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想ひ出のアヂサヰ亭  作者: 七海美桜
十九皿目
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お帰りなさいと冬瓜の葛かけ・中

 尊さんの独逸の話を、しのやりんさんは興味深げに聞いていた。独逸は珈琲が馴染み深いらしいが、わざわざお土産は紅茶を買ってきてくれた。俺たちの父親が、英吉利(えいぎりす)の人だもんな。お礼を言って、みんなに淹れてあげた。


 俺は夜の仕込みをしながら、台所からこの時代の異国の事を聞いている。今日の夜は、冬瓜の煮物だ。おとよさんが、とても立派な冬瓜を仕入れてくれて、朝に皮を剝いて鍋で軽く湯がいて仕込んでおいた。

 冬瓜って、夏野菜なのに冬って漢字が付くのが不思議だよな。印度(インド)原産の野菜で、平安時代には漢方として日本に存在していたらしい。

 暗所で保存すれば、今の時代なら春先まで食べられる貴重な夏野菜だ。だから冬瓜という名前になったらしいね。


 昆布とカツオの出汁に、塩を振って軽く湯がいた冬瓜を入れる。皮には解毒作用や利尿作用があると、漢方の本に書かれている。減塩なんて考えがなく保存するため塩が強い味付けのこの時代に、利尿作用が強いのはありがたい。その削いだ皮は千切りにして、胡蘿蔔(ニンジン)と一緒にきんぴらにして小鉢になる。


 尊さんは、俺たちにびっくりするくらいたくさんのお土産を買ってくれていた。おっかさんやしのには化粧品などが多く、俺用にはスパイスなど料理に関するものが多かった。レシピ本もあった。独逸語で書いてあるのが、少し悲しい。


 俺たちが世話になっているから。と、りんさんにも特別に香水らしい瓶を渡してくれた。

 初めて香水を見るのだろう。りんさんは瞳をキラキラと輝かせて、遠慮することも忘れてその瓶を眺めていた。それとは別で「長屋の皆に」と、お菓子などもあった。


 航海から独逸に着いてからの話が終わると、話題は向こうで食べた料理の感想、どれだけ世界が進んでいるのか、日本がまだまだ発展しなければいけないことに変わった。昔は物静かな尊さんだったが、俺が見る限り珍しく興奮気味に話してくれた。よほど、日本の外は刺激的だったらしい。お土産の説明を陸奥さんにしてもらっているしのの代わりに、熱く独逸での生活を語る尊さんに俺は笑みを浮かべ、頷いた。


 確か、大日本帝國陸軍の手本は独逸だったはず。尊さんが独逸を選んだのも、彼が陸軍の将校になるためだろう。でも、第一次世界大戦が起きる前に尊さんが帰って来てくれて、本当によかった。もし尊さんに何かあれば、俺は明治時代(ここ)で頼る相手を失ってしまう。信頼できる大切な人を、失ってしまうかもしれない。

 これが正しい選択かは分からない。だが、尊さんを失いたくはない。俺が分かる選択で尊さんの運命を変えることができるなら、彼だけは生かせたかった。


 今は、中国は清国と呼ばれている。その清国に輸出するくらい、日本は干しエビを輸出している。干しものは中国のイメージがあったので意外だ。干しエビは栄養豊富で、料理に使うと助かる。俺は、この時代の冬瓜の煮物にはお麩や茗荷(みょうが)を入れると分かっているが、シンプルにすりおろしの生姜(しょうが)と干しエビを入れることにしていた。

 味を調えると水に溶いた葛粉を入れて、水の張った桶に粗熱の取れた鍋を入れて冷やす。この熱いものが冷える時に、煮物の味が染みるんだ。


 ある程度の夜のまかないの準備が終わった俺は、手を拭いて尊さんたちの傍に向かう。尊さんには、財宝の話もしないといけないからね。その時、三時を知らせる柱時計が鳴った。この柱時計は、俺たちのおとっつあんのものじゃない。薬研氏に、蕗谷亭の祝いとして貰ったものだ。お昼の合図にもなるから、薬研製薬の人のためにもなっていた。


「あら、大変! 三時だね。旦那に頼まれた買い物に行かなくちゃ、ごめんよ!」

 りんさんは鐘の音を聞くと、紅茶を飲み干して湯飲みを持って慌てて洗い場へ向かった。

「いいよ、りんさん。あたしがまとめて洗うから!」

「いいのかい? ごめんよ、夕飯の準備には帰ってくるからさ」

 しのの言葉に申し訳なさそうな顔になったりんさんだが、洗い場に湯飲みを置いて頭を下げた。

「薬研様、香水なんて高価なものをありがとうございました。また、異国の話聞かせてくださいね」

「勿論です。恭介としのを、これからもよろしくお願いしますね」

 尊さんは、まるで俺やしのを家族のように言う。「はい、では失礼します!」と、大事そうに香水の瓶を持って、りんさんは急ぎ足で蕗谷亭を出て行った。


「いい顔つきになったな、恭介」

 俺が尊さんの前に座り直すと、彼は改めて俺をまじまじと見て小さく頷いた。

「まだ小さい手で包丁を持つ姿は、正直不安に思う時もあった。だが、今はもう立派な料理人になろうとしているのが分かる。俺の目は間違っていなかったな」

「お帰りなさい、尊さん! 俺、頑張って料理の腕を上げていますよ。尊さんの期待にそえるように頑張ってました」

 俺は、少し照れながらもそう言い切った。隣でしのは、にっこりと笑っていた。しのが分かってくれている――だから、尊さんも分かってくれているはずだ!

「それに、俺――尊さんに報告とお願いがあるんです」

「報告とお願い?」

 不思議そうな顔になる尊さんに、俺は立ち上がって先ほど鳴っていた柱時計に向かった。実はこの中に、薬研製薬との契約書なんかの大事なものを隠していた。


 そう、あの手紙も。


「これ、読んでもらえませんか?」

 陸奥さんもいるが、この機会しかない。俺は手紙を持って席に戻ると、尊さんにその手紙を差し出した。しのが、少し緊張した顔になった。

 尊さんは何も言わず、その手紙を受け取った――尊さんを助けるように、これで歴史が変わるかもしれない。でも、俺にはこの方法しかなかった。

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