餡かけ豆腐と突然の再会!・下
家に入ったとよさんは、寝ている源三さんの顔を見て本当にほっとした顔をしていた。外は三月でもまだ冷え込み、薄い着物の二人はきっと震えていたに違いない。温かいお茶を飲むと、ようやく顔色が良くなった。冷たい風を感じないくなったせいか、寝むそうだった少女はとよさんの膝の上で寝てしまう。まだ小さいもんな。
「父の看病をして下さって、本当にありがとうございます。実は、記憶を頼りに前の長屋に向かったのですがデパートが立っていて、途方に暮れていた時に父さんの八百屋の事を思い出したんです。浜松商店の人に八百屋の場所を聞いて、十年以上ぶりにおとっつあんの姿を見ました……元気そうですが、私が覚えている時より老けて不愛想な顔で……あの、母……源三の嫁は?」
とよさんはこの家に入った時から、源三さんが一人で暮らしていることに気づいていたのだろう。自分を年季奉公に売った母親の陰に、少し怯えているようだ。
「年季奉公の賃金を貰って、若い男と逃げたそうです。俺は小さな頃から源三さんを知っていますが、ずっと一人でした。仕事と煙草が好きな、ぶっきらぼうだけど優しい人です」
不愛想だけど、小さな俺たちに優しかった。その記憶は『恭介』のものだと思うが、俺の記憶にも流れてきた。『恭介』と記憶を共有しているなんて、不思議だ。
「どうして、年季奉公が終わってすぐに戻って来なかったんですか? 多分、源三さんはずっと待っていたと思いますよ?」
俺がそう訊ねると、とよさんは膝の上の少女の頭を撫でて、畳に目を落とした。
「年季奉公が終わる少し前……十七の年に、奉公先の旦那さんに妾になれと……十八歳であたしはこの子、わかを産みました。それを知った女将さんに怒鳴られて、手切れ金だと年季奉公の期間を短くしてもらって、五十円を持たされて追い出されました。こんな情けない話、おとっつあんには話せません。翡翠楼ホテルで何とか住み込みで働かせてもらって、今日まで生きてきました」
「そんな……!」
時代のせいでは片づけられない。十七歳の娘を妾にして、子を産ませて追い出すなんて――胸が締めつけられた。おっかさんが俺たちを産んだ年齢と近いこともあって、俺は思わず泣いてしまった。もうすぐ大正になる時代でも、こんなことが普通にある時代を悲しく思って泣けてきた。
「恭介さん、あたしなんかのために泣いてくれてありがとうね――おとっつあんも、あたしを許してくれるかな?」
とよさんも泣きながら、同じように泣いている俺の手をぎゅと握ってくれた。暖かくて……俺と同じように荒れた手だ。どんなに苦労したんだろう。
「……娘を追い出すような鬼親が、どこにいるもんか……鬼は、あの女一人だ……馬鹿野郎」
揃って泣いている俺たちに、源三さんの声が聞こえた。布団に横になったまままだ熱の残る手を伸ばして、俺たちの手を握ってくれた。
「おふさを止めることが出来なかった俺が悪い……おとよ、帰ってきてありがとう。ああ、豆腐が食いてぇな……」
「豆腐かい、おとっつあん」
何か食べたい豆腐料理があるのだろう。源三さんはいつも出されたものを黙って食べていたが、今まで食べたいものをリクエストすることはなかった。その豆腐料理が何か分かったのか、とよさんは源三さんに尋ねた。
「あの、この長屋のまかない料理を作る料理場があります。作りますか?」
幸い、今日は豆腐の味噌汁だったので豆腐が残っていた。冬だし、明日何かに使おうかと思っていた。おとよさんは「いいのかい?」と、涙を拭った俺に聞き返す。
「勿論! 源三さん、わかさんを見ててもらえますか? 二人で、作ってきます」
「ああ、小さい女の子は育てたから勝手は分かる。今は寝てるし、風邪の年寄りでも見てることはできるよ」
多分、まだ熱で辛いはずだ。でも、源三さんはおとよさんが隣に寝かせたわかさんに布団をかけてあげて笑った――いつものように、ぶっきらぼうに。
二人で食堂に入ると、俺はすぐに竈に火をつけた。出汁は、明日の朝用に鍋に漬けていた昆布出汁がある。明日のは、今から用意すればいい。おとよさんに言われた材料は、豆腐と出汁と生姜。あとは調味料くらいだ。
「おとっつあんは体調が悪い時は、いつもこれを食べてたんですよ。安くて、栄養はないのに」
豆腐を鍋に入れて湯を沸かし、隣の竈に移す。別鍋に昆布出汁を入れて沸かして、葛でとろみをつける。すると、ふわりと優しい香りが広がった。
用意した皿に、茹でた豆腐を置き砂糖で少し甘くした、とろりととした餡をかける。そこに、すり下ろした生姜を乗せた。ただ、それだけだ。味見で、俺はおとよさんに少し食べさせてもらった。素朴な、豆腐の大豆を強く感じる味だった。確かに病人には食べやすいだろう。甘めの餡に、生姜は不思議に合った。本当の家庭の味、そのものだ。源三さんは、この味をずっと待っていたのだろう。
「……懐かしいなぁ、この味だよ……思い出した」
俺が支えるように源三さんを抱えると、おとよさんが匙で源三さんに食べさせた。餡のおかげで、するりと喉を通ったようだ。まだ商売を初めて、貧しかったころの記憶だろう。妻だったおふささんと、おとよさん、三人で過ごしていた懐かしい源三さんの宝のような記憶のはずだ。
「……おとっつあん。あたし、ここで暮らしてもいいのかい? こんなに小さい子も連れてるのに……」
豆腐を味わっている源三さんに、おとよさんは小さな声で尋ねた。その問いかけに、源三さんは少し潤んだ瞳で、おとよさんとまだ寝ているわかさんを順番に見た。
「娘と孫だろ。一緒に暮らして、何が悪い。お前たちを食わせるくらい、俺は稼いでるさ」
「おとっつあん!」
おとよさんは、皿を畳に置くと源三さんに抱き着いた。俺は二人を支える為に、慌てて力を込めた。
「こら! 年頃の娘が何してやがる!」
シャイな源三さんは顔を赤くして小言を言うが、その顔はとても優しかった。
空になった皿から、まだ温かな餡の湯気が立ちのぼっていた。まるで親子の再会を祝うように。




