お帰りなさいと冬瓜の葛かけ・上
六月の初めに、尊さんの一行は全員無事日本に帰ってきたらしい。港まで薬研氏が迎えに行ったそうだが、あいにく俺たちは食堂が忙しかった。
尊さんも帰国してから忙しく、休む間もないみたいだった。 一度執事の門田さんが店に来て、尊さんの事を教えてくれた。
彼は今、軍への配属手続きやあいさつ回りで、慌ただしくしているようだ。だから、まだ一度も蕗谷亭には顔を出さない。尊さんは、この夏に十八歳になるはずだ。きっと、立派な青年になっているのだろう。
「遠い海の向こうの国からの帰りだもん、きっと家族も安心だよね――でも、薬研様の奥様ってどんな人なんだろう」
畑で胡瓜、紫蘇、赤茄子、茄子を収穫しながら、しのはのんびりとそう言った。あの財宝の件でしのがよそよそしくなるかと心配していたが、いつも通りに接してくれるので安心した。
だから嬉しい反面、しのが何を思っているのかの不安が多少なりともある。
「俺も会ったことないよ。少し病気がちだと聞いた、屋敷で療養しているのかな」
この時代、子供は重要な働き手だ。もう少し後になると『富国強兵』という名のもと、たくさん子供を産むことを国が推奨することになるはず。それとは別に、まだ医療が発達していないから、子供が小さいうちに死んでしまうことが多いらしい。跡取りを無くさないため子供を多く生む、という風潮もあったのだろう。子どもを奉公に出す必要がない薬研家に五人の子供がいるのも、その為だ。
畑で収穫する野菜は、ほとんど昼定食用にしている。いくら財宝が手に入ってもお金に換えなければ意味がない。それを換金できるまで、俺たちは今まで通り昼定食にも力を入れていた。立地が良いおかげか、有難いことに昼定食を食べにくる客は年々増えていた。それは薬研氏の口添えがある事だと、もちろん俺は知っている。
「まあ、薬研様の家族は尊さん以外知らないもんな」
そう。俺を蹴った馬が護衛していた、先に陸軍に入隊しているという尊さんの兄も、挨拶に来ていない――まあ、薬研氏と尊さんが、その代わりに謝ってくれたけどね。薬研氏の家族とは、他人は交流がなかった。
「胡瓜と茄子は、糠漬けにするね――でもせっかくの夏野菜がこればっかりじゃ、飽きるかな?」
「そうだな……」
もう、七月になる。夏野菜は豊富で箸休めの漬物は沢山出来るが、同じものばかりでは確かに飽きるかもしれない。
「そうだ、粉昆布で漬けるか」
「粉昆布で?」
粉末である昆布茶は、この時代では少し違う。昆布茶は江戸時代からあるが、粉末はまだ普及していない。もう少し後だろうな。俺は味の素がまだ一般的に発売されていないから、うまみ成分を強めたい時用に昆布を粉にして空いた茶筒に入れて、ストックとして置いている。
「胡瓜と茄子を切って、塩で揉んで水気を出してくれ。それからそれを絞って、すり鉢で粉にした昆布と胡麻油を入れて十五分ほど寝かせてみてくれないか? 浅漬けだから、きっとさっぱり食べられるだろう。紫蘇も大量に生えているから、昼定食のてんぷらと……そうだな、紫蘇味噌にして保存しよう。夜の食事が終わったら、作るよ」
俺がそう提案すると、しのはにっこり笑って「分かった、今日は昆布茶漬けね!」と、収穫した野菜が入った竹ざるを持って蕗谷亭に向かった。朝飯が終わった頃だから、この後は家の洗濯をしないといけない。浅漬けをしのが作ってくれるなら、俺が洗濯だ。井戸の近くで水遊びをしている治郎とわかの頭を撫でて、俺は長屋に戻って洗濯物を干す。いい天気だから、すぐに乾くだろう。
「あれ、尊さん?」
昼のまかないが終わり、定食を食べに来る人もみんな帰った。茶碗を洗っている俺とりんさんの耳に、少し驚いたようなしのの声が聞こえた。
「え?」
「二人の知り合いかい?」
思わず俺が驚いた声を上げると、りんさんが不思議そうに首を傾げた。りんさんは、面識がなかったっけ?
「薬研製薬の末の息子さんですよ。三年外国に行ってて、先月帰って来たそうなんです。俺たちは、たくさんお世話になっているんです」
りんさんに説明しながらも、俺はそわそわとした。尊さんには、話したいことがたくさんあるんだ!
「兄ちゃん、兄ちゃん! 尊さんが来たよ!」
そろそろ東京に水道が普及しだしてきたが、蕗谷亭にはまだない。ここを買い取った時に工事をお願いしようと思っているのだが――井戸に水を汲みに行ったしのが、明るい顔で蕗谷亭の中に入ってきた。
少年だった時から整った顔立ちをしていたが、もう青年と呼べる年頃に近くなった尊さんの姿に、俺はびっくりした。背もぐんと伸びた彼はスーツ姿で、それが違和感なくて素直に格好いいと思った。その彼の後ろには――確か、陸奥さんだったかな? が、陸軍の軍服姿でたくさんの荷物を抱えて付いていた。
「やあ、恭介。約束通り、三年で帰ってきたぞ。うん、お前たち兄妹はやっぱりいい顔になったな。独逸でたくさんの外人を見たが、お前たちならあそこにいても見劣りしないだろう」
尊さんの笑顔を見て、思わず胸が熱くなった。
この時代で、損得抜きに俺を認めてくれる尊さんの存在が、ずっと恋しかったのだ。
「土産と土産話が、たくさんある。座らせてもらってもいいか? ん? そちらは?」
俺の隣で洗い物をしているりんさんに気が付いて、尊さんが軽く頭を下げた。尊さんに声をかけられたりんさんは、顔を赤くして彼より深く頭を下げた。
「ここを手伝っている、恭ちゃんと同じ長屋に住む活動弁士の妻、りんです!」
りんさんは尊さんを前に少し緊張している様子だ。俺はなんだか楽しくなって、思わず吹き出してしまった。




