冷える体も、シチューで温まる・中
朝の仕込みが終わり薬研製薬の人たちの食事が終わると、りんさんと俺は急いで長屋の人たちの食事を用意した。その間しのは、『特別な客』のための食材の買い出しに行ってくれた。
シチューの具材は、ヒラタケと椎茸、胡蘿蔔と 馬鈴薯、玉葱、鶏肉……何か、青い野菜が欲しいな。本来ならブロッコリーなんて入れたいところだけど、今の時代にはない。薬研氏は苦手と言っていたが、干し青豆でいいか。シチューの味で、青臭さを感じる事はないだろう。
事前に今日の事を聞いていたので、鶏だけは昨日買っていた。冬だから、腐ることはないからよかった。夜飯をしのとりんさんにほぼ任せて、俺は鶏の骨を綺麗にして玉葱と葱の青い部分と一緒に煮込んで、鶏の出汁を用意していた。蕗谷亭には、現代のような固形ブイヨンがないからね。
今日の客は、薬研氏と客三人の合計四人だ。コスト的に、鶏骨からブイヨンを作る方が安く上がる。ワインはないから、甘口の日本酒。薄力粉とバタと牛乳。これだけ揃えば、明治時代の日本でもクリームシチューは簡単に出来るんだ。
俺は湯を沸かして、乱切りにした馬鈴薯と胡蘿蔔、干し青豆を下茹でした。電子レンジがないから、茹でるしかない。先に火を通した方が、型崩れが少なく火の通りが早くなる。椎茸とヒラタケと鶏肉は、食べやすいように一口サイズに切る。玉葱は、薄めのくし切りだ。
空いている竈に鍋を置き、熱するとバタと塩を入れて玉葱を炒める。火を通した玉葱は甘くていい香りがする。
「いい匂いだな。今日の食堂の昼定食かい?」
買い物に行ったしのと、何故か一緒に蕗谷亭に来た遠野さんが口を挟んだ。薬研製薬で働く遠野さんは口数が少なくて、少し意地悪な物言いをする確か十六歳の少年だ。薬研製薬に入って、まだ日が浅いそうだ。
「別に入った注文なんですよ。洋食が食べたいと言われたんです」
「ふぅん」
遠野さんは朝飯を食べて、一度蕗谷亭から出て行ったはずだ。もう、仕事が始まる時間なんじゃないのかな?
「遠野さん、仕事の時間に間に合います?」
「兄ちゃん。遠野さんは、今日はお仕事休みなんだって。あたしの買い物、一緒に来てくれて荷物持ってくれたの」
俺たちの会話に、しのが入ってきた。牛乳やら馬鈴薯やら、確かにしのには重いかもしれないと思っていた買い物だ。だけど、まさかの遠野さんが手伝ってくれたなんて意外だ。
「すみません、遠野さん。しのを助けてくれて、ありがとうございます」
「……別に。暇だったからな。それより、それは何なんだ?」
遠野さんは、どこか気まずそうにそう言ってしのが淹れたお茶を飲んだ。案外、照れ屋さんなんだな。
「クリームシチューです。海外のシチュー料理を手本に作った、牛乳で煮込んだ汁物なんですよ」
実は、クリームシチューは日本が起源だ。戦後すぐに流行ったらしいんだけど、それまでは仏蘭西のシチューをアレンジしたものを食べていた。ま、これも時代を先取りした料理なんだけど『特別なお客』は舌が肥えているだろう。きっと気に入ってくれるはずだ。
「近くで見ていてもいいか?」
「え? ええ、どうぞ」
遠野さんはお茶が入った湯飲みを持って、台所の方まで来た。料理に興味があるのかな? 俺が返事をすると、じっと鍋を見ていた。
鍋の玉葱がしんなりしてくると、そこに鶏肉を入れて色が変わるまで炒める。色が変わってきたら、茹でた馬鈴薯と胡蘿蔔、キノコ類も入れてさらに炒め混ぜる。青豆は、最後に彩りで入れる。そして弱火になるように竈の薪を調整して、蓋をした。
そこで俺はフライ鍋を、隣の竈に用意する。本当なら玉葱たちを炒めた鍋で一緒に作ればいいんだけど、俺は失敗しないように別で作ることにしたんだ。
フライ鍋が熱くなると、バタを入れて溶かす。そこに、メリケン粉を入れる。バタを吸ったメリケン粉を、焦がさないように木べらで混ぜながらゆっくりと牛乳を混ぜ合わせた。ここでメリケン粉がダマにならないように、気を付けないといけない。
メリケン粉がもったりとした塊になると、少しずつ鶏がらスープと日本酒を入れてそれを伸ばす。日本酒のアルコール分も飛ばしたら、隣の具材が入った鍋に即席ホワイトシチューを入れる。残りの鶏がらスープも入れて、具材に絡まるように混ぜ合わせた。これで、鍋にスープが多くなる。少し残る牛乳を余らせるのも勿体ないので、一緒に鍋に入れた。
これで、シチューはほぼ出来上がり。
沸騰しないように温度に気を付けながら炊いて、野菜や鶏肉が柔らかくなったのを確認すると最後に湯がいた青豆を入れて胡椒で味を調えた。明治時代には、胡椒は一般的に使われている。江戸時代中頃までは薬として使われていたし、高かったみたいだよ。
「恭ちゃん、味見させとくれ!」
りんさんが、お椀を四つ持ってきた。味見がしたいはずと思っていたので、多めに作っている。俺は笑いながらもそれに入れてあげた。
「はい、遠野さんも味見!」
りんさんからお椀を受け取ったしのは、遠野さんに差し出した。
「――俺も食っていいのか?」
お椀を差し出された遠野さんは、少し驚いた顔になった。湾を差し出すしのから、ゆっくり俺に視線を移した。
「ええ、どうぞ。ただ、内緒で食べて下さいね。皆さん食べたいって言ったら、無くなっちゃうから」
「なら、遠慮なく……」
竈や座敷に火があっても、底冷えがする雪の日だ。シチューの温かさは、お腹から体を温めてくれるはずなんだ。
「美味しい! 優しい味だね、牛乳は苦手だけどこれなら大歓迎だよ!」
「え、りんさん牛乳苦手だったの?」
俺は、意外な事を知った。まあ、この時代はまだ馴染みないよな。
「……うん、美味い。鶏肉の獣臭さもないし――初めて食べる味だけど、懐かしい感じがして……美味い」
遠野さんは熱々のシチューに気をつけながらゆっくり飲むと、ほっとした顔になり小さくそう呟いた。
実は、クリームシチューは現代の叔父さんの『アジサイ亭』の冬の人気看板メニューなんだ。お客さんは、冬になると大半が注文する。「どこか懐かしい味」と、評判なんだ。店が出来た頃から、ご先祖様が熱心に研究をして出来た味なんだって。うまみ成分が増すから、本当は干し椎茸を使うんだ。
あれ? 『アジサイ亭』が出来たのは、大正元年のはずだ。クリームシチューは、昭和に一般的に知られる。『アジサイ亭』が出来た頃には、クリームシチューは存在しないんじゃないか?
「本当だ、美味しい。あたしこれ好き! 牛乳が優しくて、バタが味を濃くしている。野菜にこの味が染みて、本当に全部の具材が美味しいねぇ。体も温まるよ!」
俺が考え込んでいる横で猫舌のしのが、ふぅふぅと冷ましてからようやくシチューを口にした。口に入れた途端、しのの顔が輝いた。俺には、分かる。しのがこの顔をするときは、本当に美味しんだって。その顔を見ていたら、俺は不思議に思った現代の『アジサイ亭』の違和感を忘れてしまった。




