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想ひ出のアヂサヰ亭  作者: 七海美桜
十三膳目
40/65

初めての客にはトマトぶっかけ素麵・下

 明治三十九年の盛り蕎麦の代金が、二銭五厘。駅弁の価格が十二銭から十五銭程度。素麺と小鉢の代金をどうしようかとりんさんに視線を向けると、彼女は理解したかのように俺の耳口元を寄せると囁いた。

「代金で迷っているのかい? なら、めん類の日は三銭前後でどうだい? 牛や豚なんかの日は、価格を変えればいいさ。後でゆっくり考えようよ」

 りんさんの言葉に、俺はとりあえず彼女に頷いた。そうして代金を払おうとした彼らに、俺は緊張しながら言葉をかけた。

「一人前は、三銭五厘です」

「そんなに安くていいのかい?」

 口髭の男の人は昼飯代を聞いて、心配そうに俺に尋ねた。茶色のスーツの男性も同様に困惑した表情を浮かべた。

「野菜のほとんどは、畑で育てています。今日の料理には、これで十分です」

 俺が慌ててそう返事をすると、二人は顔を見合わせた。

「では、二人で九銭だ――お釣りはいらないよ。そして、これは初めましての挨拶が入っているからね」

 口髭の男性は、財布から十銭硬貨を二枚取り出して、俺の手に握らせた。

「こんなに! もらいすぎです!」

 手の中の硬貨を見て、俺は慌てた。畑で育てた野菜を使った副菜にも貰った素麺を使った主菜にも、ほとんど材料費はかかっていないからだ。あるもので、俺が考えて作っただけだ。

 しかし客の男性二人は、優しく微笑んだままだ。


「薬研社長の言葉が、今よくわかったよ。君には、まだ小さいながら本当に料理の才能がある。いずれ店を出すときに役立つよう、お金は大切に貯めておくといい。私たちも薬研社長と同じく、君が店を持つことを応援している。その為には、料理だけではなく金儲けの事も少しは考えなさい」


 二人が出ていくと、りんさんとしのが「ありがとうございました!」と、入り口で二人を見送った。


 俺は昼飯を食べに来た長屋のみんなに、初めての客の話をしていた。俺たちは少し興奮していて、源三さんはそんな俺たちを優しく眺めて話を聞いていた。まつさん夫婦も、自分たちの事のように喜んでくれた。

「頑張りなよ! これからたくさん客が来るように、あたしたちも宣伝するよ」

 まつさん夫婦と源三さんが、そう力強く言ってくれた。


「これから、お客が来たら材料費と手間賃に合わせた会計をして、それを貯めておこう。ひと月で材料費を抜いた分を三等分して、それを俺たちの給金としないか?」

 俺はそう提案したが、すぐに首を横に振ったのはりんさんだ。

「あたしはいらないよ。恭ちゃんたちが将来開く店の資金にしな」

 りんさんは断ったが、俺としのは納得しなかった。みんなで協力しているわけだから、平等に分け合うのが筋だ。それに、これならただ働きにはならない。りんさんが働きやすくなる。


「あんたたちは、本当にいい子だね。ありがとうよ、なら遠慮なくいただく。そうと決まったらこれからたくさん客が来るように、あたしも宣伝もしなくちゃ!」

 そう言って、りんさんは俺としのの頭を撫でて嬉しそうに笑顔を浮かべていた。


 俺たち三人はもっと話し合い、麺定食、肉料理定食、魚料理定食を食堂の定番定食にした。多くの料理は、今の俺たちでは手が回らない。だから、三種類の決まった定食にする。それなら、たくさん提供できるからだ。まかない料理のように、紙に書いて貼っておけば、誰もが作れる。

 肉や魚は、その日によって勿論違う。毎日同じじゃ、みんな食べ飽きちゃうからね。三種類の定食の中から、客が自由に選ぶだけだ。

 麺類はお稲荷さんかおにぎりと漬け物を付けて、五銭とすること。肉料理は牛や豚、鳥などで値段が変わるので十銭前後。魚料理もその日の旬の魚の仕入れによって、八銭前後にすることにした。ご飯と味噌汁、漬物と小鉢をつける。これは、まかない料理と基本同じだ。


 こちらで料理に使う素材は、薬研製薬を経由せずに自分たちで仕入れることにした。そうでないと、経理がごちゃごちゃになるからね。俺たちが経営する料理屋の経費を、薬研製薬に負担させるなんてことになったら駄目だ。

 前日に、肉屋と魚屋と製麺屋に俺が頼みに行く事にした。勿論その時に支払いを終えて、帳面にその日の経費を書き込むことにした。

 これは、申し訳ないが当面しのに頼んだ。りんさんには、勝吉さんがいる家庭も守らなきゃいけない。仮にこれから先に人が増えれば、しのの負担が減る。頭を下げる俺に、しのはいつものように明るく笑って「任せてよ!」と、言ってくれた。


 俺が馬に蹴られた時に薬研社長から貰った二十円の中から、おっかさんに一円を借りることにした。俺が尊さんにコロッケを売った時の代金は、もう残り少なかったからだ。おっかさんに借りた一円は、当座の食堂の運営費にするためだ。

 おっかさんは「あんたが体を張って稼いだ金だから、返さなくていいよ」と言ってくれたが、俺は必ず返すことにした。


 俺はその日の俺たちの昼飯が終わると、最初のお客から貰ったお金で白い大きな木綿の布を買ってきた。それに『めしや』と、筆で辰子先生に書いてもらった。それを、看板代わりにする。なんだか、順調に俺たちの食堂が出来上がってきた。

 二人に洗い物を任せて、俺は早速明日提供するための食材を、急ぎ足で頼みに各商品を売っている店に向かった。



 薬研製薬の人たちや来てくれた人たち、まつさん達が宣伝をしてくれたおかげだろう。初めての客から客足が次第に増えて来て、一か月ほどで一日十組くらいは店に来てくれるようになった。


 魚を売る店は、もともと仲良かった茂さんの店に頼んだ。そこで紹介して貰った肉を売る(はじめ)さんの店とも馴染みになって、急に追加分を買いに行っても快く分けてくれるようになった。

 定食のメニューも俺が前の日に考えて、レシピは同じように壁に貼っている。しのもりんさんも、まかないと同じく手が空くと率先して作ってくれていた。

 毎日三人で行動するから、その頃には俺たちは何を言わなくても自分が何をするかの判断が、即座に出来るようになっていた。

 しかしそれでも、昼定食を食べに来る人が多くて、配膳が大変な時が出来てきた。しかしそんな時は、ふらりと姿を見せたおっかさんが薄化粧で店に現れて、配膳を手伝ってくれた。おっかさんが店に出ると客が盛り上がり、それでまた客が増えるのだ。

 こうして、本当に『蕗谷亭』は順調に経営出来ていた。


「おいしいね、これ。これは、洋食風の和食なんだ? 恭介もしのちゃんも、頑張ってるんだね。こんなお店が出せるなんて、本当にすごいよ」

 もう夏も終わりのころ。かよが店にやってきた。かよの父から、俺たちの店の事を聞いたらしい。患者さんの間で、話題になっていたそうだ。

 その日は初めての客と同じで、トマトのぶっかけ素麺を出した日だった。ふみを見送った日以来に、かよと会った。久しぶりに見るかよは、少し痩せて疲れているようだった。医者になる為の勉強が、思っていたより大変らしい。

 この時代に女医になることは、本当に大変なことだろう。気の強いかよでも、少し落ち込んでいるように見えた。

「兄ちゃんが頑張ってくれているから、あたしも頑張ってるんだ。かよちゃんも、頑張って! 絶対に、おとっつあんがびっくりするほどの女医さんになれるよ! それにきっと、ふみちゃんも神戸で頑張っているんだもん」

 しのの言葉にかよはじっとしのの顔を見て、ようやく優しく微笑んだ。そうして、トマトぶっかけ素麺を綺麗に平らげて、お稲荷さんと漬け物もしっかり食べた。

「また来るね。元気がなくなったときには、二人の顔を見に来るよ。私が女医になるのが早いか、二人が自分たちのお店を出すのが早いか、競争だからね!」

 来た時と違い、かよは昔の懐かしい勝気な顔になって帰っていった。


「そろそろ、秋になるね。これも、もう来年までお預けかな」

 かよの食器を下げて、しのはしみじみと呟いた。もう夏野菜も終わりか。畑仕事も、秋から冬にかけての野菜の手入れになる時期だ。


 尊さんからもらった懐中時計を取り出し、昼の時間が終わるのを確認すると俺は昼の定食の張り紙を外し、『めしや』と書かれた幕も店の中に入れた。これから、少し休んで夜の食事の料理の仕込みをする。


 俺は料理人――料理人兼店主として、少しずつ成長してきたかもしれない。確かに、かよには負けてられないな。と、小さく微笑んだ。

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