冷える体も、シチューで温まる・下
「いやぁ、美味かったよ。初めて食べる料理ばかりだったが、実に美味い。まだ小さいのに、相当な料理の腕を持っているんだね。これは、将来が楽しみだ! よひら姐さんには、いい息子がいるんだねぇ」
おっかさんと並んで立っている俺は、薬研氏の取引先の商人にとても褒められて困っていた。薬研氏もおっかさんも俺が褒められると満足そうに微笑んでいるが、俺にしたら家庭料理の範囲内だったから褒められるほど居心地が悪くなる。
何故かというと、薬研氏の客に提供する料理は、基本金額が決まっていない。原価割れする値段を支払うことはないが、薬研氏が満足した金額を毎回支払ってくれる。今日は四人なのに、薬研氏は俺に一円を払ったからだ。さすが、コロッケで一円くれた尊さんの親だ。こんなところまで似ているとは思わなかった。
あの後、休みの遠野さんは準備を手伝ってくれた。しのと仲よくコールスロー用のマヨネーズを作っている姿に、俺は少し妬いてしまった。しのも、俺が体を借りている恭介と同じく成長している。いつか結婚するかもしれないしのの姿を想像すると、とても寂しく思ったのだ。
俺の知り合いが全くいない明治時代にタイムスリップして、体を借りている『恭介』のおっかさんと双子の妹のしのしか、心から頼れる人がいない。その片割れを奪われてしまうかもしれないことに、妬いたのだ。
「雪がまだやみません。温まってくださると嬉しいです」
俺がそう返事をしてお辞儀をすると、商人たちはみんな優しい顔になった。
「この暖かいシチューは、体も心も温かくしてくれたよ。なんだか今日は、家で家族とゆっくり食事がしたくなった。飲み屋に寄らず、まっすぐ帰ろうかな」
「今夜は寒くなりましょう。どうぞ、家族と温かな家でゆっくりお過ごしください。また飲みに出たいときは、ぜひお座敷のご指名をお待ちしております」
おっかさんも、俺の横で彼らに頭を下げた。本当に彼らは満足してくれたようだ。お互いに取引も、良い結果だったのだろう。蕗谷亭を出て馬車に向かう彼らを、俺とおっかさんは雪の降る中頭を下げて見送った。
「恭介。あのすぅぷ、残ってるならあたしにも食べさせてくれないかい?」
おっかさんは、蕗谷亭に戻りながら隣に居る俺にそう言った。そうだ。おっかさんは、まだ昼飯を食っていない。
「あるよ! おっかさんにも、ぜひ食べて欲しい!」
食べ物に対して特別注文をしないおっかさんの珍しい言葉に喜んだ俺は、急いでシチューを温め直した。大蒜が効いたパンは、お座敷に出るおっかさんには良くない。普通のパンを、少し温めるように焼いた。辛子を隠し味にしたコールスローサラダも、おっかさんの分はある。
「はい、どうぞ」
手際よくおっかさんのお盆を用意して、俺はお茶の用意をした。おっかさんは、基本的に魚が好きだ。しかし、和風ポトフの時にも感じたけど洋風スープが好きなようだ――おとっつあんと暮らしていた時を、思い出すのだろうか?
「――うん、美味しいね。暖かいだけじゃない……優しい味がするよ」
スプーンでシチューを一口飲んだおっかさんは、ゆっくり味わって優しく笑った。
「恭介の、優しい味がする料理はきっとみんなが喜ぶ。早く、あんたの店が出来るといいね。あたしは、ずっと応援するよ」
「――おっかさんは、唐辛子を使った辛い物が好きじゃないか」
俺がからかうように言うと、おっかさんは子供みたいな無邪気な表情を見せた。そうして、横にいた俺を抱き締めた。
「お、おっかさん! 俺は、もう子供じゃないんだから!」
不意にいい香りがするおっかさんに抱き締められると、俺は照れてしまってそう声を上げた。だが、逃げるような素振りはしなかった。おっかさんがこんな事をするのは、本当に珍しいんだ。だから、おっかさんの好きにさせようと思った。
「随分荒れた手だね……すまないね、苦労をさせて。学校でも、辛い目に遭わせてたね。それに不満も言わず――本当に、あたしには出来過ぎた息子と娘だよ。しのが嫁に行くまで、恭介が店を持って嫁を貰うまで――あたしも、頑張るからね」
俺の荒れた手を優しく撫でながら、おっかさんは小さな声でそう俺に囁いた。しのが尋常小学校の同級生に、差別でいじめられて怪我をした時の事だろう。俺はもう卒業間近の時にこの時代に来たけど、学校に入った時から二人はいじめられていたのかもしれない。
「……大丈夫だよ、おっかさん。俺もしのも、おっかさんに似ていい顔に育ってきたじゃないか。俺の嫁になりたいって人も多いだろうし、しのもきっといい人と結婚するよ。それに、これからもっと頑張って、俺がおっかさんとしのが楽になるように頑張るからさ。楽しみに待っててよ」
出来るだけ、俺は明るい声でそう言った。おっかさんの顔は見えない――だけど、ほぅと深く息を吐く仕草をして、着物の裾で涙をさりげなく拭ったようだ。
おっかさんは、まだ若い。英吉利に帰ったおとっつあんのことを忘れて、新しい恋をしてもいいんじゃないかな。俺たちの事ばかり心配して、おっかさんは誰にも頼らずに一人で頑張っている。男尊女卑が残るこの時代、芸者としてしか稼げない身で、たくさん苦労をしたはずだ。
はやく、大人になりたい。おっかさんを、安心させたい。本当のお母さんじゃないけど――今の俺の、大切なおっかさんだ。
「きっと孫も、いい顔だろうね」
落ち着いただろうおっかさんは、そう言うと俺を離した。「冷めちゃ勿体ない」と、再びシチューを口にする。
「冷めたら、いつでも温めるよ。おっかさんのためなら、特別にね」
俺の言葉に、おっかさんは瞳を細めて綺麗に笑った。俺のシチューは、おっかさんの心も温められたかな?
雪は、夜になってもやまず一週間ほど降り続けた。俺はその間料理を暖かいものに変えて、みんなのために蕗谷亭でいつものように料理を作った。