冷える体も、シチューで温まる・上
吐く息が白い。夏はマシだった指先が、またひどく荒れ始めていた。洗い物が辛くなる季節がやってきたのだ。皮膚がちょっとしたことで裂けて、血が滲むあかぎれ。靴下も足袋もはかない足は、寒さで赤くなっている。
俺がこの時代にタイムスリップしてから、二度目の冬を迎えた。年が明ければ、十一歳になる。
「雪だねぇ」
まだ薄暗い道を、俺はしのと蕗谷亭に向かい歩いて行く。ちょうど、りんさんが長屋から出てきた。走り寄ってくるりんさんの頭上の薄暗い空から、白い雪が舞っていた。
「おはようさん、寒いねぇ」
りんさんはそう言うと、後ろからしのを抱えるようにして歩く。蕗谷亭は長屋からそう離れていないが、起きてから火にあたっていないから体が冷えている。確かにりんさんとしののように寒い道を歩くのに引っ付いてると、冷えた体が温かくなるだろう。だけど寒いからと言って俺までその輪に混ざる訳にもいかず、かじかむ指先に白い息を吹きかけた。
もう、俺は完全にこの時代に慣れつつあった。来た時はどうやって帰ればいいのかばかり考えていたこともあったが「明日はお客さんどれくらい来るかな」とか「仕込みの時間は間に合うかな」とか、料理の事ばかり考えていた。
最近は仕込みさえきちんとやれば、しのとりんさん二人でまかない食堂の料理が上手に回せるようになっていた。りんさんもしのも、格段に料理の腕が上がっていたんだ。
だから俺は、最近増えてきた客の飯を作ることが多い。蕗谷亭に来た客は、次も必ず来てくれる。そして店の宣伝もしてくれて、この冬には昼時が客が多く賑やかな忙しい店になっていた。だからまかないの方は、二人に任せている。何故かというと、ほぼ毎日おっかさんが昼過ぎになると顔を出すようになって、客の料理を運んでくれているからだ。
それはとても助かっているけど、遅い時間までお座敷の仕事に行っているおっかさんが疲れていないか。と、俺は心配していた。
でも――もしかしたら、おっかさんは前に話した話を覚えてくれているからなのかな?
「なら、お店を開こうか。恭介が料理を作って、あたしとしので給仕するよ。そうして、繁盛させて東京で一番有名なお店にしようか」
「いいね、俺頑張って美味しい料理作るよ」
そんな事を話たのが、ずいぶん昔みたいだ。でもそうなればおっかさんは夜の仕事を辞めて、俺たちとずっと一緒に居られる。そうなれば――しのも俺も、本当に嬉しい。
「今日は、昼飯が終わったら『特別なお客様』が来るから、二人は気にせず帰ってよ」
「それって、薬研様の?」
俺の言葉にりんさんは、すぐにその意味を理解したようだ。夏や秋に何度か、薬研氏が『秘密の取引』をするのに蕗谷亭を使っていた。誠実な薬研氏の事だから違法なことはしていないと思うが、やはり事業をするのに秘密の話は付きものなんだと思う。そう言われれば、俺はしのとりんさんの洗い物が終われば帰って貰っていた。薬研氏が呼ぶ客人は多くないので、いつも一人で料理を作っていた。店内にいる人数が少ない方が、薬研氏のためにいいと判断したからだ。
だけど昼間に、特別な料理の下ごしらえは二人にも少し手伝ってもらっていた。それに『特別なお客様』の時は、必ずおっかさんが給仕をしてくれていた。おっかさんが顔を出すと薬研氏の取引相手の客も喜ぶし、薬研氏は特別手当をおっかさんに出してくれていた。おっかさんは仕事柄口が堅いし、俺たちにとってはありがたいお金だからね。
「昨日、葛を買ったんだ。仕込みが終わったら、生姜の葛湯を飲もうか」
俺は、昨日のお客さんに「釣りはいらないよ」と貰ったお金で、浜松商店で葛を買ったんだ。葛湯はとろみがあって、冷めにくい。こんな寒い日に水仕事をする二人には、風邪をひいて欲しくない。生姜と葛で、温まってもらうことにした。
「本当かい? いいね、じゃあ頑張ろうか!」
「嬉しい! 兄ちゃん、砂糖も入れてね?」
二人が喜んでくれてよかった。俺はしのに「分かってるよ」と笑いかけて、蕗谷亭の扉の鍵を開けて、中に入った。
昼過ぎの『特別なお客様』には、ホワイトシチューを作るつもりだった。この時代に何で流行っていないのか分からないほど、簡単に出来る。パンも作りたい……と思ったのだが、イースト菌やベーキングパウダーが手に入らないので、諦めた。発酵させないパンなら作れるが、シチューにはふかふかのパンの方がおいしいよなぁと考えたからだ。
今日の薬研氏の客の料理代で、おっかさんに借りた一円は返せそうだ。この一円は『蕗谷亭』の昼飯を食べにくる客の、食材費として借りていたんだ。そこでの収入を三人で割った分の俺の分は、今まですべて貯めていた。「返さなくていい」と言われていたが、ちゃんとおっかさんに返すつもりだ。
でも……おっかさん、俺が馬車にはねられた時の謝罪でもらった二十円、何かに使ったのかな? 着物を買ったりして、贅沢をしてるようには感じていない。まあ、俺たちを育てるための借金があったのかもしれない。おっかさんがそんな大金を、変なことに使わないと信じているから俺はそのことは忘れるようにした。
たぶん今日の『蕗谷亭』の客は、麺定食が多いだろう。この寒さだからなぁ。出汁を多めに用意しよう。そんな事を考えながら、俺たちは朝飯の用意を始めていた。
薬研氏のお客様のメニューは、クリームシチューにガーリックパン、キャベツのコールスロー風サラダ。それに、薬研氏がワインを持ってくると言っていた。
明治四十年……つまり、今年だ。大阪の寿屋という店が開発した、赤玉ポートワインだろう。まだ高価なものなのに、彼なら簡単に買う事が出来る。
薬研氏は、甘いものの方が好きらしい。このワインは、甘味料が入ってるんだって。でも、寿屋って……現代でもあるのかな? あるとしたら、多分名前変わっているよな。多分俺も耳にしている有名な店だと思うんだけど、お酒は勉強していないから名前は分からない。
俺は、叔父さんの店でもっとお酒の勉強もしておけばよかったな。そうすればもっと色々な食事の楽しさを知れたのに。と、少し反省した。考え事をしている間に炊きあがった白米を、熱いうちにしゃもじで混ぜていた。
日本のワイン参考:https://tokubai.co.jp/news/articles/1897
寿屋は、現代のサントリー様です。