餡かけ豆腐と突然の再会!・中
まかない食堂を閉めたしのは、それからしばらくして来てくれた。家から、『水吸い』も持ってきてくれていた。
これは、寝たままの病人にも水を飲ませられるものだ。急須に似た形で、ガラス製なんだ。陶器のものもあるらしい。俺たちが小さい頃に使っていたのを、おっかさんが残していたみたいだ。
しのは朝ご飯を食べる暇がなかった俺のために、握り飯と漬物も用意してくれていた。浜松商店の傍にある公衆電話で翡翠ホテルにかけ終わったらしいまつさんが、林檎と蜂蜜を持ってきてくれた。
これは、本当に助かった。林檎をすりおろし、蜂蜜を垂らすと甘い香りが立つ。これなら、食の進まぬ源三さんも口にしてくれるだろう。
水吸いに林檎を入れて誤嚥しないように気をつけながら、源三さんの口に運んだ。ある程度口にしたら、医者に渡された薬も飲ませて再び眠らせる。
「おとよさん、明日には来てくれるって――腹をくくってここで暮らす準備して来なよ、って言っておいたよ。もう年季も開けているんだ。あの子は「父に、迷惑が」ってグダグダ言ってたけど、源三さんが大変なんだから帰ってきな! って、つい怒鳴っちまった」
そう言って、まつさんはいつものように豪快に笑った。
源三さんが少し落ち着いたのを見ると「すまないけど、看病頼むよ」と、まつさんは店に帰っていった。源三さんの店には『しばらく休業』の張り紙をしてくれるようだ。
「しの、すまないけど昼飯と夕飯の時は源三さんを看ててくれないか? 昼のまかない食堂は、俺とりんさんでやるよ。しのの飯は、ちゃんと持ってくる。夜の準備が終われば、俺が交代に来て朝まで看てるよ。しのはりんさんと、晩飯の提供と片づけをしてくれるか?」
俺はしのが握ってくれた飯を頬張りながら、源三さんの看病の予定を話した。竈に火を焚いているので、部屋は暖かい。食器の洗い物が多くてりんさんに迷惑をかけるが、きっと彼女なら分かってくれるだろう。
「でも、それじゃ兄ちゃんの休める時間がないよ! 兄ちゃんが倒れたら、あたしたち困る! 源三さんの看病なら、あたしがするよ」
「大丈夫だよ、明日には源三さんの娘さんが来てくれるんだし。多分、今夜が一番しんどいときじゃないかな? 心配するなって、俺は大丈夫だから」
俺は、しのを安心させるように笑って腕を伸ばして頭を撫でた。ばあちゃんが体調を崩した時、忙しい両親の代わりに俺が率先して看病をしていた。看病の大変さは、分かっているつもりだ。
「昼定食は休みの張り紙しておいてくれ。今日の食材は、明日に回すよ。とにかく今は、源三さんの看病を優先する」
しのは心配そうな顔のままだったけど、俺が絶対に譲らないと分かっているから仕方なく頷いた。俺は源三さんの熱い額に、濡らした手拭いを当て直した。
今日の昼は、魚の照り焼き。晩は切烏賊の煮ものだ。俺はしのに源三さんを任せて、洗濯をするために一度家に戻った。
その日は、息つく暇もないほど忙しかった。りんさんも「交代であたしも看病するよ」と言ってくれた。でも俺は「一晩だけだから」と言って、「気持ちだけ、受け取りますね」と笑った。
なんとなくだけど、俺はりんさんが妊娠した時のことを心配していた。もし近い内にりんさんが妊娠したら、まかない食堂はしのと二人でするしかない。
それと同時に、薬研製薬の新しい工場が気になっていた。完成すれば、今の寮は移転してなくなるだろう。そうなると、ここの家賃の援助がなくなるな。
今まで昼定食を食べにくる客の代金は使わずに貯めているが、食堂自体を買い取れるほどの金にはならないと思う。
一人で考え事をすると、新しい厄介ごとが見えてきた。しのやおっかさんを守るのは勿論だが、長屋の皆も守りたい。
夜のまかないの準備が終わると、自分の晩飯用のおにぎりと味噌汁を持って源三さんの看病に向かった。
まだ、少し熱が高い。朝や昼と同じですりおろした林檎を注意深く飲ませて、医者に貰った薬を飲ませる。夕方少し意識を戻して、厠に連れて行った。後の水分は、汗になっているのかな? まだ、源三さんの顔は熱で赤い。
手拭いを冷たい水で濡らして額に乗せると、俺は竈で湯を沸かしてお茶を淹れた。今日は、徹夜だ。頑張らないと――そう背伸びをしたときに、引き戸を叩く音が聞こえた。
「誰ですか?」
長屋の皆なら、勝手に入ってくる。俺は、こんな夜更けの訪問者が誰なのか心当たりがなかった。
「あの……磯野源三の娘の、とよです。明日来ると言いましたが、心配で今来ました」
聞いたことがない女性の声だ。でも、名乗った名前は確かに源三さんの娘さんだ! 俺は慌てて立ち上がると、玄関の引き戸を開けた。
眠そうな小さな女の子の手を引いた、見知らぬ女が立っていた。背と手にある風呂敷包みには、多分身の回りのものが入っているのだろう。化粧をしなくても綺麗な顔立ちで、口元のほくろがとても印象的だ。着ている服が繕いだらけなのがアンバランスで、あまり裕福な暮らしをしていないように見えた。
「あ、俺は端の家に住んでいる蕗谷恭介です。源三さん、今は少し熱が下がっています」
「あぁ、よかった……」
とよさんは、心から安堵したように深い息を零した。
「あの、中に――どうぞ」
俺は、とよさんが手を繋いでいる眠そうな女の子が気になって家の中に案内した。見た目は、四歳くらいだろうか。結婚しているとは、聞いてない。その時俺は、なんだか複雑そうな顔をしていたまつさんの顔を思い出した。
座布団もない畳に腰を下ろしてもらい、俺は恐縮して頭を下げた。それから寒い中来てくれた彼女の為に、俺はお茶を淹れた。




