カキフライと複雑な秋の空・中
現代では牡蠣を殻からはがすとき、オイスターナイフを使う。だがこの時代は、小刀を使う。現代でも牡蠣の仕事をしている人の中に、小刀を使っている人は多い。しかしまだ十二の俺は牡蠣が掌に収まらず、手が滑ったら怪我をして危ない。だから考えて、洋食用のステーキナイフを鈍らにして使うようにしていた。牡蠣の口にナイフを捩じり込むと、貝柱を切って中身を取り出すようにしていた。最初は難しいかもしれないけれど、慣れると簡単だ。現代では殻で手を怪我しないように、殻を持つ手には軍手をしている。でも、これは現代のものとは違う。ここで使っているのは手套と呼ばれる、軍人の防寒具だ。メリヤス製だが、作り方が違うしゴムはつけられていない。俺は薬研氏に頼んで、特別に買って貰ったのだ。
「遠野さん、筋がいいですね。最初の二個ほどは失敗しましたけど、後は綺麗に出来てます」
俺は二人で必死にむいた牡蠣を、塩水で洗いながらそう言った。失敗した分は、俺が食べればいい。
「はは、慣れてくるとつるんと出てくるのが可愛いな。あ、チビたちの鯵は俺が捌くよ」
遠野さんは、指示をしなくてもやるべき事を見つけてすぐに動いてくれる。それを、りんさんとしのが微笑ましそうに見ていた。今日は二人が米を炊いてくれて、今は小鉢の卯の花と玉葱と馬鈴薯の味噌汁をそれぞれが作っていた。
「よっちゃんも、ここで働けばいいのに」
「りんさん、無理ですよ。お給金が支払えないから!」
定食屋の方でそれなりの黒字を出していたが、薬研製薬ほどの給料は出せない。俺は、慌てて声を上げた。そんなの、遠野さんに申し訳ない。
「それが叶うと嬉しいが、俺は実家に仕送りをしているし難しいな」
鯵をさばきながら、遠野さんは少し困ったように言った。
「そう言えば、よっちゃんの郷土はどこなんだい?」
「兵庫――と言えば聞こえがいいが、淡路島だよ。親父と兄は、漁師をしている。安定した収入じゃないから、俺が仕送りをしているんだ」
俺は淡路島と聞いて、明治三年に起こった『庚午事変』を尋常小学校で習ったのを思い出した。これは、稲田騒動とも呼ばれる。当時淡路島の洲本の蜂須賀家臣の武士が筆頭家老の稲田家の家臣を襲撃した事件で、これがきっかけで淡路島は徳島県から兵庫県になった。
俺は淡路島が徳島県だったことに驚いたし、明治に武士がいたことにも驚いた。そうだよな、明治の前は江戸時代だ。廃藩置県は――明治四年だから、その前年の騒動か。
「島育ちってことで、少し恥ずかしくてさ。田舎者って莫迦にされると思って、俺は周りに対して意地が悪かったかもしれない。でも、俺は今では郷里が懐かしいねぇ」
鯵を綺麗に捌いて、遠野さんは少し遠い目をした。故郷の淡路島を思い出しているのだろうか。
「ふみちゃんの、神戸と近いよね」
「海を挟んでいるけどな」
しのはおからに切って茹でた野菜を混ぜながら、尋常小学校卒業してすぐに分かれてしまったふみを思い出しているようだ。神戸の織物工場で働いているふみは、先日の手紙で「こっちに帰りたい」と書いていた。まだ、遠い神戸に馴染めていないのだろう。かよは気が強く、しのは大人しい。ふみは三人の中で一番大人びていたが、やはりまだ子供だ。知らない土地で一人は、寂しいのだろう。
俺とりんさんは物思いに耽っている二人の邪魔をしないように気をつけながら、それぞれに作業を進めた。
ふきんで、牡蠣の水分を取る。優しく扱わないと、牡蠣が破れてしまう。この時代揚げ物には饂飩粉を使うらしいんだけど、俺はメリケン粉にした。塩を少し入れた溶きたまごを作り、パン粉をまぶす。これは、りんさんと遠野さんも手伝ってくれた。あと、清と治郎の鯵も同じように仕上げる。
「さ、ラードだね。ラードの缶は……これ」
しのは、ようやく卯の花が出来たようだ。並んだ缶から、ラードを取り出す。ラードは、牛脂を精製したヘットと似ている。ヘッドは現代では、ハンバーグのネタに混ぜたり、餃子の餡に混ぜたりする隠し味的な油だ。この時代の本来の揚げものは、ヘットかバタを使うらしい。でもまかないは、人数が多いしバタを使っては高すぎる。ヘットも同じだ。
天ぷらは植物性の油か胡麻油、コロッケなどの揚げ物はラードが多い。現代では、揚げ物も大半が植物性の脂だ。時代が変わると、調理法も変わるよな。
秋が深まり寒さで半分固まっているラードの塊を鍋に入れると、竈に火をつけた。外は次第に暗くなってきている。竈の炎は、辺りを照らすだけでなくホッとする安心感がある。現代で人工的な光に慣れ過ぎていたせいなのかもしれない。
温度が上がってくると、俺はパン粉を落として跳ねで温度を確かめる――うん、いい頃合いだ。
さあ、カキフライの登場だ! 俺は、温度が下がり過ぎない数を油の中に入れた。途端、パチパチという油が跳ねる音に香ばしい香りが漂ってくる。
「あぁ、いい香り。あたし、お代わりしちゃうかも」
りんさんがそう言うと、しののお腹が小さく鳴った。
「食欲の秋だな」
遠野さんがそう言うと、しのが頬を膨らましてそんな遠野さんの腕を軽く殴る。遠野さんもしのも、楽しそうに笑っていた。
「しのちゃんの、初恋かねぇ?」
こっそりと俺に言ってくるりんさんに、俺は菜箸を落としそうになった。
すぐ前までは「兄ちゃん、兄ちゃん」と付いてきたのになぁ。俺は少し肩を落としながら、美味しそうなカキフライを揚げていく――でも、俺の夕飯は美味しいのかなぁ。ため息は、りんさん以外には聞こえないようだった。