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想ひ出のアヂサヰ亭  作者: 七海美桜
十六膳目
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チキンライスと岸田中尉・上

 この時代のチキンライスは、俺の知ってるチキンライスと違う。タイのカオマンガイに似ている気がする。ケチャップを使わない、鶏肉と一緒に炒めたご飯だ。

 俺は明治時代のレシピ本を見ながら、バタを溶かした鍋に骨付きの鶏肉を入れて玉葱と炒めていた。


 今日、『蕗谷亭』の定食はお休みだ。薬研氏に頼まれて、まかない食堂が終わると貸し切りにしていた。お客が来ると言っても、薬研氏と五人の客。いつもの『奥の部屋』は、今回使わないようだ。「たくさん食べる客だから、大盛でよろしくな」と、伝えられている。たくさん食べる、という事は商人が来るわけではないようだ。彼らは、量より質を求める。


 昼のまかないの間に、ある程度の仕込みを終えていた。昼飯を食べて洗いものを終えると、りんさんには早めに帰ってもらった。しのに手伝って貰って、仕上げを二人で作っている。給仕をしてくれる予定のおっかさんは、今日の座敷を休んだ。小綺麗に身なりを整えて、蕗谷亭に三味線を持ってきていた。俺たちが料理を作る姿を、煙管を咥えながらぼんやりと眺めている。


 今日の特別な客に出すメニューは、チキンライスと馬鈴薯(じゃがいも)のスープ、ずゐき(ずいき)の酢の物。ずゐきは、里芋の茎の部分だ。勿論食べられる。皮を剝いて煮たり酢の物にする。今は季節じゃないので、干して乾燥させた『芋がら』を水で戻して使う。脂っこいメインとスープなので、箸休め的にさっぱりした小鉢を付けることにしたのだ。

 だけど――よく食べるなら、肉系のものをもっと準備していた方がいいのだろうか? そう思って、念のため唐揚げも下味をつけて用意していた。使わなかったら、まかないの夕飯のメニューを変えればいい。

「誰が来るんだろうね」

 炒めた鶏肉に塩と胡椒を入れて、お湯を注ぎ柔らかくなるまで煮る。そうして骨から外れそうなほど柔らかくなった鶏肉を取り出して、冷ます。しのはそれを手にして、丁寧に割れた小骨に気をつけながら、鶏肉を一口ぐらいの塊にほぐしている。

「いつもの商人じゃないみたいだな。しのやおっかさんにもいて欲しいって言ってたから、もしかして尊さんの帰りが早くなったのかもしれない」


 明治四十一年の十月。世界は大きく動き始めていた。まず俺が嬉しかったのは、七月に味の素が商標登録されたことだ。来年には、味の素が買えるかもしれない。簡単にうま味を出すためには、これが一番だもんな!

 そして、四月には倫敦(ロンドン)で四回目の夏季オリンピックが開催されて、今月の末まで競技が行われる予定だ。

 しかし、恐ろしい出来事もあった。二月に葡萄牙(ポルトガル)の王様と皇太子が暗殺された。七月には阿多曼(オスマン)帝国で革命がおこり、今月の初めには勃牙利(ブルガリア)が阿多曼帝国から独立した。阿多曼帝国は、現代では土耳古(トルコ)だな。日本国内だと北海道で暴風雪があって、たくさんの人が亡くなっている。

 海外で暮らしている尊さんの事は、ずっと心配している。海の向こうから、二度ほど手紙が届いていた。世界がいかに広いか、驚きと興奮がその手紙には綴られていた。だけど――そろそろ第一次世界大戦が起こるはず。明治で三年も過ごしていると、現代の記憶が(おぼろ)になってくる。俺は歴史に詳しくなかったから、記憶があいまいだ。でも――覚えていても、俺が歴史を変えちゃいけないとは分かっている。


「兄ちゃん?」

 しのに呼ばれて、俺ははっとして頭を振った。尊さんを思い出したことで、知らず考え込んでいたらしい。

「でも、本当に尊さんがそろそろ帰ってくるはずだよね。三年で帰るって、約束だったもの」

「そうだな」

 俺はしのにそう返事をして、ほぐしてくれた鶏肉と汁でご飯を炊いた。本来なら、炊けたご飯を蒸すときに鶏肉と煮汁を加えて、ゆるい雑炊的なご飯に仕上げるのだ。でも俺は鶏肉の炊き込みご飯を炊いて、生姜、大蒜(ニンニク)、長葱のタレをかけて食べて貰うことにした。鶏肉の切り身はないが、カオマンガイ風にアレンジしたんだ。その間に、しのはずゐきの酢の物を作ってくれていた。

「――馬の(ひづめ)の音が聞こえるね。おいでのようだよ」

 もう料理は何時でもお出しできる頃合いに、おっかさんの声が聞こえた。確かに、馬車の音が聞こえる。俺は尊さんにもらった懐中時計を取り出した。午後二時。時間通りだ。

「開けてくるね」

 しのが小走りに玄関に向かい、引き戸を開いた。

「やあ、ありがとう」

 先に、薬研氏の姿が見えた。玄関に手をかけたままのしのに笑いかけて、蕗谷亭に入ってきた――その後に執事の門田。そうして――なんと、軍服姿の男が五人入ってきたのだ。

「薬研様……お客様は、軍人様ですか?」

 しのが、少し驚いたように大柄の男たちを眺めた。それは、俺も同じだったかもしれない。

「ああ、そうだ。大日本帝国陸軍の、尊の部下になる方たちだ。席に座ってから、少し紹介しておこう」

 薬研氏は、随分機嫌がいいようだ。おっかさんにも軽く手を振り、俺に麦酒(ビール)の合図をした。俺は、慌てて奥に置いてある薬研氏のための酒棚に向かった。


 尊さんがそろそろ帰ってくる、ということ。そしてここでは、軍人が普通に町にいる時代なんだ――そう、改めて思い知った。明治ももうすぐ終わる。時代が、大きく変わり始めるのだ。ここに来て、最初に軍馬に蹴られた俺なんだけど、今更になって軍人と間近に対面するのだ。

 俺は一度深呼吸して、麦酒をだしてそれを取りに来たおっかさんに渡した。

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