お帰りなさいと冬瓜の葛かけ・下
俺が渡した手紙をじっくり読んだ尊さんの表情は、変わらなかった。ただ、二度目に読み直したときは少し唇の端が上がっていた。
「お前が、俺にこんな手の込んだ冗談をするとは思えない。本当なんだろうな?」
「はい、少し待っていて貰えますか?」
俺は尊さんにそう頷くと、しのに視線を移す。しのは俺に向かって頷くと、ゆっくりと立ち上がった。俺もそれに続くように立ち上がる。
「分かった」
尊さんはそう俺に返すと、陸奥さんに読み終わった手紙を渡す。それを横目に見ながら、俺たちは長屋の自分の家に向かった。
そろそろ起きて仕事まで三味線を鳴らしているおっかさんに気づかれないように、俺たちは床下に隠している財宝の入っている壺を掘り返した。壺に付いている土を丁寧に拭い、風呂敷に包んで急いで蕗谷亭に戻った。
「これが、その財宝です」
俺たちは尊さんの前に二つの壺を置くと、包んでいた風呂敷を開けた。中からは、神社で見つけた時と同じ――たくさんの小判と珊瑚が壺いっぱいに入っている。尊さんは表情を変えず、陸奥さんは驚いた顔になったが言葉は飲み込んだようだ。
「これだけのものがどこかの家から盗まれたなら、必ず噂になる。だから、これは不正に手入れたものではないだろう。それにこの手紙の通りに恭介――お前は時間を旅している者、で間違いないのか? 本当のお前は誰で、どこから来たんだ?」
壺の中の珊瑚と小判をハンカチで持って軽く眺めてから、尊さんが真っすぐに俺を見る。多分、しのも、だ。ずっと気になっていたに違いない。俺が誰なのかを、知りたがっているはずだ。
「俺は、今の時代から約百年後の日本で生きている、平塚恭志といいます。車に跳ねられた瞬間、気が付いたらこの時代の――蕗谷恭介になっていました」
「百年後、だと?」
突拍子もない話だろう。俺なら、いくら可愛がっている後輩から突然こんな話をされても、絶対に信じることは出来ない。尊さんは、わずかに困惑した表情になっていた。
「信じられないかもしれませんが――本当なんです。俺が十の時に軍馬に蹴られた瞬間、俺はこの時代に来たみたい……です」
尊さんは意見を求めるように陸奥さんに視線を向けたが、彼は困った顔をして首を傾げた。俺は、しのの顔を直視できなかった。
「では……お前は、この時代に何が起こるか知っているということだな? これから起きることを言ってくれ。それが正しかったら、一応信じよう」
しばらくの沈黙の後に、尊さんはそう言った。
「でも――歴史を変えることはしてはいけないんです。過去の人に歴史を教えて、本来起こるはずの未来を変えてしまったら、大変なことになります!」
俺は、慌てて少し高めの声を上げてしまった。世界情勢が変わることは勿論だが、俺が生まれる未来もなくなってしまうかもしれない。
「――約束しよう。お前が話した未来がどんなことでも、変えるようなことはしない。お前も、絶対に話してはいけないことは話さなくていい。俺を信じて、話してくれ。でなければ、お前の話を信じることは出来ない」
尊さんは、興奮した俺に静かにそう話しかけた。尊さんの言葉は、間違っていない。俺の話が正しいと信じてもらうためには、確かに未来の事を話さないといけない。
今は、明治四十二年の夏……何があったんだろう? 歴史が特別得意ではない俺は、必死に日本史の授業を思い出した。
「伊藤博文と、元号が変わる!」
「何?」
俺は、テストで出たことを思い出した。思わず口に出したその言葉に、尊さんが珍しくきょとんとした顔になった。
「この秋か冬に、伊藤博文……様が暗殺されます。あと、明治四十五年の夏に新しい年が始まります」
伊藤博文は四度内閣総理大臣になった。庶民の俺には呼び捨てできない人物だ。元号が大正に変わる前に清国で暗殺されることを、テストで覚えていたが、正確な時期までは覚えていない。今証明しやすい出来事は、この二つしか思い浮かばなかった。時期がいつかまでは、情けないが覚えていない。
「それは……大変な出来事だな」
陸奥さんがメモ帳に書こうとしたが、尊さんはその手を止めさせた。
「恭介……いや、恭志と呼んだ方がいいのか?」
「恭介! 兄ちゃんは、恭介だよ!」
横から、涙声のしのの声が上がった。驚いて横を見たら、顔を真っ赤にして泣くのを耐えているしのの顔があった。
「兄ちゃんは、ずっとあたしとおっかさんを守ってくれてる。恭志じゃない、恭介!」
「分かった、すまない――泣くな」
尊さんは困った顔でしのの頭を撫で、俺に視線を向けた。そんなしのがいじらしく、尊さんに笑みを浮かべて頷いた。この時代にいる俺は恭介であるべきだ、と。
「恭介、それが証明されたならお前の話を信じよう。それで、俺にお願いとはなんだ? もしかして、この財宝の事か?」
相変わらず、尊さんは聡明だ。俺は、尊さんの父親から言われた事を彼に話した。薬研製薬のまかない作りがなくなり、ここを買い取るしかない事を。
「この財宝を換金して、俺は食堂を作りたいんです。洋食屋を、しのと一緒に作りたいんです! 俺では、これを換金できるあてがないので……」
こんなに大量の小判や宝石を持ち込んだら、きっと怪しまれる。それに、盗んだと疑われるだろう。俺にとって、こんなことを頼めるのは尊さんしかいなかった。
「分かった。お前の話が正しかったと確認したら、換金しよう。それまで、大事に預かっておく――ここに置いていては、不用心だからな」
その言葉に、しのが風呂敷で二つの壺を包み直した。俺はほっとしてから、尊さんに頭を下げた。
「よろしくお願いします。あ! そうだ」
「なんだ? 忙しい奴だな」
尊さんは少しおかしそうに笑った。俺は慌てて台所へ向かう。よかった、いつもの尊さんだ。俺は、小鉢を取ると冬瓜の葛かけをよそった。箸と一緒に戻ると、それを尊さんと陸奥さんの前に置いた。
「お帰りなさい。日本の味――俺の料理の味、三年ぶりにどうぞ!」
味はもう染みているはずだ。独逸から帰って慌ただしかったせいで、和食を口にしていないかもしれない。それに、何より俺の作った料理も!
「懐かしい……カツオの出汁、美味しいですね。よく母が作ってくれました。その味を思い出します。母の味は、もっと濃い味でしたが」
先に一口食べた陸奥さんが、ほっとした顔になってしみじみと呟いた。その言葉に、尊さんも冬瓜を口に入れた。
「うん、美味い。恭介の料理は、出汁が本当にいい。濃すぎず、心地よい味だ――ああ、確かに日本の味がする。瓜は味が染みにくく、炊きすぎると形が崩れると聞いたが、これは形もいい。今日の夕飯は、これか。みんなも、きっと満足するだろう――お前の洋食屋の道が、見えてきたな」
「はい!」
俺はそう返事をして、しのに顔を向けた。しのは少し赤い目をしていたが、にっこりと嬉しそうに笑って俺の手を握ってくれた。
尊さんの箸が摘まんだ冬瓜の葛かけが、夏の午後にきらりと光った。




