しのも喜ぶ南瓜コロッケ・中
「おっかさんは、明治十四年生まれ。まあ、おっかさんの親の記憶があやふやだから、ちょっと違うかもしれない。おっかさんは、小さい頃体が弱くて七つまで生きるか分からないから、お役所に届けるのを待ったんだって。それからおっかさんは、十二から三味線を習って、十六でお座敷に出たの。おっかさんはあの見た目でしょ? すぐに人気が出て売れっ子になったそうだよ」
明治十六年生まれ……ほぼ江戸時代に近いな。いや、それより今は明治三十八年。ということは、母親は二十四歳? 二十四歳で十歳の子供の母……ん!? つまり、十六歳で俺たちを産んだことになるのか?
しのの話を聞きながら、俺は軽くパニックになった。内心動揺している俺を気にするでもなく、しのは話を続けた。
「偉い人のお座敷に呼ばれることも多くて、外国人のお接待にも呼ばれたそうだよ。英吉利の偉い人のお座敷で、セオドア・ヒューズっていう貿易商人に見染められたの。それが、あたし達のおとっつあん。数えで十七の年に、あたし達を産んだって言ってた」
俺は、タイム・スリップしたかもしれないという衝撃の事実以上に驚く事はないと思っていたが、この体――この『恭介』という人間の両親の出会い方にも驚いた。しかし、昔は女性の結婚は早かったと、現代の祖母や母の言葉がうっすら頭を過ぎった。
「あたし達が三歳頃までは、おとっつあんの住んでいた洋館で一緒に生活してたらしいよ。おっかさんも、その頃は芸者の仕事は辞めたって。けどおとっつあんには、お国に家族が居たんだって。おっかさんとあたし達を残して、英吉利に帰ったの。それからあたしたちは、ここで住んでる。おっかさんは、芸者の仕事をまた始めたよ。あたし達を育てる為には、お金が必要だからね」
この時代に、女一人で双子を育てるなんて大変だっただろう。俺は母であるそよを不憫に思い、そしてそれでもしのたちを一生懸命に育ててくれている事に感謝もした。いい加減な親だったら、俺はここで生きて行けるか分からない。中身は二十歳の男だが、明治時代の事は全く分からないのだから。
「おっかさんは綺麗でいないと、仕事にならないでしょ? だから、あたし達が協力して家の事やってるの――どう? 思い出した?」
そこまで話して、しのは不安そうに俺の顔を見た。俺は、曖昧に笑った。
「うーん、まだ頭がはっきりしないな。でも、何とかなりそうだよ。有難う、しの。俺、何とか頑張って思い出すよ」
「そっか、あたしが何時でも助けるからね。兄ちゃんとあたしは、産まれた時から一緒なんだから!」
ああ、可愛い。こんなに健気で可愛い妹がいた『恭介』を、何だか羨ましく思った。しかし、今は俺の妹だ、俺が守らないといけない。
俺たちが話していた時、戸口に誰かの気配がした。
「おや、まだ食ってたのかい?」
ガラガラと建付けの悪い音を立てて、玄関が開いた。
石油ランプなんて、この家にひとつきりだ。陽の落ちた室内は闇に沈んでいて、俺たちは長火鉢の明かりを頼りに話をしていた。さっきまでよく見えていたしのの顔が、今はぼんやりとしか見えていない。
「お帰り、おっかさん。今日は随分早かったね」
俺は箸を置いて、石油ランプに火を点けた。それを手に、しのは玄関に向かう。どうやら、そよが仕事から帰ってきたようだ。掛け時計を見ると、十八時前だ。そよの仕事の日は、帰りが何時も零時近い。
「今日はねぇ、客が食あたりで倒れてお座敷が閉まっちまったんだよ。本当に、災難だよ……ま、ちゃんとお代とお土産は貰ったからね」
最初は困ったように笑うそよの表情は、不器用ながら子供達に笑顔を向けているのだ。と、最近分かってきた。三味線を持っていないもう片方の手には、何か紙包みがあった。
「あ! バターと牛乳! どうしたの、これ」
「お店で使わなくなったから、貰って来たんだよ。最近はコロッケが人気じゃないか。あんた達、作ってみなよ。簡単な作り方も、料理人に書いて貰ったからさ」
そよはそう言うと、帯を解くために隣の部屋に向かう。その時、しのと俺の頭を優しく撫でてくれた。そよは髪を結った時の椿油で、傍に居るといい香りがする。練香水も使っていると聞いた。
「兄ちゃん、明日作ってみようよ!」
嬉しそうに、しのはバター? と牛乳を抱えて俺の所に来た。
コロッケ――洋食。
俺の心が、厨房に居た時を思い出して騒ぎ出した。和食しかないと思っていたここで、洋食が作れる!
「ああ! 俺が美味しいコロッケ作って、おっかさんとしのに食べさせてやるよ!」
一気に元気が出た。帯を解いたそよは、俺が久し振りに元気になったのを見て嬉しそうに目を細めた。
「おや。恭介は洋食が作りたいのかい?」
「うん、作りたい! おっかさん、明日楽しみにしててよ!」
そよは、ふっと口の端を上げた。けれどそれは客に向ける艶やかな笑みとは違い、どこかぎこちなくて困ったような表情だった。子供にどう笑えばいいのか分からない――そんな不器用さがにじんでいる。それでも俺には、その笑顔が何より温かく思えた。
きっとそよは、俺たちにどう笑いかければいいのか分からないのだろう。仕事で見せる笑みだけは、俺たちに見せたくなかったのかもしれない。
そんな笑みを浮かべたまま、そよは俺の頭をもう一度撫でてくれた。