライドポテトを揚げてくれていた。どちらも熱々で、最後まで美味しく提供できるはずだ。油から上げると、塩を軽くまぶす。
「へぇ、これが恭介のジャーマンビーフ? 俺が知っているものとは違うな」
焼けたものに、この時代ではビール瓶に詰めて販売されているトマトケチャップを乗せて、手際よく出した。蕗谷亭には、バタと肉の焼けるおいしそうな香りと暖かな湯気であふれている。しのとおっかさんが運んだジャーマンビーフが机に並ぶと、彼らは興味津々に料理を眺めた。
最初に声を上げたのは、杉谷大尉だ。ですよね、というように尊さんに視線を向ける。
「ああ、確かに独逸で食べたものとも違う……やっぱり、恭介は俺たちをいい意味で裏切ってくれるな。さて、問題は味だ」
尊さんも陸奥さんも、俺が未来から来たと知っている。でも、彼らは絶対にその事を他の人には言わないだろう。未来の料理のアレンジを純粋に楽しみにしているようだ。
俺は、緊張してジャーマンビーフを口に運ぶ尊さんをじっと見ていた。何故か横で、しのも緊張したように俺と同じく尊さんを見ていた。
「んん、これは美味い! ステーキやジャーマンビーフとは違う触感だが、肉のうま味をよく感じる。牛肉と玉葱だけではないのか?」
口に運んだ一口を嚥下してから、尊さんは不思議そうに俺に視線を向けた。やっぱり、尊さんはすごい。
「はい、肉の脂にうま味を増すために、豚肉を細かくして混ぜています。豚肉と牛肉、玉葱をまとめるために卵も入れています」
そう。牛肉は細切りにしているのだが、豚肉はミンチくらいに細かくしていた。そうして炒めた玉葱と一緒に、小判型に成形している。ステーキの名残を残しつつ、ミンチのような豚肉で、ハンバーグらしさもある。
「では、自分たちも」
昭中尉の言葉に、みんながジャーマンビーフを食べだした。軍で食べたことがあるのかな? 一口目はみんな尊さんみたいにびっくりした顔になったけど、『美味しい』というかのように明るい顔になる。
「これは美味い! あの、ステーキを食べる時に使うナイフやフォークを使わなくても、気軽に箸で食べられるのもいいな」
岸田中尉はおっかさんに「よく噛んでくださいね」と注意され、子供のように頷いた。しかし箸が止まらないのか、すぐ次のジャーマンビーフに箸を伸ばしている。
「自分はステーキなんてものは食べたことはありませんが、こんなにたくさんの肉を食べるのは初めてです。おいしいですね。絶対に、軍の食事よりおいしい」
平塚曹長が、横にいる陸奥少尉に声をかけた。彼も尊さんと一緒に独逸に行っている。海外のものと違う料理に、びっくりしているようだ。
「ええ。玉葱がシャキシャキしたジャーマンビーフしか食べたことがありませんが、これは柔らかくて甘い。肉の味が強くならず、とても食べやすくておいしいですね」
「ねえ、恭介。もうなくなりそうだから次のを焼いてよ!」
普段あまり食べない博中尉の声に、俺は慌てて次の肉を焼き始めた。熱々の鍋にバターを入れ、ようやくほっと溜息を零した。みんなが満足する料理を作れたことに、安堵していた。
「兄ちゃん、兄ちゃん」
次の分を焼き終えて皿に盛ったジャーマンビーフを運んだしのが、更に次のを焼いている俺のところに小走りでやってきた。
「なんだ?」
しのは、少し背の高い俺の耳に届くように背伸びをして、小さな声で言った。
「尊さんが、財宝を換金して蕗谷亭を買い取る手続きを、今してくれているって。残りで台所用品を新調。それに建物を洋風に改装して、残った分は店の初期費用にしろって」
俺は、伊藤博文のことと元号が変わることしかまだ未来の事を言っていない。今当たっているのは、伊藤博文の事だけだ。
尊さんの方を見ると、三味線を弾いているおっかさんに、軍のみんなと一緒に手拍子をしていた。
こんなに俺のことを理解し、応援してくれる人がいる。俺は泣きそうなほど感動して、言葉に詰まってしまった。
「兄ちゃん、これからも――あたしたち兄妹で頑張ろう?」
そんな俺に、しのが優しく話しかけてくれた。俺はようやく笑顔を浮かべて、しのに頷いた。
「ああ。おっかさんやしのの為に、兄ちゃん頑張るからな」
その日は、彼らの昼食時間ぎりぎりまで蕗谷亭は盛り上がっていた。「一口食べたいよぅ」としのとりんさんに頼まれて、こっそり二人にも焼いてあげたのは秘密だ。
「これ、新しい店の献立にしようよ! 大人も子供も食べやすくて、とってもおいしい。きっとみんな食べたいはずだよ!」
トマトケチャップを口の端に付けてにこにこ笑っているしのの言葉に、俺は穏やかな気持ちでそれを指で拭いてやる。
「ああ、みんな喜ぶだろうな」
新しい店の名前、何にしよう? 蕗谷亭でも悪くないが、もっと――みんなに親しんでもらえる名前がいい。しのとおっかさんと、じっくり決めよう。
俺はまだ肉を頬張っているしのを穏やかに眺めた。それから順調すぎることに油断せず、気を引き締めるように自分の両頬を軽く叩いた。
「兄ちゃん?」
「何でもない、さ、片づけて少し休もう。これから、どんどん忙しくなるぞ!」
俺はしのとりんさんに声をかけると、たくさんの食器を洗うために桶を抱えた。雨が降りそうな空模様に、二人も慌てて腰を上げた。
ちょっとした事件は、数日後に起こる。